わたしがお腹にいることがわかると、更にいじめはエスカレートして行った。
店で、男湯と女湯の掃除をしていたら、いきなり冷たい水をぶっかけられたり、お風呂に入ってる間に腹帯を水浸しにされたり、わざと転ばせようとしたり、重いものばかり持たせたり、お腹を蹴飛ばされたり。
まだまだ書ききれない程、いろいろなことをされた。
母には分からなかった。
流産させたいの?あたしを追い出したいから?なんで?どうして?
毎日そんなことを考えながらも、日常をこなした。
皮肉にも、お腹の子(わたし)は、流産の気配すら見せず、すくすく育っていった。
いじめている彼らを嘲笑うかのように、わたしは順調に育った。
父が、里帰り出産の方が気持ちも楽だし安心だし落ち着くだろうからそうしなさい、と言ってくれて、母は7ヶ月に入った頃台湾に帰る。
台湾に帰ってから、日を追うごとに日本に帰るのが嫌でたまらなくなった。
母は家族の優しさに触れるたびに、日本にいた時の全ての記憶を忘れたいと思うようになった。
日本は地獄にしか思えなくなってしまった。
ここにいたら、ずっと幸せに暮らせる。あたしはずっとここにいたい。
この子を産んでもここにいたい。
帰りたくない!
帰りたくない!
泣いて祖父母に訴えた。
それを聞いた祖父は、母の頬を叩いてこう怒鳴った。
「あれほど反対しても、苦労するぞと何度言っても、自分の意志を曲げなかったのはお前だろう!
子供を父なし子にするつもりか!お前はそんな無責任な人間か!お腹の子の将来はどうなる?
産んだら日本に帰れ!お前のうちはここじゃない!自分で選んだ道だろ。根性みせてまっとうして見ろ!」
祖父に怒られて母は決心した。
何があっても負けない。あたしが選んだ道だ。突き進んでやる。
産む直前、父が台湾に来た。
わたしを産んで1ヶ月経った頃、母は父と日本に帰る。
母はこの時、これから15年もの間たったの一度も台湾の土を踏めないとは思ってもみなかった。
わたしを見た姑は余りのかわいさに絶句し、母からわたしを取り上げた。
「父親にそっくりでお前にはみじんも似てねぇ!これはうちの子でお前の子じゃない。あっちへ行け!」
しかし、母は台湾を発つ時に決心したのだ。
絶対負けないと心に決めたのだ。
母は、姑からわたしを無言で取り戻し、自分の部屋へ向かった。
「なんだあの態度は!子供を触らせもしない!ろくでもない嫁だ!根性が曲がってる!追い出してやる!」
みんなでめいっぱい騒ぎ立てた。
この母の態度で、祖母のわたしへの愛情(と言えるかどうかわからないけど)は憎しみに変わり、私は祖母にとって、自分のかわいい孫、かわいい息子のかわいい娘ではなく、かわいい息子を奪った憎き台湾女の憎たらしい娘になった。
ある時、母はわたしをお風呂に入れて、わたしを寝かしつけていると、姑が帰ってきた。
「邪魔だからそれを連れて部屋へ行け!」と言われたので、部屋に抱いていってそこで寝かしつけていた。
するとしばらくして、近所の親戚が「Kさーんはいるわよー。」と部屋に入ってきた。
母が「どうかしたんですか?」と聞くと、
「さっき義姉さんから電話があって、Kさんがゆりこを部屋に連れて行ったまま閉じこもって出て来やしない。ご飯も食べてないし心配だから見に来てくれないか。って言われたのよー。」
母は一瞬呆れて物も言えなかった。
でも、おばには誤解されたくないので、素直に答えた。
「今さっき邪魔だから部屋へ行けって言われたから部屋に戻ったんです。」
「えー?どういうことー?」
「わかりません。」
このとき、この親戚のおばさんは事の次第を察した。
「何かあったら、いつでもうちに来ていいのよ。いい?我慢しないで。いつでも来ていいのよ。」
そう何度も念を押しておばは帰っていった。
このおばの一家はこの時から15年、母とわたしのためにいろいろしてくれた命の恩人だ。
おば一家が近くに住んでなかったら、おば一家が助けてくれなかったら、今、母と私はここにいなかっただろう。
本当に感謝してもしきれないほど、たくさんたくさんお世話になったのだ。
この頃、この生活に終わりが見えなかった。
いつまでこんなことが続くのか、一生続くのか。そればかり考えていた。
いつかこんな生活が終わることだけを夢見て毎日を過ごしていた。
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