「秋の夜長に」

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 秋の夜は長い。
 夜の長さを測る基準としては、夏至と冬至という二つの日照時間の長さの変化の極点と春分・秋分というだいたい半分になっている時節がある。だから、実際には秋の夜が一番長いなどということはなく、冬の夜が一番時間が長いはずなのだ。
 それでも日本の四季折々を過ごしていると、やっぱり一番長い夜というと秋の夜だという気がしてならない。そんな秋の夜に、いつからこんなに秋の夜を長く感じるようになったのか、などと思い起こしてみたりすると、それはやっぱり数年前に沖縄で過ごした夏の後からだった気がする。今の自分へ大いに影響を受けた氷室さんと出会った、あの夏から。


 本島から石垣島へと向かうフェリーで知り合った氷室さんは、関西から来たソロツアラーだった。細身で割と小柄ながらも、背の高いAfricaTwinという単車を軽々乗りこなす彼は、しばらく働いて旅費を稼いではまた走るという生活をして全国を回っているとのことで、いろいろ知識もありツーリング経験も豊富だった。
 ソロツアラー同士、酒飲み同士、そして旅の目的も同じということで気が合い、暫く一緒に行動することになったのだった。
 氷室さんは、観察力というか注意力も凄かった。飯屋のTVのニュース番組で政治家を見ながら「この総理も雰囲気ちゃうし、隣の幹事長も感じちゃうなぁ。あ、この官房長官の方が近いかなぁ。」などと言うので聞いてみると、さっきすれ違ったパトカーの後ろの席のお偉いさんっぽいおっさんの顔だけど見なかったか、などと言われた時には、漫画の中だけでなく実際にこういう人がいるのかと本当に驚くしかなかった。実際、その注意力のおかげで事故に遭わずに済んだこともあったりして、仲間というよりは先輩に面倒を見てもらったという感じだったのだけれど。

 氷室さんは不条理が許せない人でもあった。観光案内所で見知らぬ旅行客の二人組が土産物屋のおっちゃんにぼったくられそうになっているのを見かけた時に、ものすごい剣幕で怒っていたのも最初は驚いた。機関銃のようにまくしたてる怒声を聞きながら、「堪忍せんで」という台詞から堪忍袋なんてものがあったとして、その緒が切れるんだからまた再生しても不思議はないだろうけど、氷室さんの場合は切れた堪忍袋の緒が蘇生する暇もないほどだなぁ、なんて訳の分からない感想を持ったりしていたことを覚えている。

 そんな氷室さんは、夏が大好きな人であった。最果ての地の民宿で泡盛の四合瓶の二本目に取り掛かった時にも、やはり酔っ払いらしく夏と南国について語り合ったりしたのだった。
 「辰野君、やっぱ男は南国やで。南国で気楽に生きるのが一番幸せなんや。暖かければ飲んで寝てしもうても死なへんしな。ほらこっちの人ら皆、こないのん気に生きとるやろ?」
 現地の人にはかなり失礼な気もしなくもないのであるが、説得力がそれなりにあって納得させられてしまうのであった。
 「冬は寒うていかん。やっぱり夏やね」と自分のグラスに酒を波々と注ぎながら続ける。「でも実は冬はまだええねん。もうすぐ春が来て夏が来るんやって気分になれるからな。ほんま、秋だけはどうにもならへん。人恋しゅうなるし哀しい事も多いしなぁ。」
 もちろん、その後すぐに他の話題に移って元どおりの氷室さんに戻ったのだけれど、一瞬寂しげにグラスを見つめて黙り込んでしまった姿は、非常に印象的だった。
いくら鈍い私でも、さすがにあんな表情を見れば聞いていいことかどうかは分かる。他のツッコミ的な質問はいくらでも無遠慮にした記憶があるのだけれど、「秋になにかあったんですか?」の一言。それだけはどうしても言えなかったのだった。
 実際、その後一週間程氷室さんとは一緒に旅を続けたのだけれど、あれほど寂しそうな顔を見たのはその夜だけだった。
 そして、最後はソロツアラー同士さすがにお互いの行く先が一致せず、それぞれのツーリングの無事を祈って別の道を進むということで別れを告げたのだった。それが、その氷室さんと出会った、もっとも暑くもっとも楽しい夏だった。


 そんな氷室さんとの出会いの後から、好きな季節を聞かれると躊躇せず夏と答えるようになった気がするのだ。もちろん、あの暑かったけどひたすら楽しかった夏の思い出というのが、一番根底にあるのだろうけれど。
 その後、氷室さんとは特に連絡を取り合ったりもしなかったから今現在何をやっているのかなんて全然分からない。でも実はそんなことは些細なことで、今の私があの頃の氷室さんと同じように夏が大好きで、秋が物寂しくて苦手になっているということの方が、大事な気がする。少なくとも、そう言ったら氷室さんは喜んでくれる気がするのだ。

 だから今は、前に氷室さんが語ったように、大好きな夏が過ぎてしまってしばらくは夏を恋しく思いながらも物寂しさに包まれる秋は苦手だ。夏と人を恋しく思う気持ちが、夜を体感的に長くさせる。
 ましてや、気分的にはまだ大好きな夏の感覚が抜けきれておらず薄着のまま寝てしまい、風邪を引いた挙げ句に会社を休んで昼間中ずっと眠りっぱなしで晩飯時になって起き出して迎えた秋の夜などは、翌日の仕事と睡眠時間の計算をしつつも眠ろうと思ってもやはり眠れず、いっそこのまま永遠に長いこの夜を起きて過ごしてしまおうか、などと思ってしまうほどである。
 そしてくしゃみを連発して寒さに震えながらも、押し入れの奥から引っ張り出した泡盛の瓶を抱えて、明け方には訪れるであろう眠気を待ったりしてしまうのだ。

 夜はまだ続く。


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