『神道集』の神々

第七 二所権現事

二所権現は天竺の斯羅奈国の大臣・源中将尹統の姫君たちである。
中将は財産には不自由が無かったが、子宝には恵まれなかった。 夫婦で観音菩薩に参詣して子授けを祈願した。 七日目の満願の夜、夢に観音が示現し、水晶の玉を左の袂に入れた。 まもなく、北の方は懐妊し、美しい姫君を生んだ。 『法華経』の如来寿量品に因んで、常在御前と名付けた。
常在御前が五歳になった時、北の方が亡くなった。 常在御前が七歳になった時、中将は隣国の姫君を後妻に迎えた。 新しい北の方も懐妊し、姫君が生まれた。 常在御前の妹なので霊鷲御前と名付けた。
常在御前が十六歳、霊鷲御前が九歳になった時、父中将は三年間の大番に当たって都に上った。 父中将は常在御前に唐鏡と蒔絵の手箱を贈った。 これを見た継母は自分たちが蔑ろにされていると思い、常在御前を殺そうと企てた。 継母は十人の漁師に頼んで常在御前を塩引島に流したが、地蔵菩薩と観音菩薩の憐れみにより常在御前は乳母の許に帰る事が出来た。 次に、継母は常在御前を土牢に幽閉したが、霊鷲御前がそっと食物を運んだので、三年経っても無事だった。
継母は常在御前を旦特山の麓に連れて行き、千本の剣を底に立てた深い穴に突き落して殺そうとした。 霊鷲御前は常在御前にそっと小刀と木端を渡した。 常在御前は小刀で木端を削りながら旦特山に連れられて、そこで穴に突き落とされた。 霊鷲御前は削り屑を辿って常在御前の跡を追いかけて旦特山までやって来た。
その頃、旦特山で巻狩をしていた波羅奈国の二人の王子が、霊鷲御前の泣き声を聞きつけてやって来た。 事情を聞いた太郎王子は穴に入り、常在御前を救出した。 穴の底の剣は常在御前の母君がもぐらになって抜き捨てていた。 王子たちは姫君を波羅奈国に連れ帰り、太郎王子は常在御前を、次郎王子は霊鷲御前を后にした。
父中将が都から帰ると、二人の姫君の姿が見えない。 父中将は出家して波羅奈国を通り、千手観音に祈願し『法華経』を読誦した。 二人の姫は中将入道が自我偈の「常在霊鷲」を繰り返し読む声に気付き、ついに父娘の面会が適った。
中将入道が斯羅奈国に帰ってみると、北の方は五丈くらいの大蛇の姿になっていた。 これを見た中将入道は財産を船に積んで波羅奈国に移り住んだ。
大蛇になった北の方が中将入道を追って来るという噂が波羅奈国に流れた。 中将入道はこれを聞いて日本に渡る事にした。 二人の姫と王子も中将入道に同行して、相模国大磯に到着した。
高礼寺に一夜滞在した後、中将入道と太郎王子と常在御前は北山の駒形嶽に箱根権現として顕れた。 次郎王子と霊鷲御前は下山の西沢峠に伊豆権現として顕れた。 北の方も中将を追って来たが、次郎王子が「石の法」を結んだので、伊豆・相模の境の土肥郷の真山人という所で輿に乗って石神と成った。 今の世に山中の輿石と在るのがこれである。

長い年月が流れ、相模国大早の河上湖の水辺において、万巻上人の苦行の功により三所権現が顕れた。 三人は異形の姿で示現して「われら三人はこの山の主である」と名乗り、「池水清浄浮日月、如意精進来天衆、三人同倶住此所、結縁有情生菩提」と唱えた。
法体の本地は文殊菩薩である。 因位の昔は斯羅那国の源中将尹統入道である。
俗体の本地は弥勒菩薩である。 因位の昔は波羅那国の太郎王子である。
女体の本地は観音菩薩である。 因位の昔は斯羅那国の源中将の姫の常在御前である。
能善権現は守護の山神で八大金剛童子である。 本地は普賢菩薩である。
吉祥駒形は太郎王子の兵士である。 本地は馬頭観音である。
人皇四十六代孝謙天皇の御代、天平宝宇元年二月中旬から当山に社殿が建立され、万民に利益を施している。

伊豆権現の法体の本地は千手観音である。
俗体の本地は無量寿仏である。 因位の昔は波羅那国の次郎王子である。
女体の本地は如意輪観音である。 因位の昔は常在御前の妹の霊鷲御前である。
雷殿八大金剛童子は権現守護の兵士である。 本地は如意輪観音である。
拳童子は権現守護の王子である。 本地は大聖不動明王である。
岩童子は権現給仕の王子である。 本地は弥勒菩薩である。
塔本桜童子は権現所持の王子である。 本地は地蔵菩薩である。
白専馬・福専馬は当山鎮護の王子である。 本地は普賢菩薩と文殊菩薩である。
洋八人女・床八人女は娑竭羅龍王の娘で、当山擁護の福神である。 本地は胎蔵・金剛界両部の大日如来である。
中堂権現はまた次郎王子である。 講堂権現はまた霊鷲御前である。
これらの王子は障碍神と成った源中将の北の方を追い払う神である。
人皇五十四代仁明天皇の御代、承和三年の春に甲斐国八代県の賢安大徳がこの山に来て、清浄覚悟の湯を出された。 それ以来、この山は万民に利益を施している。

箱根権現

箱根神社[神奈川県足柄下郡箱根町元箱根]
祭神は箱根大神(瓊瓊杵尊・彦火火出見尊・木花咲哉姫尊)。
旧・国幣小社。

『曾我物語(真名本)』巻第四[LINK]には
筥根三所権現と申すは相模の国大早河の源上、駒形の大嶽、湖の傍において万巻上人の難行苦行の功に由りつつ、三人異躰なる事は即ち法躰・俗躰・女躰、三形これなり。 しかして後、三人同音に唱へて云へり、「池水清浄に日月浮びて意の如し。精進の天衆三人来りて、同じく此の山に倶に住す。有情結縁して菩提を生す」
そもそも三所権現の御本地どもを申せば、佐尾鹿の八つの耳を振り立てて委しく聞しせ。 法躰は忝くも大聖文殊師利菩薩これなり。 [中略] 俗躰と申すはまた弥勒菩薩これなり。 [中略] 女体と申すはまた観世音菩薩これなり。
そもそも、この御山の建隆(建立)の由来を尋ぬれば、日本の人王四十六代考謙(孝謙)天皇の御宇、天宝(天平宝字)元年〈己酉〉[ママ]三年中旬の御草創なり。
とある。

『筥根山縁起并序』[LINK]には
人皇第五孝照(孝昭)天皇盖代[B.C.475-B.C.393]の始め、聖占仙人漸く駒形権扉を排し、而して神仙宮と為す。 人有りて云ふ、「泰山府君は秀峰を以て座と為し、神仙世禄長く彼の岳に蔵す」。 因て泰禄山と名づく。故に孝安天皇、彼の山に献寿す。
次で崇神天皇宝祚之砌[B.C.475-B.C.393]、利行丈人当山之聖域を奏じ、即ち天旨を以て堂宇を創建す。
次に安閑天皇の時[531-536]、仙人飛来して山頂に居す。 碧雲嶺頭を覆ひ、紅霞湖心を擁す。 波青瑠璃を現じ、日月星宿其の左右に転ず。 之を称ひて東方浄琉璃世界と名づく。
次に欽明天皇の時[539-571]、高僧来りて彼の岳に登り、仙人に向て云ふ、「巘山を見るに其の形梵篋の如し、豈清浄世界・曼珠室利の霊場に非ずや」。 箱是般若実相の根源。故に箱根山と名づく。因て般若寺を剏む。
次に皇極天皇の時[642-645]、玄利老人当山を管し、而して般若寺を改め東福寺と号す。
次に斉明天皇の時[655-661]、玄利、一寺を彼の島に建つ。島の北面に怪岩有り、是より大悲尊容也。 因て補陀洛迦山と名づく。
次に文武天皇の時[697-707]、行者優婆塞有り。 彼の島の蘭奢に宿して室河津より志山(富士山)の麓に巡行す。
次に聖武天皇神亀五年[728]四月廿一日、吉備大臣再来して彼島に登り、復一寺を立て大悲尊像を安措し奉る。 玄昉、室河津に於て弥勒尊仏を造立す。 次に行基亦再び般若寺に至り、等身の文殊大士像を営造し奉りて東福寺と号す。
次に天平宝字〈丁酉〉[757]、(万巻上人が)錫を禄山に投げ練行修史(修志)三霜に及ぶ。 一夕霊夢有り、三輩各告て云ふ、「我等斯山の旧主、権実応化の垂跡也。汝留て修練せしめよ云々」。 三容各其の皃を異にし、比丘形有り。左に如意宝珠を執り、右に独鈷を掬で云ふ、「我是三世諸仏出世の化儀を助けんがため、汝心清浄を以て吾今形を現す」。 又、宰官形有りて、手に白払を持て云ふ、「当来の導師也。汝慇懃に因て吾此に現る」。 又婦女形有りて云ふ、「我是聞思修大士也、汝上求下化悲願有るを以ての故、我今此に来る」。 三容異口同音に唱て云ふ、「池水清浄浮月影、汝意清潔来三体、三身同共住此山、結縁有情同利益」。 万巻夢醒む。 日数幾ばくならず、彼の霊瑞遠く天聴に達す。 即ち勅願として梵宮を造る。霊廟を餝り、金玉を以て三容を一社に崇め奉る。霊廟各箱根三所権現と号す。 主賓に五尊有り、駒形、能善、之を左にし、之を右にす。 又曩時、安閑天皇、霊夢を約し、万巻に丈六の薬師像を造立せしめ根本中堂と号す。
西の汀駅路有り。 毒龍浪を凌ぎ、雲を拏ふ。 人民多く損害を免れず。 万巻彼の深潭に臨み、石台を築いて祈らしむ。 爾に毒龍形を改め、宝珠并に錫杖・水瓶を捧て乞て受降を欲す。 即ち呪て之を繋ぎ、鉄鎖を以て其木幹と号し梅檀訶羅木と名づく。 厥形九頭毒龍也。
とある。

『新編相模国風土記稿』(巻之二十八 足柄下郡巻之七)[LINK]には
祭神三座、瓊瓊杵尊・彦火火出見尊・木花開耶姫尊なり。〈各木坐像にて、万巻上人の作と云、秘して別当と雖も拝する事なし〉 天平宝字元年、万巻上人霊夢の告ありて、勧請する所なり。
本地仏釈迦〈木立像、長六尺二寸〉、弥陀〈同上、長三寸五尺〉の二像を置。 弥陀の像には、文殊〈行基作〉、弥勒〈玄昉作〉、観音〈吉備大臣の安置する所と云〉の三体を腹籠とす。
とある。

吉祥駒形・能善権現

摂社・駒形神社
祭神は高皇産霊尊・神皇産霊尊・天照皇大神(神明宮)・鸕鷀草葺不合尊・豊玉比売命・櫛御毛奴命・誉田別命(八幡宮)。

『曾我物語(真名本)』巻第四[LINK]には
能善八大金剛童子と申すはまた普賢菩薩これなり。
吉祥駒形と申すは、また本地は金剛界の大日なり。 また馬頭観音とも申す。
とある。

『筥根山縁起并序』[LINK]には
能善は大行普賢大士の垂跡、白銀世界の主。 因て佗方権跡と為し、彼土の衆生と為し、慈を垂ること浅からず。 仮に熊野山より彼の山に詣で、挽て之に留る。
とある。

『新編相模国風土記稿』[LINK]には
駒形能善高根権現合殿 駒形は大磯高麗権現(現・高来神社)を勧請す。 能善は熊野権現、高根は高彦根命を祀る。 又聖占仙人、利行丈人、玄利老人の三祖像を置。 長寛二年[1164]五月、別当行実当社を再興す。
とある。
現在の駒形神社の祭神中では、櫛御毛奴命(熊野神)が能善権現に比定されるだろう。

能善権現の本地仏・普賢菩薩像は興福院[箱根町元箱根]に移管されている。
『箱根町誌』第2巻[LINK]によると、この普賢菩薩像には「能善御本地普賢菩薩像」「永仁五年〈丁酉〉[1297]十二月十五日」の銘がある。

垂迹本地
箱根権現法体文殊菩薩
男体弥勒菩薩
女体観音菩薩
吉祥駒形馬頭観音(または金剛界大日如来)
能善権現普賢菩薩

伊豆権現

伊豆山神社[静岡県熱海市伊豆山]
祭神は伊豆山神(正哉吾勝勝速日天忍穂耳尊・拷幡千々姫尊・瓊瓊杵尊)。 一説に火牟須比命・伊邪那伎命・伊邪那美命とする。
式内論社(伊豆国田方郡 火牟須比命神社)。 旧・国幣小社。
『伊豆国神階帳』[LINK]には田方郡に「正一位 千眼大菩薩」とあり、伊豆山神社に比定される(三島神社[静岡県三島市芝本町]に比定する説もある)。

『曾我物語(真名本)』巻第三[LINK]には
そもそも、当山と申すは、走湯権現これなり。 その御本地を尋ね奉れば、千手千眼広大円満の観世音菩薩これなり。
そもそも、当山の由来を承れば、人王五十四代仁明天王の御宇、承和三年〈丙辰年〉、甲斐国八代県の上人、賢安大徳と云ひける人、この御山に至りつつ、霊山が信を発して、東岸より始めて清浄覚悟の御湯の湧出するを拝し、これ則ち走湯権現の応迹示現の初めなり。
とある。

『伊豆山略縁起』[LINK]には
抑高天原より忍穂耳尊・拷幡千々姫尊・瓊々杵尊の三柱の大御神、天津児屋根命・天太玉命を補翼となし、八十万の神を伴ひ、天降まし、初めて此高根に幸まし給ひけるを以て、伊豆の御神と斎き奉るとなん。
人王第五代孝昭天皇四十二年〈丁未〉[B.C.434]、瓊々杵尊、湯の泉中より月の如き霊光を放ち、顕れさせ玉ひ津木花香初木姫に〈沖小島初嶋明神(初木神社[熱海市初島])是也〉しかじかのたまはせ給ふと、縁起第六の巻に記して、神秘とす。 此時、初木姫初めて湯の泉を見出し玉ふ。
十六代応神天皇二年〈辛卯〉[271]四月、唐浜(神奈川県中郡大磯町)の海原に、一の円鏡径三尺余なるが、表裏ともに耀きて、波に浮び、峯に飛ぶ。そのさま日輪の如くなり。
同御宇四年〈癸巳〉[273]九月、何国ともなく一人の仙童来て、神鏡を崇尊し、初て社を営みける、常に松葉と茯苓をのみ服餌せし故に、人是を松葉仙人となづく
仁徳天皇廿七年〈己亥〉[339]八月五日、此の神鏡光を放て、摂津国高津の宮を照し玉ひけば、百官奇異のおもひをなしぬ。 武内大臣奏していはく、「先后(神功皇后)三韓を征し給ふ時、高麗国零沛郡深沙湯にして、一人の神人と鎮護国家の誓約を成し玉ふことあり、はるかに此州へ降臨の霊瑞なるべし」とて、泊瀬大瑞・百済薗部を勅使として下し給へば、泊瀬等光を尋て、其所に到り、仙童に逢て、事由を問ひ、幣帛を捧げれば、託宣しての玉はく(宣く)、「我本誓を以て、高天原より異域に遊び、温泉を化出し、蒼生を済度す。故に沙訶沙羅と云ふ。嘗て先后と約あり。因て今有縁の勝地、湯出の国(伊豆の国)新磯の浜に幸まさん」と託し畢て、神鏡忽ち日輪の如く耀き、金声の如く響き、虚空を飛て、高根の松枝に掛らせ給ふ。 是におひて、二人の勅使、神鏡の前に跪き、祷り給へば、忽然として五十有余の容貌、端厳の神影を現じ玉ふ。〈神像秘して神殿に在り〉
同御宇五十七年〈己巳〉[369]、松葉仙人、泊焉として日金山の神窟に入る。 世に在ること九十七年なり。
同御宇七十一年〈癸未〉[383]、樵夫、日金の北の峯に入て、大木を伐る。 其木空虚にして、屋舎の如し、中に異人安坐せり。 すなはち曰、「松葉仙人、神窟に入りしや」。 樵夫答へ曰、「然り」。 その時、速に立て、霊鏡の許に到り、神祠を崇敬する事、松葉の如し。 所現に因て、木生仙人といひ、後効験に因りて欄脱仙人といひ、又は神祠ともいふ。 通力自在にして、度生利物の神変はかりなく、飛鳥を落し、河流を逆にす。 大凡百七十年の間、奉祠崇尊最も慎めり。 弟子晋皛仙人を伴ひ、当国の勝地霊迹を経歴し、遍路巡山の法を始む。
同(欽明天皇)御宇十三年〈壬申〉[552]三月八日、第二木生仙人、松葉の廟に相並で、亦神窟に入る。
三十一代敏達天皇四年〈乙未〉[575]八月十三日、大地震動し、山裂、樹仆る。 晡時におよび、日金山の坤に当りて、其地方一丈余の窟中、皆黄金にして、光火の如く、響螺の如し。 人異んで此を見れば、童顔鶴髪の翁、黙然として光りの中に坐し、「木生神窟に入りしや」と問ひ、既にして金地を起て、社壇に詣し、礼奠を致す事、亦先の二仙に異ならず。 世人是を金地仙人といふ。 神験益々盛なり。
同(推古天皇)御宇二年〈甲寅〉[594]、帝権現本地の尊容を拝せんことを思し立給ひて、本州の刺史益田邦照朝臣を以て、宣使とし玉ふ時に、金地仙人、邦照朝臣を伴ひ神壇を排き、祝拝祷祈して、宣命をのべ玉へば、千手千眼大悲の尊像、神鏡の面に炳現し玉ふ。 即その尊影を図写し、帰り奏せしかば、殊に叡感ましまして、其所現に擬し、径三尺の宝鏡に、千手の尊容を鋳さしめ玉ひ、当社の内殿に安置し給ふ。猶尊信の余、「東明山広大円満大菩薩」「走湯大権現」の二行の勅額、并に菩薩号・神号の宣旨を添て下し玉ふ。
三十七代孝徳天皇白雉四年〈癸丑〉[653]十月二日、第三金地仙人、欄脱の廟に並らんで、神窟に入る。 世に在ること蓋し七十九年なり。
四十三代文武天皇三年〈戊戌〉[699]、役行者、当国大嶋に配流の時、此山の巓、常に五彩の瑞雲たなびくを遥に見て、霊神の在ことを知り、其年竊に此磯部に渡り来て、まづ霊湯に欲せんとしけるに、波底より金色八葉の蓮花湧出し、千手千眼の尊像、其中台に坐し玉ひ、菩薩天仙囲繞せり。 又波間に金文の一偈浮び現れぬ。 其偈に曰、「無垢霊場 大悲心水 淋浴罪滅 六根清浄」。 行者、此文を感得し、諸の法を聴聞して、随喜に堪ず、権現を崇尊し、三仙斗藪の旧典を慕ひ、修歴遍路しければ、是を当山第四祖とす。
同(嵯峨天皇)御宇弘仁十年〈己亥〉[819]、弘法大師、社殿に詣し、結壇念誦し玉ふこと三夜に及ぶ時、二人の神童現れて曰く、「吾は是れ権現の王子なり。世澆季に及び、人弊漫を懐くが故に、権現今神宝を深くおさめんとし玉ふ。和尚こゝに来る事さいはひなり」と秘所八箇の神穴に誘引しければ、大師乃ち神鏡を赤色の九條衣に褁、南の窟の納め、神体をば東の窟に蔵め、法華経弐部を書写して、前の両窟に安置す。
とある。

『走湯山縁起』巻第五[LINK]には
当山日金は、本の名は久地良山也。 此の地下に赤白の二龍交和して臥す。 其の尾は筥根の湖水に清し、其の頭は日金嶺の地底に在り。 温泉の沸く所は、此の龍の両眼二耳并鼻穴口中也。 抑も此の龍は、昔此の国だ発らけざる前、海中に法身の印文有り。 中心は独鈷輪なり。〈国常立尊、此の杵の顕迹也〉 東は円鏡、南は宝珠、西は蓮華、北は羯磨杵也。 此の龍の背の処の円鏡、是れ東夷の境に当て、示現する所の神鏡也。 又千手・金剛蔵王一具の尊也。 金峯蔵王は役優婆塞之を勧請す。 当山の本地千手観音は鏡面に現はる。 龍樹菩薩分身を示し、四代の祖師と為て、当山を興行す。
若し善悪の事有れば、先兆として必先づ此の山岳を震動す。 是れ此の神龍喜怒を致す時也。 此れ即ち権現の霊体也。 人に同するを以て、故に俗体を現す也。 円鏡を以て法身と為し、龍体を以て報身と為し、千手を以て応身と為し、俗体を以て化身と為す也。
松岳東西の麓に一の穴有り。 此れ龍の眼根也。 高野和尚(空海)神鏡を以て右の眼の穴に蔵め、俗体を抱て左の眼の穴に込む。
此の龍に千の鱗有り。 鱗の上に各千手持物の文絵を顕す。 鱗の下に各明眼有り。 生身の千手千眼也。
とある。

『伊豆風土記』逸文〔『鎌倉実記』第三に引用〕[LINK]には
駿河国伊豆の埼を割きて、伊豆国と号く。 日金の嶽に瓊々杵尊の荒神魂を祭る。
とある。

秋山富南他『増訂 豆州志稿』巻之九上(神祠 三)[LINK]には
伊豆権現(伊豆山村) 県社(兼郷村社)伊豆山神社祭神火牟須比命、相殿伊邪那岐神・伊邪那美神なる可し。 式内火牟須比命神社也。 往古日金峰に鎮座すと云。 日金は火が峰の義にして此神鎮座より起れる称呼なる可し。 其後山上より牟須夫峰に遷す。 牟須夫の称は神名の遺れるならむ今之を本宮と云。 次に現地に移して新宮と称す。
伊豆山の地名も日金峰より移せるにて、日金峰を徃古伊豆の多可禰(万葉集所載)と称す。 一説に曰、伊豆の称は即此神の神威より起れるにて稜威の義なる可く、国号亦茲に起因せるならむと。
相殿二座は男女二神也と伝へたれば伊邪那岐・神伊邪那美神なる可し。 古来祭時、両神伉儷、王子降誕の式、女神下之宮に行幸、男神追幸の式、等あり。 按ずるに伉儷の式は両神美斗能麻具波比の古事、降誕の式は火牟須比命の生産の古事、女神行幸の式は予美国(黄泉国)に行幸し給ひし古事の伝はれるなる可し。
中世仏徒当社を千手千眼大菩薩の垂跡と称す(真本曾我物語に曰、走湯権現奉尋御本地千手千眼広大円満観世音菩薩也と。当社弘安九年[1286]文書東明寺鐘銘等云、千手千眼の垂迹と。走湯山縁起云、本地は千手千眼也と。其証頗る多し)。 神階帳正一位千眼大菩薩也。
とある。
同書・巻十一上(仏刹 三)[LINK]には
走湯山般若院(伊豆山村) 真言宗(紀州高野山、金剛峰寺末。本尊不動) 旧密厳院東明寺と号す。 古来伊豆権現(今伊豆山神社)の別当なり。 創立年代詳ならず。弘仁年中僧空海留錫し、承和年中僧賢安(甲州の人)来住すと云。 今、僧桓舞(天喜五年[1057]寂)を中興祖と称す。
東光寺(同村下同) 日金山上にあり。 今、日金地蔵堂と呼び、巨なる地蔵仏の銅像を安置す(其左右に脇士二童子の銅像あり。地蔵像は貞享中[1684-1688]般若院の僧聖算鋳造する所なりと云)。 伝云、源頼朝堂宇を修築して寺田を附せりと。 此地往古延喜式内火牟須比命神社(今伊豆山神社)鎮座の旧址なりと云。
とある。

『伊豆山神社書上』[LINK]には
伊豆山神社〈式内火牟須比命神社〉
本社 正殿〈桁行四間半、梁間四間〉 弊殿〈桁行三間半、梁間三間半〉 拝殿〈桁行四七間、梁間三間半〉
祭神一座〈相殿二座〉
 正殿 火牟須比命
 左相殿 伊邪那岐命
 右相殿 伊邪那美命
 祭神之事、古来一定仕らす。社伝には、正殿は忍穂耳尊、相殿二座を栲幡千々姫尊・瓊々杵尊と称し来り。
[中略]
 摂神二座
 速玉男命 或は手入玉明神と称す。
 泉津事解之男命 或は早疑利明神と称す。

伊豆権現(女体)

『曾我物語(真名本)』巻第三[LINK]には
女躰はまた無量寿仏なり。
とある。

『走湯山縁起』巻第五[LINK]には
権現女体の事、幽玄にて人之を知り奉らず。 本地弥陀如来。 金春御祭所を造立す。 本は是れ女体、社壇に安する所也。 権現の像を以て安すと雖も、正に即ち女体の宮也。 日金の頂上に権現御坐す時、彼の嶺は東南に当れり、此の女体、社壇に安す。 日金岳より湯浜の上に降り玉ふ後、女体を以て御祭所に移す。 古社壇を以て本宮と号し、御在所を以て新宮と云ふ也。 其の形像、天女の如し。 天扇を持す。 扇中に開合の二蓮を図す。 白蓮華に坐す。
応和元年〈辛酉〉[961]夏比、神託有り。 女体、雷電御社に入御す。 其の後五箇年を経て、康保二年[965]本社に還御す。
とある。

『伊豆山略縁起』[LINK]には
遍照大権現社 高皇産霊尊の御女にして、権現の御后拷幡千々姫命なり。 御祭所、又は経会堂と云。 醍醐天皇延喜年中[901-923]、金春和尚の建立なり。 其後村上天皇応和元年〈辛丑〉[ママ][961]夏、遍照大権現、雷電の宮に入らせ玉ひ、五年を経て後、本社に還らせ玉ふ。
とある。

『走湯山古文書』[LINK]には
拷幡は、女体遍照権現是れ也。
とある。

雷殿八大金剛童子

摂社・雷電社
祭神は火牟須比命荒魂・雷電童子(瓊瓊杵尊)。
式内論社(伊豆国田方郡 火牟須比命神社)

『曾我物語(真名本)』巻第三[LINK]には
雷殿は八大金剛童子これなり。 御本地は如意輪観音にて御在します。
とある。

『走湯山縁起』巻第四[LINK]には
抑も雷電金剛童子は、南山熊野の王子、東明走湯の儲君也。 本は是れ震多摩尼菩薩(如意輪観音)、安養・補陀落を以て所居と為す。 迹は則ち雷電金剛童子、熊野・走湯山を以て社壇と為す。 爰に延喜五年〈乙丑〉[905]春、南山護法五体王子の中、雷電童子本社を出でゝ、大島(伊豆大島)の浄浜に降臨す。
其の翌年(延喜六年[906])二月望月に当て、当山に移遷す。 [中略] 時に巫覡有り、即ち漢勝と名づく。 容貌美好にして体精利敏。 忽然として霊石に躋り、端坐し気息を収むる。 七日を逕る間、曽て睡眠寝食の像無し。 異香風に散じ、光気燦爛たり。 五彩の雲霞頭上に聳へ、九尺の絹素身間に纏ふ。 時に天台の学徒、龍観法師有り。 智行珠を磨き、戒定鏡を研ぐ。 勅詔を承けて、当山に住す。 具に此の奇瑞を聞て、松石の下に来臨して之を覩るに、八輻の輪宝を戴て、手を拱て蹲踞す。謹て之に問訊す。 且時シバラクアツテ巫覡眉目を開き微笑を含て、法師に語て云ふ、「我は是れ霊神也。[中略]紀州南山の岫に棲むと雖も、是れ相応の地に非ず。日金山は宿縁然らしむ境也。[中略]試に隠顕の兆瑞を示して、大島浄浜の浦に在り。若し衆情に相称はば、自ずから勧請に応ず。蒼生を潤利し元庶を饒益することは、もとより誓ふ所なり云々」と。 龍観神勅を承けて随喜肝胆に余り、信仰心身に舂く。 道俗を催促し上下に勧進し、白妙の幣帛を捧げ、紅塁の供膳を備へ、勧請の音韻を調へて、啓白の句義を唱ふ。 此に当て、靄雲靉靆霖雨車軸、雷霆響て衆器忽に砕け、雷暉映して山海煙を挙げ、[中略]法師を除て以外は正に神鏡を見ること無し。 爰に再拝稽頸して云く、「願くは、霊神正に容儀を示したまへ」。 須臾にして円輪変じて童形と作る。 荘厳、天女と一の如し。 左に理趣経を持し、右に利宝剣を握て、九仭の白龍に乗る。 即時に姿を翻して尊相を示す。 六臂具足の如意輪也。 頭を挙て再び見んと欲せば、奄然として形儀を蔵せり。 爰に法師、臨幸の奇相を見て、本迹の真体を拝して、且つ喜び且つ懼れ、感心欣々、喜涙連々。 遂に霊石の上を卜して社壇を築き、翠松の下を點して朱殿を構ふ。
とある。

『伊豆山略縁起』[LINK]には
若宮雷電大権現社 祭る所は伊豆大権現の皇子、天照大神の皇孫にして、天津彦々瓊瓊杵尊なり。一に天饒石国饒石尊と申奉る。初め権現と倶に天降りましまして、人王五代孝昭天皇四十二年〈丁未〉、月の如き霊光を発して、温泉の中より現れさせ玉ひ、初木姫に詔りし玉ふが故に、往古は月光童子と称し奉りしが、すゑの世となりて、人の心も偽りにのみ成り行しかば、又新たに神託ましまして、六十代醍醐天皇延喜六年〈丙寅〉二月十五日、雷電が鳴りはためき、山岳動揺し、社壇の霊石の上に天降りましぬ。故に雷電の宮と崇め奉る。
とある。

『走湯山古文書』[LINK]には
月光童子は、雷電童子也。八大童子を以て眷属と為す。
とある。

『増訂 豆州志稿』巻之九上(神祠 三)[LINK]には
山上旧址に小祠在りし。又遷して新宮の摂社と為し雷電権現、或は若宮と称す。雷電は火牟須比神の一名、火雷神より起れる称ならむ(鎌倉九代記、北條盛衰記、等に雷ノ宮、真名本曾我物語に雷殿とあり)。伊豆権現の王子なりと云説は固より附会に出づ。祠辺を古々比の森と云も亦此神の一名火之炫毘古神の炫毘の転訛ならむ。神名帳考証に雷電宮を火牟須比神社に当てたるは卓見と謂可し(現今日金峯の旧址に日金地蔵堂あり)
とある。

『伊豆山神社書上』[LINK]には
若宮神社〈亦雷電宮と称す。桁行三間、梁間三間半〉
 祭神 本社と同し〈旧は瓊瓊杵尊と称す、亦は荒御魂宮と称す、亦は雷電大権現〉
 摂神二座〈神号未詳〉
とある。

拳童子

『曾我物語(真名本)』巻第三[LINK]には
拳の童子と申すは、御本地大聖不動明王これなり。 忝くも毘盧遮那仏の教令輪身、大日如来の変作なり。 第六天の魔王を降伏せんがために、摩醯首羅の智所城において青黒童子の形と顕へ給ふ。
とある。

『走湯山縁起』巻第五[LINK]には
元慶三年〈己亥〉[879]、拳童子顕現す。 不動明王の垂迹なり。 形夜叉の如し。 黄色の右手に三鈷を持す。 左は金剛拳也。 此の社壇の跡に、もとより大辛夷の木有り。 此の樹の乾枯の以後、此の木の中心に此の神像顕現せり。 仍て其の名字を立る也。
とある。

『伊豆山略縁起』[LINK]には
辛夷童子 強手明神なり。 陽成天皇元慶三年〈己亥〉、下の両社(講堂・中堂)の辰巳の方、年ふる辛夷の樹の中より顕れ玉ひぬ。 依て辛夷童子と申奉る。 今当国平井村に移して、これを祭る。
とある。

『走湯山古文書』[LINK]には
強手は、本は眷[拳]童子也。 辛夷童子、本地不動明王也。
とある。

『増訂 豆州志稿』巻之八下(神祠 二)[LINK]には
金山 平井村下同 伊豆雄山より辛夷童子を移し祀り後金山を配す古祠也。
とある。 平井村は現在の静岡県田方郡函南町平井だが、当該神社は現存しない。

岩童子

『曾我物語(真名本)』巻第三[LINK]には
岩の童子と申すはまた、当来導師の弥勒慈尊なり。
とある。

『走湯山縁起』巻第五[LINK]には
貞観六年〈甲申〉[864]春、岩童子現す。 本地弥勒菩薩也。 金峯山金剛蔵王権現の示現也。形像蔵王と一つの如し。
とある。

『伊豆山略縁起』[LINK]には
岩童子 清和天皇貞観六年〈甲申〉、下の両社(講堂・中堂)の間の山に顕れ玉ふ。 旧墟今尚掲焉たり、これ則ち日精童子にして、結の神(結明神社)の女体なり。
とある。

『走湯山古文書』[LINK]には
日精は、本地は、岩童子也。 今岩童子と号し、本は弥勒。
とある。

塔本桜童子

『曾我物語(真名本)』巻第三[LINK]には
塔の本、桜童子と申すはまた、本地地蔵菩薩これなり。
とある。

『走湯山縁起』巻第五[LINK]には
桜童子は、其所に桜木有り。 華は八重にて枝條茂盛なり。 樹上樹下に常に天童有りて、神託を推す処たり。 此の砌に崛有り。崛の中に金塔有り。 天人供養の為に常に来り下る。 開華の時を以て来り集る。 仍て宝社を構へて、之を安置し奉る。 其の形、天の童子也。 右手に開蓮を持し、左手に宝珠を持す。 已上三社(岩童子、拳童子、桜童子)は権現の王子也。
とある。

『伊豆山略縁起』[LINK]には
桜童子 軟手明神なり。 陽成天皇元慶元年〈丁酉〉[877]の春現れ玉ひ、其後講堂権現の坤方の八重桜盛りなりける時、其花中に又顕れ玉ひけるを、衆人拝し奉りしよりぞ、桜童子とは申奉る。 出現の旧墟、尚存せり。 今は当国大鳥井村に移して、これを祭る。
とある。

『走湯山古文書』[LINK]には
軟手は、本は桜童子也。 今桜童子、本地正観音。
とある。

『増訂 豆州志稿』巻之八下(神祠 二)[LINK]には
桜童子(大土肥村) 村社雷電神社[静岡県田方郡函南町大土肥]祭神火牟須比命なる可し(田代村火雷神社の例の如し)。 走湯山の記に云桜童子(元慶元年出現)を大鳥井村に遷祀すと、即当社にして桜童子とあるは蓋附会ならむ。
とある。

白専馬・福専馬

未詳。 『曾我物語(真名本)』巻三[LINK]には
白専馬・福専馬は娑竭羅龍王の御娘なり。 本地は忝くも大日如来これなり。
とある。 東洋文庫『真名本 曾我物語(1)』(平凡社)では、
「たうめ(専女)」はもともと「婦女」、ことに老女を意味する語であったが、狐(おそらく女狐)の別称としても用いられた。[中略]白専馬・福専馬は狐を本体とする末社であろう。なお『神道集』と比較するに「白専馬・福専馬は」以下に脱文があると思われる
と注す。

『伊豆山略縁起』[LINK]には
本宮大権現社 天忍穂耳尊、白当辨、福当辨、天太玉命、天児屋根命にましまして、十七代仁徳天皇の御宇、神鏡初て松の枝にかゝらせ玉ひし時、松葉仙人の斎き奉る所の神社なり。
とあるので、白専馬・福専馬は本宮社に合祀されていたと思われる。

洋八人女・床八人女

未詳。
娑竭羅龍王は鳩摩羅什訳『妙法蓮華経』序品第一に説く八龍王の一。

中堂権現・講堂権現

伊豆山神社の下宮(現存しない)。

『曾我物語(真名本)』巻第三[LINK]には
中堂権現と申すはまた、本地薬師如来これなり。
講堂権現と申すはまた、千手観音これなり。
とある。

『伊豆山略縁起』[LINK]には
講堂大権現社 天忍穂耳尊にして、伊豆大権現なり。 五十四代仁明天皇の御宇、承和三年〈丙辰〉四月、賢安居士なるものありて、本迹の霊像を造り奉らんと、丹誠を尽して祈りけるに、一夕夢中に異人来りて、「我は走湯権現、本地は千手千眼なり、本迹の霊像を安置せんと思はゞ、湯の浜の上、無双の勝境なり」と告玉ふと見て、夢覚ぬ。 因て甲州刺史炙破麻績朝臣を檀主として、霊託の如く本迹の尊容を彫刻し、并に講堂神祠を草創す。
中堂大権現社 天忍穂耳尊・拷幡千々姫尊なり。 五十七代陽成天皇元慶元年〈丁酉〉、隆保和尚、或夜の霊夢に、其長六尺余の異人、袈裟を被著し、念珠を持し、金錫を杖て来り告て曰く、「我汝と結縁尤もふかし、宜しく我化道を補助すべし」と云々。 是乃ち忍穂耳尊の影向なる事を知りぬ。依て同二年堂社を造立し、本迹の霊躯を安置す。 後に一体不二の義を以て、遍照大権現を斎き奉りて、中堂大権現と申奉る。
とある。

『増訂 豆州志稿』巻之九上(神祠 三)[LINK]には
下ノ宮 明治の初年伊豆山神社に合祀す。 次の二祠同之。 上ノ宮を距る五町許。 祠二(白道明神・早追権現)。 講堂・中堂と号して神主仏像を安す
とある。

『伊豆山神社書上』[LINK]には
左御旅所〈桁行三間、梁間二間〉
 祭神 未詳、若くは本社と同神か、旧は忍穂耳尊と称ふ。
右御旅所〈桁行三間、梁間二間〉
 祭神 未詳、若くは本社相殿と同神か、旧は拷幡千々姫命と称ふ。
とある。

垂迹本地
伊豆権現(走湯権現)法体千手観音
俗体阿弥陀如来
女体如意輪観音(または阿弥陀如来)
雷電八大金剛童子(摂社・雷電社)如意輪観音
拳童子不動明王
岩童子弥勒菩薩
塔本桜童子地蔵菩薩(または聖観音)
白専馬普賢菩薩
福専馬文殊菩薩
洋八乙女胎蔵大日如来
床八乙女金剛界大日如来
下ノ宮中堂権現薬師如来
講堂権現千手観音

高礼寺

高麗寺は高麗権現社(高来神社[神奈川県中郡大磯町高麗2丁目])の別当寺であった。

『筥根山縁起并序』[LINK]には
神功皇后三韓を討ちし後、武内大臣奏有りて云う、「異朝大神に請い奉りて、天下長安寧を祈願せしむ」。 即ち、百済明神を日州に遷し奉り、新羅明神を江州に遷し奉り、高麗大神和光を当州大磯聳峰に移し奉り、因て高麗寺と名づく。
とある。

『新編相模国風土記稿』巻之四十一(淘綾郡巻之三)[LINK]には
高麗権現社 高麗山上の頂にあり、又左右の峯に、白山・毘沙門を勧請す、以上合て高麗三社権現と号すと云。 社伝に據るに、本社祭神は神皇産霊尊にて、応神天皇・神功皇后〈此二体は安閑帝の御宇、合祀りしと云〉を相殿とすと伝へ、当社は、往昔、神武帝勅して勧請し給ひしを、後武内大臣の奏聞に依て、又神璽を勧請せられしと云。
本地堂 千手観音を置く。 是高麗権現の本地仏と云。〈応神帝の御宇、海中より出現せしと伝ふ〉 七年に一度開扉せり。
別当高麗寺 鶏足山雲上院と号す、天台宗。〈東叡山末〉 伝へ云、昔し大同年中(大宝年中[701-704]の誤記か)、役小角初て当山に登り、両部垂跡の事を里人に告し後、法相沙門〈由来詳ならず〉堂社を開建し、其後小野文観僧正中興すと云。
とある。

高麗権現の本地仏・千手観音像は慶覚院[大磯町高麗2丁目]に移管されている。
柳荘漁人『大磯誌』の慶覚院の条[LINK]には
又千手観音を置く。 長五尺余、重四拾貫許。 是高麗権現の本地仏にして、堂は今の下宮なり。 高麗寺廃後、移して此に置く。 高麗寺伝に云う、応神天皇の御代春正月の頃、大磯の浦唐浜の沖に当て、昼夜光輝あり、日月を経るに従て、次第に岸に近づく、三月十八日漁人共網を以て曳揚る処、〈其地を照が崎と云〉丸木造りにして、両手数多く女体の形相なり、海士里人皆奇異の想を為し、実に海神ならんと、当山中に負ひ来り、茅舎を営み、海神として崇祀る。 数百年の星霜を経て、文武天皇の大宝中、役小角〈一説養老中[717-724]行基僧正と為す〉当山に来臨し、数月参詣の後、里人に告て云、「汝等仏菩薩の正体にして衆生済度の聖を、海神と崇むれとも、是実に大慈大悲千手千眼観世音菩薩の尊容なり。又仰き伺ふに、左の脇に一行の文字あり、高麗国王持尊と記す。汝等結縁の為、精舎を営み、霊像を安置せよ。我両部和光の密修を以て、高麗権現本地仏と勧請し、供養法楽し、天下泰平国土、豊穣滅罪生善の両願、衆生済度の意願を籠置なり云々」と記し、往時は七年に一度開扉せしと云。
とある。

万巻上人

箱根修験道の開祖。 満願とも表記される。

『筥根山縁起并序』[LINK]には
元正天皇養老年中[717-724]、洛邑に沙弥智仁有り。 其の氏を知らず。一男児を生む。襁褓匍匐の際、口に葷腥を嫌い、膚に錦綉を辞す。 父母大いに之を奇とし、辨李歳釈門に入る。 満廿に至りて受具剃髪し、日課方広経一万卷を看閲す。 故に万巻上人と称う。 諸州霊崛を巡行し、時に高野天皇天平勝宝元年〈己丑〉[749]、万巻、常州鹿島霊社に詣で神宮寺を建つ。 年八秋を経て住持せしむ間、一心に冀う所他無し。
とある。 その後、天平宝字丁酉年に箱根三所権現を感得した。
時に嵯峨天皇弘仁七年〈丙申〉[816]、万巻聖代祈願の声、速かに天聡に達し、即ち参朝の勅に応じて半途、三州楊那郡(愛知県八名郡)に至る。 冬十月廿四日暮、齢九十七にて示寂。 徒弟遺骨を拾いて本山に瘞む。

『鹿島宮社例伝記』[LINK]には
此満願上人、当社(鹿島神宮)氏人之中より出たるとも、或は箱根足柄郷より出る人とも云り。 其名を京仁と云り。 方広経毎日一万巻づゝ読誦せしかば、万巻とは云り。 天平宝字年中、箱根山を巡礼し、則ち之を建立す。
とある。

『伊勢国多度神宮寺伽藍縁起并資材帳』[LINK]には
去る天平宝字七年歳次〈癸卯〉[763]十二月庚戌朔廿日丙辰、神社(多度大社[三重県桑名市多度町多度])以東、有井(桑名市多度町柚井)、道場に満願禅師居住し、阿弥陀丈六を敬造す。 時に人在り、神に託して云ふ、「我は多度神なり。吾れ久劫を経て、重き罪業を作り、神道の報を受く。今冀くは永く神身を離れんがため、三宝に帰依せんと欲す」。
茲に於て満願禅師、神坐山の南辺を伐掃し、小堂及び神御像を造立、号して多度大菩薩と称す。
とある。

『新編相模国風土記稿』(巻之二十九 足柄下郡巻之八)[LINK]には
万巻墓 本社の後山にあり、五輪にて文字を題せず。〈長四尺余〉
とある。 この場所は箱根神社の北参道入口脇に当り、現在も五輪塔(万巻上人の奥津城)が祀られている。

賢安大徳

『走湯山縁起』巻第三[LINK]には
仁明天皇御宇[833-850]、甲州八代郡に一の居士有り。 姓は竹井、名は賢安。 幼少より葷肉を食はず、精進を以て業と為す。 世の人「居士聖」と云ふ。 承和二年〈乙卯〉[835]二月、甲州に住国の史有り、一男子を生む。 口鼻有こと無し。 父母驚き恠て不詳なりと云ひ、窺に之を棄んと欲す。 其の母の夢に一の童子有て、告て言ふ、「生む所の子は聖智者也。之を養育すべし。賢安居士に請て、之を加持せしめよ。又相共に走湯山に詣づべし云々」。 [中略] 居士并に夫婦赤子精進すること七箇日、浄衣を着て幣帛を捧げ、当山に詣でゝ、信心を尽し、渇仰を窮め、祈請を致す。 父母霊夢を感す。 童子有り、匣を開て砂金を賜ふ云々。 明旦、口鼻開き、唇吻分明也。 此に因で名を金春と称す。
又居士巡検して山上に経行するに、仙閣に入るが如く、浄刹に臨むに似たり。 忽に旧土を忘れて独り此の砌に留り、草菴を構へ、行業を運て、四ヶ年を送りぬ。
同御宇承和三年〈丙辰〉二月、本迹の御影を造り奉らんと欲して、殊に勇猛の信心を抽て、精進祈念するに、同四月中旬、夢中に異人示して云く、「我は是れ走湯権現也、本地は千手千眼なり。汝宿縁浅からず。再興の願を発し、我が霊儀を訊ぬ。故に以て之を示さん。若し崇め置くべきは、新磯浜の側、霊湯の上、山は勝地也、異境也」と云々。 [中略] 国吏麻績朝臣に請て、霊夢の旨を語り、仍て麻績を以て檀那と為し、俗体と本地の両躯を造彫し、宝社を構て俗体を入れ奉り、堂閣を造て千手を安置す。
文徳天皇斉衡二年〈乙亥〉[855]四月、安然和尚当山に詣でゝ、法施を献じて、神威を崇め、松岳の西谷を卜して、舎房を構へ念誦結壇。 [中略] 賢安居士、大和尚(安然)に値て、俗を捨てゝ出家し、俗名を以て之を改めず法名と為し、賢安法師と号す。 天安二年〈戊寅〉[858]二月四日、入滅。 社頭の西の谷を點して、廟所を築き已ぬ。
とある。