ここまで書いて来て、何とも暗い幼少期だな、と我ながら思いましたが、もちろんこんな影の部分ばかりではもちろんない。
私の記憶の中から抜け落ちている沢山の出来事がある。
アルバムには、七五三、海水浴、動物園、遊園地etcいろいろなところで撮った写真がある。
見ても何も思い出せないけれど、写真では笑っているので、きっと楽しかったんだと思う。
けれど、そんな楽しい記憶は全て抜け落ちていて、暗く悲しい部分だけが鮮烈に心に残ってしまった。

いつも辛かったわけじゃないはず。
楽しい事だってあったはず。

だけど、その気持ちや場面を思い出すことができない。
両親と私の3人でどこかに遊びに出かけて帰ってくると、必ず祖母が玄関に腕組みして立っていて、父が車を停めている間に先に家に入ってきた母と私に向かって、「3人で楽しくお出かけか!仲のよろしいことで!」と鬼のような形相で毎回言われる帰ってきた時の暗い気持ちしか、思い出そうとするといつも蘇らない。

けれど、楽しく過ごした時は事実として、ある。


私は、一人っ子。要するに跡取り。
だから、何だかんだ言っても大事に大事にされてきた子供だ。
一人っ子で女の子となれば、父親はめちゃくちゃかわいがる。
祖母のいないところでは父は優しかった。

七五三は、三歳のときも七歳の時も、新しい高い着物を着た。
ピアノもバイオリンも買ってもらった。
でも、どれも欲しいと言って買って貰ったものではない。
贅沢な話だけれど。
私の意思でやってるわけではないのに、ピアノやバイオリンや洋服が家に届くと、祖母からしばらくは「何様のつもりだ」としつこく嫌味を言われる。
だから、私は店先で「あれが欲しい!」とダダをこねて転がりまわったことが一度もない。
欲しいと言って何か買ってもらったら、後が大変。
欲しくなくても買ってもらったら大変。
その後しばらくは、家で針のむしろになる。
何も買って欲しくなかった。
私は、物よりも平穏が欲しかった。

けれどもちろん、嫌々やっていた訳ではない。
嬉しくなかったわけでもない。
嬉しさよりも、嫌がらせに対する恐怖の方が大きかっただけだ。
私はいろいろな習い事を楽しんでやっていたし、このとき習い事を沢山したことを今でも感謝してる。
このころの習い事がきっかけとなって、いろいろなことに興味をもち、バンドをやったり、体を動かしたり、踊ったりしているのだから、今でも私は沢山の恩恵を受けてる。


私が成長するにつれて、父はあらゆるものをどんどん求めるようになった。

ある時期は、一週間のほとんどの曜日に習い事が入っていた。

月曜日 編物教室/英会話
火曜日 バイオリン
水曜日 英会話/スイミングクラブ
木曜日 ピアノ
金曜日 公文
土曜日 クラッシックバレエ

確かこんなスケジュールだったと思う。
習字とかそろばんとかが何故無いのかがかなり謎です。
それこそ素養だろう、と思いますが。

この頃は、友達と放課後遊べないのが嫌だったけれど、家にいるよりはいいし、習い事も楽しかったので、校庭に残って遊ぶ友達を横目に、淋しさを感じながらも、素直に両親に言われたとおりに通っていた。
クラッシックバレエでは日比谷公会堂などで開催されるコンクールに出て入賞するまでになっていた。

小学校高学年になると、父は二言目には「お前は跡取りなんだから」、というようになる。
六年生にあがる時、学習塾に通うために、もう少しで全国区になるところまで行っていたバレエ教室を始め、それまで通っていた習い事を全て辞めさせられた。
この時はさすがに泣いたけれど、聞いてはもらえなかった。

中学は私立の御三家に入るべきだ。
その先は東大に入り、将来は弁護士になるべきだ。

そんなことを、毎日当たり前のように聞かされた。
最初は、バレエを辞めさせられた怒りとショックで、聞く耳を持てなかったけれど、抵抗する術もなく学習塾に通うようになる。
そのうち疑問を持つこともなく、素直に勉強するようになった。
母も、祖母や伯母や叔父や従妹たちを見返すために、いい学校に入って彼らの真似のできないくらいの一流の人間になれと毎日のように言うようになった。
いつの日か、それが自分の最初からの意志のように、「将来は弁護士になりたいです。」と人前で言うようになった。

小学校時代の私は、きれいな服を着、長い髪をきれいに編み、容姿端麗、スポーツ万能、成績優秀。
自分で言うのもなんだけれど、どこから見ても幸せで完璧な一人娘のお嬢様。
陽の当たる場所での私は、幸せな恵まれた何不自由ないお姫様。

そのギャップを誰かに知って欲しいとも思わなかった。
陽の当たる場所での私が、本当の私だと思いたかった。
何の悩みもないわがままなお姫様とみんなから呼ばれていることがうれしかった。




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りーどめっ