2000.9.24
虫の音は音楽?

以前のESSAY「米国人にとって虫の音は?」 で、「虫の音を聴いて音楽を感じるという外国人が居た」と書いたが、その時は日本人だけが虫の音を好ましいものとして受け入れているのではないという例として紹介したのだが、今日、ふと作曲家メシアンのことを思い出した。彼は鳥のさえずりに心を奪われ、その声を採譜して楽曲にしてしまった人である。それにつられて思ったのは「自然の物音が琴線に触れることはあるが、音楽を感じることは無い」という人もいるのではないだろうか?
「聴こえた音が好ましいこと」と「音楽を感じること」は別の次元の話である。 「聴こえた音が好ましいこと」というのは、無意識の生理的、心理的な脳内の活動であり、「音楽を感じる」というのは、その人が抱いている音楽というものの概念に照らし合わせるという脳内の活動と考えられる。 もしその人に「音楽」という概念が無ければ、虫の音を聴いても音楽を感じることはないであろう。 そうすると虫の音を聴いて音楽を感ずるかそうでないかは、その人の音楽というものの概念次第ということになる。
ところで 日本人に音楽という概念が芽生えたのはいつ頃の事だろうか?朝鮮半島を経由してアジア大陸の音楽が伝来したが、それ以前に音楽という概念はあっただろうか?あるいはあったにしても異国から伝来した「音楽」とは概念を異にしていても不思議では無い。
さて次の疑問は「日本人は自然の物音を聴いて音楽を感ずることはあるのだろうか」である。「虫の声」とうは言うが「虫の歌」と言うのは聞いたことがない。やはり私達日本人は虫の音は「音楽」というより「言葉」に近いのだろうか?度々紹介しているが「虫の音は日本語で育った人は言語をつかさどる左脳が優位、そうで無い人は右脳が優位」という角田忠信氏の知見も興味深い。
ちょっと連想が飛躍してしまうが、歌舞伎で大太鼓を静かにどーん、どーんと叩くとどうして雪がしんしんと積もる様を連想できるのだろうか?歌舞伎の決まり事だけでは説明がつかないように思えてしょうがない。自然の物音から音楽を感じるのとは逆に、楽器の音色から自然の情景を連想することもできるが、なぜ「大太鼓で雪」なんだろうか?
今日はここまで、またゆっくり考えることにしよう。

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