「それは夕立のように」

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 それはいつもいきなりやってくる。
 一日の仕事を終えて、帰って飲む予定のビールのことを考えながら駅から歩いていると、胸ポケットのPHSが震え出したのだった。電話を取って声を聞いた瞬間に全てを認識したかのようにこれからの手間が想像されるのだが、当の本人はそれを知ってか知らずか能天気な声で話しかけてくる。
 「あ、辰野?俺、俺。沢村だけどさぁ」
 「今度はどこがイったんですか?」
 ちょっと冷ややかに、かつあきらめ口調で対応するとさすがに一瞬は気をつかって、「あ、今大丈夫?」などと聞いてきたりするのだけど、3分も経つとそんな気遣いをしたこと自体を忘れる人だったりするのだ。
 「いやぁ、今日は俺のマシンじゃないんだけどね」
 じゃぁ関係ないっすよね、とはまさか口には出せず、症状を聞く。そう、今日もコンピュータ関係のトラブルシューティングをやるはめになるのだ。それも無償で。

 沢村さんは、私の前の会社の先輩だ。家が近所なので、前の会社にいた頃はよく飲みに行ったものだった。今では二人とも別の会社にいるので、会う機会は非常に少なくなっているのだが、私が家庭用コンピュータ一式に比較的詳しいのを知っていて、何か問題があると電話をしてくるのであった。それ以外で電話をしてくることがないわけでもないが、ここ1年くらいはコンピュータトラブルでしか電話がかかってきたためしがない。
 こうやって、トラブルはいつも突然にやってくるのだ。それは夕立のように、雨傘とか心の準備とかが出来ていない時に、いきなり降ってくる。それが人のマシンであればなおさらのことである。
 「ということで、フォーマットするのが一番早いとは俺も思うんだけど、その前に出来るだけデータを救出したいんだってよ。死んだらやばいのもあるらしいし。で、俺だとそこまではちゃんと出来ないからさぁ」
 暗に来いということを要求している。というか思いっきり呼び出されているのだ。
 「今からっすか〜?眠っても眠ってもまだ眠いくらいのこの季節で、しかも寝不足気味の生活をしている私にこの時間から来いと言うんですか?」
 「おごってやるから、取りあえず、来い」
 そういう訳で一旦帰って沢村さんの家まで自転車を漕ぐ私なのであった。しかし、そんなのに毎回釣られて行く私も私という気がしないでもないのだが。

 先輩の家には既に問題のノートパソコンが持ち主と共に待っていた。
 「彼が俺の会社の同僚の松岡君。で、こっちが妹の貴子ちゃん」
 聞くと、このノートパソコンは妹の貴子ちゃんと兄貴の松岡なんたら君とが共同で使っているとのことらしい。貴子ちゃんがいじっている時にフリーズしたので、心配したというか責任を感じたというかで、一緒に来たとのこと。クライアントがこんな可愛い女の子なら迷わず来たのにとか考えてる私に、貴子ちゃんは「なんとかなるんですか?」と心配そうに私とノートパソコンを見つめながら問い掛けるのであった。
 件のノートパソコンをばらして、ハードディスクを抜き取る。コンピュータは部品単位で簡単にばらせるものだという認識のない人にはさぞかし難解なことをしているんだろうなぁと思いつつ作業を進める。組み立てを手伝わされたというかやらされた先輩の自作機にハードディスクを繋いで立ち上げてみる。どうやらドライブ自体は生きているようだ。データを吸い出して、ハードディスクをフォーマット、OSの再インストールをして取りあえず終了。データの保存場所を教えて、後は沢村さんにまかせることにする。
 「取りあえず、今日は遅いから飲みはまた今度、な」
 時刻は既に12時を余裕で回っている。まぁ、そんなことだろうとは思っていたのだけど。PCをいじっていると時間はあっという間に過ぎていく。今から飲みに行ったりすると明日の仕事は結構やばいことになってしまうのは、経験上明らかである。というか、経験しないでも分かる人の方が多いのだろうけれど。
 松岡氏から「助かりました」と感謝の言葉を受ける。どうやら、仕事のデータが消えずに済んだのでかなり安心しているようだ。貴子ちゃんからも「ありがとうございましたぁ」と尊敬するようなまなざしでお礼をされる。
 時間はかかったけれど、なんとか問題は解決した。可愛い女の子にも感謝された。それにやっとビールが飲める。帰りの自転車に乗りながら今後の展開を考える。取りあえず、貴子ちゃんと一緒に飲みに行って……。って、これはほとんど妄想に近い気がするのだけど。
 でもまぁ、そんなのもちょっと悪くない。


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