2013.6.9
言葉の伝達効率:

 台所から”○△いらない?” という相方の声が聞こえるのだが、どうもよく聞き取れないので、”なあに?” と問うのだが、応答が無いことがよくある。
伝言ゲームを思い出した。確か中学か高校の国語の時間だったか、クラスを10人づつの4班ぐらいに分け、決められたメッセージをトップの人から順に伝言してゆき、ラストの人が受けた内容を発表するというものである。メッセージの内容がラストではとんでもない内容に変わってしまうことがあった。正確に伝えているつもりでも、地名や人の名前が変わってしまったり、17時が11時になってしまったり、意味が正反対にひっくり返ってしまったり、人間が発した言葉というものは必ず誤差を伴って認識されるということを学んだような覚えがある。
人は自分が言ったことは相手に伝わったと思い込んでしまいがちだが、この誤差は考えて見ると非常に大きな問題である。学校で先生の指示を取り違えて怒られたり、”あいつは俺を無視した” と思ったり、”面接で落ちた理由が思い浮かばない” とか、今になってみると自分が返事を聞き逃したり、意味を取り違えていたのかもしれないと思うと冷や汗を通り越して恐ろしくもある。

 口から発せられた言葉というものは物理的には音響であり、空気の振動なのでマイクロフォンで録音すれば記録される。パソコンで音を記録するには大きな記憶容量を必要とするが、工事現場の騒音も、虫の音も、ノーベル賞受賞者の講演も区別せず、同じ記憶容量を消費してしまう。一方、人間の脳の入り口では耳から入ってきた音響に言語的な性質を持っている音が含まれていると判定すると、言語的でない音はフィルターに掛けたり圧縮してしまうようである。ざわめく雑踏の中で目の前の人と会話ができるのもこの働きであろう。しかしながら、伝言ゲームの結果や過去の失敗を振り返ってみると、ときには必要な音まで誤ってフィルターに掛かっていないだろうか? この誤フィルタリングは個人差もありそうだし、どうも自分は誤フィルタリングが甚だしいのかもしれない。
ときどき電話をしていて、受話器と反対の耳から直ぐそばで会話している人の音声が入ってくると、電話の相手の言葉が急に聞き取れなくなることがあるのだが、皆さんは如何だろうか? 

 人間は言語・音声を獲得したことで進化できたということを聞くが、言語的な音、音声というのは自然界に満ちる様々な音からみれば非常に異質で、”口は災いの元”、”言葉の暴力”と言うように、扱いを間違えると取り返しのつかない事態に陥ることがある。そのような意味で言語は原子力と似ていないだろうか?
眼に見えたもの、耳で聴こえたもの、感じた事などを言葉、音声にすることで脳は記憶容量が節約でき、空いた容量で更に深く思考を巡らせることができるのかもしれない。ただ、言葉、音声にしたことで安心していてよいのだろうか? 言語を操るということは本当に高度な生命活動なのだろうか? 言葉に変換しきれないものがかなり取り残されているとしたら? 言葉の伝達効率というもがあるならせいぜい数%そこそこであり、むしろ、パントマイムの方が良く伝わったりしないだろうか? チャプリンの無声映画の感動を思い出す。

 人は自分の失言を、”言葉が足りなかった” と”釈明”するが、逆に言葉を費やせば費やすほど事態を悪化させてしまうようである。”沈黙は金” とは良く言ったものだが、脳にとって過剰な言葉は記憶容量を消費し、血流は滞り、却ってスムーズな理解、発想の負担になるのかもしれない。また何通りもの解釈を産み、真意からどんどん遠ざかってしまうものなのかもしれない。
真意を伝えたい時はできるだけ言葉は少ない方が良い? 最小の言葉で最大の効果。
相手にプロポーズする時の言葉の伝達効率は90%近くまで行くのかもしれない。種の保存にはそれほどの高い伝達効率を必要とするのかもしれない。

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