『神道集』の神々

第十九 越後国矢射子大明神事

越後国の一宮は矢射子大明神である。 この大明神は美大菩薩で、本地は阿弥陀如来である。
二宮は両田大菩薩、また土生田大明神とも称す。 本地は阿弥陀如来である。
三宮は八海大明神である。 本地は薬師如来である。
矢射子大明神は和銅二年に顕れた。

北陸道には道前・道後の二社が有り、兄弟である。
道前は気比大菩薩、越前国に鎮座している。 本地は大日如来である。
道後は気多大菩薩、能登国に鎮座している。 本地は地蔵菩薩である。

矢射子大明神

弥彦神社[新潟県西蒲原郡弥彦村弥彦]
祭神は天香山命。
式内社(越後国蒲原郡 伊夜比古神社〈名神大〉)。 越後国一宮。 旧・国幣中社。

史料上の初見は『続日本後紀』巻第二の天長十年[833]七月戊子[3日]条[LINK]
越後国蒲原郡の伊夜比古神、之を名神に預る。 彼の郡旱疫有る毎に雨を致し病を救うを以てなり。

『弥彦神社古縁起』[LINK]には
仁王四十三代の御門元明天王の御宇和銅二季〈己酉年〉[709]秋八月上旬の頃、 当社明神西天弥彦の国より忝も此日本扶桑朝秋津嶋の末越後の州米水浦(新潟県長岡市寺泊野積)沖に七日間浮かして、光明浪を照らし、異香空を薫す。 其時海人之を恠て、時々之れを拝し奉り、奇異不思議共多かりき。 其後太子之浦と云ふ所に御着岸有て、然るべき霊地を御尋ね御座すと云ひ、未だ其の地を卜さず。 程歴へて後、御夢想の御告により、御迎に参る。 其末坂の上と申す河内の一類是れ也。
然るに和銅二年に来臨在て、初て桜井郷と云ふ所(桜井神社[西蒲原郡弥彦村麓]付近)に御座。 其後養老三年[719]御造営。
本地之事、託して曰く、「我が本地四十八年在て顕すべし」と。 夢想の告有て後、遥かに四十余年春秋を送る。 孝謙天皇御宇天平勝宝年中[749-756]金智大師来臨の時、垂迹本地阿弥陀如来を顕し奉る也。
とある。

『伊夜日子宮旧伝』[LINK]には
天香児山命〈熊野神邑住賜時の御名を熊野高倉下命、後に越後国米水浦住賜時の御名手繰彦命、尾張連元祖、越後国一ノ宮〉 御母は神皇産聖命乃御娘、天上にて御誕生あり。 御伯父命瓊々杵命日向に天降賜ふ時、供奉神三十三の長臣と成玉ふて天降奉仕、久敷座て御伯父崩御カミアガリ賜ひて、日向の可愛山陵に葬りたてまつる。 是より紀伊国熊野に住賜ふ。 韴霊フツノミタマ剣を賜て神武天皇に献り、皇帥を助け奉り天下治り。 同天皇四年[B.C.657]越州を賜て、熊野の神邑を出賜ひ、神船にて越の米水の浦に着岸。 一の岩窟に住賜ふ後、伊夜日子山に移り、佐久良井郷に住賜て、孝安天皇元年[B.C.392]神身を隠玉ふ。
とある。

小林存『弥彦神社』の「弥彦附近の史蹟」[LINK]には
宝光院(弥彦神社の本地仏) 弥彦神社裏手に当り建久元年[1190]禅朝房右大臣頼朝公の本願に依り建立す。 [中略] 本尊は往昔弥彦の本地仏と称し域内神宮寺に安置されたる行基菩薩作上品上生阿弥陀如来にして明治二年[1869]神宮寺廃寺の後此に遷坐する所なり。
とある。

美大菩薩

吉田東伍『越後の国土と弥彦の神社』[LINK]には
弥彦の神をミケンと音読して、支那小説の眉間尺と取り合せて伝へられしと思はるゝ事は、奥羽永慶軍記[LINK]にも見えたれど、諸社根元記[LINK]宣現大明神とあるセンの誤にて、美現ミケンならむ。 神道集に美大菩薩矢射子大明神とあるも美犬にての誤描ながら、共に弥彦の音読に外あらず。
とある。

垂迹本地
弥彦大明神阿弥陀如来

両田大菩薩(土生田大明神)

物部神社[新潟県柏崎市西山町二田]
祭神は二田天物部命。 一説に宇摩志麻治命の異名とする。
式内社(越後国三嶋郡 物部神社)。 旧・県社。

『二田宮伝記』には
越の御島郡二田里に鎮座まします物部神社は、太古、天孫天照国照日子火明命、天降り座す時、御供に仕へ奉る二田天之物部命也。 火明命、諸の天之物部を率いて、己命は大倭国に座して、御子天香語山命、諸の天物部を副へて、国々に分け遣し給ふ。 故、此の北辺之国コシノクニに於て、則ち二田天物部命を副へて、降し給ふ、
是に於て、天香語山命、天之磐船に乗りて、楫音輾々クルルニ、雲路を搒回して、停泊の地、之を磐船里と謂ひ、即ち祠(石船神社[新潟県村上市岩船三日市])有り。 是より海船に乗り、浦曲を巡漕して、夕日返照テリ金波和静ナミノシヅケキ処に至り、上陸して曰く、「堅石カキハ連続ツヅケル磯なるかも」と云ひ給ひ、故に其所を号けて石地(新潟県柏崎市西山町石地)と曰ふ。 是に於て、二神相別れて、天之物部命は国中を巡見し、天香語山命は海辺を巡行す。
天香語山命、弥日子の高峯(弥彦山)に上り座して、東北を望み見て、「此より往前、水沼の蒲原也」と言ひ給ひて、下り座す時、天之物部命、追ひ行て逢ひ給ふ。 [中略] 香語山命曰く、「然れば、汝は当に此の御島の広島に居すべし。吾は宜しく暫く此の山に居すべし」と云ひ給ふ。
故、天之物部命は、石地の浜に還来して、率いる所の物部の当に居すべき地を覔求して、且つ見、且つ問給う処、之を且見カツミと謂ふ。 是に土人、多岐佐加の二田を献りて、祝て曰く、「宜しく護国の御心勇悍にして諸の弥栄の栄へ居し座すべし」と言ふ。 則ち其の辺に於て家居し、其の里を二田と曰ふ。 又、天之物部命を称へて、二田天之物部命と曰ふ。 此の命、薨座之カンサリマシヽカバ、則ち二田里土生田の高陵に葬ひ奉る。 又、石地に於て、則ち近里の土人等、殿舎奉仕して、其の霊を斎き祭る。 是は二田物部神社の始也。
師木水垣宮御宇天皇(崇神天皇)御宇元年[B.C.97]、二田天之物部命、其の十二世孫稚桜命にカヽリマして、社を遷御せしめ給ふ。 故、石地の磯より船にウツして、南大崎の浦に奉遷す。
物部の遠祖宇麻志麻治命の裔、武室住命を以て物部連と為して、二田物部を知らせしむ。 同裔、五十君命を連と為して、久毘伎物部を知らせしむ。 故、武室住命、新たに弥彦神殿舎を造す。 五十君命、新宮を造りて、其の祖宇麻志麻治命を斎き祭る。 然る後、武室住連・五十君連相議して、稚桜命と力を合せ、大崎の神殿を改め造る。 時に天皇三十三年[B.C.65]也。
とある。 社伝の一本には
祭神天物部命、本の名は可美真手命。 此の神の御父は櫛玉饒速日命、御母は大和国見島御炊屋姫命也。〈長髄彦の女也〉
とあり、天物部命を可美真手命(宇摩志麻治命)の異名とする。 大崎鎮座までの経緯は上記と同様だが、その後の遷座を
推古天皇の十一年[603]、大崎社より遷して亀岡山の半腹に斎き奉りき。
聖武天皇神亀二年[725]、神託に由て亀岡山の半腹を土生田之岡に遷し奉りき。
嵯峨天皇弘仁八年[817]、神託に由て土生田岡の社を亀岡山の頂に遷し奉る。
後冷泉天皇の永承六年[1051]、土生田の社殿興造の事始まり、同天喜元年[1053]、九月に至りて竣れり。
鳥羽天皇の天仁元年[1108]、神託に由て土生田山の神社を亀岡山の麓に移し奉る。 是今の社也。
と記す。

垂迹本地
両田大菩薩阿弥陀如来

八海大明神

八海大明神を祀る里宮や元里宮などが八海山の周辺に多数鎮座するが、越後国三宮とされる八海大明神に比定される社は未詳。

『南魚沼郡志』[LINK]には
八合目の屏風ヶ倉と云ふ処に石の小祠あり。 祭神は国狭槌命にして俗に権現堂と称す。 暫く登りて左に生金と称する巨岩あり。 上に一松の亭々たるを見る。 又屏風ヶ岩と称する絶壁ありて瀑布の深渓に懸るあり。 頂上を大日嶽と称し、又奥の院ともいふ。 大日仏の銅像を安置す。 頂より少し下り八海神社あり。 石にて作れる小祠なり。 万年堂と名く。 毎年八月朔日(現今九月一日)遠近より参詣するもの多し。
とある。

中世における八海山信仰の拠点は未詳だが、鈴木昭英「八海山信仰と八海講」では
私は八海山の本地仏に比定される薬師如来を現実に奉安する八海山ゆかりの仏寺が存在したものとみたい。 今となってはそれを明らかにすることはなかなか困難であるが、城内の中心で八海山麓中手原(新潟県南魚沼市山口中手原)に至る中継ぎの部落上薬師堂(南魚沼市上薬師堂)の八海山長福寺がその有力な寺の一つでなかったかと想像される。 [中略] 本尊は木像薬師如来座像で、現今のものは室町期の製作にかかると思われる。 今は八海山と直接関係をもっていないが、山号を八海山と称することや八海山登山口へ通じる重要な拠点にあることなどからみても、中世においてこの寺が八海山信仰と八海山登拝の中心となっていた時代があったと考えてよいのではなかろうか。
と推定している。 (『山岳宗教史研究叢書9 富士・御嶽と中部霊山』所収、名著出版、1978)

『八海山案内』に引用する八海神社元里宮[南魚沼市長森暮坪]由緒[LINK]には
抑八海神社元里宮御鎮の由縁は人皇十六代応神天皇の御宇大和国豊明の都に御座ます栗田藤麿清原政次の苗裔清国大人願望に依り日向国高千穂櫛触嶽に参籠の砌り一夕神憑りありて宣り給はく「予等は是、元気水徳神国狭槌廼尊、次に天津日子火瓊々杵尊神、次に伊茂の神々吾田鹿葦津比咩の三神なり。是より越後の霊峰八海の山頂に移り鎮り永く天の下を鎮護せむ。汝奉じ行きて祭祀せよ」と宣給ふに依りて帰国後に八苗の氏子(北村、上村、行方、遁所、貝瀬、関、山本、山崎)を誘引し応神天皇三年〈壬辰〉[272]七月十六日に城内の郷に下向日暮に着せらる。 其所の地形をも因みて暮坪と名附く。 其後数日にして山頂に三柱の大御神を奉安し帰りて現今の暮坪の地に遥拝所を設け八苗の氏子と共に適宜に居を定めらる。
然るに醍醐天皇、延喜年中諸国神社御改めの御沙汰に依り八苗の氏子と共に力を合せ社殿を建立し延喜十三年〈癸酉〉[794]の二月九日を卜し春季祭日と定め郷中鎮守の社として奉仕す。
とある。

『八海山御伝記』には
夫れ八海山は天地開闢元気水徳神国狭槌尊の霊魂留ると雖も、此に空海上人湯殿山開闢の節、当国海辺を通り、東より紫雲靉靆、是より奥に霊山有り、夫れより登山あり。 此に霊松の木あり、大聖松神社と名づけ、三日三夜の護摩修行有り。 大聖歓喜天を勧請あり。山頂に不動明王を祭る。 其の後大師行者普寛に告て曰、「八海山奥院屏風ヶ磐に霊魂留り、汝開闢し衆生の献燈是え上る」と告にけり。 夫れより行者登山有り、屏風奥院に大頭羅神王(提頭頼神王)勧請あり。
とある。

鈴木昭英「八海山の風土と信仰」[LINK]には
八海山には天地開闢元気水徳神たる国狭槌尊の霊魂が留まると言われている。 これが八海山の主神である。 八海神社の祭神は、この国狭槌尊のほか瓊々杵尊、木花開耶姫命、国常立命、高皇産霊神、大山祇命の名を挙げるが、国狭槌尊が最も古い伝統を持つ祭神であった。 その八海山主神の本地仏は薬師如来とされた。
普寛行者(本山派修験)が、江戸末期の寛政六年(1794)六月、その弟子や山麓山口の伝九郎、大崎の本山派修験円成院泰賢らと九人で八海山城内口屏風道を開削し、中腹にある屏風ヶ磐倉に提頭頼神王を勧請して、いわゆる屏風本社を創立した。
御嶽派の行者たちの間では、八海山大明神国狭槌尊の本地仏は薬師如来だとする観念よりも、提頭頼神王だとする考えが浸透し、八海山明神即提頭頼神王と見るふうが一般化した。山の神の観念に変化を来すのは当然であった。 言うところの提頭頼神王とは、般若十六善神の筆頭提頭頼吒神王のことである。
とある。
(宮栄二 編『雪国の宗教風土』所収、名著刊行会、1986)

垂迹本地
八海大明神薬師如来

気比大菩薩

気比神宮[福井県敦賀市曙町]
本殿の祭神は伊奢沙別命・仲哀天皇・神功皇后。 一説に伊奢沙別命を保食神の異名とする。
東殿宮の祭神は日本武尊、総社宮の祭神は応神天皇、平殿宮の祭神は玉姫命、西殿宮の祭神は武内宿禰。
式内社(越前国敦賀郡 気比神社七座〈並名神大〉)。 越前国一宮。 旧・官幣大社。
『越前国神名帳』には敦賀郡に「正一位勲一等気比大明神」とある。

史料上の初見は『日本書紀』巻第三十の持統天皇六年[692]九月戊午[26日]条[LINK]
詔して曰く、白蛾を角鹿郡の浦上之浜に獲たり。 故れ封を笥飯神に増すこと二十戸、前に通はす。

『古事記』中巻[LINK]には
建内宿禰命、其の太子(後の応神天皇)を率てまつりて、禊せむとして、淡海また若狭国を経し時に、高志前の角鹿に、仮宮を造りてませまつりき。 かれ其地にます伊奢沙和気大神之命、夜の夢に見えて、「吾が名を御子の御名に易へまく欲し」と云りたまひき。 爾言祷ぎて、「カシコし、命のマニマに易へ奉らむ」と白しき。 亦其の神詔りたまはく、「明日の旦、浜に幸すし。易名のヰヤジリ献らむ」とのりたまひき。 故其旦、浜に幸行せる時に、鼻毀れたる入鹿魚、既に一浦に依れり。是に御子、神に白さしめたまはく、「我に御食の魚給へり」と云さしめたまひき。 故亦其の御名を称へて、御食津大神と号す。 故今に気比大神となも謂す。
とある。

『日本書紀』巻第九の神功皇后摂政十三年[213]二月甲子[8日]条[LINK]には
武内宿禰に命せて、太子に従ひて角鹿の笥飯大神を拝みまつらしむ。
同書・巻第十[LINK]には
一に云ふ、初め天皇太子と為りて、越国に行して、角鹿の笥飯大神を拝祭みたてまつりたまふ。 時に大神と太子と、名を相易へたまふ。 故、大神を号けて、去来紗別神と曰し、太子をば誉田別尊と名づくといふ。 然らば大神の本の名を誉田別神、太子の元の名をば去来紗別尊と謂すべし。 然れども見ゆる所無くして、未だ詳らかならず。
とある。

光宗『渓嵐拾葉集』巻第三十七(弁財天縁起 末)[LINK]には
気比は、金剛界大日如来也。 故に男子を以て社官と為す也。 又、気比縁起の事、越州幸林峯(天筒山)に最初に影向の時、忽然として御前気に飯を入て現前す。 仍ち世を挙げて気飯大明神と号け奉る。 此の幸林山に寺を建て幸林寺と号く。 [中略] 本地の事、仲哀天皇示現大日如来也。
とある。

吉田兼倶『延喜式神名帳頭註』[LINK]には
気比 風土記に云、気比神宮は宇佐と同体なり。八幡は応神天皇の垂跡、気比明神は仲哀天皇の鎮座なり。
とある。

『気比宮社記』巻一(宮社神伝部 上)[LINK]には
北陸道大社正一位勲一等〈越州一宮、敦賀郡に坐す〉気比太神宮七座〈中古、惣社を相殿の神に加へて八座と謂ふ〉
 本宮祭神三座〈南面、瑞籬の中央に坐す〉
足仲彦天皇〈中央の褥に鎮座。人皇十四代仲哀天皇〉
気長足姫尊〈右の褥に鎮座。十五代神功皇后〉
保食太神〈左寅卯の方の褥に鎮座。五穀大祖〉
とある。 同巻[LINK]には、その創建を以下の様に記す。
社の伝記に曰く、越前州一宮、北陸道大社正一位勲一等気比太神宮は、足仲彦天皇・気長足媛尊・地神保食太神の鎮座也。 タヅヌルニ夫れ豊葦原中州の大地主保食神、一名を倉稲魂命と称へ奉り、神代よりの霊社也。 此の神、始て五穀及び百穀を播殖し、又養蚕の道を開きたまふ。 是に於て、国土豊穣にして、公民、飢寒の憂ひ無し。
此の時、天照皇太神、天上に在て、此の神の行状を聞し召し、便ち月読尊に勅して曰く、「汝、葦原中国に降り、保食神の作業をよ。且つ、彼の神の有する所の品の物種を尽く吾が高天原に奉れ」。 故、月読尊、保食太神の許に到りたまふ。 因て、保食太神、拝迎ムカヘオガミ欣悦ヨロコビタマヒテ、乃ち国に嚮ひしかば稲・麦・黍・粟・稗及び大豆・小豆を出し、山に嚮ひしかば毛柔ケノニコモノ毛麁ケノアラモノを出し、海に嚮ひしかば鰭広ハタノヒロモノ鰭狭ハタノサモノを出し、其の品物悉く口より出せり。 即ち、百案モヽトリノツクエに備へアサへて、之を饗へ奉る。 是の時、月読尊、之を見て曰く、「穢哉ケガラワシキカナ鄙哉イヤシキカナ、何ぞ口より吐れる物を以て、敢へて我に養ふべけむか」と忿激イカリマシ咎崇トガメマスコト甚なりて、直に天上に昇り、其の状を奏したまふ。
因て、天照皇太神、復た天熊人神を使して、往て之を察させたまふ。 時に、保食太神、已に神退りましぬ。 故、天熊人神、此の神の事業を望み看るに、則ち稲を以て田種タナツモノと為し、麦・黍・粟・稗・豆を以て畠種ハタツモノと為す。 牛馬を教へ、農業を助け使ふ。 桑を植え、始て養蚕して、蠒を口の裏に含み糸を採り、絍織ハタオルコトと為せり。 因て、天熊人神、直に其の品の種を取り持ちて去り、天に登て、之を進め奉る。
天照皇太神、之を見行ミソナハシ太喜ヨロコビ曰く、「是は顕見蒼生ウツシキアヲヒトクサ、当に食ひて則ち活くべく久しき道を得たり」。 乃ち、耕織の術を拡充ヲシヒロメタマフ也。
是に於て、天下の公民、永く保食太神の恩沢を蒙る。 故、宮柱を此の州に立てゝ、笥飯太神と崇めしめたまふ。 是に由り、敷地を笥飯浦と号く也。

足仲彦天皇御宇二年〈癸酉〉[193]春二月六日戊子、此の州に行幸し、行宮を建て坐します。 之を笥飯宮と謂ふ也。 天皇親ら笥飯太神に奉幣し、拝祭しまたふ。 乃ち、皇后気長足媛尊に勅して曰く、「朕、此の国を望見るに、海陸相通じ当に異賊を防ぐ地なり。朕八洲を巡見して後、宮室を此の地に作し永居せんと欲すなり。[中略]朕、先づ南国を巡狩すべし。汝皇后、此の地に留り、笥飯神を祀り、三韓を退治せんことを祈りて、宜しく北国海路の消息を聞すべし」。
三月十五日丁卯、此の津を発し、紀伊国に到り、徳勒津宮に居します。
夏四月、穴門国に行幸して、遠く皇后に勅し曰く、「笥飯浦より発し、宜しく穴門に到るべし」。 依て、皇后躬ら笥飯太神に奉幣したまふ。 時に太神、夢に告て曰く、「蒼海に泛び、則ち往々海神を祭りたまふべし」。 皇后、群臣に命じミフネヨソホヒメしむ。
六月卯月、此の湊を発したまふ。 乃ち、神の教に随ひ、迺ち五百枝の榊木に綿を取垂して舳艫に樹て、和幣と為し海神を祭る。 皇后親ら琴を弾き、御妹の玉媛命を以て神主と為し、神楽を奏でたまふ。 此の時、皇后、海の中に涸珠と満珠を得、大いに歓びたまふ。
秋七月五日、穴門豊浦に到りて、干満の二珠を天皇に奉る。
八年[199]三月朔日、天皇、筑紫橿日宮に坐し、皇后及び武内宿禰・安曇連に詔して曰く、「越州角鹿に往き、宜しく笥飯太神を祭るべし」。 乃ち、皇后、玉媛命及び武内宿禰・安曇連等を従へ、畿内より淡海・若狭を歴、此の地に到りて、躬ら斎戒して笥飯神を拝祀したまふ時、玉媛命に託して曰く、「天皇、寇賊の叛を患ふ莫れ、必ず刃に血ぬらずして、自然オノヅカラ帰順マツロハン」と。
六月卯日、皇后、此の津を発し、筑紫橿日宮に還りて、神の教を天皇に奏したてまつる。
推古天皇吉貴二年〈乙卯〉[595]八月四日、瑞雲、都奴賀(角鹿)の地、加比留山(鹿蒜山)の嶺に靉き、光彩耀々たり。 浦人、胆を仰ぎ、之を怪しむ。 其の夕べ、角鹿小海直の小児に託し宣はく、「朕は是れ穴門豊浦宮に坐し天の下をシロシめす足仲彦天皇也。恒に皇基を護り国家を衛り、笥飯浦に垂跡す。宜しく以て朕を笥飯神宮に祭るべし」。 日を重ね、奇雲、幸臨山〈今、天筒と謂ふ〉に靉き、光彩耀々たり。 茲に因て、天聴に奏達す。 猶、其の後、奇瑞シバシバ也。

文武天皇の御宇に至り、勅して笥飯神宮を造営せしめ、神託に任せ、足仲彦天皇・気長足媛尊を笥飯宮に相殿と為す。 大宝二年〈壬寅〉[702]〈一に曰く、八月四日寅尅〉、同殿に勧請し奉る也。 中央は仲哀天皇、西方は神功皇后、東隅は保食太神也。 是を本宮三座と謂ふ。 日本武尊を東殿宮に、誉田天皇(応神天皇)を総社宮に、武内宿禰を西殿宮に、玉妃命を平殿宮に、崇祀し奉りて、気比太神宮と称へ奉る者也。 蓋し延喜式に謂ふ所の気比神社大七坐是也。 〈吉貴二年より大宝二年に至り、百八年を経る也〉

垂迹本地
気比大菩薩大日如来

気多大菩薩

気多大社[石川県羽咋市寺家町]
祭神は大己貴命。 一説に天活玉命とする。
式内社(能登国羽咋郡 気多神社〈名神大〉)。 能登国一宮。 旧・国幣大社。

文献上の初見は『万葉集』巻第十七[LINK]の大伴家持の歌
 (気太神宮に赴き参ると海辺を行きし時作る歌一首)
之乎路シヲヂから直越え来れば羽咋の海 朝なぎしたり船楫もがも
史料上の初見は『続日本紀』巻第二十九の神護景雲二年[768]十月甲子[24日]条[LINK]
石上神に封五十戸、能登国の気多神に廿戸、田二町を充つ。

『気多神社古縁起』[LINK]には
大日本国北陸道能州一宮気多大神宮は、日域第三の社壇にして、正一位勲一等、無量百千万億阿僧祇劫、常住不滅の御神也。
先以て、忝くも素戔嗚尊の御子大己貴尊也。 始は出雲国に居住す也。
人王八代孝元天皇御宇[B.C.214-B.C.158]、北国越中の北嶋の魔王、鳥と化して、国土の人民を害すること少なからず。 又、渡海の舟船に到り、亦害を為し通行を止む。 又、其の時節、鹿嶋路湖水(邑知潟)の大蛇出現して、人を害すること勝計すべからず。 国中の人民、悩愁に及び、地裡の昆虫、苦患を致す。 此の時に当り、大己貴命、三百余神末社の眷属を引具して、当国に来臨し、彼の化鳥と大蛇を殺す。 故に、国中の民、太平を唱へ、海上の船を能登と謂ふ。 之に依り、越中の国、四郡に分ち、能登国と号く。 爾れ已来、此の南陽の浦に垂跡す。 天下国家君民の守護神也。
人王十代崇神天皇の御宇[B.C.97-B.C.30]、御建立の社にして、勅使下降す、云々。
人王十四代仲哀天皇の御宇[192-200]、新羅・百済・高麗の凶賊、数万艘に取り乗りて、日域に攻め向ふ。 天皇則ち軍兵を聚め、神功皇后軍の大将と為る。 然れども、神威有ること非ずば、何ぞ勝を决せんか。 是の故に、日本国中の大小の神祇に祈誓を捧ぐ。 就中、当社に頼る。 故に、気多大神宮、九万八千の軍神を引率して戦ふ。 已に干珠・満珠を海上に抛つ。 忽ち山を変じて海と成し、海を変じて山と成す。 虚空に飛行し、神力自在に攻め戦ふ。 天地の雷神、十方に震動し、海嶋の龍王、諸処に憤怒す。 是の故に、三韓即時に滅亡し畢る。 我朝安全国土泰平也。 当社の威気の多なるに因て、神功皇后詔して、気多不思議智満大菩薩と祝ふ、云々。
元正天皇の御宇[715-724]、泰澄大師「伊勢内外両宮の御神躰拝み奉るべし」と誓ひて、一夜川越の堂に籠る。 夢の御詠歌、「恋しくば 尋ても見よ 能登る 一の宮の 奥の社え」と。 此れより泰澄大師当社参詣在りて、観貞和尚、行法と号く。 時に御躰、山伏と現じ、泰澄と言語を通はす。 [中略] 泰澄即ち神社仏閣を修造して、亀鶴蓬莱華蔵寺と号けて、三十六人の宗徒を置きて、神前の儀式、開帳に到る。 弟子の最仏行者に付与し、已に泰澄去りて、新宮(新宮赤蔵神社[石川県羽咋郡志雄町新宮])と石動山に往く。 故に泰澄を崇めて、当社の中興開基と為す也。
当社大明神は勝軍地蔵薩埵の垂跡にして、天長地久国泰民安の守護神也。 総じて当宮奥の両社は素盞烏尊と稲田媛命也。 本社は勝軍地蔵大己貴尊也。 左右は白山妙理権現(白山神社)久々利姫之命本地十一面観音と若宮大権現(若宮神社)本地聖観音也。 次は楊田権現(楊田神社)不動八大童子。 次は大講堂(太玉神社)本尊阿弥陀如来也。 先以て、之を五社と謂ふ。
とある。

『気多社祭儀録』[LINK]には
南陽浦八十隅気多大明神大己貴命本地勝軍地蔵菩薩也。 一説に曰く、天活玉命本地阿弥陀如来也。
とある。

垂迹本地
気多大菩薩地蔵菩薩(勝軍地蔵)