『神道集』の神々

第四十八 上野国那波八郎大明神事

人皇四十九代光仁天皇の御代、上野国群馬郡の地頭は群馬大夫満行といった。 男子が八人いたが、八郎満胤は容貌美麗で才智に優れ、弓馬の術にも長じていたので、父の代理で都に出仕していた。 父満行は八郎を総領に立て、舎兄七人を脇地頭とした。
父満行が亡くなり三回忌の後、八郎満胤は上京して三年間宮仕えに精勤し、帝から目代(国司代理)の職を授かった。 七人の舎兄は弟を妬み、八郎に夜討ちをかけて殺害し、屍骸を石の唐櫃に入れて高井郷にある蛇食池の中島の蛇塚の岩屋に投げ込んだ。
それから三年後、満胤は諸の龍王や伊香保沼・赤城沼の龍神と親しくなり、その身は大蛇の姿となった。 神通自在の身となった八郎は七人の舎兄を殺し、その一族妻子眷属まで生贄に取って殺した。
帝は大いに驚いて岩屋に宣旨を下し、生贄を一年に一回だけにさせた。 大蛇は帝の宣旨に従い、当国に領地を持つ人々の間の輪番で、九月九日に高井の岩屋に生贄を捧げる事になった。

それから二十余年が経ち、上野国甘楽郡尾幡庄の地頭・尾幡権守宗岡がその年の生贄の番に当たった。 宗岡には海津姫という十六歳の娘がいた。 宗岡は娘との別れを哀しみ、あてどもなくさまよい歩いていた。
その頃、奥州に金を求める使者として、宮内判官宗光という人が都から下向して来た。 宗岡は宗光を自分の邸に迎えて歓待し、様々な遊戯を行った。 そして、三日間の酒宴の後に、宮内判官を尾幡姫(海津姫)に引き合わせた。 宗光は尾幡姫と夫婦の契りを深く結んだ。
八月になり、尾幡姫が嘆き悲しんでいるので、宗光はその理由を尋ねた。 宗岡は尾幡姫が今年の大蛇の生贄に決められている事を話した。 宗光は姫の身代わりになる事を申し出た。 そして夫婦で持仏堂に籠り、ひたすら『法華経』を読誦して九月八日になった。
宗光は高井の岩屋の贄棚に上ると、北向きに坐って『法華経』の読誦を始めた。 やがて、石の戸を押し開けて大蛇が恐ろしい姿を現したが、宗光は少しも恐れずに読誦し続けた。
宗光が経を読み終わると、大蛇は首を地面につけて 「あなたの読経を聴聞して執念が消え失せました。今後は生贄を求めません。『法華経』の功徳で神に成る事ができるので、この国の人々に利益を施しましょう」と云い、岩屋の中に入った。
その夜、震動雷鳴して大雨が降り、大蛇は下村で八郎大明神として顕れた。
この顛末を帝に奏上したところ、帝は大いに喜び、奥州への使者は別の者を下らせる事にして、宗光を上野の国司に任じた。 宗光は二十六歳で中納言中将、三十一歳で大納言右大将に昇進した。 尾幡権守宗岡は目代となった。

大納言右大将(昔の宮内判官宗光)は、国の為には父、人民の為には母、大蛇の為には善知識であり、多胡郡の鎮守・辛科大明神として顕れた。
尾幡姫は野粟御前と成った。
尾幡権守宗岡夫婦は白鞍大明神に成った。 この明神には男体と女体がある。
八郎大明神の父群馬太夫満行神は、群馬郡長野庄に満行権現として顕れた。 今の戸榛名である。
母御前も神として顕れた。 男体女体があるが、母御前は今の白雲衣権現である。
戸榛名の本地は地蔵菩薩である。
白雲衣権現の本地は虚空蔵菩薩である。
八郎大明神の本地は薬王菩薩である。
辛科大明神の本地は文殊菩薩である。
野粟御前の本地は普賢菩薩である。
白鞍大明神の男体の本地は不動明王、女体の本地は毘沙門天王である。

八郎大明神

八郎神社[群馬県伊勢崎市福島町]
祭神は群馬八郎満胤。
旧・村社

『伊勢崎風土記』下之巻[LINK]には、
「八郎祠〈下福島村に在り。掌祭長松寺〉 群馬八郎満胤の霊を祀る。縁起の略に曰く、天平神護年時[765-767]、上毛群馬の郡司群馬太夫満行、男八人を生む。季を八郎満胤と号す。容姿秀麗、才有り、而して多芸なり。満行鍾愛し、立てて嗣とす。満行卒し、満胤京師に朝覲す。帝之れをして国を監させ、威権隆盛なり。是に於て七兄焉れを恚み、相与に図って之れを執らえて、石櫃に投じて、之れを池中の嶼窟〈小幡に在り。蛇喰池と呼ぶ〉に棄つ。其の霊魂化して蛇竜と為る。七兄及び宗族を鏖にし、妖崇は百姓に逮ぶ。国人懾慄し、犠牲を川上に供えて、而して之れを祀る〈此の川を号して神名川と呼ぶ〉。瞬目の際、大風石を揚げ震電霹靂し、沛然として雨注ぎ、樹を抜き巌を砕き、谿振い、山動き、神竜冉々として東方に飛騰し、光采璨珊として那波郡下福島に現わる。因て叢祠を此の処に設けて之れを祀り、八郎大明神と崇号す」
とある。
また、同書[LINK]には、
「長松寺〈下福島村に在り。真言宗満善寺末派〉 群馬八郎満胤開基す。因て満胤山と号す」
とある。

『群馬高井岩屋縁起』『幸科大明神縁起』『満勝寺略縁起』等も八郎大明神が顕現した地を那波郡の福島とする。

角川源義は八郎神社の氏子総代の話を以下に記している。
「下福島は旧利根川の河道に近く、その氾濫地帯にあり、しばしば被害を受けて来た。ある年(年代はさだかでない)の氾濫のおり、下福島・除ヶ・富塚の境のあたりに大きな流木が流れて来たので、鳶口で引き寄せると鮮血がほとばしり出た。その夜村人の夢に、我は群馬八郎なり、川上に我を祀れとあったので、現在地に八郎神社として祀った」
「総代の話には八郎神の祟りは伝えられていない」
(『日本の民話(3) 神々の物語』、角川源義「私の民話論 —上野国の中世神話—」、角川書店、1973)

明治四十二年[1909]に豊武神社[群馬県伊勢崎市大正寺町]に合祀。 その後、昭和四十五年[1970]十月に再建された。
尾崎喜左雄は「『神道集』に見える那波八郎大明神は八宮を指しているものではあるまいか」「八宮を火雷神としている『神道集』の編者は、八郎大明神というところから八宮にあわせ、雷神というところから火雷神に附けたものではあるまいか」と推定した。
(尾崎喜左雄『上野国神名帳の研究』、第4章 古文献に見える上野国の諸神、第2節 延喜式内社[LINK]、尾崎先生著書刊行会、1974)

火雷神社に伝わる那波神事は那波八郎(八郎明神)に由来すると伝えられ、同社には那波八郎が配祀されている。

しかし、加沢平次左衛門『加沢記』巻之二の「善導寺振舞之事 附開山物語之事」[LINK]には、
「凡上州に十二社あり、西上州の一ノ宮抜鉾大明神と申し男女体にして垂跡は弥勒観音也、異国阿育王の太子倶那の御妹也。二ノ宮は大赤城明神大沼は千手観音、小沼は虚空蔵、禅頂は地蔵也。三ノ宮は伊香保明神、湯前の時は薬師、里に下ては十一面観音也。四ノ宮は宿禰明神、五ノ宮は若伊香保明神、千手観音也。六ノ宮は榛名満行権現、地蔵也。七ノ宮は沢の宮、小祝明神、文殊也。八ノ宮は那波の上火雷神、虚空蔵也。九ノ宮は那波の下の宮、少智大明神、如意輪観音也。惣社は本地普賢也。子持山明神、那波の八郎明神、同所辛科の明神也」
とあり、火雷神と那波八郎明神は別の神として扱われている。
(大島由起夫「『神道集』にみる上野国の神々」、国文学解釈と鑑賞、1993年3月号)

辛科大明神

辛科神社[群馬県高崎市吉井町神保]
祭神は速須佐之男命・五十猛命。
旧・郷社。
総社本『上野国神名帳』[LINK]には多胡郡に「従二位 辛科明神」とある。

毛呂権蔵『上野国志』[LINK]には、
「辛科社 末社〈八王子、稲荷、諏訪、八幡、若宮、社宮司、天神〉、本地堂文殊菩薩 別当常行院〈天台宗、在長根村〉、当郡の惣鎮守なり、神保村に鎮座、この地古の辛科なり」
とある。

明治神社誌料編纂所『府県郷社 明治神社誌料』上巻[LINK]には、
「社伝に據るに和銅四年[711]の創建なりと、往古帰化の韓人等此地に居住し、其主領たりし郡司私部羊太夫等、天武天皇の大宝年間に一宇の神祠を創立し、己等の本国の祖神として素盞嗚尊並五十猛命を奉斎せる所にして、当国の名跡として世に伝はれる三古碑の一なる多胡碑に関係厚き古社なり」
とある。

吉田東伍『大日本地名辞書』の神保の項[LINK]には、
「陸路の記云、辛科神社の古鏡は、表に文殊菩薩の獅子に乗たるかた見えて、其右に大勧進惟宗入道、小勧進清原国包、左に建久八年[1197]大才丁巳、十二月二十六日、源大将頼朝」
とある。

野粟御前

『上州群馬郡岩屋縁起』『満勝寺略縁起』などには野栗御前とあり、野粟御前は誤写と思われる。

野栗神社[群馬県甘楽郡甘楽町秋畑]
祭神は大己貴命。 一説に日本武尊とする。
旧・無格社

『群馬県北甘楽郡史』[LINK]には、
「本村(秋畑村)字来波に在り。境内には、不動尊を安置し、且つ野栗神社の鎮座あり。神社の区域いと広くして、その中に不動堂あり」 「伝へいふ、この社は遠く養老二年[718]丑六月二十五日の建立に係ると。神社の本体は、日本武尊にましまし、古来野粟大権現と称へ来りしを、七日市町保坂正義(当時神官)祭神を大国主命とし、神社に改めたり」
とある。

角川源義は以下の様に述べている。
「小幡氏もまた時衆大名であったらしく、かつて時宗の願行寺があった。尾幡姫の物語はこの願行寺で語り出されたと思われる。この物語の女主人公尾幡姫は野栗御前(『神道集』では野粟御前とあるが、野栗の誤写である)として垂跡したという。神流川の上流、多野郡上野村に野栗の地がある。『群馬県史』の紹介する野栗大権現社の古伝[LINK]によると、日本武尊は甲斐酒折より武蔵秩父にはいり、小鹿野の鹿坂(志賀坂峠)を越えて野栗の地に着き、臣を残して妻弟橘姫の髪を祀らしめた。[中略]ある年村人が病いにたおれたので、神体の穢れによるものとし、毛髪を河水に流して浄めた。ところが、神体は流れ、下流の神川村大寄の地に寄ったので、ここにも野栗社を祀ったという」「水神の犠牲という点で、弟橘姫と尾幡姫には共通した性格があった。多野郡上野村も神川村大寄の地も小幡からあまりに遠い。[中略]甘楽町秋畑字来波にも野栗神社があるという。小幡の地にもっとも近く、白倉とともに同じ甘楽町であるのは、願行寺の唱導圏として、もっとも適切である」
(『日本の民話(3) 神々の物語』、角川源義「私の民話論 —上野国の中世神話—」)

白鞍大明神

白倉神社[群馬県甘楽郡甘楽町白倉]
祭神は日本武尊・大山祇神・金山彦神。
旧・村社。

『北甘楽郡郷土誌』[LINK]には、
「金光山 大字白倉村の東南部小幡村との境に在り俗に天狗山と称す。[中略]頂上並木の尽くる所に白倉大神あり、所謂白倉の御天狗様にして春秋四九の二十八日は参詣者頗る多く日本武尊、金山彦命、大山祇命を祭れりと、当社は人皇第四十九代光仁天皇の御宇[770-781]悪疫流行頗りなること年久しかりしかば小幡の領主小幡権頭平朝臣実高大に之を憂ひ、宝徳年間[1449-1452]此金光山の頂に石堂を建て前記の三神体を勧請し、太刀を捧げて祈願し悪魔を薙き払はしめに其験空しからず、悪疫全滅し人々茲に漸く愁眉を開けり」
とある。

明治二十七年[1894]の「古社調査」への回答書によると、群馬八郎増兼の怨霊を成仏させ、白倉大権現として祀られたのは小幡実高夫妻である。
「宝徳年間の頃慈悲深き小幡権ノ頭平朝臣実高御夫婦国を思ひ民を哀憐して、観音経を昼に夜に読経し、木刀を捧げて祈願し、以て悪魔を薙ぎ攘はしめ給ふ。嗚呼不思議なる哉、八郎増兼の怨霊をいつとなく退散致し、国中の人々悦び究りなし。日を安泰に送るも小幡権ノ頭御夫婦の法徳なりと云ふ。故に後ち人の信仰も浅からず。延徳年間[1489-1492]の頃何人か石宮を造立して小幡権ノ頭御夫婦を祭ると云ふ。新屋明神是れなり。後人白倉大権現と唱へ来れり。明治時代より白倉神社と云ふ」
(佐藤喜久一郎『近世上野神話の世界』、第3章 『神道集』と「在地縁起」、岩田書店、2007)

総社本『上野国神名帳』[LINK]には甘楽郡に「従五位 新屋明神」とある。 白倉神社は旧新屋村に鎮座しており、尾崎喜左雄は「新屋明神は白鞍ではあるまいか」と述べている。
(尾崎喜左雄『上野国神名帳の研究』、第4章 古文献に見える上野国の諸神、第4節 『神道集』にあらわれた上野国の諸神[LINK]

満行権現(戸榛名)

戸榛名神社[群馬県高崎市神戸]
祭神は埴山姫命・火産霊神・源満行。
旧・村社。

『満勝寺略縁起』には、
「満行亡霊いかりを添、吾内海外海の大龍王へ瞋恨の思ひを達し、雲電の徳を得て国土を動すへしと、忽怨念発しつゝ、霊骨都へ飛ゆきぬ」 「満行の怨念都に懸り給ふ時、霊骨落て留りたる処に社を建、今の戸歯留名とはるな権現是れ也」
とある。

『戸榛名大権現縁起』によると、群馬五郎満行は光仁天皇の御宇に上洛して禁中に参内していた頃、紫宸殿に現れた化物を鏑矢で射て退治した。 その功績により武家の長者・三位の中将の藤原朝臣満行となったが、病により亡くなった。 その後、満行の霊魂による様々な怪異が起きたため、帝は勅使を派遣して神社を建立し、満行を神として祀った。
(大島由起夫「『神道集』にみる上野国の神々」)

『群馬県群馬郡誌』[LINK]には、
「往古検非違使源満季の三子群馬太夫満行此の地に住し善政を布きしを以て里民其の徳に感じ逝後配祀して尊信せり」
とある。

白雲衣権現

波己曽社[群馬県富岡市妙義町妙義(妙義神社境内)]
祭神は日本武尊で、石長姫命を配祀する。
国史現在社(波己曽神)。
史料上の初見は『日本三代実録』巻第二の貞観元年[889]三月二十六日壬午条[LINK]の「上野国正六位上波己曽神に従五位下を授く」。
総社本『上野国神名帳』[LINK]には碓氷郡に「従二位 波古曽大明神」とある。

『上野国妙義山旧記』[LINK]には、
「白雲衣山の地主破古曽三社大明神也」
とある。 また、その由緒[LINK]
「破胡曽大明神は日本仁王四十九代光仁天皇御宇上野国十四郡内利根河西七郡中に群馬之郡地頭は群馬太夫満行と申、榛名山満行大権現と顕、本地地蔵菩薩、同御前に神と顕被破胡曽大明神と成る、男子八人神と顕る内一人八郎大明神」
と記す。

『辛科大明神縁起』には、
「御前も波己曽大明神と顕れ、同脇宮拾弐宮是れ也。本地は千手観音、末社七社是也」
とある。

『満勝寺略縁起』には、
「八郎の御母は白雲衣はこその権現と申也」
とある。

明治神社誌料編纂所『府県郷社 明治神社誌料』上巻の妙義神社の項[LINK]には、
「境内に波己曽神社あり、伝へ云ふ本社の地主の神なりと、祭神は日本武尊なり、往昔波古曽明神とも云ふ〈上野国神名帳〉、又妙義村白雲山〈即妙義山〉にあるが故に白雲山神社とも云ひ、又武尊権現とも称せり、白雲山より三十町許未申の方に当り怪岩奇峰聳列し奇勝世の喧称する所なり、俗に日本武尊東征し玉ひ、帰路に越え給ひし処と云ふ」
とある。
明治四十二年[1909]に独立を廃し、妙義神社の境内社となった。
山本毅は白雲衣権現(女体)を中之嶽神社に比定した。

中之嶽神社[群馬県甘楽郡下仁田町上小坂]
祭神は日本武尊。
旧・村社。

『北甘楽郡郷土誌』[LINK]には、
「当社の創建は遠く白鳳二年[662または673]にして、往昔日本武尊東征の帰途此山中に賊住めりと聞き登攀さられ、橘姫の遺屍として携帯せられたる姫の頭髪を見給ひて、深く追想の情を発せられしと、村人尊の嘆惜を思ひ武尊大神と称し社宇を建立」 「元和三年[1617]相州小田原の臣長清永く岩穴に住し、兵法、撃剣の奥義を極め、且つ神殿、拝殿を再築し、金洞山巌高寺なる一大巨刹を創立せらる、之れより武尊大権現並に大黒天と称し、武尊を奥宮に、大国主命を前宮に斎かる」
とある。

中之嶽神社は妙義山の東峰・金洞山に鎮座し、「とどろき岩」と称する巨岩基部の洞窟に本殿・内陣・内々陣を設ける。 同社の別当巌高寺は「白雲衣」の呼称を「往古ヨリ名乗」と主張し、天和三年[1863]の紛争で妙義権現側に敗訴した。
中之嶽神社の周辺に石門という楼門状の巨岩があるが、これは女性の象徴と理解できる。 白雲衣権現に男体女体があるという神道集の記述を想起すれば、白雲衣権現は妙義(波己曽)山の主峰白雲山を男体とし、東峰の金洞山ないし石門を女体とする神と推定される。
(山本毅「白雲衣権現考」[LINK]、神道及び神道史、54号、pp.78-95、1997)
垂迹本地
八郎大明神薬王菩薩
辛科大明神文殊菩薩
野栗御前普賢菩薩
白倉大明神男体不動明王
女体毘沙門天
満行権現地蔵菩薩
白雲衣権現虚空蔵菩薩

伊香保沼・赤城沼の龍神

伊香保沼の龍神は吠尸羅摩女、赤城沼の龍神は唵佐羅摩女である。

高井の岩屋

蛇穴山古墳[群馬県前橋市総社町総社]
一辺の長さ約40メートルの方墳。 埋葬主体は横穴式石室。 石室の規模は玄室長(西)3メートル、同幅2.6メートル、同高さ1.8メートル。 8世紀初頭の頃に造られたと推定される。

『群馬高井岩屋縁起』[LINK]によると、仁徳天皇五十五年[367]に蝦夷の叛乱で敗死した田道将軍(上毛野君の竹葉瀬の弟)を葬った墳墓である。 田道将軍の怨霊は大蛇となり、蝦夷は蛇毒により悉く死亡したという。
その後、大蛇は蒼海の風呂沼に棲んで生贄を求めるようになり、その犠牲者を供養するために化粧薬師の石仏が祀られた。 また、田道将軍の墳墓は蛇穴山と呼ばれ、本地として弁財天が祀られた。
群馬八郎満胤の物語は『神道集』とほぼ同内容であるが、「大蛇は那波郡の福島と云処に神と現はれ給ふ、今の八郎大明神是也」とする。
その後、生贄にされた人々の霊の祟りを鎮める為、宗光は帝に奏聞して高井郷蒼海に寺を建立し、宗光山阿弥陀寺と号した。
角川源義は『上野国志』の多胡郡名所[LINK]の「蛇食池、印地村の高井と云ふ所にあり」に着目して蛇食渓谷(群馬県藤岡市下日野の印地地区)の実地調査を行った。
「小幡から白倉神社の白倉を経て、亀穴峠をくだると鮎川に出る。藤岡市上日野で、鮎川ぞいの道をくだると下日野の印地である」「問題の蛇食池は下日野の黒石にあった。黒石は近くに出来た地名で、古くは字名高井戸に含まれていた。緑泥片岩の峡谷のため川幅は狭く、水触による奇怪な岩組みが数キロにわたって続き、川水は激湍となり飛竜を思わせた。不思議なことに流れの淀む淵があり、川ながら蛇食池の名があった。この淵に面して岩屋らしい形状の岩組みがあり、いかにも贄棚を設けるにふさわしい様子であり」と述べている。
宮内判官宗光の子孫、柴崎氏は永く印地に住し、徳川時代には代々名主をしていた。
(『日本の民話(3) 神々の物語』、角川源義「私の民話論 —上野国の中世神話—」)

宮内判官宗光

『群馬県多野郡誌』の地内神社[群馬県藤岡市下日野]の項[LINK]には、
「柴崎氏系譜によれば藤原魚名の子中務少輔鷲取の三男三條宮内大輔宗光宝亀七年[776]東夷征伐の命を蒙り東下して坂東一帯を帰復し後に至り小幡権頭宗定の養子と為り上野国多胡郡を賜はり吉井に住し武徳益々振ふに至つた。依つて氏神天児屋根命を同国日野山に勧請し辛科大明神と称した。爾後柴崎氏累代の氏神として之を祭つた」
とある。