2016.5.9
冨田勲のこと

 2016年5月5日、敬愛する作曲家、冨田勲が亡くなった。1932年生まれの84歳であった。

 NHKのテレビ番組、新日本紀行のテーマ曲は自分にとって計り知れないイメージを授かった音楽である。
冨田勲の名前は知らなくとも、”ああ、あの曲ね” という方は少なく無いであろう。
 昭和38年から57年の18年半に渡り放送された番組だが、小学生の頃から無意識のうちに滲み込んだ音楽というのは恐ろしいほどに頑強なものである。そしてその音楽は何かのきっかけで発酵する時が来る。それは高校生の時であった。
 新日本紀行は日常的に訪れる週一回の放送を待ち遠しいと思うほどではなく、惰性で見ていたと言ってよい。ただ、その回だけは目が釘付けになってしまった。それは日本三大美林のひとつ、木曽を舞台として森林鉄道にまつわる人々と仕事にスポットを当てた回であった。
 小さなディーゼル機関車が引く長い運材列車の蛇行、そしてこの番組で有名になった ”理髪車” など、初めて目にするものばかりで、あっという間の30分間であった。 そんな映像の印象がテーマ曲と瞬時に一体となったのである。覚醒されたということかもしれない。
 3年生の高校最後の学園祭に向けてアコースティックギターのバンドの準備をしていたので、なんとかこの曲のようなものが演奏出来ないか? 今思えば楽しい試行錯誤であった。全曲、メンバーのオリジナルを演奏することに決まっていたのだが、ギターの伴奏に2人のボーカルで即興のスキャットを絡ませたインストルメンタルが出来た。”イントロダクション” という冒頭の1曲目となった。
 この時から冨田勲への脳内師事が始まったと言えよう。高校卒業後の1974、75年頃は、月の光、展覧会の絵など、彼のシンセサイザーによるパフォーマンスが実を結んだ頃である。未知の音色によって原曲のイメージが思いもよらない形に膨らむ様に快感を覚えたものである。

 ポピュラー音楽の世界ではシンセサイザーの活用がポツポツ現れ出してはいたが、”音色の合成から始める” というシンセサイザー本来の使い方を実践したのは彼が最初ではなかったか? 
とにかく時間と手間と根気が要る事は想像できた。彼がそうした作業をどのように捉えていたか判らないが、自分としてはたまたま、日本画の岩絵の具の扱い方を知ったことで納得したことを思い出す。
 西洋の色数が豊富な絵の具と違い、自分の欲しい色合いを得る為には岩石をすり潰して、その粒度(粒の細かさ)を調整するとのこと。何度も何度も試行錯誤の繰り返し、近寄ってはデジタルな作業、少し離れて遠目で見てはアナログな作業、その往来が必要なのだなと感じたものである。

 一方、オーケストラ作品の方にも眼が離せなかった。当時のテレビドラマ版 ”新座頭市物語” ではテーマ曲だけでなく、劇伴曲も担当しているのだが、オケの生演奏にシンセザイザーを組み合わせるので、そうしたスタジオワークを解明するのが隠れ弟子の日課であった。
 とにかく気になる音色がそこにはあった。それは男性合唱である。うっかりすると普通の合唱に聴こえるのだが、どうも合成したらしい。Ahhhhという合唱なのだが、恐らく生の男声合唱の音源を周波数分析して母音 "ア" に聴こえるように調合したのではないだろうか? このような作業は従来の音楽スタジオではなく、音響実験室の作業である。オシロスコープやモニターを見ながら音素そのものからプロデュースする人間が日本に居るんだ、という驚きであった。
 彼はNHKの大河ドラマのテーマ曲も多数手掛けていたので、NHK放送技術研究所の設備を借りているのかもしれない。なんとも羨ましい環境だと思ったものである。

 作曲家という概念では収まり切らなくなり、音楽のとても大きな可能性が開かれつつあることを感じたものである。こうした音楽の作り方を彼から学ぶことが出来た事はとても大切なものである。
 あらためて彼のご冥福をお祈りしたい。


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