2015.10.10
人物エッセイ その2 Jimmy Messina考

 ジム・メッシーナ 1947年12月5日、北米はカリフォルニア州サウスウェスト・ロス・アンジェルス郡メイウッド生まれ。
1971〜1976年にかけてロギンス&メッシーナとしての活躍がよく知られている。彼は人物エッセイ その1で取り上げたジーン・パーソンズと同様に器用人である。両親の音楽好きを受け継いだイタリア系で、少年時代はペンを握るよりハンダコテを握っている時間の方が長い、いわゆるラジオ少年だったとのこと。
 この頃のジムはちょうど映画、青春デンデケデケデケに登場する高校生バンドの同級生であり、”技術顧問” であった、しーさんこと ”谷口静夫” と考えれば良かろう。こうした学園バンドに貢献する ”技術顧問” は洋の東西を問わず世界中に存在したようである。学校の技術科のテストでは100点満点を取るような生徒だったのではないかと想像される。しかしながらジムは同時にギター少年でもあったので、鬼に金棒状態であったところもジーン・パーソンズと似ている。

 ハイスクール時代はサーフミュージックのバンドを組んでレコードも自主制作していたそうだが、レコーディングスタジオのエンジニアから助手にならないかと勧められたのを契機に、そうした録音やミキシング過程のほうに興味が湧いてギタリストは早々に諦めたそうである。弱冠17歳の頃だから、早いうちに天職を見つけたと言えそうである。
 そして20歳の1967年にバッファロー・スプリングフィールドの2枚目のアルバム ”Again" でジャケットにはクレジットされていないが、プロデューサーを務めている。これは異例の早さと思われるが、ジム自身の回顧によると、”名乗りをあげるプロデューサーが誰も現れなかった” そうで、”押し付けられた” が真相のようである。言うまでもなくバッファローは洋楽界に大きな影響を残したバンドであるが、メンバーの個性の衝突は惑星同士の衝突レベルだったことから頷ける話ではある。そして1968年のバッファロー最後のアルバム ”Last Time Around" ではベーシストとして参加 ”せざるを得ない状況に追い込まれた” 様である。ジム自身は乗り気でなかったようだが、性格的に個性を主張するより、独り静かな職人作業の方が合っていたと見る。
 この時にバッファローは核分裂を起こし、メンバーのリッチー・フューレイとペダルスティールギターのセッションマンだったラスティ・ヤングがPOCOを、スティブン・スティルスがCS&Nを結成、ニール・ヤングはソロの道を進むことになったのだが、なぜかジムはPOCOに参加してしまう。恐らくは、”スタジオエンジニアもやりたいが、ギターも弾いていたいし” ”ならばカントリーロックを指向していたPOCOの方が自分に向いているし、メンバーも性格的に付き合いやすそうだし” といったような思惑が働いたのではないかと想像される。この決断は正解だったのであろう。それは1989年にPOCO結成当時のメンバーによるリユニオンアルバム “Legacy”をジムが計画したことから頷ける。

 ジムはPOCOに1969〜1970年までリードギター、ボーカルで在籍し、3枚のアルバムをプロデュースしている。Myspaceを通じてジムとメールのやりとりをした際に、”2枚目のアルバム ”POCO" ではデビューアルバムの ”Pickin' Up The Pieces” のときより良い器材を使えて満足している”と述べていたことから、レコーディングエンジニアとしての成果は上がっていたようである。自分もこの2枚のアルバムの音質は同時期にデビューしたCS&Nや他のバンドと比べてもクリアであると感じる。”歯切れの良い乾いたサウンド” そういうのをジムはやりたかったのだと伺える。このあたりについては以前のエッセイをご覧下さい。

 ジム自身が望んだかどうかは判らないが、リスナーやファンはジムがPOCOに参加したことによって多くの宝物を探し出すことが出来たように思う。数多くの曲に見られる ”ギタリスト、メッシーナのリック” はトレードマークとして不動のものになっているし、本人も意識していないとは言えまい。
 この足掛け3年で、スタジオエンジニアに軸を固める決心がついたようである。この時、さっさと足を洗ってしまうようなことをせず、後任のギタリスト、ポール・コットンを探してきて手ほどきをしてから脱退しているのである。アーチストというよりは組織を運営するCEOのような一面を感じる、律儀な性格というか、やはりプロデューサーに向いているような気がする。 ジムの中ではエンジニア、プロデューサーとミュージシャンのどちらかを選ぶか?という葛藤はあったのかもしれないが、”状況に応じてベストを尽す” という発想もあったのではないだろうか?むしろ戦略的に人生を歩んでいるようにも見えるのである。
 ジムの脳内辞書には、”才能を磨かないで放置しておくのは罪である”というような一文が書かれてあるのではないだろうか? このことを証明しているのは、ジムのホームページで発表している絵画作品である。水彩と思われる風景画を見ていると、”描かないと居られない” のだろう。そして現在は、”Songwriter's Performance Workshop” を主宰して才能に磨きを掛けたい人の手助けに情熱を注いでいるのが判る。もしや、ロギンス&メッシーナのパートナー、ケニー・ロギンスはジムにとって最初の受講生だったのかもしれない。

 ソングライティングの面で印象的なのはエキゾチックな一面である。ソロ活動でリリースした ”OASIS" はそれ以前のカントリー、ブギ、フォークセンスに馴染んで来たリスナーには戸惑ってしまった方が多いようだが、”テックスメックス” と呼んだらいいのだろうか?そんなフレーバーは母の故郷のテキサス由来であろうか。
 ロギンス&メッシーナ時代の "Be Free" という曲では中東やアジアのフレーバーを感じる。箏やマンドリンを弾いているのだが、マンドリンはブルーグラスや本場イタリアではなく、リュート由来の中東、アジア風なところはジムのどんなところから涌いて来るのだろうか?とても興味深い部分である。また、当時のバックバンドにはクラリネット、オーボエ、サックス等の管楽器奏者を配し、アレンジメントの面でも手抜かりが無い。北米のレコーディングエンジニアやアレンジャーと言ったような影の立役者にはイタリア系の名前を多く見かけるが、ジムもまた例外ではないようである。

 レコーディングエンジニア、プロデューサー、ギタリスト、シンガーソングライター、画家、それぞれの成果に共通して感じられるのは、"cleaness"  "crisp" というイメージである。地中海性気候のカリフォルニア生まれという理由だけでは無い、なにか特別なセンスがジムの宝ではないだろうか?

Jimmy with Neil 1967 実はNeilも音にうるさい...
Sunset Sound Recording Studio ホームページより

ジム・メッシーナの心残り:
 POCOのデビューアルバム*1制作時の事。
当時はランディ・マイズナーがメンバーだったのだが、編集作業に参加したいと申し出た彼に、リッチー・フューレイとジムがそれを断っている。ウィキペディアによれば、ランディーは憤慨したことになっているが、気持ちは良く判る。
プレス用の写真には若きランディが写った5人組の姿が残されているのだが、アルバムジャケットには一匹の犬と4人組のイラストが描かれている。その犬はランディの姿を差し替えたものだそうだ。これを見たランディは、”なんだよ、俺はイヌかよ” とつぶやいたかどうか?
 この出来事はジムの胸に小さなピースを残したのかもしれない。
当時、1966〜68年頃はビートルズはアビーロードスタジオに籠っていた時期で、彼らもミキサー室に入る事が許され、プロデュサーのジョージ・マーティンと意見を闘わせるまでになっていた。
The Complete BEATLES Recording sessions(シンコーミュージック出版)にはミキシング卓を操作するポール・マッカートニーの写真が載っているのだが、ランディも雑誌か何かでこれを見たのかもしれない。上のジミーとニールが写った写真はバッファロー・スプリングフィールド時代にサンセット・サウンド・スタジオで撮られたものである。1967年の事だが、アメリカでもミュージシャンがミキサー室に入ることが認知され始めた時代だったのだろう。
ジムはプロデューサー、レコーディングエンジニアとしても第一歩を踏み出そうとしていたのだが、ミュージシャンがミキサー室に入るとどういうことが起きるか? 想像はしていたように思える。
以下は筆者が想像した当時のやりとりである。

ランディ:リッチー、ジムは今何処?
リッチー:えっ、う〜〜ん。
ランディ:どうしたの? ジムはミキサー室かい?
リッチー:あっ、ああ、そうかもね。
ランディ:僕らも編集作業に参加させてもらえないかな?
リッチー:実は、僕もそう思ってジムと話したんだが.....

そこにジムがやってきて、

ジム:どうしたの二人で、
リッチー:ランディが編集作業に参加したいって言うんだ。
ジム:そうだよね、ビートルズやニール・ヤングもやってたよね。実はそれなんだけど.....
メンバーの皆が編集作業にかかわりたいと思うように、僕もプロデューサーとしてPOCOのデビューにベストを尽したいと思っている。でもね、ハイスクールのクラブハウスのような具合にはいかないと思うんだ。
たぶんね、皆がアイデアを出し合えばホットになれるけど、徹夜で議論して結論が出ないじゃ済まない。

ランディ:そういう事か、デビュー前はプロデューサーに任せろってことだね。
リッチー:ランディ、判るだろ、ビートルズは別格だよ。
ランディ:デビューアルバムは僕もベストを尽したい。でもなんでジムがプロデューサーなんだい?
リッチー:僕らのデビューアルバムを引き受けてくれるプロデューサーが現れなかったんだ。来年はジョージ・マーティンの方からプロデュースしたいって言ってくるかもしれないけどね。午後5時でスタジオから出なければならない。デビュー前の僕らは何の実績も残してないし、それがレーベル "epic" との契約なんだ。

ランディ:.....ジム、君は監督でもあり選手でもいたいってことだね。

 時は流れて、20年後の1989年。
アルバム、"Legacy" *2の裏ジャケットにはデビュー前の5人が勢揃いした。
日本の週刊誌、”プレイボーイ” のインタビューにジムはこんなふうに応えている。
”このアルバムは最初の5人でやりたかったんだ。そして今回、プロデュースは
David N Cole に任せたんだ。今のPOCOの音がどんなになるか期待してたんだ”

以上、2019.10.6加筆

*1
*2

関連エッセイ:
Bufflo Springfield〜CSN&Yによせて セルフ・プロデュース考

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