母と私は家の2階で生活していた。
そこには、小さなキッチンと壊れかけた小さな冷蔵庫とトイレがあった。
日常生活を過ごすのには充分だった。
お風呂は使わせてもらえないので、松戸駅にあった銭湯に母と通った。
自分の家も銭湯をやっていたが、そこにいれてもらえるはずもなく、家のお風呂を使わせてもらえるわけもない。銭湯に行けないときは、鍋にお湯をわかし、台所の流しに登って体を洗った。
母が帰ってこないときは冷たい水でタオルを絞って体を拭いた。
母は、最初は夕方には帰れるつもりで私のご飯を用意しないで出かけていた。
シフトで伯母との交替時間が17時だったからだ。
けれど、結局交替に来るはずの伯母が来ない為に帰れず、そのままラストまでいて店を閉めた。
しかも、当時は深夜0時半まで店を開けていたので、終電もなく、誰も迎えに来ず、タクシー代もないので、帰宅できない日々が続いた。
そこで、母は、昼間の暇な時間に一時帰宅し、私のためにパンを買っておいたり、夕飯の用意をしてくれるようになったのだが、一人で食べるのも味気なく、私は独りで夕飯を食べなくなった。
1ヶ月位給食以外の食べ物を食べないという生活が続いていた。
その頃の私は病弱である上に栄養が足りておらず、今では想像もつかないくらいガリガリに痩せていた。
たまに、空腹に耐えられないときは、見様見真似で使ってはいけないと厳しく言われていたガスを、こっそり使ってはサッポロ1番を作って食べていた。
もちろん元栓は元に戻し、鍋も食器もきちんと洗い、母に叱られないように使った形跡は決して残さなかった。
大人になってから、母にこの話をしたら、「全然気づかなかった!」と驚いていた。
子供のくせに、すごい周到さだ。
母を待つ夜は、いつもテレビと電気をつけたまま、布団に入って天井の節目を見てた。
子供なりにいろいろなことを考えながら。
時計を時々見ては、まだかなまだかな。
そうこうしているうちに、眠ってしまう。
必ず、おもちゃは散らかしっぱなしにしたまま眠る。
そうすれば、帰ってきた母が必ず怒って「片付けなさい!」と私を起こすから。
母は、やがて私を学童に入れ、学童が終わったら、そこの先生に店まで連れてきてもらうようになった。
しかし、それで変わったのは私が夕飯を食べることができるようになったことだけ。
深夜1時まで幼い子供を店に置いておかなければならないという新たな問題に頭を悩ませていた。
子供がいたって、誰も迎えに来ない。
家に電話すると祖母が出てお決まりのようにこう言う。
「×××(父の名前)は疲れて寝てる。おまえらには、×××を迎えに行くのに起す程の価値はない。電話の音でみんなが起きたらどうしてくれるんだ。こんな夜中に電話してくるな!常識外れ!ガチャリ」
電話をかける母の顔を見上げてじっと待ち、受話器を置いた母に、「やっぱりダメだった?」と聞くと、力なく「うん。」と笑う母。
こんなことってあるの?と母は憤り、車の免許を取る決意をする。
この頃、家には余っている車があったので、免許さえ取れば車はあった。
母は、一発で合格するからと家族会議で啖呵を切り、免許取得費用を出してもらった。
一発で取れなかったらもっと罵る口実ができるとニヤニヤ意地悪く笑いながら祖母・伯母・叔父はうれしそうにしていた。
私には、中国語の学科試験で車の免許を取るなんて考えられない。
しかし、母はそれをやってのけた。
一発で合格したのだ。
罵る口実を奪われた彼らは、前にも増して罵る口実をでっちあげるようになる。
それでも私は、それまでよりもずっと幸せだった。
駅前の屋台で親が働いていて、やっぱり私のように夜中までそこにいるマアクンとキミチャンと友達になり、いろいろないたずらをして遊んだ。
家にいるより全然楽しかった。
「テキ屋の子なんかと遊んで!」と祖母たちは顔をしかめていたが、そんなのどうでもよかった。
夜、誰も迎えに来なくても、店のソファーで母と二人で眠っても、独りぼっちじゃなかったから。
この頃の思い出で思い出すのは、ほとんど夜。
学校のことや、その他のことはあまり思い出せない。
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