「片付ける」

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 ふと思い立って、部屋の片付けをすることにした。駄目人間からの脱却は、まず部屋の片付けから始めるのだ。いや、別に私が駄目人間などという訳ではないのである。ないんだったら。だいたい、誰がそんなこと言い出したんだっ。とか逆切れしている場合でもない。
 とにかく、部屋の中央から出入り口付近を占拠しているツーリング用装備を片付け始めたのだった。ツーリングから家に戻ってきて荷物をばらしたままで、1ヶ月以上も放置してあったものである。ただでさえ不必要に物が多い私の部屋を、更に狭くしていたのだ。それならそんなに放置しておくな、という突っ込みはご遠慮ください。だって忙しかったことになっているんですもの。ことってなんだ。ことって。
 かくして奮闘の末、装備品も無事に押し入れの中という定位置に収納された。我が軍の勝利である。その勢いを持って、部屋の中央部を占拠している不要品と必要品が混ざりうずたかく積まれた山を撤去すべく進軍を開始した私の目に飛び込んできたのは、6月上旬に行った名古屋城のパンフレットであった。

 名古屋城。徳川家康が慶長14年(1609年)に清洲から遷府し慶長17年にはほぼ完成した、代表的な平城である。天守閣・本丸は第二次世界大戦の名古屋空襲で失われたものの、昭和34年に再建されたらしい。これはそのパンフレットから抜き書きしているので間違い無い。その構造は、代表的という言葉通り日本特有の城下町というシステムとなっている。
 これは、ヨーロッパの城塞都市とは違って町民が保護されない構造である。町自体には強固な城壁の類はなく、多くの町民が住む市街地に当たる部分には外部から進入を遮るものはない。市街地を越え、支配者であるところの殿様とその周辺が生活する「お城」部分の周辺のみに、堀や城壁などの進入者を拒む建築物が存在するのである。ヨーロッパを代表とする城塞都市のような、街全体を外部から隔離するシステムとはかなりの差異が認められる。
 これは、ほぼ単一民族である日本においては、重要な生産力である町民を殺してまでは戦をしないという不文律があったからではないかと思われる。戦闘人員となって戦に参加したもの以外は、自分の領民として認識しているからであろう。違う人種の人間同士で、生活のために貴重な空間を確保するために相手を根絶させるようなニュアンスの多い中世ヨーロッパと違い、争うのは支配者だけで生存環境についてはそこまでの危機感もなく同民族同士で共存できる日本という、自然と対抗する必要性の無い環境ならではの形態であるかもしれない。

 しかし、そんな風土の日本にも城塞都市型の街が存在していたのであった。周囲を壁で囲い、一定の場所からしか出入りを許さないという、街ごとの防御に適したタイプの街だ。
 その場所は東淀川。大阪市の北部に位置する、淀川の北側の地区である。さっき片付けたツーリング用の荷物を持って出かけた地域の一つだ。
 私は諸事情があって東淀川駅に行くことになったのだが、実際に行ってみて始めてこの事実が発覚したのだった。電車で駅に直接行く以外の出入り口は、外部の人間にはわかりにくく作られている。大通りを辿って適当に行ったのでは、絶対にたどり着けない。まさしく、城塞都市だ。
 その証拠に、近隣の住人に東淀川駅の所在について質問をすると、打ち合わせでもしたかのように皆が困った顔をするのである。「説明しづらい」「まっすぐには行けない」「自分なんでそないなとこ行きたいん?」「一回戻った方が多分わかりやすい」「方面的にはこっちなんやけどなぁ」などと、要領を得ない言葉ばかりが返ってくる。
 私とて全国を走ったことがあり、大阪の地を単車で訪れたことも一度や二度ではない。その私がこんなに辿り着くのに困難であった場所は今まで無い。これは城塞都市としての設計が優れているという証でもあるだろう。
 結局、私も自力で辿り着くのを諦めざるおえなかった。新大阪駅前に単車を置いて、荷物を担いで電車で移動してから案内してもらう、という屈辱的な選択肢を選んだのだった。

 恐るべき城塞都市、東淀川。そして、部屋の片付けもやっぱり全く進んでいなかった。恐るべし、部屋の片付け。駄目人間からの脱却はまだ遠い。って、だから私は駄目人間じゃないんだって。ねぇ。

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