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1981.10.4 AUDIOR AUDSE-511-2 |
放送を録音したのだろうか?ヒスノイズが目立ち時折 電気ノイズがはいるが、音質そのものは悪くなく音楽を聴くのに何の問題もない。
そして演奏自体は恐ろしいほどの充実ぶり
これぞ!チェリの魅力というのだろうか。
何気なく始まる音が長いスパンのクレシェンドは音楽が進行するにつれて グングン図太く厚く発展していく様は思わず息が止まりそうになる。
フルヴェンのそれとは全く異なるが 気づくとチェリの世界に完全に巻き込まれている。
そんな場面が随所に現れる。
フレーズの変わり目で我に返ると 繊細で美しいピアニシモが待っている。
ヴァントのような渋い音とは違い 意外に派手めな音色と透明な弦の音も素直に受け入れる事ができる。
外郭は鉄のように固いが内包された芸術はソフトでデリケートなのだ。
ライブ録音の為、楽器の出だしが揃わない場面にしばしば遭遇するが この演奏は何度も聴くに値する。
そしてこれに慣れ親しんだ耳はEMI正規盤を不満に感じる事は間違いない。
名演です。
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1995年9月4,5,6,7日 ミュンヘン、ガスタイク 東芝EMI TOCE-9801〜12 |
チェリファン待望のブルックナー交響曲正規盤!!
分売まで待てずに全集盤を買ってしまいました。
この大袈裟なハードボックスも驚いたけどそれを入れる袋には
もっとビックリした。(結構 カッコイイ 袋だよね。)
関係無いけど おまけにフルヴェンのテレカも貰いました。。ワーイ!!
あと 多分これがそうだと思うけど「シリアルナンバー」って奴。
このナンバーって 一体なんなんだろう?
kuniは会員ナンバー「1740」なのだろうか? 前後の人 誰かいますか〜?(^_-)
前置きはここまで
チェリの音楽を語る上で やはり「テンポ」の問題は避けて通れないでしょう。
私も以前は「チェリ」と聴くとどうも 例のテンポが真っ先に浮かんでしまい躊躇していました。
しかしある方法を見つけてから割と楽にその音楽に浸れるようになった。
その方法とは頭の中のスイッチを「チェリモード」に入れる事です。
方法は簡単で 自分に「これからお前はチェリビダッケを聴くんだぞ!」と強く言い聞かせる事。
CDの録音時間を見ない事。の二つです。
このチェリモードで聴くと、遅いなどとは いっさい頭をかすめず、「4番」などは
反って快速に聞こえるほど効果がありますので チェリ嫌いの方々に是非 お試しいただきたいと思っています。(ホントだよ!!)
「ブル9」ページを読んで頂いている方には判ると思うのですが、私は基本的に早いテンポが好きで、遅いのは嫌いなのですが、どうやらこのチェリの演奏に関していえば
好き嫌いを超えた次元にあるようです。
この演奏を聴いて初めて聞えた「音」が たくさんありました。
聴いている最中に 思わずスコアを取り出してその「音」を確認することが何度かあったほどです。
濃度が濃いといか 情報量が多いというか、、、
うまく表現できませんが、一つの四分音符の音の中に ものすごいたくさんの音が密度濃く詰め込まれているといった感じで「ジャーーーン」と鳴った「ジャ」と「ン」の間に幾つもの「音」が変化しながら刻み込まれているようです。
4分音符の始まりと終わりでは 違う音になっているような 彫りの深さです。
なるほど これだけの音楽を構築、表現するには このテンポが必然なのだ!と
納得させられます。
つまり これ以上早いテンポでは その情報量を聞き手が許容できないという意味でです。(チェリの意図は判りませんが)
そして 鳴っている音楽はまぎれもなくブルックナーの意志そのものと感じられました。
第1楽章第1主題第8の動機、ここは中核主題である第7の動機の高揚を静め、第2主題への移行の役割と思っていたのだけど、チェリのそれは高揚を静めるどころか何か巨大な物が更に押し寄せるような衝撃波が襲う。
常々 ここはヨッフムのような超早めのテンポを良しとしてきた私にとって こういった解釈で成功した例は他にはないのではないだろうか?
ハ長の動機、ヴァイオリンが奏でる主題の裏でホルンが魅力的な対旋律を吹くのだけど
このホルンがハッキリと和音まで明瞭に聴き取れるのが嬉しい。
このホルンの和音がよく聞こえない演奏は嫌いです。
第3主題の再現部から管のコラールにかけてのクライマックス ここも巨大な何かが押し寄せる。。。
コーダに入ってからの低弦群による6連符もしっかりと聞こえる。
スケルッツォ この楽章だけはいくら「チェリモード」に入れてもダメだめだ〜
音楽が流れていなくてブツギリに聞こえてしまう。
とにかく遅すぎる。。
「これって スケルッツォ?」
「スケルッツォには聞えない」
「でもスケルッツォって 一体なに? その明確な定義って?」
そんな事を考えてしまう。。
そして アダージョ。
全編を通して、優秀な録音と相俟って美しく響く弦と巨像のようなホルン群の音色が胸をうちます。
155小節からのコラールは特別な場所としてではなく 流れの中でごく自然に登場し、全体の流れを崩さずに再現部へと流れ込みます。
それよりも199小節からのffに頂点を持ってきているようです。
これはこれでいいのだけど、ちょっと不満。。
終結部も刻みに刻むけど やはり流れの中に溶け込むよう。。
全曲の中ではやはりこのアダージョの出来が一番よくドップリとブルックナーの世界に包まれるようです。
EMIが満を持して発売した全集として 評価できますが、全体の出来としては 「海賊版」(1981年盤)の魅力には
かなわないと思います。
ここにあるチェリは「枯れ過ぎていて」私は好きになれないのです。
この演奏は間違いなく聞き手を選びます。「分からん奴は 聴かんでよい!!」とでも言っているようです。
で、あまり人には推薦できないです。
でもはまってしまったら これ以上はないだろうな とも容易に想像できます。
さて 余談ですが、この全集のS氏による解説がなかなか、、でありまして某評論家と指揮者を露骨に非難しておられるようですが、一理あり思わずニヤリとさせられます。(^_-)
しかし これは 読み物としては面白いけど、2万円もする豪華ケース付きの記念すべき正規盤の解説としては はなはだ 内容が乏しいと思われます。
海賊盤を糾弾しておきながら 肝心の演奏そのものについての解説は海賊盤との比較に終始し、知りたい情報のかけらもなく、挙げ句の果てには「とにかく聞いていただくほかない、、、」とか「空いた口がふさがらない、、、」とか「既出のあらゆる演奏を凌ぐ、、」など。。。。
こんなの全然 解説になっていないですよね。。。。(笑い)
全29ページに及ぶ、bookの最初のページがこれなので余計 気になります。
なんとなく この立派なCDと演奏の冒頭がS氏の個人的マスターベーションに使われているようで不快な気持ちになりましたが、皆さんはどう思われたでしょうか?
それにしても クナ、ケンペ、ヴァント、そしてチェリと ミュンヘンの人達はこの半世紀の間になんと素晴らしいブルックナーに接して来たのだろう。。
ハッキリ言って、羨ましいゾ〜!!
この演奏の感想文です
by kuriken さん
この演奏の感想文です by
Y.K.さん
セルジェ・チェリビダッケ指揮
シュトゥットガルト放送交響楽団
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SaintFlorian AB-8 1961年 |
あるどこかのネット上で「チェリ本来の姿はミュンヘン盤ではなくシュトゥットガルト盤である」という論評を見かけた事があるが、その一言が
気になってしかたなかった。。。本当はEMI正規盤より早く聴いておきたかった海賊版です。
で、演奏はというと 聴こえてくるのは いろいろな虚飾や被いを取り払い、素のままの壊れてしまいそうなほど
繊細で純粋な音楽そのもの。
晩年のミュンヘンとの演奏はどこか天上から神が降りてきて、仰々しいほどの威厳と啓示をもった
悪く言えばもったいぶった演奏だけど、このシュトゥットガルト盤は 頼りないと思えるほど、聞き手と目線が同じで
それだけに共感を得やすい演奏。つまり聴きやすいということです。
第1、2楽章は ミュンヘン盤からみると完成度は劣り、構えて聴くとはぐらかされ、気を抜くと、おやっと思わせぶりな場面が出てきたりと捉えどころがない演奏。
オケのミスもも手伝って あまり良くない。
アダージョに前述の「壊れてしまいそうなほど 素のままの音楽」が出現する。
管楽器が若干乱れを見せ、快心の出来ではないと思われるけどこの心に訴えかけてくるものは何だ?
これがあの「巨大戦艦」のようなミュンヘン盤への布石なのだろうか?
それにしても流れてくる音楽が違いすぎる。
私はこのアダージョだけを何回でも連続で聴く事が出来た。
連続して聴けるアダージョなんて、、、不思議な魅力だ。
聴き終えた後に残るものは 込み上げるような感動ではなく 一種清々しいほどの爽やかさと等身大で直向きなチェリビダッケの姿です。
「チェリ本来の姿」とは 私には よく分からないが、少なくてもブル9に関していえば
EMI盤よりもこの演奏に私は共感できます。