2018.5.13
昭和40年代 エレキアンプ回想

 ある日曜日の午前中、電車の中でギターと小さなアンプをコンパクトにくくり付けたキャリアを引く若者を見かけた。およそ30cm角のアンプなので恐らくこれからバンド練習に出かけるのか、あるいは河原の橋の下で個人練習でもするのだろうか?

 エレキアンプと言えばYoutubeで昔のライブ画像を検索してみれば懐かしい情景がいくつも出て来ると思うが、1966年のビートルズ来日公演を見れば判るように、あの時代はジョン、ポール、ジョージの背後には夫々のアンプが鎮座していた。デビュー当時はメンバーの誰かひとりが自分のギターのボリュームを少し上げると、暫くして残りのメンバーが追いかけるように自分のボリュームを上げ始め、オレがオレがのボリューム競争を始めてしまい、プロデューサーからたしなめられたという話を聞いたことがある。
 ステージ上でエレキアンプを背後に置いて演奏してみれば判るが、自分のギターの音が良く聞こえなかったり、他のメンバーと巧くアンサンブル出来ているのかどうか判然としないものである。自然に自分のギターのボリュームに手が伸びていってしまう気持ちは良く判る。しっかりしたスタッフが居ればリハの際に客席でアンサンブルとしてまともに聞こえているかチェックし、ギターとアンプに付いている夫々のボリュームをセットできるが、アマチュアバンドではなかなかそれも適わない。エレキギターでバンドアンサンブルを行うということはサウンドチェック専門のスタッフが必要になるということであった。当然、そのスタッフは音響的な知識のみならず演奏される曲目のレコードを良く聴き込んでいなければ務まらなかったであろう。
 このエレキアンプも年を追う毎にどんどん大型化し、演奏者の背丈を遥かに越えるような箱が幾つも並ぶようになった。ライブ会場も野外に飛び出し、野球場やスポーツ競技上のような場所での開催が拍車を掛けたようである。こうなってくると一番遠い観客席に音が届くとなると演奏者とステージ真近かの観客は轟音に曝され、難聴になるリスクも生じる時代であった。
 昭和46年、1971年の夏休み、伝説となった後楽園球場での雷雨の中のグランドファンク・レイルロードの公演が思い起こされる。聞きに行ったという高校の先輩が居たが、どんなふうに聞こえたのだろうか? リードギター、ベース、ドラムスのトリオなので音数は少なく、レコードで聞こえていた音は球場の観客席でもそこそこ再現されていたのかもしれない。
 ビートルズは1966年を最後にライブステージを行わなくなり、スタジオワークに専念するようになったが、ステージ上の自分が聞こえている音と客席のお客さんが聞いている音の違いに疑問を持つようになったのも切っ掛けのひとつだったのかもしれない。
 今ではPAシステムという用語は一般化したが、Public Address = どの場所の客席にも同じ音=情報を届けるという発想はその頃の音響エンジニアの頭には涌いていたと思われる。考えて見ればそれはラジオの様な公共放送の使命でもある。 と同時にその音をステージ上の演奏者にも返してあげるという発想も優れモノだった。そうした発想が芽生えていた一方、ビートルズは暫くスタジオ内の4チャネルレコーダーで多重録音を繰り返し、ステージでは再現不可能な名曲も作り上げたのだが、ポールが回想しているように、だんだん煮詰まってきてしまい、もう一度ライブステージをやりたいと感じていたようである。

 PAシステムが有って当たり前=空気の様な存在となってしまった現代でもエレキギターにアンプをつなげて音を出す作業はどこか胸騒ぎを覚える? 草野球ならぬ草ライブ。そう、PAシステム無しでも楽しんでいる人達が結構いるのではないだろうか? 電車の中で見かけた若者にちょっと聞いてみたくなった次第である。

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