まさか、そんなに反対されるとは思っていなかった。
父も母も。
父の家は、台湾人の女をもらうことがダメだという反対の仕方だった。
母の家は、日本に嫁ぐなんて遠すぎる。苦労しても助けてあげられない。
帰りたくてもなかなか帰って来れないじゃないか、ということを心配しての反対だった。
父の母親と父の姉が台湾にのりこみ(ほんとにのりこんだ)、財産目当てだろうこの台湾人が!というようなことをのたまったとも聞いている。
台湾の母の母親の世代(私の祖父母の世代)は、みなきれいな日本語を使う。
本当に本当に上品な日本語を使う。
戦前の日本人の教育が厳しくかつ上品だったからだ。
だから、父の母親と姉の品のなさに、母の家族はものすごく驚いたそうだ。
それを見て、更に娘を嫁に出したくなくなり、一層母の家族の反対は強くなった。
でも、二人は自分の意志を曲げなかった。
一生懸命お互いの家族を説得し、結婚の承諾を得た。
父の方は勝手にしろ。
母の方はそんなに意志が固いならがんばりなさい、と。
それからすぐ籍を入れたが、母の日本入国ビザがなかなか下りず申請をして7ヶ月経ってようやくビザが下り、日本の地に初めて降り立つことができた。
当時台湾には戒厳令が敷かれていた。だからなかなかビザが下りなかった。(しかもこの戒厳令はなんと1987年まで続き、台湾は世界最長38年間の戒厳令下におかれたのだ。1987年って言ったらつい最近じゃんよ。)
当時、母は22才。
母が嫁いだ家(要するに我が家)は、当時はまだ半分農家半分商人のような家で、竹やぶと山しか周りにない、日が暮れると真っ暗な土地だった。
夜になると、たぬきやウシガエルがぼーぼー鳴き、一人じゃ怖くて外に行けない。
台北市内のネオンきらびやかな街に住み働いていた母は、そのど田舎さに驚愕した。
日本に抱いていたイメージと現実にものすごいギャップがあったそうだ。
台湾より都会だけど、年寄りは刀をさしてマゲを結っている。
と思っていたそうだ。
どんな時代だそりゃ?なんか混ざってるぞ。
それくらい、当時の台湾と日本の間には、お互いに対する知識も交流もなかったということなんだろう。
母が日本に来るたった30年前まで、台湾は日本だったのに、敗戦して日本人が撤退してから30年の間に、こんなにも溝は深まってしまうものなのか。
30年前までは、きちんと正しい日本に対する知識があったはずなのに。
と、母は感じたという。
何にも知らないところに来てしまったんだ、と途方にくれた。
自分の行動は浅はかだったのか?間違っていたのか?
毎日毎日考えた。
文化の違い、慣習の違い、言葉の違い、いろんな違いが母を戸惑わせた。
しかし、それを正してくれる人は家族の中に一人もいなかった。
父は、毎日仕事が忙しくほとんど家に居ない。
家に居るのは、姑、小姑、義弟、そして寝たきりの舅だ。
分からなくて困っていても、にやにやして見ているだけ。
間違えたことをしたら、ここぞとばかりにバカだのアホだのこれだから外人はと言われる。
言葉があまりわからなくても、侮蔑の言葉はすぐわかる。
母は、台湾で働いているときに日本語を習得したが、それは営業用と日常会話で、とても上品なものだったから、この当時浴びせかけられた罵倒の言葉の数々は母には理解できなかった。
ただ、侮辱されたんだな、と感じ取ることはできるが、意味はわからない。
そんな感じだった。
親にも殴られたことがないのに、毎日姑になぐられ、髪をつかんで柱に頭を打ち付けられ、自分のお金を持たされてない母は、新しい服を買うこともできず、いつも胸元に血がついている服を着ていた。
これは、当時の母の写真を見ても分かるし、子供の頃タンスの中にあった服はほとんど血がついていたのを私も知っている。
まだ幼かった私が、「おかーさん汚れてるよー。」と言うと、悲しそうな目をして、「そう?」と言っていたのを覚えている。
あの目には、いろんな思いが交錯してる葛藤があったのだと、今なら分かるけれど当時は分かってあげられなかった。
健康的にふくよかだった身体はみるみる痩せ細り、ガリガリになっていった。
ご飯も食べさせてもらえなかった。
どうして?同じ人間なのに?
教えてくれれば、がんばって覚えるのに。
やればできるところを見せたいのに、それすら許されないの?
毎日毎日泣いていた。
それでも、母は早起きをし、家の仕事を手伝い、舅の世話を一生懸命した。
自分を認めてもらうために。
台湾で、自力で勝ち取ったときのように。
舅が、母をよく誉めた。
すると、それが姑と小姑の気に障るらしく、だったらあの台湾女に世話してもらえ!と舅につらく当たる。
母は、それが気が気じゃなかった。
当時、銭湯をやっていたので、番台に座ったり、掃除をしたり、薪を燃やしたり、と仕事はたくさんあった。
それを、手伝いにいくと、店の中に入れてもらえない。
1時間も押し問答をしていると、みっともないから帰れと散々姑に言われる。
仕方なく家に帰ると、決まって姑は父にこう言うのだ。
「あいつは店に手伝いにも来ないで、家で寝てばかりいる。ろくでもないぐうたらな嫁だ。金目当てに決まってる。化けの皮がはがれた。」
家で何をしていいか分からず、お金も持たされていないから食材も買えず、掃除をして待っていると、皆が帰ってくる。どうやら外食をしてきたらしい。
お土産は、舅と義弟にだけ持って帰ってきていて、母の分はもちろんない。
そんなのが毎日だった。
誰も頼る人がいない、父しか頼れない。
なのに、父は全然頼りにならない。
もちろん、姑も小姑も義弟も巧妙に父の目につかないように母をいじめていたので、父は全く気づいていなかった。
父はこの頃のことを振り返ってそう言う。
でも、私に言わせれば気づいてなかったわけはないと思う。
あの血のついた服を見て、腫れた顔を見て、泣いてる母を見て、やせ細っていく姿を見て、何も気づかない男がどこにいる?
父は気づかないフリをしていたんだと思う。
どちらも父にとっては大事だから、間に立ってもめたくはなかったのだろう。
そんな生活で、心身共にずたぼろにされた頃、妊娠がわかる。
もちろん、母はこんな状態でも父を愛していたし、妊娠を喜んだ。
父ももちろん喜んだ。
だが、私の父と母以外は誰も母の妊娠を喜ばなかった。
それでもしぶとく生まれてきた私は、自分の生命力を誇りに思う。
生まれるべくして生まれてきた。そう私は本気で思ってる。
その話は次で。
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