『神道集』の神々

第三十四 上野国児持山之事

人皇四十代天武天皇の御代、伊勢国度会郡より荒人神が顕れ、上野国群馬郡白井保に児持山大明神として垂跡した。 其の故を尋ねると、以下の通りである。
阿野津(安濃津)の地頭で阿野権守保明という人がいた。 財産には不自由は無かったが、子宝には恵まれなかった。 伊勢太神宮に祈願したところ、児守明神に祈るよう示現があった。 児守明神に参詣したところ、阿野の女房は懐妊し、持統天皇七年三月に美しい姫君が生まれた。 児守明神に授かった子なので、児持御前と名づけた。
姫君が九歳の秋、母は三十七歳で亡くなった。 一周忌の後、阿野保明は伊賀国(伊勢国の誤記か)鈴鹿郡の地頭・加若大夫和利の姫君を後妻に迎えた。 三年後、後妻にも妹姫が生まれた。 姫君が十六歳の時、継母の弟の加若次郎和理という二十一歳の若者と夫婦約束をした。

姫君が二十一歳、加若次郎が二十六歳になった三月、夫婦で伊勢太神宮に参詣した。 その途中、伊勢の国司の在間中将基成が児持御前を見て恋煩いになった。 国司は加若次郎を呼び、「此の国を汝に与えるので、汝の妻を麿に進ぜよ」と云った。 加若次郎は顔色を変えて「所領と妻を替える烏滸の者がいたら、その者に国を与えなさい。この和理はそんな馬鹿者ではございません」と云って御前を立った。 国司は立腹して「阿野権守と加若次郎が謀叛を企んでいる」という讒言を書状にして父関白に送った。 関白は両名を捕縛し、加若次郎は下野国の室の八島に流された。 保明は罪が軽いという事で許された。 和理は二首の歌を北の方に送った。
 泣く涙胸の焔にたづさへて 室の八島に藻塩焼くなり
 我ならぬ人も歎きや積りける 室の八島にたへぬ煙ぞ
和理の北の方は遁世して墨染の衣の尼になろうと思ったが、既にただならぬ身であった。 東国への旅を思い立つと、継母は「下野国の近くの上野国の目代(国司代理)の藤原成次は私と和理の甥です。この人を訪れなさい」と云った。
国司の軍勢が和理の女房を奪おうと押し寄せて来た時、継母は海人に頼んで臭いが強い鮃鮎サモチを集め、茅萱の中に巻き入れて火を付けて煙を立たせ、その周囲を大幕で引き回し、人を集めて大声で念仏を唱えさせた。 押し寄せて来た国司が「これは何だ」と尋ねると、「加若次郎殿の北の方が亡くなったので、ご葬送の念仏です」と答えた。 軍兵共はこれを聞いて「恐ろしい。今は神事の時分で、太神宮は他の御神と違う(仏事を避ける)」と急いで帰還した。 国司も都に引き返した。

和理の女房は阿野津を逃れて東に下った。 お供は乳母子(伝本に依っては乳母)の侍従局だけだった。 数日経って、尾張国の熱田社に着くと、鳥居の外の小さな家を宿に借りた。 夜が明けて立とうとすると、宿の女房が「安心してここでお産をして下さい」と云ったので、五日間ここに逗留した。 加若の女房は熱田大明神を伏し拝み、「当社の明神の御本地は十一面観音でございます。我が朝に現れた時、紀太夫殿に宿を借りた昔の事をお忘れなく、私を哀れんでお助け下さい」と祈念した。 程なくお産となり、侍従局と宿の女房が取り上げ、玉の如き若君が生まれた。

七日間の産立てが済むと、児持御前は若君を侍従局に抱かせて宿を後にした。 東山道の関の太郎(不破の関)を越える時、藍擂の模様の直垂姿の武士に出会った。 事情を聞いた武士は涙を流し、二人を送る事にした。
木曽のかけ路の丸木橋でまた梶葉の模様の直垂姿の武士に出会った。 この武士も同情の涙を流し、お供をする事にした。
上野国の国府に着くと、前の目代の藤原成次は山代庄の石下という山里に移った後だったので、一行は山奥に尋ね入った。 成次は大いに喜び、二人の武士の下人たちまで様々にもてなした。
夜が明けると、藤原成次と二人の武士は出発した。 下野国の室の八島に着くと、二人の武士は神通を使って牢番を眠らせ、牢の戸を破って加若次郎を連れ出した。 宇都宮の河原崎で四十歳ほどの武士が現れ、二人の武士と雑事(旅行の際の食事)をした。 その後、四名は山代庄に入り、加若次郎と児持御前は再会を果たした。

加若次郎は二人の武士に「我らをお助け下さったのは、どのような方でしょう。世の常の凡夫とは思えません。願わくば、我らに神道の法を授けて下さい。悪世の衆生に利益をしたいのです」と云った。
一人の武士は「我は尾張国の守護神の熱田大明神である」と名乗った。
もう一人の武士は「我は信濃国の守護神の諏方大明神である。汝の妻が夫の跡を恋し悲しむ様を哀れんで守護をした。汝ら二人に神道の法を授けよう」と云って「大仲臣経最要」を授けたので、二人は神通の身と成った。
北の方は群馬の白井保の内の武部山に住まわれている。 因位は児持御前なので、武部山の名を児持山と改め、児持山明神と云う。 本地は如意輪観音である。
乳母子の侍従局は大鳥山の北の峠に半手木鎮守として顕れた。 本地は文殊菩薩である。
若君は岩下の鎮守と成り、突東宮と云う。 本地は請観音である。
加若殿は見付山の峠に和理大明神として顕れた。 本地は十一面観音である。 彼の名により、見付山を和理嶽と云う。
その後、二人の神が帰られる時、加若殿が「下野国の河原崎で雑事をされたのはどなたでしょう」と聞くと、「その人は宇都宮大明神です」と答えた。

加若殿夫婦は共に神の身と成って伊勢国に移り、阿野権守夫妻に神道の法を授けた。 津守大明神と云い、伊勢太神宮の荒垣(板垣)の内に在る。
その後、伊賀国に行き、加若殿の父母も神と成った。 伊賀国三宮の鈴鹿大明神である。
尾張国熱田で産所を貸してくれた宿の女房も神道の法を授かり、神と成った。 鳴海の浦に鳥居明神として立たれている。
児持御前の継母は阿野明神として顕れた。
藤原成次も神道の法を授った。 尻高の山代大明神である。
山代庄は吾が妻と逢えた地なので、地名を改めて吾妻と呼ばれる。
阿野津から尾張熱田まで馬に乗せてくれた人も神と成った。 その馬の姿を移したのが岩尾山で駒形と云う。 今至という処に、舎人と馬が一緒に立たれている。 白専馬大明神がこれである。

鮃鮎を我が子の身代りに焼いて助けたので、今は鮃鮎を「子の代コノシロ」と呼ぶ。

児持山大明神

子持神社[群馬県渋川市中郷]
祭神は木花開耶姫命で、邇邇芸命・猿田彦大神・蛭子命・天鈿女命・大山祇神・大己貴命・手力雄命・須佐之男命を配祀。 一説に磐筒女命とする。
旧・郷社。
総社本『上野国神名帳』[LINK]には群馬東郡に「従五位 子持明神」とある。

『子持神社紀』巻一の「子持山姫神伝紀」には、
「抑上毛野国子持山姫神、古伝云、人皇第十二代景行天皇詔降し、皇子日本武尊東夷賊征伐の時、[中略]上毛野国の国府に至る。上毛君豊城命待迎て、雑々の饗応有、[中略]上毛野豊城上妻媛を妃とし、日追て此地屯し、胡水開きの折ふし、尊上妻媛に語って、昔[中略]開耶姫は一夜に而妊めり、[中略]豊吾田津姫の誓の誠は、天地と倶に神明に遠し、炎も損所なく、御子火瀾命、火明命、火火出見尊等と共に、炎の中にあれます事を上妻媛と倶に感涙し玉ふ。尊は東国に吾胤在らん事を欲す。時に上妻媛に向ひ御身妊めり、此の姫神に誓て、早玉の男児を産生あれませと。此の時に吾田津木花開耶姫神を此地に崇祀奉るなれは、末の世に至るまで、谷を呼ならわし、子の花の開久良谷さくらたにと号とかや、[中略]豊城上妻媛、月をかさねて丹誠の祈に神徳しみ、安くと此山に而、岩鼓王誕生有、故に木花開耶姫命の神徳を称し、謂る子持山姫神と崇奉る。竹刀あをひえを以て、其の児のほそのをを截る、是開耶姫命吉例にして、竹を棄し所を、竹林となる、今にたけべ山と号す」
(原文では、「箆」は竹かんむりに拜)とある。
(福田晃『神道集説話の成立』、第3編 児持山縁起の成立、第4章 児持山縁起の成立、第2節 児持山の原信仰[LINK]、三弥井書店、1984)

『子持山宮紀』は「夫当宮は人皇十二代景行天皇の御宇、皇子日本武尊東夷征伐の砌に、御祈の為、此の山に秘かに籠り給ひて、地主神猿田彦大神・天鈿女命を始め奉り、七座の大神並に天神地祇を御祭り給ひて征伐に向わせ給ふ」という書き出しに始まり、日本武尊が諸神の加護や威徳によって東夷を平げた次第をのべ、その喜びに尊はここに七座の神々を祀った、と七神鎮座の由来に及ぶ。 そして「其頃は此山を武部山と申なり。元より前に地主の御神在、猿女君也。猿田彦ノ大神・天鈿女命鎮座す也。此山を児持山と名付所以は……」と子持明神の鎮座のことになる。 すなわち、十六代仁徳天皇元年[313]庚寅(正しくは癸酉)、日向高千穂の槵触の峯から瓊々杵尊・木花開耶姫命の二神が、この山の朝日来向い、夕日輝く峯に来格影向したが、この山の白髪の翁(実は地主神猿田彦大神か、とある)が神託を蒙り、二神をこの山へて留め奉ったが、二神は三柱の男神を生んだのでこの山を子持山という。この神は平産守護の大神である、としている。
(有川美亀男「浅間明神の縁起文学」[LINK]、群馬大学紀要、6号、pp.41-57、1957)

『児持山神社引譜』[LINK]には、
「夫当山開闢の初は、人皇十二代景行天皇の御宇、皇子日本武尊東夷征伐の砌り七社の太神を祭給ふ霊場也」「人皇十六代誉田天皇元年[270]庚寅夏卯月朔日、筑紫日向之高千穂之槵触之峰より、瓊々杵尊・木花開耶姫命二柱太神、此山の朝日夕日の輝く峰に、来格影向在し玉ふ」「当山を子持山と言伝ふ事二柱の御神影向なし玉ふ故也、又御神号子持山大明神」 「当山を武部山共申也、是は日本武尊降臨の霊地成か故申つとふ也、日本武尊は神社吾妻権現と祭り奉る也」
とある。

毛呂権蔵『上野国志』[LINK]には、
「児持神社 児持山に坐す、児持山は白井郷の北。神社本紀(『先代旧事本紀大成経』巻七十一)曰、金橋宮天皇時〈安閑天皇〉、磐筒女大神鎮坐」
とある。

『群馬県群馬郡誌』[LINK]には、
「当社は人皇五十二代嵯峨帝の御宇[809-823]の創建なりと伝ふ、社殿は貞治六年[1367]丁未四月本山奥の院(今の社を去る事二十余町の北)を卜して本社を再建し遷座奉れる国家鎮護殊に産婦の守護神なり」
とある。

『子持山大神紀』の「弘法大師登山伝」には当山における本地仏如意輪観音信仰のおこる由が叙されている。 弘法大師が東国巡遊の折、当白衣の邑に至り、児持山の奥の院まで分け入る時、激しい雷鳴豪雨におそわれたが、岩屋に籠り子持姫神を祈念して、これをしのぐことができたという。 「其後窟に入て、結跏趺坐し、念誦真言怠らず、窟の内に閉籠り、七日不断の護摩の修行、弘法大師護摩壇の岩屋是なり、式には観音大士を信し、七星如意輪供の秘法を修行有る、大師渡唐の御時に、海底波風頓りに起て、渡船安からず、如意仏の利益を蒙り玉ふとかや、[中略]時に観世音菩薩岩屋に安置奉る」とあり、「当山本地仏、如意輪霊像歳相〈天長元壬辰[824]より安永戊戌[1778]迄九百五十余年〉積て、末世の今日に至て、仏勅むなしからず、霊験日々に新なり」と結んでいる。
(福田晃『神道集説話の成立』、第3編 児持山縁起の成立、第4章 児持山縁起の成立、第1節 児持山の管理[LINK]

半手木鎮守

中山神社[群馬県吾妻郡高山村中山]
祭神は木花咲耶姫命。
旧・村社。

『群馬県吾妻郡誌』[LINK]には、
「往古美濃国中山南宮大明神を勧請し、以て中山城主宇津宮家の守護神として尊敬す」 「元弘二年[1332]赤松円心の臣中山五郎左衛門光能城主となるに及んで社殿を修め破敵明神と称せり」
とある。

「中山神社由緒」(『平成祭データ』所収)には、
「当社の創祀は不詳なるも、社伝によれば人皇第五十七代陽成天皇の元慶二年(879)、美濃国一の宮南宮神社を勧請するという。その後、第六十代醍醐天皇の延喜年中(901)作成の延喜上野国神名帳に従四位上中山明神と明記される。往古当地領主宇都宮氏及び中山氏神として代々崇敬篤く、永禄二年[1559]、破敵明神を合祀奉祭す」
とある。
しかし、『上野国神名帳』[LINK]では「従四位上 中山明神」は吾妻郡ではなく群馬東郡に鎮座する。

突東宮

鳥頭神社[群馬県吾妻郡東吾妻町矢倉]
祭神は大穴牟遅神・宇迦之御魂神。
旧・村社。

「鳥頭神社由緒」(『平成祭データ』所収)には、
「創建年月日不詳、伝承によると吾妻七社の一で建久年中(1190)の建立と伝えられている。古来武将、郡民の信仰が厚く、元享年間(1331)岩櫃城主吾妻太郎行盛が社殿を改修したという」
とある。

和理大明神

吾妻神社[群馬県吾妻郡中之条町横尾]
祭神は大穴牟遅神。
旧・郷社。

「吾妻神社由緒記」(『平成祭データ』所収)には、
「中古以前ありては本殿は現地の南西参丁を距てし御洗水山の頂上に鎮座し現地は拝殿の所在地たりき。然るに中古以後現地に奉遷せしは旧社地は険阻なる丘上なりしを以て諸人参拝の不便なりしが為なるべし。本社の社名は中古以前に有りては和流宮と称し奉れり。蓋し和流は唐流に対する大和流の義にして本社の主神は大穴牟遅命(大国主命)に座す」
とある。

『群馬県吾妻郡誌』[LINK]には、
「元和利宮と称し郡中有名の大社なり」 「由緒 不詳、本社祭神詳ならずと雖も、土人伝へて大穴牟遅神を称す」
とある。
明治四十一年[1908]に境内社および名久田村・高山村尻高の村社・無格社を合祀、吾妻神社と改称した。

和利宮は嵩山(『神道集』の見付山すなわち和理嶽)の麓の五反田に最初祀られていた。 割の宮の名のしめす通り、条理制施行のとき、その拠点となった場所に安置せられた神と思われる。
永享[1429-1441]の頃の吾妻郡は大野・秋間・塩谷の三氏に分割所領されるが、塩谷氏は中之条・高山地方をその領域として勢力があった。 塩谷日向守の時代(推定)支配力の強化のため総鎮守である和利宮を自分の領域である伊勢町和利宮城の東北に移転したらしい。 和利宮城の名称もこれより生じたものと思われる。 社殿(本殿)のあった所は伊勢宮[群馬県吾妻郡中之条町伊勢町]の後方丘陵の東にあり、現在も御手洗山と云う。
現在地(横尾)に移転した時期は不明であるが、『和利宮略縁起』に「弘治二丙辰年[1556]九月十九日、和利大明神加若次郎和利之御魂、本宮大名持命ヲ斎キ奉テ唯一之神ト崇メ奉ル」とあることより、この頃現在地に移転したものと推考される。 和利宮城落城後、この地方に進出した尻高氏が守護神としてこの地に移したものであろう。
(『中之条町誌』第1巻、第2章 中世史、第5節 和利宮と神道集[LINK]、1976)

山代大明神

山代神社[群馬県吾妻郡高山村尻高]
祭神は大山祇命。
旧・無格社

『群馬県吾妻郡誌』[LINK]によると、明治四十一年[1908]に高山村大字尻高村字見沢の無格社山代神社と同境内末社二社は吾妻神社に合祀された。

駒形

駒形神社[群馬県吾妻郡中之条町青山]
祭神は宇気母智神。
旧・村社。

『群馬県吾妻郡誌』[LINK]によると、明治四十年[1907]に中之条町大字青山村字駒形の村社駒形神社は伊勢宮に合祀された。

『神道集』に「今至」とある地名は青山村屍坂の中程、駒形神社神域の一部にあった。
(『中之条町誌』第1巻、第1章 原始古代、第8節 市代牧[LINK]

白専馬大明神

白鳥神社[群馬県吾妻郡中之条町市城]
祭神は日本武尊。
旧・村社。

『群馬県吾妻郡誌』[LINK]によると、明治四十四年[1911]に中之条町大字市城村字明神の村社白鳥神社は伊勢宮に合祀された。
その後、昭和二十四年[1949]に分祀、翌年に旧社地に再建された。

市城は伝説によると、村上天皇の天暦元年[947]八月に白波という名馬を産し、これを朝廷に貢上した。 この馬は月毛の馬(白馬)で立派なものであったので、天皇より非常なお褒めの言葉があり、よって「一白いちしろ」という地名を賜ったと言い伝えられている。
また、字明神部落の北方に白鳥神社が祀られている。 小さな石宮一つを残すにすぎないが、これがもと白唐馬神社といって吾妻七社の一つであった。 この祭神は名馬白波であって、白唐馬(白頭馬)と称する社は、吾妻川の対岸吾妻町小泉、東村奥田にも祀られている(近世に至って白鳥神社と改称)。
(『中之条町誌』第1巻、第1章 原始古代、第8節 市代牧[LINK]

【参考】児持七社

『上野志』下[LINK]には、
「児持山七ツ社 半手木 鳥頭 和利 山代 笹生 白唐馬 駒形」
とある。 笹生とは篠尾神社[群馬県沼田市屋形原町]で、『子持山縁起』[LINK]には、
「(藤原成次の)北方は川田朝日向笹尾の山に神とあらわれ、本地正観音なり」
とある。

一方、児持山神社側の伝承は、その七社については少しく異同がある。
『児持山神社引譜』[LINK]には、
「当山開闢之初は人皇十二代景行天皇の御宇皇子日本武尊東夷征伐の砌七社之大神を祭給ふ霊場也 第一 山王鳥頭大明神 第二 佐久間大明神 第三 白頭女大明神 第四 山代大明神 第五 和利大明神 第六 破敵大明神 第七 高麗形大明神 皆深徳の御神也」
とあり、笹生社に代って、子持山南西の佐久間社(作間神社[群馬県渋川市村上])が配されている。
また、『子持山宮紀』には、
「日本武尊御心不斜ななめならずして元つ山に帰給ひて七所の大神を斎祭祀給ふ」
として、
 饒速日神駒形大明神(第七駒形大明神 素盞嗚雄尊)
 甕速日神鳥頭大明神(第一鳥頭大明神 佐類田彦大神 山王宮)
 磐筒女命建女大明神(第二佐久間大明神 比類児尊)
 根裂神白頭女大明神(第三白頭女大明神 天鈿女奇女命)
 磐筒男命和利大明神(第五和利大明神 大己貴命)
 経津主命・武甕槌命破敵大明神(第六破敵大明神 手力雄命)
 磐裂神山代大明神(第四山代明神 大山祇命)
を挙げる。 括弧内は別筆で補注されたものであるが、『引譜』と同じく笹生社にかえて「建女大明神」を加えている。
これら七社は子持山に勧請され、「地主山王権現七社之宮寺」「子持大明神地主山王権現大宮七社」「地主山王宮 七社別宮」として、子持本宮や山王宮や別宮に祭祀されていた児持七社である。

この七社の思想は、元来、天台比叡の山王七社に基づくものである。 その山王七社の思想は、北斗七星に対する信仰をもとに天台教学の中で成立したもので、当児持山の思想にもそれが見えていた。 例えば、『子持山大神紀』には「吾妻ハ武尊の祝まつる大星七社の神所霊地也」とある。
『神道集』の児持大明神を中心に半手木ノ守(破敵大明神)、突東ノ宮(山王鳥頭大明神)、和理大明神、山代大明神、駒形(高麗形)大明神、白専女大明神(白頭女大明神)が添えられた児持七社としての信仰が古くは主流をなしていたと考えられる。 そして、児持大明神が本宮に祭祀され、地主神として山王が強調されて山王宮を用意し、一方で、七星七社の思想が残って、「笹生」または「佐久間」を加えた児持七社が成立することになったのである。
(福田晃『神道集説話の成立』、第3編 児持山縁起の成立、第4章 児持山縁起の成立、第4節 児持山と児持七社[LINK]
垂迹本地
児持山大明神如意輪観音
半手木鎮守(破敵大明神)文殊菩薩
突東宮(鳥頭大明神)聖観音
和理大明神十一面観音
山代大明神十一面観音
白専馬大明神十一面観音
駒形明神馬頭観音
笹生大明神聖観音

伊勢太神宮

参照: 「神道由来之事」内宮

児守明神

許母利神社または子安神社に比定される。

許母利神社[三重県伊勢市二見町松下]
祭神は粟嶋神御玉。
皇大神宮の境外末社。
現在は神前神社(境外摂社)と許母利神社・荒前神社(境外末社)が同座で祀られている。

『皇太神宮儀式帳』の未官帳入田社事の条[LINK]には、
「許母利神社 粟嶋神御玉、形無」
を挙げる。 また、これら末社(十五前神社)は
「右神社、倭比売の御時に祝ふ、并に御刀代田宛て奉る也」
とある。

『大神宮儀式解』巻第十五[LINK]には、
「許母利は小森歟。また木森の借字にして此辺の地名なるべし。当社は松下村天王森〈江村の前の江を隔てゝ東の岸にあり。今の世俗蘇民森ともいふ。氏経卿神事記には松者社とあり〉より、神前社に至る道のかたへなる山の巓に在り。今社は絶て僅に森あり。これ許母利社の社地といへり」 「粟嶋神は神名式、志摩国答志郡粟嶋坐伊射波神社二座にや。又別に粟嶋神あるにや。いづれにまれ此にはその粟嶋神の御蔭を祭るなり。直に粟嶋神にあらねば御玉といへり」
とある。

『神宮摂末社巡拝(上)』の神前神社の条[LINK]には、
「本社殿の中には、皇大神宮の末社である荒前神社の御祭神荒前比売命と、同じく末社許母利神社の御祭神粟島神御玉とが御同座申してゐる。共に松下の海岸近くに鎮座してゐた神社なのであるが、現在両社ともその社地を失つたゝめ暫らくこゝに御同座ましましてゐるわけである。共に松下の海岸鎮守の神である」
とある。
子安神社[三重県伊勢市宇治館町(皇大神宮域内)]
祭神は木花開耶姫命。
皇大神宮の所管社

『神宮摂末社巡拝(下)』の子安神社の条[LINK]には、
「創立年代不詳であるが、もとは宇治館町の産土神として、特に安産の民間信仰を持つてゐた。御祭神は、木華開耶姫命を御祭り申し上げてゐる」
とある。

津守大明神

興玉神・宮比神または屋乃波比伎神(いずれも皇大神宮の所管社)に比定される。
興玉神・宮比神は皇大神宮の板垣内の西北、屋乃波比伎神は板垣南御門の外に鎮座する。
興玉神の文献上の初見は『神宮雑例集』所収の年中行事の六月十五日条[LINK]の「夕、興玉祭事〈宝殿在らず、御巫内人詔刀のりとを申す〉」である。
宮比神・屋乃波比伎神の初見は『皇太神宮年中行事』の六月十八日神事次第の条[LINK]の「内外物忌父等衣冠を着け、由貴殿より神戸所進の缶二口・菓子贄を請預て、宮比・矢乃波々木の神を祭る也〈内物忌父等は宮比神を祭り、外物忌父等は矢乃波々木神を祭る。宮比神の御在所は興玉の後、御所の乾玉垣の角也。矢乃波々木神御在所は御所の巽方荒垣角也〉」である。

『神宮摂末社巡拝(下)』の興玉神の条[LINK]には、
「板垣と外玉垣との間の中庭の東北の偶には北宿衛屋がある。これに対して、西北の偶には石畳の神座が二座設けられてゐる。前の方(東)が興玉神の神座で、後方(西)が宮比神の神座である。共に石積石畳の中央に石神一体と榊の木一本づつが植ゑられてゐる。鎌倉時代の記録である伊勢二所太神宮神名秘書[LINK]にも、この神には社殿がなく榊木を以て神殿となす旨が見えてゐるから、古い昔から、大体今と同じやうな奉斎の仕方になつてゐたことが分る。興玉神といふ神は色々の御神徳を備へた神で、先づ第一は、古来から衢神、猿田彦大神を祭つた所であるといはれている。第二は猿田彦大神、宇治の狭長田、五十鈴川上の地主の神であるから、この神は、皇大神宮大宮所の地主神としてこゝの守り神になつてゐるのであるというのである」
とある。
宮比神の条には、
「興玉神の石畳の西隣り(後方)の石畳の神座である。皇大神宮の所管社で北面してゐる。宮比神といふ神は、宮辺神とも、大宮売神ともいひ、興玉神と共に、大宮地守護の神となつてゐる。又一説には、この神は天鈿女命の一名であつて、天孫降臨のとき、猿田彦大神を送つて、共に伊勢に来られた神である。右の由緒からこの大宮地の中に、興玉神(猿田彦大神)と相並んで、祭られるに至つたのであるといはれてゐる」
とある。

「津守」の語義は不明であるが、阿野権守夫妻の成った夫婦神であるので、津守大明神は「大神宮の荒垣の内に在す」興玉神(猿田彦大神)・宮比神(天鈿女命)に比定できる。

『神宮摂末社巡拝(下)』の屋乃波比伎神の条[LINK]には、
「板垣南御門の外、御門の東石階下に、一つの石畳の神座のあるのを拝するであらう。中央には榊の木が一本植ゑられ、一体の石神が安置されてゐる。これを屋乃波比伎神と呼んでゐる。波比伎とは波比入君といふことで、この神は人の入つて来る入り口の守り神として、板垣御門の外にまつられたものである」
とある。

阿野権守を因位とする神について、『子持山縁起』[LINK]には、
「権守を神になしまいらせ、あらがき(荒垣)の内におはします、則あらはゝぎ是なり」
と記されている。 また、『上野国児持山縁起事』『我妻郡七社明神縁起』『上野国利根郡屋形原村正一位篠尾大明神之縁起』『和利宮縁起』など(三弥井書店『伝承文学資料集成 第5輯 神道縁起物語(1)』に収録)にも「あらはゝき」「荒脛巾」と記されている。
屋乃波比伎神は板垣南御門の守り神であるので、これを門客人あらはばきと称したと思われる。

鈴鹿大明神

伊賀国三宮は波多岐神社[三重県伊賀市土橋]であるが、伊勢国の誤記だとすると片山神社に比定される(ただし、片山神社を伊勢国三宮とする説は管見の限り見当たらない)。

片山神社[三重県亀山市関町坂下]
祭神は倭姫命で、瀬織津比売神・気吹戸主神・速佐須良比売神を配祀。
式内論社(伊勢国鈴鹿郡 片山神社)。 旧・村社。

『三国地誌』巻之二十三(伊勢国鈴鹿郡 神祠)[LINK]には、
「坂下駅に坐す、俗鈴鹿権現と称す」 「社家伝に云、鈴鹿は片山神社とて、三子の嶺にあり。三子とは鈴鹿嶽・武名嶽・高幡嶽是れ也。瀬織津姫・伊吹戸主・速佐須良姫此三神を祭ると云。三子山回録[回禄]の後、寛永十六年[1639]此地に遷し祭る。三神出現ゆへ、三子の名あり、鈴鹿社は倭姫命を祭る。今四神合して一社とす」
とある。

『伊勢参宮名所図会』巻一[LINK]には、
「三神山 鈴鹿山に並べり、俗三子山と書く。是を古名片山と云て、三神垂跡の地なり」「鈴鹿神社 本殿天照大神・荒魂瀬織津姫尊・気吹戸主尊・速佐須良姫尊相殿にて座す、後に倭姫命を合祭りて別号を片山神社とも、県主の神社とも申伝ふ。大神宮に斎宮立給ふ時は、此所に頓宮身曾貴殿を国司より造立ありて、斎宮群行の時も公卿勅使の参宮にも、此頓宮身曾貴殿におひて伊勢路の始なれば御祓し給ふとぞ」
とある。

鳥居明神

成海神社[愛知県名古屋市緑区鳴海町乙子山]
祭神は日本武尊で、宮簀媛命・建稲種命を配祀。
式内社(尾張国愛智郡 成海神社)。 旧・県社。
『尾張国内神名帳』[LINK]には愛智郡に「正三位 成海天神」とある。

『尾張志』巻五(愛知郡)[LINK]には、
「鳴海駅に坐て東宮明神と称す。社説に日本武尊を祭る。天武天皇朱鳥元年[686]六月鎮坐也と云。神名式に愛智郡成海神社、本国帳に同郡従三位成海天神〈たゞし元亀本正二位上とし、貞治明応本共に従三位上とし、一古本に従三位とし、集説本にハ正三位とす〉とある是なり。当社もとは今御旅所なる天神山といふ地にありしを応永[1394~1428]の頃今の地に移せり」
とあり、『神道集』成立の頃には鳴海潟の近くに鎮座していた。

阿野明神

不詳。
『あこぎのさうし(阿漕の草子)』[LINK]には、
「此浦(阿漕浦)にあのゝ明神ましまして贄のまもりし給ふ」
とある。

阿野津は『神鳳抄』[LINK]には、
「安濃津〈御贄六・九・十二月。在家別〉」
とあり、その浦を贄崎として大神宮の御贄をとる神域であった。
(福田晃『神道集説話の成立』、第3編 児持山縁起の成立、第4章 児持山縁起の成立、第5節 児持山大明神縁起の成立[LINK]
御巫清直『伊勢式内神社検録』の阿由太神社の条[LINK]には、
「安濃神戸の行宮は太神宮雑事記に安濃郡藤方宮、御降臨記に安濃藤方宮とありて、今の藤方村の西に隣れる半田村の神舘神明のことなり。是則安濃県造の進れる神戸の内に在るか故に、これをあゆたの社と号するなるへし。されは本社阿由太神社は半田村なる神舘神明祠に配すへきにやあらむ。(但、惣国風土記に、安濃神社、圭田三十三束三字田、大神宮之神戸之地也、といへり。妄書なから安濃県の神社の古伝を遺すにや。又吉田兼好伝に、貞和五年[1349]五月廿三日、頓阿兼好二桑門詣伊勢国阿野明神、[中略]とある阿野明神も即当社を謂ふへきなるか)」
とあり、神館神社に比定できる可能性がある。

神館神社[三重県津市半田]
祭神は天照大御神。
式内論社(伊勢国安濃郡 阿由太神社)。 旧・村社。

山田安在『伊勢国誌』[LINK]には、
「孝謙天皇建安濃社神戸郷也。内宮神斎祭所也。神館大明神と称す」
とある。

『三重県安濃郡誌』[LINK]には、
「古屋双紙に云ふ旧名飯田の神館とはこの社の事にして、倭姫命天照大神を五十鈴川上に奉移の際、此に御休舘ありしこと四年なりしと。御巫清直は藤方半田元は一村にして本社藤方宮なりとせり。此宮跡に孝謙天皇安濃社をたて天照大神を祭り、圭田三十三束三字田大神宮神戸の地を定め給ふといふ(神社明細帳)」
とある。

諏方大明神

参照: 「諏方縁起事」諏方大明神

熱田大明神

参照: 「熱田大明神事」熱田大明神

紀太夫殿

参照: 「熱田大明神」記太夫殿

宇都宮大明神

参照: 「宇都宮大明神事」

室の八島

歌枕として多くの和歌に詠まれた下野国の景勝地。 本来の場所は不明だが、『平治物語』[LINK]では信西の三男・播磨中将成憲が遠流になリ「下野の国府に著きて、我が住むべかんなる、室の八島とて見遣り給えば」という記述が見られ、下野国庁跡(栃木県栃木市田村町)付近と考えられる。

江戸時代には総社六所大明神(大神神社[栃木県栃木市惣社町])が「室の八島」を称した。
例えば、松尾芭蕉『奥の細道』[LINK]には、
「室の八島に詣ず。同行曾良が曰、此の神は、木の花さくや姫の神と申して、富士一体也。無戸室に入て焼給ふちかひのみ中に、火々出見のみこと生れ給ひしより室の八島と申す。又煙を読習し侍もこの謂也。将このしろといふ魚を禁ず。縁記の旨、世に伝ふ事も侍し」
とある。

『下野風土記』[LINK]には、
「此の所(室八島)に長者有り、一人の息女を持つ。其名をこの花さくや姫と云。世に双びなき美人なり。其比都より公卿一人此所ゑ流されける。此人琵琶琴の上手なりければ、此さくや姫の師となし琵琶琴を習せけるが、後に密通して此姫懐胎となる。さるに依て此公卿をも追い出しける。其比都より国司来て此姫を長者にこいけれ共懐胎の身なれば、能うべきやうもなく彼の姫をあたえたり。遠き所に隠し国司ゑはこの姫死たりとて葬礼の真似を為し、棺の内ゑ鮗と韮とを入れ火葬にす。世に云えるは鮗と韮を合焼ときは、人を焼臭に違わずと云。[中略]扨さくや姫は、程なく男子を産み給ふ。此御子室八島の神と成り給ふと。八つの島の内に琵琶島琴島と云有と。是は御父母の玩び給へる故也と。御母さくや姫は駿河国富士山神と成り給ふと」
(引用文は一部を漢字に改めた)とある。

河野守弘『下野国誌』三之巻(神祇鎮座)[LINK]には、
「総社六所大明神 都賀郡国府にあり、社ある所を惣社村と云なり」「さて当所は、室ノ八嶋にて、上の名所部に委しく記したり、されば室明神とも唱ふるなり、祭礼は毎歳八月朔日、内陣に蔵めおく、一口の鉾を形代として、旅所に出し、九月八日の夜、もとの内陣に納むるなり、鉾の形は十文字鎗に似て、長ニ尺許あり、さて翌九日広前にてコノシロを焼てささぐ、此日国府村、田村の両村より、判官と唱ふる者十二人、年番に出て神事をつとむるなり」
とある。

大仲臣経最要

参照: 「宇佐八幡事」大仲臣経

「中臣祓」は中世には陰陽道・密教と習合し、呪文や陀羅尼のような功徳が得られると考えられ、祈祷の場で盛んに用いられるようになった。 また、「中臣祓」を百度・千度・一万度と重ねて奏上する数祓が行われるようになり、「中臣祓」の最要点をまとめた「最要中臣祓」[LINK]が作成された。
(國學院大學日本文化研究所編『神道事典』より「中臣祓」、弘文堂、1994)