「今宵、進化を杯にして」

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 僕がまだ少年だった頃は、西暦2000年というのは遠い未来の話だった。
 だから2000年になった時に、世の中が、そして周りの社会がどうなっているかなんて考えたことがなかった。いや、考えてはみたのだけれど、想像もつかなかったというのが正確なとこ。
 西暦2000年。貪るように読んでいたSF小説やらまんがやらTVアニメの中ではさまざまな発明品があって、空中の透明なチューブの中を車が走り抜け、その遥か上空では宇宙船が飛んでいる、なんて光景が実現されるとばかり思っていた。ここ100年くらいで加速度的に進歩した人類文明の進化速度は、永遠に続いていくと信じきっていたのだった。きっと今の自分には原理すらも分からないハイテクな発明品の数々に囲まれているのだろうと。
 もちろん、未来は明るいだけの物じゃないということくらいは分かっていた。実際には信じていなかったけど、1999年とかその前後くらいに文明が崩壊する類の話も一杯あった。でもやっぱりそんな危機を乗り越えたとおぼしき2000年という年号には重大な意味があるような気がしてた。
 その頃の自分がどうなっているかなんてことは、まったく想像出来なかった。まぁ小学校に行ってるような子供に、20年後という遥かなる未来の自分が何をしているか、なんて具体的に想像出来る訳もない。なにかはよく分からないけど仕事をして家庭を持っているのだろうなぁ、とか考えるのが精一杯だ。実際のところ、僕自身はそんなことすら考えていなかったような気もする。

 僕が学生を終えようとしたりやっぱり続けたりなんてしていたころでも、あんまり変わっていなかった。2000年は依然として未来であり続けたし、1999年に関する流言蜚語はますます増えていた。10年先とはいえ、西暦2000年はやっぱり遠い未来でありつづけたのだった。
 やっぱり僕自身も将来のことを具体的に考えたりしていなくって、次の1年とか2年後の身の振り方だけしか考えず、日々を暮らしていたた。ただ違っていたのは、当時自分のお気に入りだった作家らに30代の人が多かったりしているのに気付いて、この年代への憧れが育っていったことくらいだろうか。もっともこれは、年齢というよりはその仕事をこなしていく実力に憧れていたのだろうけれど。


 ところが実際にこうして2000年を迎えてみると、車が中を走るようなチューブはかけらも存在しない。宇宙開発なんて太陽系内を進む宇宙船どころか地球の回りをうろうろしている程度。僕らの想像以上の進化を遂げると信じていた科学は、僕らに劇的な変化をもたらしてはくれなかった。万能の夢の象徴であった科学は、金儲けと結びつかないと見向きもされないような欠片になってしまっていた。
 実際に進み具合を共に見てきて、進化を実感しているコンピュータと通信環境の発展だってそうだ。
 僕が始めて触ったコンピュータはBASIC以外はマシン語を直接書くしかなくって、漢字の表示も印刷も満足には出来やしなかった。フロッピーディスクのランダムアクセスと巨大な容量に限界が感じるようになるなんて思いもしなかった。こんな風にたいていの人が携帯電話もしくはその類の物を所持していて、ネットワークが発達して、環境があれば誰とでも連絡が取れるなんて想像の範囲内にすら無かった。
 それでも、このコンピュータは僕に話し掛けたりしないし、昔ながらのつまらないエラーメッセージと共に動作を止めたりする。僕が信じていた、輝かしい筈の未来はどこにもない。

 そして、僕自身だってそうだ。西暦2000年の誕生日に独りで酒を飲みながらこんな風に文章を書いているなんて、どう転んでも考え付かなかった。昔から想像力は貧弱だったけど、それを差し引いても十分予想外だ。
 もっと精神的にも大人になって、愛する妻とともに幸せな家庭を築いている筈だった僕はどこにもいない。まだまだ未熟な精神状態で、目の前のことしか考えられない、こんな僕しか、ここにはいないのだった。


 でも、実際に振り返って考えてみると、未熟そのものの痛々しい若さしか持っていない無知で無礼で無力だった当時の僕よりは、確実に成長している。世間の人の半分以下の速度かもしれないけれど、人の縁にすがりつつあっちこっちをふらふらして、それでも糧を得るくらいの技術と微かな自信くらいはなんとか手に入れた。

 だから10年後の僕がこうやって飲みながら過去を振り返れることを祈って、少なくともあの頃に戻りたいとかそんな後ろ向きな考え方にならずに笑えるのを祈って、今日は乾杯したいと思う。

 誕生日おめでとう。

 ゆっくりでもいいから、前を向いて歩いて行こう。まだ美味い酒を飲む機会はいくらでもある。

 その時誰かが傍に居てくれれば、もう言うことはないし、ね。

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