『神道集』の神々

第九 鹿嶋大明神事

そもそも鹿嶋大明神は天照太神の第四の御子である。 天津児屋根尊は金の鷲に駕して常陸国に天下り、古内山旧跡の鹿嶋の里に顕れた。
本地は十一面観音である。

この神の氏人である大仲臣鎌足村子は、天津児屋根尊が金の鷲に駕して天下った時に銀の鶴に乗ってお供をした者の末裔である。 人皇三十七代孝謙天皇の御代に様々な大臣を定めた時、鎌足は最初の内大臣になった。 人皇三十九代天智天皇の御代に、始めて藤原の姓を賜った。
藤氏の始祖は鎌足内大臣である。 今では多くの帝・后・大臣・公卿が藤氏の末々枝葉である。 鎌足は神から鎌を賜り、内裏の勅により朝敵を誅した。 三十二歳で内大臣になり、五十六歳で亡くなった。 位は大織冠である。
その御子は次男の左大臣正二位不比等である。 元明・元正の二代の帝に仕え、十三年間大臣の位にあったが、太政大臣には成らなかった。 諱を淡海公という。
淡海公には二人の御子と二人の弟があった。 一人の弟は宇合式部卿で、鎌足の三男である。 これを式家という。 もう一人の弟は内麻呂で、鎌足の四男である。 これを京家という。 (淡海公の)嫡子は武智麻呂で、これを南家という。 次男は房前参議で、これを北家という。 以上を藤氏四家といい、関白家はこの末裔である。

鹿嶋大明神は藤氏の氏神なので、氏人が帝・后・大臣になる時は御使いを奉る。 帝が奈良にいらした時、常陸国は遠方なので、鹿嶋大明神を大和国三笠山に遷して春日大明神と名付け奉った。 今も藤氏の氏神であり、一人三公・女御后・月卿雲客は皆(春日大明神を)馮んでいる。 都が平安京に移ってから、その近くに新しく遷した御神が大原大明神である。 また、山蔭中納言が遷した御神が吉田明神である。

日本国に生まれた一切衆生は神道を仰いでいる。 神明の御本地は仏菩薩で、諸仏は世界を利益する為に神明として顕れる。 『悲花経』には「我滅度後、於末法中、現大明神、利益衆生」と云う。
八幡大菩薩は開成太子に「得道来不動法性、自八正道垂権迹、皆得解脱苦衆生、故号八幡大菩薩」と告げた。
日吉山王七所明神は三如来四菩薩である。 其の中の十禅師の本地の地蔵菩薩の託宣には「一度唱名号、功徳如虚空、我誓無尽願、所願悉円満」とある。
金剛象王権現の託宣には「昔在霊鷲山、説妙法花経、今在金峯山、示現象王身」とある。
また、賀茂明神は「本躰観世音、常在補陀落、為度衆生故、示現大明神」と云う。
日本一州の一万三千七百余の神社は、皆大権の垂跡で、悉く和光利生する。

鹿嶋大明神

鹿島神宮[茨城県鹿嶋市宮中]
祭神は武甕槌大神。
式内社(常陸国鹿嶋郡 鹿嶋神宮〈名神大 月次新嘗〉)。 常陸国一宮。 旧・官幣大社。

史料上の初見は『続日本紀』巻第二十一の天平宝字二年[758]九月丁丑[8日]条[LINK]
常陸国の鹿嶋の神の奴二百十八人を便ち神戸と為す。

『鹿島宮社例伝記』[LINK]には
大宮柱太敷立て始り給ふ事、時に神武天皇元年〈辛酉〉歳[B.C.660]より、廿一年造立在り。
とある。

『古事記』上巻[LINK]には
是に伊邪那岐命、御佩かせる十拳剣を抜きて、其の子迦具土神の頸を斬りたまふ。 爾に其の御刀の前に著ける血、湯津石村に走り就きて、成りませる神の名は石折神、次に根折神、次に石筒之男神。 次に、御刀の本に著ける血も、湯津石村に走り就きて、成りませる神の名は甕速日神、次に樋速日神、次に建御雷之男神、亦の名は建布都神、亦の名は豊布都神。 次に、御刀の手上に集まる血、手股より漏き出て、成りませる神の名は闇淤加美神。次に闇御津羽神。
[中略]
故斬りたまへる刀の名は天之尾羽張と謂ふ。亦の名は、伊都之尾羽張と謂ふ。
とある。

『日本書紀』巻第一(神代上)の第五段一書(六)[LINK]には
(伊弉諾尊が)遂に所帯せる十握剣を抜きて、軻遇突智を斬りて三段に為す。 此各神と化成る。 復た剣の刃より垂る血、是れ天安河辺に所在る五百箇磐石と為る。即ち此れ経津主神の祖なり。 復た剣の鐔より垂る血、激越ソソきて神となる。号けて甕速日神と曰す。次に熯速日神。其の甕速日神は、是れ武甕槌神の祖なり。 亦曰く、甕速日神。次に熯速日神。次に武甕槌神。 復た剣の鋒より垂る血、激越きて神となる。号けて磐裂神と曰す。次に根裂神。次に磐筒男命。 一に云はく、磐筒男命及び磐筒男命といふ。 復た剣の頭より垂る血、激越きて神となる。号けて闇龗と曰す。次に闇山祇。次に闇罔象。
とある。

『先代旧事本紀』巻第一(陰陽本紀)[LINK]には
伊弉諾尊、遂に所帯せる十握剣を抜きて、軻遇突智の頸を斬りて三段に為す。
[中略]
復た剣の鐔より垂る血、激越て神と為る。亦湯津石村に走り就きて成りませる神の名は天尾羽張神と曰ふ。〈亦の名は稜威雄走神、又は甕速日神と云ふ、亦は熯速日神と曰ふ、亦は槌速日神と曰ふ〉
 今天安河上なる天窟に坐す神也。
武甕槌之男神。〈亦の名は建布都神、亦の名は豊布都神
 今常陸国に坐す鹿島大神、即ち石上布都大神是れ也。
復た剣の鋒より垂る血、激越て神と為る。 亦湯津石村に走り就きて成りませる神の名は磐裂根裂神と曰ふ。 児磐筒男・磐筒女二神。 相生める神の児は経津主神。
 今下総国に坐す香取大神是れ也。
復た剣の頭より垂る血、激越て三の神と為る。 名を闇龗と曰す。次に闇山祇。次に闇罔象。
とある。

『天書』逸文[LINK]〔卜部兼方『釈日本紀』巻第六(述義二)[LINK]所引〕には
武甕槌は天之進神也。 其の先は稜威雄走より出る。 昔、大円霧有り。 方四里許り。 其の中に小孔有り、石窟と化為る。 石窟に神有り。是れを雄走と謂ふ。 雄走は甕速日を生む。 甕速日は熯速日を生む。 熯速日は甕槌を生む。
とある。

前田家本『水鏡』巻上の神武天皇条[LINK]には、三剣(草薙剣、天蝿斫剣、韴霊)の由来に続いて、
其三の剣の第三の剣の分散の時、同時に十握の剣の中より六躰の神化生し給き。 其内第一は女神、其名字熯速日の尊、是今の春日大明神の御母儀にて御座なり。
春日大明神は是彼伊弉諾の尊の御子の一女三男のうつりに、十握の剣の剣腹の六躰の化生の御神の第一の女神の御子にて化成し給ければ、伊弉諾の尊の御孫は春日大明神にて御座ける。
春日大明神は父は座さず。母ばかりにて化生の御神にて座。是深秘也
と記す(引用文は一部を漢字に改めた)。

『古事記』上巻[LINK]には
天照大御神の詔りたまはく、「亦曷の神を遣してば吉けむ」。 爾思金神また諸の神に白しけらく、「天安河の河上の天石屋に坐す、名は伊都之尾羽張神、是遣すべし。若し亦此の神非ずは、其の神の子建御雷之神、此遣すべし。且其の天尾羽張神は、天安河の水を逆に塞き上げて、道を塞き居れば、他神は得行かじ。故れ別に天迦久神を遣して問ふべし」とまうす。 故爾に天迦久神を使はして、天尾羽張神に問ふ時に「カシコし、仕へ奉らむ。然れども此の道には、僕が子建御雷神を遣すべし」と答白して、乃ち貢進りき。 爾天鳥船神を、建御雷神に副へて遣しき。
是を以て此の二神、出雲の伊那佐の小浜(稲佐の浜)に降り到きて、十掬剣を抜きて、浪の穂に逆に刺し立てゝ、其の剣の前に跌み坐て、其の大国主神に問ひたまはく、「天照大御神・高木神の命以ちて、問ひに使はせり。汝がウシハける葦原中国は、我が御子の知さむ国と、言依さし賜へり。故汝が心奈如にぞ」と問ひたまふときに、答白へまつらく、「は得白さじ。我が子八重言代主神、是れ白すべきを、鳥遊取魚為に、御大之前(美保関)に往きて、未だ還り来ず」とまおしき。 故爾に天鳥船神を遣して、八重事代主神を徴し来て、問ひ賜ふ時に、其の父の大神に、「カシコし、此の国は、天神之御子に立奉りたまへ」と言ひて、即ち其の船を踏み傾けて、天逆手を青柴垣に打ち成して、隠りましき。
故爾に其の大国主神に問ひたまはく、「今汝が子事代主神かく白しぬ。亦白すべき子有りや」ととひたまひき。 是に亦白しつらく、「亦我が子建御名方神有り。此を除ては無し」。 如此白したまふ間しも、其の建御名方神、千引石を手末に撃げて来て、「誰ぞ我が国に来て、忍び忍び如此カク物言ふ。然らば力競為む。故我先づ其の御手を取らむ」といふ。 故其の御手を取らしむなれば、即ち立氷に取り成し、亦剣刃に取り成しつ。 故爾、懼れて退き居り。 爾に其の建御名方神の手を取らむと、乞ひ帰して取れば、若葦を取るが如、ツカみ批ぎて投げ離ちたまへば、即ち逃げ去にき。 故追ひ往きて、科野国の洲羽海(信濃国の諏訪湖)に迫め到りて、殺さむとしたまふ時に、建御名方神白しつらく、「カシコし、我をな殺したまひそ。此の地を除きては、他処に行かじ。亦我が父大国主神の命には違はじ。八重言代主神の言に違はじ。此の葦原中国は、天神御子の命の随に献らむ」とまをしたまひき。
故更に且還り来て、其の大国主神に問ひたまはく、「今汝が子等、事代主神・建御名方神二神は、天神御子の命の随に違はじと白しぬ。汝が心は奈如にぞ」ととひたまひき。 爾に答白へまつらく、「僕が子等二神の白せる随、僕も違はじ、此の葦原中国は、天神御子の命の随献らむ。唯僕が住所をば、天神の御子の天津日継知らしめさむ、とだる天之御巣如くして、底津石根に宮柱ふとしり、高天原に、氷木たかしりて、治め賜はば、僕は、百足らず八十坰手に隠りて侍ひなむ。亦僕が子等、百八十神は、八重事代主神、神の御尾前と為りて仕へ奉らば、違ふ神は非じ」。 如此白して、出雲国の多芸志の小浜に、天之御舎(出雲大社)を造りて、
[中略]
故建御雷神、返り参ゐ上りて、葦原中国言向け和平しぬる状を復奏したまひき。
とある。

『日本書紀』巻第二(神代下)の第九段[LINK]には
高皇産霊尊、更に諸神を会へて、当に葦原中国に遣すべき者を選ぶ。 僉曰さく、「磐裂・根裂神の子、磐筒男・磐筒女神が生める子、経津主神、是佳けむ」とまうす。 時に、天石窟に住む神、稜威雄走神の子甕速日神、甕速日神の子熯速日神、熯速日神の子武甕槌神有す。 此の神進みて曰さく、「豈唯経津主神のみ大夫にして、吾は大夫にあらずや」とまうす。 其の辞気慷慨ハゲし。 故、以て即ち、経津主神に配へて、葦原中国を平けしむ。
二の神、是に、出雲国の五十田狭の小汀(稲佐の浜)に降到て、則ち十握剣を抜きて、サカサに地にツキタてて、その鋒端に踞て、大己貴神に問ひて曰く、「高皇産霊尊、皇孫を降しまつりて、此の地に君臨キミトシタマはむとす。故、先づ我二の神を遣して、駈除ひ平定シズめしむ。汝が意如何。避りまつらむやイナや」とのたまふ。 時に、大己貴神対へて曰さく、「まさに我が子に問ひて、然して後にカヘリコトマウさん」とまうす。 是の時に、其の子事代主神、遊行て出雲国の三穂(美保)の碕に在す。釣魚するを以て楽とす。或いは曰く、遊鳥するを楽とすといふ。 故、熊野の諸手船〈亦の名は天鴿船〉を以て、使者稲背脛を載せて遣りつ。 而して高皇産霊の勅を事代主神に致し、且は報さむ辞を問ふ。 時に事代主神、使者に謂りて曰く、「我が父、避り奉るべし。吾亦、違ひまつらじ」といふ。 因て海中に八重蒼柴籬を造りて、船枻を踏みて避りぬ。 使者、既に還りて報命す。
故、大己貴神、則ち其の子の辞を以て、二の神に白して曰さく、「我が怙めし子だにも、既に避去りまつりぬ。故、吾れ亦避りまつるべし、如し吾れ防禦がましかば、国内の諸神、必ずまさに同じく禦ぎてむ。今我れ避り奉らば、誰か復た敢へて順はぬ者あらむ」とまうす。 乃ち国平けし時に杖けりし広矛を以て、二の神に授りて曰く、「吾此の矛を以て、卒に功治せること有り。天孫、若し此の矛を用て国を治らば、必ず平安サキくましましなむ。今我当に百足らず八十隈に、隠去れなむ」とのたまふ。 言訖りて遂に隠りましぬ。
是に、二の神、諸の順はぬ鬼神等を誅ひて、〈一に云はく、二の神遂に邪神及び草木石の類を誅ひて、皆已に平けぬ。其の不服はぬ者は、唯星の神香香背男のみ。故、マタ倭文神建葉槌命を遣せば服ひぬ。故、二の神天に登るといふ〉果に復命す。
第九段一書(一)[LINK]には
天照大神、復武甕槌神及び経津主神を遣して、先づ行きて駈除はしむ。 時に二の神、出雲国に降到り、便ち大己貴神に問ひて曰く、「汝、此の国をて天神に奉らんや以不イナや」とのたまふ。 対へて曰さく、「吾が児事代主、射鳥邀遊して三津の碕に在り。今まさに問ひて報さむ」とまうす。 乃ち使人を遣して訪ふ。 対へて曰く、「天神の求ひたまふ所を、何ぞ奉らざらむや」とまうす。 故、大己貴神、其の子の辞を以て、二の神にカヘリコトマウす。 二の神、乃ち昇りて、復命をもて告して曰さく、「葦原中国は、皆己に平け竟へぬ」とまうす。
第九段一書(二)[LINK]には
天神、経津主神・武甕槌神を遣して、葦原中国を平定めしむ。 時に二の神曰さく、「天に悪しき神有り。名を天津甕星と曰ふ。亦の名は天香香背男。請ふ、先づ此の神を誅ひて、然して後に下つて葦原中国を撥はん」とまうす。 是の時に斎主神を斎之大人と号す。 此の神、今東国の檝取(香取)の地に在す。
既にして二の神、出雲の五十田狭の小汀に降到りて、大己貴神に問ひて曰く、「汝、将に此の国を以て、天神に奉らんやいな以不イナや」とのたまふ。 対へて曰く、「疑ふ、汝二神は、是れ吾が処に来せるに非ざるか。故、許さず」とのたまふ。 是に経津主神、則ち還り昇りて報告す。 時に高皇産霊尊、乃ち二の神を還し遣して、大己貴神に勅して曰く、「夫れ汝が治す顕露の事は、是れ吾孫治すべし。汝は以て神事を治すべし。又汝が住むべき天日隅宮(出雲大社)は、今供造りまつらむこと、即ち千尋の栲縄を以て、結ひて百八十紐にせむ。其の宮を造る制は、柱は即ち高く太く、板は即ち広く厚くせむ。又田供佃らむ。又汝が往来ひて海に遊ぶ具の為には、高橋・浮橋及び天鳥船、亦造りまつらむ。 又天安河に、亦打橋造らむ。又百八十縫の白楯供造らむ。又汝が祭祀を主むは、天穂日命、是なり」とのたまふ。
是に、大己貴神報して曰く、「天神の勅教、如此慇懃ネムゴロなり。敢へて命に従はざらむや。吾が治す顕露の事は、皇孫当に治めたまふべし。吾は退りて幽事を治めむ」とまふす。 乃ち岐神を二の神に薦めて曰さく、「当に我に代りて従へ奉るべし。吾、将に此より避去りなむ」とまおして、則ち躬に瑞の八坂瓊を被ひて、トコシヘに隠れましき。 故、経津主神、岐神を以て郷導として、周流メグリアリきつつ削平タヒラく。 逆命シタガハヌ者有るをば、即ちマタ斬戮コロす。 帰順マツロふ者をば、即ちマタ褒美む。 帰順ふ首渠ヒトゴノカミは、大物主神及び事代主神なり。 乃ち八十万の神を天高市に合めて、帥ゐて以て天に昇りて、其誠款の至を陳す。
とある。

『常陸国風土記』香嶋郡の条[LINK]には
古老曰く、難波長柄豊前馭宇天皇(孝徳天皇)の世、己酉の年(大化五年[649])に、大乙上中臣鎌子・大乙下中臣部兎子等、総領高向大夫に請ひて、下総国の海上国造の部内、軽野より南一里、那賀国造の部内、寒田より北五里を割きて、別に神郡を置く。 其の処に有る天之大神社、沼尾社坂戸社、三処を合せて、総べて香島天之大神と称す。 よりて郡に名づく。 清濁得糺、天地草昧以前、諸祖天神カミロミカミロギ八百万神を高天原に会集へ給ひし時に、諸祖神告り給ひしく、今我御孫命の光宅シラさむ豊葦原水穂之国と告り給ひしにより、高天原より降り来たまひし大神、名を香嶋天之大神と称す。 天にては号を香嶋之宮と曰ひ、地にては豊香嶋之宮と名づく。
淡海大津朝[667-671]に、初て使人を遣して神の宮を造らしめき。
とある。

『春日権現験記』第一巻[LINK]には
昔し我朝悪鬼邪神あけくれ戦ひて、都鄙やすらかざりしかば、武甕槌の命是を哀みて、陸奥国塩竈浦にあまくだり給。 邪神霊威に恐れ奉りて、或はにげさり或はしたがひたてまつる。 そのゝち常陸国跡の社(跡宮[茨城県鹿嶋市神野4丁目])より鹿島に遷らせ給。
とある。

存覚『諸神本懐集』[LINK]には
天神七代をは伊弉諾・伊弉冊と申しき。 伊弉諾尊は男神なり、今の鹿嶋の大明神なり。 伊弉冊尊は后神なり、今の香取の大明神なり。
とある(引用文は一部を漢字に改めた)。

『三国相伝陰陽輨轄簠簋内伝金烏玉兎集』巻三の神上吉日の条[LINK]には
壬申は二柱の神、高天原より天の逆鉾を差下し、自凝島を得造り、筑波山に落下し、男体女体と顕れ、鹿嶋香取大明神と現れ給ふ日也。
とある。

『八幡愚童訓(甲本)』巻上[LINK]では、神功皇后の軍船の梶取に任じられた「常陸の国の海底に在る安曇磯良と云人」を鹿嶋大明神の異名とする。
安曇磯良と申は、筑前国にては鹿シカノ嶋大明神(志賀海神社[福岡県福岡市東区志賀島])、常陸国にては鹿嶋大明神、大和国にては春日大明神と申けり。 一体分身、同躰異名の御事也。

垂迹本地
鹿嶋大明神十一面観音

天津児屋根尊

中臣氏・藤原氏の祖神。 河内国一宮の枚岡神社[大阪府東大阪市出雲井町]に祀られ、春日大社[奈良県奈良市春日野町]の第三殿に勧請された。

『日本書紀』巻第一(神代上)の第七段一書(三)[LINK]には
日神の、天石窟に閉り居すに至りて、諸の神、中臣連の遠祖興台産霊が児天児屋命を遺して祈りましむ。
『新撰姓氏録』左京神別上(天神)の藤原朝臣の条[LINK]には
津速魂命の三世孫、天児屋根命より出づる也。
『先代旧事本紀』巻第一(神代本紀)[LINK]には
津速魂尊
 児市千魂尊
 児興登魂命
 児天児屋命
〈中臣連等の祖〉
とあり、「天照太神の第四の御子」とする説は管見の限り他に見ない。

『源平盛衰記』巻第一の「清盛化鳥を捕ふ 並一族官位昇進 附禿童 並王莽の事」[LINK]には
昔天照大神、邪神を悪み給ひて天岩戸に籠らせ給ひたりしかば、天下悉く闇にして人民悲しみ歎きしに、御弟の天児屋根尊、八万四千の神達を相語らひ、岩戸の御前にして様々祈り申させ給ひたり。
とあり、天児屋根尊を天照大神の弟とする。

『古今和歌集序聞書』(三流抄)[LINK]には
月神と云は鹿嶋大明神、是は水神也、水は智也、智は善悪を分別する心有、故に月神は諸事を得心て天照大神の後見として国土の事を計給、是を天児屋尊と云也
とあり(引用文は一部を漢字に改めた)、天児屋尊を月神と同体とする。

古内山

鹿島神社[茨城県東茨城郡城里町上古内]の背後の山を指す。

『東茨城郡誌』上巻[LINK]には
鹿島神社 西郷村大字上古内に鎮座す。 武甕槌命、健御名方命、八坂止女命を合祀す。 当地は往古より鹿島土谷の称ありて、大神の降臨ありし所なれば、社祠を造営し以て皇国鎮護の鎮守となるの称あり。
武甕槌命東国平定の際此地方に到れること以て推治すべく、且往年鹿島神宮社殿造営の時は必ず此古内山の木材を以てしたりともいふ。
とある。

『日本三代実録』巻第十二の貞観八年[866]正月二十日丁酉条[LINK]には
鹿島大神宮惣六箇院、廿年間に一の修造を加ふ。 所用の材木は五万余枝、工夫は十六万九千余人、料稲は十八万二千余束。 造宮の材を採る山は那賀郡に在り
とあり、古内山に比定されている。

大仲臣鎌足村子

「村子」は「ムラジ」の当て字と思われる。

『大鏡』巻下[LINK]には
神武天皇より始め奉りて、三十七代に当りたまふ孝徳天皇の御代よりこそは、様々の大臣定まりたまふなれ。 但し此の御時中臣の鎌子の連と申して内大臣に成り始め給ふ。 其の大臣は常陸国に生れ給へりければ、三十九代に当り給へる御門天智天皇と申す、其の御門の御時こそ、此の鎌足の大臣の御姓藤原と改まり給ひたれ。 然れば世の中の藤氏の始は、内大臣鎌足の大臣と為奉れり。 其の末々より多くの御門、后、大臣、公卿等様々に成り出で給へり。
斯くて鎌足の大臣は、天智天皇の御時、藤原の姓賜り給ひし年ぞ失せさせ給ひける。 内大臣の位にて二十五年ぞ御座しましける。 [中略] 大織冠は大臣の位にて二十五年、御年五十六年にてなん薨れ御座しましける。
とある。

『天照太神口決』[LINK]には
此の天照太神を遷して、下野の松岡明神と云ふ。 本地吒天なり。 此より鹿嶋大明神と現す。 此の鹿嶋、春日と現する也。 此の鹿嶋、吒天と現して、大織冠生れ給ひ初め、之を奪ひ取て、四方を廻て仰き侵(寝)て、腹上にして、「自尊佐理均在位七歳作坐冠天子」と。此の如く誦して親に還す時、今の太神の秘法と藤にて巻きたる鎌一を加て、親に還して云く、「汝、此を以て、天子の師範に登るべし」と。 其後、蘇我入鹿大臣と云ふ悪人有り。 此の鎌を以て蘇我大臣の頸を切て、天下を平らけて大臣の位に登り、法を以て天子に授る。 御即位とは、此より始る秘法也。藤巻の鎌を以て昇進する故に鎌足と云ふ。 故に藤原の氏を給はる也。
とある。

藤氏四家

『尊卑分脈』[LINK]の系図によると、武智麿(南家祖)・房前(北家祖)・宇合(式家祖)・麿(京家祖)の四人はすべて不比等の子である。

しかし、『大鏡』巻下[LINK]には
鎌足の大臣の三郎は宇合とぞ申しける。 四郎は麻呂と申しき。 此の男君達皆宰相許りまでぞ成り給へる。
此の不比等の大臣の御男君達二人ぞ御座しける。 太郎は武智麻呂と聞えて、左大臣まで成り給へり。 二郎は房前と申して、宰相まで成り給へり。
扨不比等の大臣の男子二人又御弟二人とを四家と名づけて、皆門分ち給へりけり。 其の武智麿をば南家と名づけ、二郎房前をば北家と名づけ、御兄弟らの宇合の式部卿をば式家と名づけ、其の弟の麻呂をば京家と名づけ給ひて、之れを藤家の四家とは名づけられたるなりけり。
とあり、『神道集』の記述は『大鏡』を典拠としているようである。

春日大明神

参照: 「春日大明神事」春日大明神

『大鏡』巻下[LINK]には
鎌足の大臣生れ給へるは、常陸の国なれば、彼処に鹿島と云ふ所に、氏の御神を住ましめ奉り給ひて、其の御時より今に至るまで新しき御門・后・大臣立ち給ふ折は、御幣の使必ず立つ。 帝奈良に御座しましゝ時に鹿島遠しとて、大和国三笠山に振り奉りて、春日明神と名づけ奉りて、今に藤氏の御氏神にて、公家男女使いに立てさせ給ひ、后宮・氏の大臣・公卿皆此の明神に仕うまつり給ひて、二月・十一月上の申の日御祭にてなむ、様々の使立ち訇る。
とある。

大原大明神

大原野神社[京都府京都市西京区大原野]
祭神は春日大社と同じ(武御賀豆智命・伊波比主命・天之子八根命・比咩大神)。
国史現在社。 二十二社(中七社)。 旧・官幣中社。

史料上の初見は『日本文徳天皇実録』巻第三の仁寿元年[851]二月乙卯[12日]条[LINK]
別に大原野の祭儀を制し、一に梅宮祭に准ず。

『大鏡裏書』の藤氏之社事の条[LINK]には
大原野社 長岡帝都の時(延暦三年[784])之を祀る。
とある。

『大鏡』巻下[LINK]には
帝此の京に遷らしめ給ひては、又近く振り奉りて、大原野と申す。 二月の初卯の日・霜月の初子の日と定めて、年に二度の御祭あり。 又同じく公家の使たつ。藤氏の殿儕皆此の神に御幣十列奉り給ふ。
とある。

吉田明神

吉田神社[京都府京都市左京区吉田神楽岡町]
祭神は春日大社と同じ(健御賀豆智命・伊波比主命・天之子八根命・比売神)。
二十二社(下八社)。 旧・官幣中社。

『公事根源』の吉田祭の条[LINK]には
この社は、中納言山蔭卿、貞観[859-877]の比ほひ建立して、一条院永延元年[987]より、始めて官幣を奉らせ給ふ。
とある。

『大鏡』巻下[LINK]には
猶し近くとて、又振り奉りて、吉田と申して御座はしますめり。 此の吉田明神は、山蔭の中納言の振り給へるぞかし。 御祭の日、四月下の子・十一月下の申の日とを定めて、我が御族に御門・后・宮立ち給ふものならば、官祭に成さんと誓ひ奉り給へれば、一条院の御時より官祭には成りたるなり。
とある。

開成太子

光仁天皇の皇子、桓武天皇の異母兄。 勝尾寺の開山。

日吉山王七所明神

参照: 「高座天王事」山王権現

十禅師

参照: 「高座天王事」十禅師権現

『日吉社神道秘密記』[LINK]には十禅師の託宣として
一度唱名号、功徳如虚空、我誓無尽願、所願悉円満
(一度名号を唱ふれば、功徳は虚空の如し。我が誓ひ無尽の願なり、願ふ所は悉く円満せん)
を記す。

金剛象王権現

参照: 「吉野象王権現事」象王権現

『私聚百因縁集』巻第八の「役行者事」[LINK]には蔵王権現の託宣として
昔在霊鷲山、説妙法華経、今在金峯山、示現蔵王身
(昔は霊鷲山に在りて、妙法華経を説く。今は金峯山に在りて、蔵王の身を示現す)
を記す。

賀茂明神

参照: 「御神楽事」賀茂大明神

『悲花経』

参照: 「神道由来之事」『悲花経』