それから暫くして、母は家の仕事を再度するようになる。
きっと、このままじゃダメになると思ったのでしょう。
もう一度、やれるだけやって、ダメならもうやめようと腹をくくったのかもしれない。
パスポートの期限切れ事件で何かがふっきれたのか、夫婦の仲はうまく行き始めていた。
嫁いで来たときは、仕事をさせない方向の嫌がらせをされ続けた母だが、この時からは、めちゃくちゃに働かされるようになる。
当時、自宅から電車で30分程のところで父が店を始め、その仕事を母もするようになったのだが、そこには店長として伯母がおり、従業員に母の悪口を散々吹き込み、相変わらずの状況だった。
店は朝7時から深夜0時まで営業していたのだが、伯母は午後14時頃来て16時には帰っていく。
母は朝から晩まで店に張り付いたままで、夜は終電も終わってしまい、誰も迎えにも来ず、タクシーに乗るお金もなく、厨房でシャワーを浴びて、洗濯をし、店のソファーで寝る生活だった。
その頃、私は小学2年生。
毎日家にいても、もちろんご飯を食べさせてもらえるわけもなく、誰と話をできるわけでもなく、自室に追いやられ、空腹と毎晩戦っていた。
歌番組を観ながら歌い、振り付けを覚え、好きな本を読み、楽しいことに集中して気を紛らわせていた。
ぼんやりしていると、寂しさや悔しさや出口のない閉塞感が襲ってくるので、何も聞こえなくなる程の集中力で全ての遊びに没頭した。
本を読んでる時、何かに没頭している時、今でも私の耳は何も聞こえなくなる。
何度呼んでも私が見向きもしないため、しかとしてると何度もいろいろな友達や家族を怒らせたが、これは今考えると無意識的に、自衛本能が働いていたのかもしれない。
たまには、みんなとの団欒を許される時もある。
それは、父が家にいるときだ。
父が家にいるとき、祖母は猫なで声で私を呼ぶ。
最初の半年くらいは、呼ばれたらみんなのところに行っていた。
けれど、そこに私の居場所はない。
父の膝の上は常に従妹が占領している。まるで自分の父親のように甘えている。
どんな時でも彼女はお姫様状態で、彼女のわがままが通らない時はない。
彼女のわがままの矛先はいつも私に向いていて、私に対して優越感をいつも感じてないと気が済まず、すぐに癇癪を起した。
彼女がいつもわざとらしく大泣きをして自分の思い通りに事を進める中、私はテーブルの端で無口にご飯を食べた。
私はかわいく甘えることも、大泣きをして癇癪を起こすこともできず、ただただ静かにみんなの顔色を伺いながらそこにいた。
父が家にいない時は、根性曲がりだの、母親の穢れた血だの、いろいろな言葉で私を罵り、とっとと部屋へ行けと私を自室に追いやる。
顔を見るたびに、何かしらひどいことを言われる。
その中でも、今でも忘れられない言葉がある。
ある日、学校から帰ってくると、こっちへ来いと祖母に呼ばれた。
また、何かひどいことを言われるんだろうと覚悟を決めて行くと、
「お前は何でここにいるんだ?」と聞かれた。
「何でって・・・。」
「何度も殺そうとしたのに、この死にぞこないが!」
「えっ・・・?」
「お前が産まれて来なかったら、別れさせることができたのにおめおめと産まれて来やがって。」
「・・・・・・・。」
「お前は産まれて来ちゃいけなかったんだよ!」
私はショックで口も聞けなかった。
「私は産まれて来ちゃいけない子だったんだ・・・。」
そんな考えがぐるぐると頭の中をまわっていた。
気づいたら右手に包丁を握りしめていた。
「私が死ねば全てが丸く収まるのかな。」そう思って包丁を持つ手に力を入れた時、母の顔が浮かんだ。
私が死んだらお母さんはどうなるのだろう?
つらくても死んだらダメだ。
そう思って、包丁を台所に戻した。
たった8歳の子供が、部屋で包丁を握りしめて本気で自殺を考えてたなんて知ったら、あれからこんなに時が経っていても、母は身を切られる程のつらい思いをするだろう。
だからこのことは、母にも誰にも話してない。
そんな事が続くうちに、父がいるときといないときの祖母の態度の豹変ぶりに嫌気がさしてきた。
みんなと一緒にいることにも嫌気がさしてきた。
父がいないときは、私なんかこの世に存在していないかのように振る舞うのに、父が家にいると私を猫なで声で呼ぶ祖母。いつもこうしてると言わんばかりに。
そして、私は祖母に呼ばれても決して団欒に加わらないようになった。
すると、自分はいつも優しく接しているのに、どうしてなんだろうねぇ、といかにも困ったように父に言う。
ご飯を食べないと体に毒なのにとか、心にも思ってもいないことを言う。
あることないこと尾ひれをつけてこんなことがあったあんなことがあったと父に言う。
あくまでも優しく、すごく心配している口調で。
父もそんな祖母の言葉を信じ、私に対して腫れ物を扱うようになる。
両親の間では、そんな私のことで、またけんかが絶えないようになる。
そのことが、自分のせいだと解っていながらも、どうしても祖母に対して普通に接することができないようになった。
このままじゃ、どんどん母が悪い立場に追い込まれると解っていながらも。
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