2004.1.1
5つの母音

 米国へ行ったときの笑い話。訪問先の米国人に夕飯を食べにレストランに連れて行ってもらった。
デザートの段になって、ウェイターに「いろいろな種類のパイがあるがどれにしますか?」と聞かれたので「アップル」と言ったのだが、そのあと、他の仲間にはそれぞれ注文したパイが運ばれたのだが、私のだけが運ばれてこない。「アップルパイはどうなりましたか?」と聞いてみたら、「あなたはたしかfull(満腹)でしたよね」と言われてしまった。 何の事か判らないでいると連れの米国人がこう言った。 「ハハ〜ン、AppleではなくてI'm fullに聞こえたんじゃないかな?」

Appleの「A」の「ア」と「エ」の中間のような発音は日本人の間では日常「ア」に振り分けている。 しかしアップルと発音したのでは英語圏では先の笑い話のようになかなか通じない。むしろエップルと発音した方が通じやすい。
私達は母音が5つしかない日本語で育ったので、「ア」と「エ」の中間のような音を聞いたらどうしても「ア」か「エ」のどちらかに振り分けざるを得ない。 これは音を聞いてそれがどんな音かを他人に伝えるにはハンデかもしれない。 調べてみたら英、米、ドイツ語は母音が14種類、フランス語は16種類、中国語にいたっては33種類だそうである。日本語と同じく5種類なのはイタリア語とポリネシア語とのこと。
これは例えばパソコンで画像を256色でデジタル化するのに対して16色でデジタル化するのと同じようなものである。
さらに大変なことには、外国語の言葉の末尾が子音で終わろうとも、水や風のような自然界の音も、日本語で発音しようとすれば一音節毎に母音でくくらないといけない。
これは脳の活動においては、どういうことになっているのだろうか?
こうした作業はロジック的な作業に思える。 末尾を「ア、イ、ウ、エ、オ」のどの母音に振り分けるかというときに、それぞれの中間は許されず、どれかに振り分けねばならない。 この作業は機械的で情容赦ない。

外国人から見ると日本語の話し方は曖昧で、白黒がはっきりしないということをしばしば聞く。 これは一音節毎に5つの母音でくくらないといけない、非情なロジカル性への反動なのではないだろうか?
少ない色数で絵を描こうと思えば、自然に濃淡や勢い、かすれのような表現が生まれる。 日本音楽、特に地歌では、ひとつの語を長く延ばすことが行われる。 おなじ一字をなが〜く引き延ばしたりする。 演奏会の開演に遅れて運良く途中で会場内に入る事ができて、唄が聞こえてくる、ワ〜〜〜〜〜ア、ア〜〜〜〜〜〜。ア〜〜〜〜〜〜。席を探して、やっと腰掛けてもまだ、カ〜〜〜〜〜ア、ア〜〜〜〜〜〜。ア〜〜〜〜〜〜。などとやっている。 愛好家の方なら、それがどの部分を唄っているかわかるのだろうが、こうした音楽を聞き始めたころの私は、いったい何を唄っているのかさっぱりわからなかったものである。
能などは、むしろ子音が弱く、5つの母音だけで謡っているように聞こえる。
尺八の孔は5つである。 孔が沢山あるフルートやオーボエのような洋楽器にくらべると少ない数ではある。 尺八演奏家は不満を覚えることもあるそうだが、その数の少なさが却って表現の自由を与えてくれるという声も聞く。

先人は、5つしか与えられていない母音ではあるが、慈しみを持ってうまくつき合ってきたのであろう。
日本語で育った脳は他の言語から自然界の音に至るまで5ビット(母音)でデジタル化してしまうコンピューターと言えるかもしれない。 ただし、日本国内だけでしか使えないが。

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