2002.12.14
放送室の思い出

 NHKラジオの短波国際放送で奥多摩物語について取材を受けたのがきっかけで、自分が小学校の5年か6年生のとき、放送委員だったことを思い出した。
校内放送の為に立派な放送室があり、操作卓がある部屋と防音の6畳くらいのスタジオが備わっていた。
なぜ放送委員を選んだのかよく思い出せないのだが、思い返してみると、今こうして音楽を制作するルーツのひとつがそこにあったのかもしれない。
放送委員になったおかげで、放送室にはしょっちゅう出入りしていた。それはもっぱら放送開始を告げるチャイム(ポンポンポンポ〜ンの鉄琴)を遊びで鳴らしにいくためであったが。
 わが母校の校内放送は、朝礼前、給食時、下校時の一日3回の放送時間があり、放送委員の児童自らがアナウンスから操作卓までこなしていた。自分が低学年の頃は放送室でマイクに向ってアナウンスする上級生のお姉さんがとても大人びて見えたものだ。いろいろなメーターやスイッチが整然と並んだ操作卓を操るお兄さん達の姿も眩しく映った。
放送委員としての一番の思い出は、給食時に放送する「クラス紹介」という番組の取材をしたときのことである。
顧問の先生からテープレコーダー(当時はもちろんオープンリールである)の使い方を教わり、「○年○組の担任の○○先生のところへ行って取材をしてきなさい」ということであった。
いったいなにを聞けばいいのだろうかと、取材の前日からハラハラドキドキであった。当日はなんのことはない、○○先生はすべて筋書きを考えておられて、自分はただテープレコーダーを廻すだけだった。
それでも、取材をしたということで、なにか得意な気分だった。それからはなにか放送室へ入ると胸が高鳴るのだった。
 さて、小学校を卒業して、中学では放送委員にはならなかったが、一度だけ放課後、悪友数人でビートルズのレコードを無断で校内放送で流した記憶がある。高校では自主的に放送委員になった。それはバンドの練習に放送室のスタジオを使いたかったからに他ならない。 まさしく入り浸りの状態であった。

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