『神道集』の神々

第四十七 群馬郡桃井郷上村内八ヶ権現事

八ヶ権現は津禰宮とも云う。 その由緒を委しく承ると、以下の通りである。
人皇四十八代称徳天皇の御代、上野国群馬郡桃井郷に田烈大夫信保という人がいた。 身分は賤しいが裕福で、多くの眷属・牛馬・田畠・着物を持っていた。
御魂子がいない事を悲しみ、仏天に祈ったところ、女の子が生まれた。 千手の前と名付け、多くの乳母をつけて大切に養育した。
信保は姉の子の田烈藤次家保も養育していた。 二十一歳に成った時に婿にして、自分の代理として都に出仕させた。 姫が十六歳になった時、家保は国元に帰って都の話を聞かせた。 姫は「自分も都に生まれていたら五障三従の罪も少しは消えたでしょうに」と都が恋しくなり、すっかり窶れてしまった。
姫が十八歳になった二月、家保は再び都に上った。 田舎では姫の病気のために医術と祈祷を行ったが、三月中頃に亡くなってしまった。
三月十五日の夕刻、家保は右近の馬場の桜の下で千手の前によく似た娘を見かけた。 気になってすぐに国元に帰ると、既に姫は亡くなっていた。
家保はその場で出家した。 父母も共に出家し、伊香保山の東麓、船尾と云う岩の下、蒭窪という処に草庵を建て、姫の形見の千手観音を本尊とした。 家保入道は都に上って円頓坊僧正を連れ帰り、船尾寺の別当とした。
船尾寺は群馬・那波の二郡を寺領として三百三十三の寺坊を有する大寺院となった。 船尾寺の北谷の峰を隔てた所に石巌寺が建てられた。 坊舎は六十六坊で、別当は本寺船尾寺の別当が兼ねた。 信保入道夫婦はこの寺に住んで念仏三昧に過ごした。
この大寺院が滅んだ由緒は聞くも悲しいものである。

人皇五十三代淳和天皇の天長五年、桃苑左大将家光が上野国の国司に着任した。 家光には月塞殿という若君がいた。 国司は若君を船尾寺別当の円頓坊僧正に預け、若君は十一歳から十九歳の三月十五日まで寺で大切に養育された。
三月十六日、月塞殿は山から里へ下りた。 馬から下りて誰かと話しているので、お供の菊王丸が不思議に思い近寄ると、若君の姿は消えていた。
菊王丸は寺に戻って報告し、別当や寺僧は四方を探し廻った。 菊王丸は大将の邸にこの様子を伝え、母や乳母や家人たちも寺に上って探したが、若君の行方は分からなかった。
菊王丸は若君のお供をしようと切腹した。 母御前は車を召して、伊香保沼(榛名湖)を尋ねて深山に入り、木の上から谷に身を投げて死んだ。 乳母の黒部局は更に山奥に入り、岩から落ちて死んだ。 お守役の徳戸の前も身を投げて死んだ。 後見役の宮内判官相満も切腹して死んだ。 この山を「相満嶽」(相馬山)と云う。
都に知らせが届くと、桃苑左大将は馳せ下り、伊香保山で死のうと大勢の供を連れて出発した。 何者が言い出したのか、国司が妻子の怨みを晴らすため寺を焼き払おうとしているという噂が流れ、寺の大衆は大騒ぎになった。 国司はこれを知らず、別当に面会し、仏に祈ろうとやって来た。 大衆が盾を並べて鬨の声を上げたので、桃苑左大将は涙を流して「さては天狗の仕業ではなかったのか。そういう事ならば攻め寄せて討死にしよう」と云い、矢合せも無く大乱戦が始まった。 大衆側が負けそうになった時、何者の仕業か、二王堂から火が出て燃え広がった。 千手堂をはじめ堂舎・仏像・聖教はすべて焼失し、稚児・中童から老僧・学僧・大衆や眷属に至るまで千五百余人が亡くなった。 牛馬の類も数知れず猛火の中で焼け死んだ。 火は北の峯を越えて石巌寺にも燃え移り、堂舎・経論はすべて焼失した。
国司は泣く泣く都に上ったが、間もなく病気になって亡くなった。
翌年の三月中頃、天狗たちは月塞殿を輦に乗せて堂塔の焼跡に捨てた。 寺が滅びた後、月塞殿は浅間嶽の北の阿妻屋嶽の手向の笹岡と云う峯で養育されていたが、天狗に捨てられた後は物狂いとなり、山の中で亡くなった。 天狗の養い子ということで、哀れんだ山神たちに通力を与えられて神と成った。 父母をはじめ自害した八人の男女も神として顕れ、八ヶ王子と申された。 後に里に下って社殿が建立され、八ヶ権現として祀られた。 今の津禰宮で、本地はすべて阿弥陀如来や観音菩薩である。

八ヶ権現(津禰宮)

常将神社[群馬県北群馬郡榛東村山子田]
祭神は千葉常将。
旧・村社。

『船尾山縁記』[LINK]には、
「常将殿は船尾山の鎮守にて、常野宮と顕れさせ給へ、つゝこまき跡に立給ふ」
(引用文は一部を漢字に改めた)とある。

『群馬県群馬郡誌』[LINK]には、
「常将公曾て子なきを憂ひ当郡船尾山等覚院柳沢寺観世音を祈念し祈願成就の上は諸堂宇を改築修繕し奉賽せんと立願し嫡子相満若を設け大に喜びしが志を果さずして遂に卒せり、公の歿後其の室夫君の意志を継ぎ承暦三年[1079]諸堂宇を改築修繕し奉賽せり、其の功徳により常将大明神と斎き奉り船尾山の総鎮守常将宮と奉祀し其の附近の地を神田と称せり、これ実に常将宮の草創なりと伝へられる」
とある。

常将神社は榛名山の主峰相馬山を望む吾妻山の麓にあるが、吾妻山中腹の峯にはかつて吾妻大権現が祀られていた。 明治期に常将神社に合祀され、現在は社殿の礎石や小祠を残すのみだが、そこに建つ碑の正面には「日本武尊」と記されている。
『神道集』には八ヶ権現の祀られた場所を「浅間ノ嶽ノ北ナル阿妻屋ノ嶽ノ手向ノ笹岡ト云峯」とし、後代に笹岡の峯から里へ下ったことを記している。 浅間嶽は浅間山(水沢山)、阿妻屋嶽は吾妻山と考えられ(ただし、吾妻山は浅間山の北ではなく南に位置する)、吾妻大権現と常将神社はそれぞれ津禰宮の山宮と里宮であったと想定される。
(大島由起夫『中世衆庶の文芸文化』、「八ヶ権現縁起の在地展開」、三弥井書店、2014)
垂迹本地
八ヶ権現(津禰宮)阿弥陀如来・観音菩薩

船尾寺

船尾山柳沢寺[群馬県北群馬郡榛東村山子田]
本尊は千手観音。
天台宗。

『船尾山縁記』[LINK]によると、常陸・下総・安房・上総の四ヶ国の大将である千葉左衛門常将という弓取(武士)がいた。 常将には子供が無かったので、夫婦で上野国船尾山の観音に参籠して子授けを祈願した。
常将がこの山の由来を問うと、吉祥坊という僧が「弘仁六年[810]に伝教大師が上野国に下向して船尾山を御覧になり、寺院建立を立願されました。関東八国の大将の群馬太夫満行の尽力により三年後の同九年[813]に七堂伽藍が完成。伝教大師が天台山から伝えた閻浮檀金の観世音菩薩像を安置して、船尾山等覚院柳沢寺と号しました」と語った。
常将夫婦は観音に子種を授かって下総に帰り、やがて相満という若君を授かった。 常将は相満が十歳になると学問の為に船尾山に登らせた。 相満は学問に優れた美しい若者に成長した。
卯月二十一日の山王祭に相満たちが稚児舞をしていると、天狗が現れて相満を掴んで飛び去った。 船尾山の座主は秘術を尽くして相満を探したが、相満は唐土にいたので効験は無かった。 座主は僧を下総の千葉殿宅に遣わし、相満が天狗に攫われたことを報告した。
天狗たちは相満の仲間にしようと、十日間に三十人以上の稚児を攫った。 残った稚児は里に下ったが、衣野式部太夫という悪人が稚児の首を抜いて骸を捨て置いた。 稚児を失った者は「魔縁の仕業ではなく、衆徒が稚児を隠して害したのだろう」と話した。 これが下総に伝わり、常将は「船尾山に押し寄せて、座主を討ち取ろう」と三千の軍勢を率いて攻め入った。 衆徒は要害を構えて応戦したが、稚児を失った親兄弟たちが常将に加勢し、ついに寺に火が放たれた。 本堂が炎上し、観音堂に火が迫ると、観世音菩薩像は山の方に飛び去った。
焼け跡に天狗が相満を連れて常将の前に現れた。 相満は「天狗の所業により、唐の径山寺の天狗の内裏に居りました。只今帰りましたが、対面はこれまでです」と云って、雲の内に姿を消した。 常将は霊地霊仏を焼き払った事を悔いて自害した。
常将の御台所は尼となり、常将や相満の菩提の為に船尾山の麓に寺御堂を建立し、山号院号は先のまま船尾山等覚院柳沢やなぎさわ寺と号した。 寺御堂が完成すると、観世音菩薩が船尾山から御堂に移られて光を放った。 御台所はこれで思い置く事は無いと、守刀を抜いて自害した。
常将は船尾山鎮守の常野宮(常将神社)として顕れた。 御台所は柳沢寺を開いた徳により、思川弁財天として顕れた。 相満は黒神山(黒髪山)に住んでいたので、この山を相満岳(相馬山)と云う。

毛呂権蔵『上野国志』[LINK]には、
「柳沢寺 山子田村にあり、古の桃井郷なり、天台宗なり、伝教大師承和年中[834-848]に開き玉ふ寺なり、船尾山と云、元は船尾山にあり、古は伽藍なりしとぞ、礎石など猶残れり、山は山子田村の西にあり、岩山なり」
とある。

奈佐勝皋『山吹日記』の天明六年[1786]四月二十六日己亥条[LINK]には、
「陣場(現・北群馬郡吉岡町陣場)はむかし千葉介胤正か船尾寺を攻たりし時陣をとりたりし地とそ言ひ伝ふなる」、五月一日甲辰条には「この山(吾妻山)の左の方に連なりて、船尾山聳えたり。伝教大師の開基にて、昔は大寺にて、千葉の介胤正攻め滅ほしてより今は寺なし。其後山の東南の麓山小田(山子田)に移し作りて柳山寺(柳沢寺の誤記)と名付けたりとそ」
(引用文は一部を漢字に改めた)とある。

『群馬県群馬郡誌』[LINK]には、
「嵯峨天皇弘仁年中宗祖伝教大師最澄東国巡教の際本郡に在りし副将軍満行なるもの大師の徳行を欽慕し船尾山中に一巨刹を創立し大師を請じて開山となせりといふ」「後千葉左衛門常将なるもの事を以て船尾山内の宗徒と戦ひ火を放つて全く堂宇を灰燼に帰し終れりと、次で承知年中(承暦年中[1077-1081]の誤記か)住僧円俊現今の地に移して本堂を再建せり」
とある。 なお、「或る古記に推古天皇の朝上野国司高光中将の草創」とあり、伊香保の水澤寺の伝承と混同が見られる。

船尾寺が在った「伊香保山の東麓、船尾と云う岩」について、尾崎喜左雄は以下のように考察している。
今は伊香保山という名の山は無い。 伊香保を厳峰すなわち「いかつほ」の転として、榛名山の主峰相馬嶽を指すと考えると、伊香保山の東麓の船尾という所は、相馬嶽の東麓、船尾滝のある附近に求められる。 船尾滝より東南吾妻山までは峨々たる岩山である。
(尾崎喜左雄『上野国の信仰と文化』、「上野国上代寺院についての一考察」[LINK]、尾崎先生著書刊行会、1970)

石巌寺

不詳。