はじめに
本は知識の宝庫である。
紙を印刷する技術が生まれて以来、本は人々の知識を蓄える手段として猛スピードで発展を遂げた。
しかし、現代の人間は過去の知識を全て取り込める程、
時間を持ち合わせていないのが実情と言えるだろう。
そこで「新書」の出番となる。
通常「新書」と言えば小説などのフィクション物が一般的だが、
もう一つ別の「新書」が存在することを忘れてはいけない。
それは「講談社現代新書」「中公新書」「岩波新書」などの「学術系新書」である。
これらの「新書」たちは僅かな時間で、人々に様々な知識を分け与えてくれるだろう。
歴史、科学、経済、思想、雑学、智慧など、各出版社によって内容やテーマ、
アプローチは変わってくるが、
様々な知識を短時間で提供してくれる手段としてこれ以上最適なものは無いと考える。
そのような知識の入り口となる「新書」たちを、自分の蔵書から少しでも紹介し、
かつ、蔵書の整理(書架と自分の頭脳の両方)をしたい、
そんな都合の良いことを考えながらこのページを作っている次第である。
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【毒草を食べてみた】 著者:植松黎
文春新書 (ISBN4-16-660099-0)
巷では、植物性だから安全というキャッチフレーズの製品をよく見かけることがある。
シャンプーから洗剤、せっけんから食用油まで数え上げたらきりがないだろう。
しかし、植物性=安全なんて誰が言い出したのだろうか。
例えば、春の訪れとともに花壇を華やがせるスズランは、
実や花、葉の全てに心臓毒を有していて、人間などアッという間に葬り去る力を持っている。
高速道路沿いに有毒ガスに強いからという理由で植えられているキョウチクトウも、
スズランと成分は違えど同じような致死性の心臓毒を有している。
言い換えれば、植物だから安全なんていう保証はどこにもないのである。
そのような危険に満ちあふれた植物の世界を、本書は余すところ無く紹介してくれている。
よくキレイな薔薇には棘がある、などという表現を聞くだろう。
これは説明するまでも無いが、物事の表面だけを見ていると中身の本質が分からない、
という意味が込められている。
表面の美しい花だけを見ていると、薔薇の棘で怪我をするわけだ。
でもこれは、よく考えてみれば何のことはない。
人間が生まれる前から植物の世界では同じようなことが実践されているではないか。
うわべだけで物事を判断してはいけないと植物が教えてくれていたのに、
人々は何故それを忘れてしまっているのだろう。
キレイな花が秘めている毒のことを考えるたびに、
今の世の中も似たようなものなのか、と考えてしまうのだ。
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【ザ・ビジネスマナー-ミレニアム版-】 著者:新世紀ビジネス研究会
宝島社新書 (ISBN4-7966-1752-3)
誰しも、学校を卒業した時点で社会に放り出されるものである。
そんなとき人は必ず何らかの違和感を感じることだろう。
世の中には今まで経験したことのないビジネスマナーという暗黙のルールがあるからである。
とは言ったものの、ビジネスマナーは元から定まったルールでは決して無い。
むしろ短時間で作り上げられた出来合いの慣習だと言えよう。
元々スーツなど着る習慣のない民族が、
スーツに対して伝統的なしきたりなど持ち合わせている筈もない。
そもそも社会の常識なんて言うものは言語よりも流動的ではないだろうか。
一年後には、非常識だったものが常識になり、
常識だったものが非常識になるということもざらにある。
その瞬間ごとに気にしなくてはいけないやっかいな代物とも言える。
それを、たった今の瞬間でまとめた本が、本書になる。
色々な場面でのシチュエーションが詳しく書かれているので、
未経験者には大いに参考になると考える。
ビジネスマナーは、その環境での慣習に大きく左右されるものである。
ある組織の中で当たり前だったことが、別の組織内で全く奇妙な行為に感じられたりすることも多い。
そんな中で、守らなくてはいけないルールだけを抽出するなど不可能に近いのかもしれない。
定められた慣習に戸惑うことがあるかもしれない。
迷ったときには、もう一度、原点に戻り思い起こせば良いだろう。
マナーは人に対する思いやり、と言うことを。
そうすればどのように行動していけば良いのか自ずと理解できるのではないだろうか。
マナーとは、相手を尊重し思いやるための手段、作法と言えよう。
人を不快にさせることは簡単だが、人と気持ちよく付き合うことは本当に難しい。
その難しい問題をマナーという手段で少しでも解けるのであれば、身につけて損は無いだろう。
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【マンネリズムのすすめ】 著者:丘沢静也
平凡社新書010 (ISBN4-582-85010-3)
マンネリズムとは新鮮味が無くなったことを言う。
同じ技巧、手法で同じことをし続けていると、大抵の場合、飽きてくる。
この感じがマンネリズムということである。
テレビ番組などがマンネリ化すると、視聴者に飽きられると言われている。
同じパターンの繰り返しをする小説、コミック、映画等、
これらの嗜好もマンネリだと非難されることが多い。
そのためか、マンネリ化することは好ましくない、ということを聞いたことはないだろうか。
同じことを繰り返すようなマンネリズムは好ましくないように見えるかもしれない。
しかし、同じことを繰り返すことに面白さを感じることもある筈である。
そんな疑問を持った時に「マンネリズムのすすめ」は良い手本を示してくれるだろう。
マンネリにならないようにと力むことは、そんなに意味のあることなんだろうか。
誰しも、好きな歌手の歌ならば飽きずに何時までも聴いていられるとか、
好きな将棋や囲碁ならいつまでも熱中することができるとか、
好きな街を飽きずに何回も散策することができるとか、
同じことをし続けても苦にならないことが幾らでもあるだろう。
ただ同じことを繰り返すこと=マンネリズムだから良くない、と安易に決めつけてしまえば、
自分が本当に面白いと思えることに対し、気づく術を自ら捨ててしまうことにならないだろうか。
同じことを繰り返すことで、その楽しみが熟成されることもある。
熟成された楽しみは、格別の楽しさがあると考える。
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【天文学講話 -太陽系天体の動きを追って-】 著者:古在由秀
丸善ライブラリー244 (ISBN4-621-05244-6)
天文学は古代から伝わる古い学問である。
近くは地球自体そのものから地球を周る月、
遠くになると何万光年も離れている名も無い天体まで、
スケールとしては他に類を見ないほど大きな学問と言えよう。
「天文学講話」では、天文学について基礎的なことをこと細かく丁寧に教えてくれる。
天文学は、今自分が住んでいる街、地域、国、環太平洋、
地球、太陽系と視野を広げていくことで巡り合うことができるだろう。
もしくは、夜道で空を見上げることから、天文学への入り口に辿り着くことが出来る。
普段、意識していないことについて考えることも、楽しいことである。
いつも狭い社会、環境、生活などで鬱積していないで、
たまには空を見上げ、星空に思いを馳せるのも悪くないだろう。
どんなに都会の灯が夜空を照らしていたとしても、瞬く星が見えなくなることは無いのだから。
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【アジア菜食紀行】 著者:森枝卓士
講談社現代新書1421 (ISBN4-06-149421-X)
人は生き物を殺し、それを食べて生きている。
自分でエネルギーを合成できない以上、
自分以外のものからエネルギーを得なければ生きてはいけないのだ。
人間は食事という形式でエネルギーを摂取するが、その中で、
動物の肉を食べずに植物のみでエネルギーを得る方法を「菜食」と言う。
「アジア菜食紀行」では菜食は一体どういうものかを、
アジアを食べ歩きながら「精進」という思想とともに教えてくれる。
アジアでは日常的に菜食を行っている地域が多々ある。
インド、ベトナム、タイ、中国、そして日本。
日本では今でも精進料理という名前で菜食を提供してくれるところがある。
最近は、誰しも食生活が乱れることが多い。
あまり食べ物に関心が無くなっているということなのだろうか。
そんな世の中で、一度は菜食という食生活に触れてみるのも良いかも知れない。
ただ肉が無い食事なのだが、そこにまた別の世界が広がっていることに気付くだろう。
食べることは生きること。
菜食に触れることで、今一度自分の食生活、
食べることに目を向けてみてはどうだろうか。
自分が生きるために必要な食べ物にまで無関心になることは無いだろう。
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【万物の死】 編者:小原秀雄
講談社ブルーバックスB1165 (ISBN4-06-257165-X)
生命が存在する限り、死は必ず訪れる。
想像と破壊が対になっているように、生命には誕生と死が対になっている。
人も動物も植物も生まれてきた瞬間より、死に向かって走り抜けていることになる。
「万物の死」では、動物の死や植物の死、細胞、人間の死、話が飛んで宇宙の死について、
さまざまな分野の専門家達の文章が編者によってまとめられている。
中でも人間の死については、やはり考えさせられることが多い。
生まれてきた以上、必ず死は訪れる。
どんなに避けようとしても避けられないから、
人間はそれぞれの受け止め方で死を許容する。
著者は人間にとって大事なことは、「いかに生きるか」ではなく「いかに死ぬか」とのこと。
でもそれは何か違う気がする。
人間は結局のところ死という結果に向かって進んでいるわけだから、
そこに辿り着くための過程のほうが重要ではないだろうか。
誰しも同じ結果に辿り着くのだから、
そこにいく過程をいかに大事にするかが生きる意味に繋がると思うのだ。
死ぬのは簡単なのかもしれない。
だが、生きている以上はその生に執着して生きて行こう。
生きる目的も意味もわからないかも知れないが、
生きていさえすればいつかは見えてくるかもしれない。
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【バナナ学入門】 著者:中村武久
丸善ライブラリー021 (ISBN4-621-05021-4)
いわゆるバナナ本である。
「バナナはおやつには入りません」と言うのは冗談の常套であるが、
バナナはこの通り「ごはん」とも「おやつ」とも限定できない不思議な食べ物だ。
栄養価も高い割に、今では値段も安い。
万能食品と言われるフルーツだが意外にも起源は古く、40万年前から食べていたそうだ。
そんな昔からバナナと人間は関わってきたのだ。
そう「バナナ」は学問なのだ。
「バナナ学入門」は、これらバナナの生い立ちから人間との関わり、様々な種類のバナナたち、
これからのバナナなど、ありとあらゆるバナナの話をまとめたものになっている。
日本では防疫などの関連で、青いバナナしか輸入できないことになっているらしい。
つまりいつも食べているバナナは、ほんとうに熟れているわけではないのだ。
果物は熟れた瞬間を食べるのがもっともおいしい食べかたであると思っている。
そう考えると、バナナは日本にいては本当に味わうことができないと言うことになる。
バナナを学ぼうとするならば、まずその本物を体験しないことには話が始まらないと思うのは気のせいだろうか。
一度くらい本場でバナナを食べておいた方が良さそうである。
是非、産地で食べてみたいと思うのだが、その時に正露丸を持っていくべきかどうか悩むところである(苦笑)。
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【危険な文章講座】 著者:山崎浩一
ちくま新書158 (ISBN4-480-05758-7)
いざ文章を書く時になると、色々と考え過ぎてしまい何にも書けないという人はいないだろうか。
文体が変ではないだろうか、文章のバランスが悪いのではないだろうか、
意味が変なのではないだろうか、色々と気になることも多い。
色々と考え過ぎてしまうために何にも書けなくなる。
でも文章というものは、まず何かを書かなくては何も始まらない。
細かいことが気になるのなら、書いた後で直せば良いだろうし。
「危険な文章講座」は、ありきたりの文章術の本ではなく、
まず書き出すスタート地点を示してくれている。
「バランスを考えるな」というのも極論かもしれないが、
確かに何も書かなければ何も始まらない。
ゼロに何をかけてもゼロのままだ。まず書かなくては。
この教えに基づいて、兎にも角にも何でもいいから書くことをスタートしてみた結果、
このホームページに辿り着いた。
自分でもメチャクチャなページであるとは思っているが、
作りながら新しい発想とかも色々と産まれてくるし、有益なことも多い。
やはり何でもいいから書かなくては何も始まらない。
少しでも書き進めていけば何かが見える。見えてくるものだろうと考える。
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【過労自殺】 著者:川人博
岩波新書553 (ISBN4-00-430553-5)
この頃、職場でうまくいかないせいか「仕事」というものについて考えることが多い。
確かに自分の責任によるものも多い。だが、会社自体の責任もあるのではないのか、
会社の中で蔓延している慣習はおかしい、などの疑問も生まれてくる。
明らかに労働法に違反している経営。
これに対して被害を受けている人ほど、いい人ばかりなのだ。
「過労自殺」は、実際に犠牲となってしまった被害者たちの事例から、
日本の労働問題、仕事をすることとは何なのかを問いかけてくる。
世の中、一生懸命頑張る人間ほどバカを見るシステムが多い。
無理なことは無理、できないことはできないと言わない限り、
自分を守ることができないという仕組みに気づかなくてはいけない。
そんな無責任になりたくない、と言う人がいるかもしれない。
これについては問題ない。なんのために会社に代表取締役という人間が存在しているのか。
彼らはただで高い給料を貰っているわけではない。
重い責任をとる必要があるから、その代価としての高給が支払われるのだ。
しかしその代価ですら、人間一人の命に見合うものだとはとても思えないのである。
確かに、自分の責任を感じることは必要かもしれない。
だが、その責任感を全て背負い込み、一人で会社を支えた気になっていないだろうか?
その命を絶つ前に気づいて欲しい。
何のために会社という組織に所属し、何のために仕事をしているのかを。
よく会社のことを「うちの会社」と呼ぶ人が多いが、この呼び方には危険なものを感じずにいられない。
そもそも会社はあなたの「うち」にあるものなのだろうか?
自分が帰るべき場所である「うち」と同じ呼び方をしていることに何ら疑問を持たないのだろうか?
会社と家の区別が無くなるような呼び方に慣れていくうちに、
歯車が少しずつ狂っていくことに早く気がついて欲しい。そして命を大事にして欲しい。切に願う。
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【カーマーカー特許とソフトウェア】 著者:今野浩
中公新書1278 (ISBN4-12-101278-X)
アメリカのAT&Tベル研究所のカーマーカー博士は、
オペレーションズリサーチの新しい解法を発見した。
オペレーションズリサーチ(以降、ORと略す)というのは、
様々な科学的手法(数学など)により経営問題を解決する、
というような学問と考えればいいだろう(少々、語弊があるかもしれないが)。
博士は、そのORにおいて新たに経営問題を解決するような解法を発見したというわけだ。
そりゃすごい、で話しは終わらない。
博士はこの解法に対して特許を取得したことから話しは始まる。
単純に言えば、数学の公式に対して特許をとった、ということになるだろう。
特許は自分の作り出したモノに対して独占的に使用する権利を認めるものだから、
それなら自分の考え出した無形の「解法」に対して独占的に使用することができるのか、
という問いを投げかけたことになる。
この話はORにとどまらず、現在のソフトウェア特許の在り方やアルゴリズム特許、
法律にまで話しは関連を帯びてくる。
コンピュータのソフトウェアという有形ではない資産の保護や権利などの法規処置はどうするの?
ということだ。
本は、この問題を提起したカーマーカー特許の話を中心に、
コンピュータ社会における特許・法律に関しての解説や今後の在り方をまとめている。
ORや数学に弱い人でも、ざっとでもいいから読むべき本だろう。
世の中にコンピュータが普及し始めてから社会は大きく変貌してきている。
この変貌に伴う歪みがこの問題であり早急に手を打たなければ、
波紋は様々な箇所に広がっていくだろう。
個人的な意見ではあるが、
社会の情報インフラの推進よりも先にこのような情報法律の整備に力を注いで欲しいと考える。
社会の仕組みが新しくなったなら、それを治める法律が変わるのは当たり前である。
手遅れになる前にやるべきことがあると思うのだ。
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【「食べ物情報」ウソ・ホント】 著者:高橋久仁子
講談社ブルーバックスB1231 (ISBN4-06-257231-1)
巷では食べ物について様々な情報が存在する。
××には○○という効果があるとか、△△は万病に効くとか、◇◇を食べると頭が悪くなるとか。
この手の話はまとこしやかに伝えられているが、実際はどうなのだろうか。
「食べ物情報」ウソ・ホントでは、巷に流れる食べ物の情報についての真偽を事細かに解説している。
真偽と言ったところで大抵の場合は、都合の良い話ばかりを巧みに抜き出したものばかりなわけだが。
そんなに都合良く効き目が如実になるような食べ物があるならば、
とうの昔に世の中から病気というものは無くなっている筈だろう。
未だ人間という生命体が完全に解明できていない状況にも関わらず、
簡単な実験結果で、さも完全なもののように語られるのにも困ったものだ。
そんなに簡単に断言できるほど、世の中も人も簡単ではないと思うのだが。
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【はじめてのギリシア悲劇】 著者:丹羽隆子
講談社現代新書1433 (ISBN4-06-149433-3)
タイトルそのまま、ギリシア悲劇の有名ドコロをダイジェストで紹介している。
よく他のストーリーで名前を使われている「オイディプス(エディプス)」、
「エレクトラ」などの由来などが確認できる。
本書を読む限り、人間は遥か昔から根本的なことは変わってないように見受けられる。
「各個人ごと存在する正義」「愛するものを奪われたが故の復讐」
人として無くすことができない感情は、太古の昔より何ら変わってないようである。
しかし、殆どのエピソードが神々の被害者にしか感じられないのは気のせいなのだろうか。
こんな連中が敬われる存在とはとても思えない。
人間の醜いところを際立たせた存在が「神」だとすれば、
「神」のいない世界とされる現代は以外に幸福な世界なのかもしれない。
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