『神道集』の神々
第四十八 上野国那波八郎大明神事
人皇四十九代光仁天皇の御代、上野国群馬郡の地頭は群馬大夫満行といった。 男子が八人いたが、八郎満胤は容貌美麗で才智に優れ、弓馬の術にも長じていたので、父の代理で都に出仕していた。 父満行は八郎を総領に立て、舎兄七人を脇地頭とした。父満行が亡くなり三回忌の後、八郎満胤は上京して三年間宮仕えに精勤し、帝から目代(国司代理)の職を授かった。 七人の舎兄は弟を妬み、八郎に夜討ちをかけて殺害し、屍骸を石の唐櫃に入れて高井郷にある蛇食池の中島の蛇塚の岩屋に投げ込んだ。
それから三年後、満胤は諸の龍王や伊香保沼・赤城沼の龍神と親しくなり、その身は大蛇の姿となった。 神通自在の身となった八郎は七人の舎兄を殺し、その一族妻子眷属まで生贄に取って殺した。
帝は大いに驚いて岩屋に宣旨を下し、生贄を一年に一回だけにさせた。 大蛇は帝の宣旨に従い、当国に領地を持つ人々の間の輪番で、九月九日に高井の岩屋に生贄を捧げる事になった。
それから二十余年が経ち、上野国甘楽郡尾幡庄の地頭・尾幡権守宗岡がその年の生贄の番に当たった。 宗岡には海津姫という十六歳の娘がいた。 宗岡は娘との別れを哀しみ、あてどもなくさまよい歩いていた。
その頃、奥州に金を求める使者として、宮内判官宗光という人が都から下向して来た。 宗岡は宗光を自分の邸に迎えて歓待し、様々な遊戯を行った。 そして、三日間の酒宴の後に、宮内判官を尾幡姫(海津姫)に引き合わせた。 宗光は尾幡姫と夫婦の契りを深く結んだ。
八月になり、尾幡姫が嘆き悲しんでいるので、宗光はその理由を尋ねた。 宗岡は尾幡姫が今年の大蛇の生贄に決められている事を話した。 宗光は姫の身代わりになる事を申し出た。 そして夫婦で持仏堂に籠り、ひたすら『法華経』を読誦して九月八日になった。
宗光は高井の岩屋の贄棚に上ると、北向きに坐って『法華経』の読誦を始めた。 やがて、石の戸を押し開けて大蛇が恐ろしい姿を現したが、宗光は少しも恐れずに読誦し続けた。
宗光が経を読み終わると、大蛇は首を地面につけて、「あなたの読経を聴聞して執念が消え失せました。今後は生贄を求めません。『法華経』の功徳で神に成る事ができるので、この国の人々に利益を施しましょう」と云い、岩屋の中に入った。
その夜、震動雷鳴して大雨が降り、大蛇は下村で八郎大明神として顕れた。
この顛末を帝に奏上したところ、帝は大いに喜び、奥州への使者は別の者を下らせる事にして、宗光を上野の国司に任じた。 宗光は二十六歳で中納言中将、三十一歳で大納言右大将に昇進した。 尾幡権守宗岡は目代となった。
大納言右大将(昔の宮内判官宗光)は、国の為には父、人民の為には母、大蛇の為には善知識であり、多胡郡の鎮守・辛科大明神として顕れた。
尾幡姫は野粟御前と成った。
尾幡権守宗岡夫婦は白鞍大明神に成った。 この明神には男体と女体がある。
八郎大明神の父群馬太夫満行神は、群馬郡長野庄に満行権現として顕れた。 今の戸榛名である。
母御前も神として顕れた。 男体女体があるが、母御前は今の白雲衣権現である。
戸榛名の本地は地蔵菩薩である。
白雲衣権現の本地は虚空蔵菩薩である。
八郎大明神の本地は薬王菩薩である。
辛科大明神の本地は文殊菩薩である。
野粟御前の本地は普賢菩薩である。
白鞍大明神の男体の本地は不動明王、女体の本地は毘沙門天王である。
辛科大明神
辛科神社[群馬県高崎市吉井町神保]祭神は速須佐之男命・五十猛命。
旧・郷社。
総社本『上野国神名帳』[LINK]には多胡郡に「従二位 辛科明神」とある。
毛呂権蔵『上野国志』の辛科社の条[LINK]には
辛科社 末社〈八王子、稲荷、諏訪、八幡、若宮、社宮司、天神〉 本地堂文殊菩薩。 別当常行院。〈天台宗、長根村に在り〉 当郡の惣鎮守なり。 神保村に鎮座、この地古の辛科なり。とある。
明治神社誌料編纂所『府県郷社 明治神社誌料』上巻の辛科神社の項[LINK]には
社伝に據るに和銅四年[711]の創建なりと、往古帰化の韓人等此地に居住し、其主領たりし郡司私部羊太夫等、天武天皇の大宝年間に一宇の神祠を創立し、己等の本国の祖神として素盞嗚尊並五十猛命を奉斎せる所にして、当国の名跡として世に伝はれる三古碑の一なる多胡碑に関係厚き古社なり。とある。
吉田東伍『大日本地名辞書』の神保の項[LINK]には
陸路の記云、辛科神社の古鏡は、表に文殊菩薩の獅子に乗たるかた見えて、其右に大勧進惟宗入道、小勧進清原国包、左に建久八年[1197]大才丁巳、十二月二十六日、源大将頼朝と、像も文字も薄く彫りたる。とある。
野粟御前
『上州群馬郡岩屋縁起』『上州群馬郡新波山満勝寺略縁起』などには野栗御前とあり、野粟御前は誤写と思われる。野栗神社[群馬県甘楽郡甘楽町秋畑]
祭神は大己貴命。 一説に日本武尊とする。
旧・無格社
『群馬県北甘楽郡史』の秋畑村の神社・仏寺等の条[LINK]には
来波の不動及野栗神社(著者いふ。多野郡上野村にも野栗神社あり)
本村字来波に在り。 境内には、不動尊を安置し、且つ野栗神社の鎮座あり。 神社の区域いと広くして、その中に不動堂あり。
伝へいふ、この社は遠く養老二年とある。丑 [718]六月二十五日の建立に係ると。 神社の本体は、日本武尊にましまし、古来野栗大権現と称へ来りしを、七日市町保坂正義(当時神官)祭神を大国主命とし、神社に改めたり。
角川源義「私の民話論 —上野国の中世神話—」[LINK]では以下の様に推定している。
小幡氏もまた時衆大名であったらしく、かつて時宗の願行寺があった。 尾幡姫の物語はこの願行寺で語り出されたと思われる。
この物語の女主人公尾幡姫は野栗御前(『神道集』では野粟御前とあるが、野栗の誤写である)として垂跡したという。 神流川の上流、多野郡上野村に野栗の地がある。 『群馬県史』[LINK]の紹介する野栗大権現社の古伝によると、日本武尊は甲斐酒折より武蔵秩父にはいり、小鹿野の鹿坂(志賀坂峠)を越えて野栗の地に着き、臣を残して妻弟橘姫の髪を祀らしめた。 残された臣の野栗族はこの地を開拓し、野栗庄というようになった。 ある年村人が病いにたおれたので、神体の穢れによるものとし、毛髪を河水に流して浄めた。 ところが、神体は流れ、下流の神川村大寄の地に寄ったので、ここにも野栗社を祀ったという。 古典を全く無視した古伝だが、甲斐と上野の国を結ぶ往還であったことは確かである。
水神の犠牲という点で、弟橘姫と尾幡姫には共通した性格があった。 多野郡上野村も神川村大寄の地も小幡からあまりにも遠い。 多野郡鬼石町に野栗という地名があるので、ついでの時に立寄ってみた。 神流川をのぞむ小丘上に野栗神社があった。 ここの地でも出水のさい神体が上野村野栗から流れ出て、岩に寄ったので小丘上に祀ったといっていた。 この地ならば貫前信仰圏に属すると思ったが、甘楽町秋畑字来波にも野栗神社があるという。 小幡の地にもっとも近く、白倉とともに同じ甘楽町であるのは、願行寺の唱導圏として、もっとも適切である。
徳田和夫「神道集「那波八郎大明神事」の形質」[LINK]では以下の様に推定している。
海津姫が顕神した野栗御前は多野郡上野村新羽の乃久里神社(野栗神社、『神道集』では誤って「野粟」と記されている)であろうと従来みなされてきたが、小幡、吉井の地からあまりにも遠く離れており釈然としない。 辛科社と夫婦の間柄になるならばもっと近くに求めてもよいであろう。 はたせるかな甘楽町秋畑字来波にも野栗社が祀られているのであり、これを野栗御前とするのが自然である。(徳田和夫「神道集「那波八郎大明神事」の形質 —附・辛科神社蔵『辛科大明神御縁起』の紹介と翻刻—」、『国文学年次論文集 中世2 昭和59(1984)年』、pp.350-364、朋文出版、1986)
白鞍大明神
白倉神社[群馬県甘楽郡甘楽町白倉]祭神は日本武尊・大山祇神・金山彦神。
旧・村社。
『北甘楽郡郷土誌』[LINK]には
金光山 大字白倉村の東南部小幡村との境に在り俗に天狗山と称す。
頂上並木の尽くる所に白倉大神あり。 所謂白倉の御天狗様にして春秋四九の二十八日は参詣者頗る多く日本武尊、金山彦命、大山祇命を祭れりと。 当社は人皇第四十九代光仁天皇の御宇[770-781]悪疫流行頗りなること年久しかりしかば小幡の領主小幡権頭平朝臣実高大に之を憂ひ、宝徳年間[1449-1452]此金光山の頂に石堂を建て前記の三神体を勧請し、太刀を捧げて祈願し悪魔を薙き払はしめに其験空しからず、悪疫全滅し人々茲に漸く愁眉を開けり。とある。
佐藤喜久一郎『近世上野神話の世界』には
明治二十七年[1894]の「古社調査」への回答書の一部を引用し、白倉神社の由来を説明しておく。当社ハ、人神四十九代光仁天皇ノ御宇、上野国拾四郡ノ内利根川ヨリ西七郡ノ内群馬郡領主群馬ノ太夫満行ト申ケルハ、男子八人アリ、 [中略] 其ノ中ニ八郎増兼トテ容顔美シク才智人ニ勝リ弓馬ノ道ニ達セリ。 [中略] 八郎増兼ノ怨霊忽チ霊蛇ト成リテ兄弟始メ妻子眷属ニ至ル迄皆取リ殺シ、其ノ子孫マデ取殺シ尽シテ後国中ノ諸人ヘモ害ヲナス。宝徳年間ノ頃慈悲深キ小幡権ノ頭平朝臣実高御夫婦国ヲ思ヒ民ヲ哀憐シテ、観音経ヲ昼ニ夜ニ読経シ、木刀ヲ捧ゲテ祈願シ、以テ悪魔ヲ薙ギ攘ハシメ給フ。 嗚呼不思議ナル哉、八郎増兼ノ怨霊ヲイツトナク退散致シ、国中ノ人々悦ビ究リナシ。 日ヲ安泰ニ送ルモ小幡権ノ頭御夫婦ノ法徳ナリト云フ。 故ニ後チ人ノ信仰モ浅カラズ。 延徳年間ノ頃何人カ石宮ヲ造立シテ小幡権ノ頭御夫婦ヲ祭ルト云フ。 新屋明神是レナリ。 後人白倉大権現ト唱ヘ来レリ。 明治時代ヨリ白倉神社ト云フ。 [以下略]八郎の死までは「那波八郎大明神事」と同一の展開であるが、後半のエピソードはすっかり簡略化されている。 小幡権ノ頭夫妻が、国を思い民を哀れんで日々観音経を読経し、木刀を捧げて悪鬼をなぎ払ったため、八郎の怨霊はいつしか退散されたとされる。 その後延徳年間(1489-1492)に、この小幡夫妻を「新屋明神」に祀る石祠が造られ、やがて「白倉大権現」と呼ばれるようになったというのである。
宝徳年間(1449~52)に、小幡権頭実高が出家して日域と号し、轟村にあった律寺に即庵和尚を招いて、新たに宝積寺を創ったという。 [中略] 白倉神社が「古社調査」への回答書において、小幡権頭を宝徳年間の実高に比定したのも、おそらく宝積寺の開基伝承に拠ったのだろう。とある。
ところが、きわめて興味深いことに、「古社調査」への回答書は、実高夫妻を祀った石祠が、「新屋明神」という社であった旨を強調している。 この「新屋明神」は中世の『上野国神名帳』の甘楽郡の条[LINK]に「従五位 新屋明神」としてその名を見いだせる神社であるが、白倉村に新屋という地名があることから、調書の作成者はこの神を白倉大権現の前身と考えたのだろう。 しかし『上野国神名帳』は遅くとも永仁六年(1298)頃には成立したとされるので、宝徳年間に小幡夫妻を祀った社が「新屋明神」だと主張するのはおかしいし、「新屋明神」=「白倉神社」と見做す考え方そのものも疑わしい。
(佐藤喜久一郎『近世上野神話の世界』、第3章 『神道集』と「在地縁起」、岩田書店、2007)
満行権現(戸榛名)
戸榛名神社[群馬県高崎市神戸]祭神は埴山姫命・火産霊神・源満行。
旧・村社。
『上州群馬郡新波山満勝寺略縁起』では宮内判官宗光が八郎の怨霊を鎮めた後の展開が「那波八郎大明神事」と異なり、
此由都にかくれなく、公卿僉議有て、具に奏聞ありければ、「夫普天の下、王土ならざる所なし。然るに八郎、私の宿恚を募り、国土の愁、諸民の歎を求めす条、其上祟神たらんとは、帝位を軽ずるに依れり。稠しく巌崛を封べし」との宣旨にて、橘の清氏卿を勅使として、岩屋を封じ給ひける。 扨、宗光は奥州への御使、遅々したる科により、しばらく蟄居なされける。 是により大蛇も弥怒りを倍、父満行の霊骨に近付きて、「我法花経の功力にて、数年の妄執晴れし故、人民を守護せんと誓ふ所に、却て勅封ある事は、再び恨み頻也。さりながら、われ勅勘の身として怒りを奉する事なりがたし。如何せん」とありければ、満行亡霊怒りを添、「吾内海外海の大龍王へ瞋恨の思ひを達し、雲電の徳を得て国土を動すべし」と、忽怨念発しつゝ、霊骨都へ飛ゆきぬ。 此時、都は俄に震動して、大風大雨車軸を流し、雷声地を裂、石を割り、洛中洛外宮宝破れ倒ける。 [中略] 時の博士考えて、「是は此度上野国高井の大蛇を封じ給ふ故、彼等父子が怒る所に候」と、委しく奏し奉れば、「早く勅許あるべし」と、那波父子の怨霊に正一位の神位を給りて、橘宰相信房勅使として高井に下着ましまして、彼満清将軍(満行の弟)を召出され、岩屋の祭祀を為し給ひ、宣命を読上給へば、不思議や、晴天俄にかき曇り、巌崛夥しく震動して、大蛇は那波郡福島へ飛給へば、満行は群馬の嶽へ飛給ふ。 其時岩屋光を放ち、霊神雲中に声ありて、末世の諸民を守んと示現ありしぞ有難き。 [中略] 榛名満行大権現、那波八郎大明神とは、右霊神の事とかや。
満行の怨念都に懸り給ふ時、霊骨落て留りたる処に社を建、今のとある(引用文は一部を漢字に改めた)。戸歯留名 権現是れ也。
『戸榛名大権現縁起』には
我朝人皇四十九代の帝光仁天皇の御代の御時、上野利根川より西七郡の主群馬之五郎満行と申し奉り、文武二道の𥫤取壱人御座ます。 然るに公達数多儲け給ふ。 嫡子太郎満継、二男次郎満国、三男三郎満清、四男四郎満安、五男五郎満政、六男六郎満長、七男七郎満広、八男八郎満胤、八人の御子息𥫤馬の道に暗からず。 去る時父の群馬之五郎満行都に上洛座し、禁中に参内仕り三年の大番を事故無く相勤め給ふ。 其比は大和国奈良の京也。 去る夜紫とある。震 殿の上に黒雲一村何くともなく靉靆雲中にて電り頻にして神鳴す。 君を初め御前公卿大臣も不思儀 に思召す処に、帝より直に御宣旨あり、「誰にても在京の武士の中に手垂の弓の射手あらば、あの雲中を射よ」と宣旨ある。 上野・下野・甲斐・信濃の武将、大裏の白洲に並居たり。 其時群馬之五郎満行、七尺二分の白木の五六人にても張り難き大弓に束束の鏑矢を番い、「エツヤツ」と云て礑と射る。 彼の矢叫の音、禁中御殿響き渡る。 雲中に「トツ」と笑ふ声あり、化物は忽失ぬ。 其時の勧請に上野の大将・武家の長者・三位の中将・藤原朝臣満行と補任を下し給ふ。 懸る目出度折節、満行病に侵され給ひ逼迫あり。 帝を初め左右の大臣月卿雲客も大きに驚き、典薬を施し給へども其甲斐もこれ無くして、終に無空に失せ給ふ。 御内外様の人々も偏に夢の心地して、本国に立帰り、満行の御形見を御前公達え参らせ上る。 御前公達も御歎の泪袖を浸す事限り無し。 是を扨置き、都には時成らず雪降り、雷電大雨ふり、怪き光り物東西南北の天を飛行する事、夜々に及べり。 上壱人より下万民に至る迄、驚かずと云ふ事無し。 [中略] 帝聞召し則ち博士を禁裏に召し、三条の大納言宣旨を請け、「今度都の不思義 占ふべし」と御宣旨と申されけり。 博士畏り謹て一巻の秘書を開き暫く勘へ奏問申様は、「是れ満行の霊魂にて疑無し」と申上る。 諸卿此旨を奏し申す。 帝聞召し「其儀にてあらば洛中静謐万民安穏の為、満行を一社の神に勧請有るべし。定て本国に清地在るべし。其所に社を改めよ」と宣旨あり。 勅使には添上四位の少将幸宗、大和の石上の神人桜沢左近大輔、卜部盛清両三人当所に下着し、御社頭を改め始て奉幣を神前に捧げ奉り、御祭礼は二月酉の日に定まる也。 神事は霜月酉に相極る也。
(大島由起夫「『神道集』にみる上野国の神々」)
『群馬県群馬郡誌』の戸榛名神社(久留馬村)の項[LINK]には
往古検非違使源満季の三子群馬太夫満行此の地に住し善政を布きしを以て里民其の徳に感じ逝後配祀して尊信せり。とある。
白雲衣権現
妙義山の波己曽社または中之嶽神社に比定される。波己曽社[群馬県富岡市妙義町妙義(妙義神社境内)]
祭神は日本武尊で、石長姫命を配祀する。
国史現在社(波己曽神)。
総社本『上野国神名帳』[LINK]には碓氷郡に「従二位 波古曽大明神」とある。
史料上の初見は『日本三代実録』巻第二の貞観元年[889]三月二十六日壬午条[LINK]の
上野国の正六位上波己曽神に従五位下を授く。
『上野国妙義山旧記』の石塔寺の由緒[LINK]には
白雲衣山は仁王第三十代欽明天王の御宇に妙形和尚来朝して仏法を広め日本国の中霊山をたつね始る、 □端分給ふ七峯の随一也。山頭天について白雲腰をめくる、是則白衣観音の現相俯応衆生の効験なれは白雲衣山と号す。 金輪際より自然に湧出の金胎両部十界表示の高嶽なれば無量の山形有り。 仁王四十九代光仁天皇の御宇に妙光菩薩現来開起より、道俗ともに歩みをはこぶ。 天竺阿育王の三国の霊地へ石塔籠をなけ給ふ。 遠江国に一基石塔寺、安房に一基石塔寺、上野国に一基石塔寺と申古跡にして袈裟石の上に現然と立給ふ。 白雲衣山の地主破古曽三社大明神也。とある。 また、破胡曽大明神の由緒[LINK]を
破胡曽大明神は日本仁王四十九代光仁天皇御宇上野国十四郡内利根河西七郡中に群馬之郡地頭は群馬太夫満行と申、榛名山満行大権現と顕、本地地蔵菩薩。 同御前に神と顕被破胡曽大明神と成る。 男子八人神と顕る内一人八郎大明神。 当山破古曽三社大明神〈満行大権現、破古曽大明神、八郎大明神〉と記す。
『辛科大明神縁起』[LINK]には
御前も波己曽大明神と顕れ、同脇宮五拾弐社是也。 本地は千手観音。 末社七社是也。とある(引用文は一部を漢字に改めた)。
『上州群馬郡新波山満勝寺略縁起』には
八郎の御母はとある。白雲衣 の権現と申也。
明治神社誌料編纂所『府県郷社 明治神社誌料』上巻の妙義神社の項[LINK]には
境内に波己曽神社あり、伝へ云ふ本社の地主の神なりと。 祭神は日本武尊なり。 往昔波古曽明神とも云ふ。〈上野国神名帳〉 又妙義村白雲山〈即妙義山〉にあるが故に白雲山神社とも云ひ、又武尊権現とも称せり。 白雲山より三十町許未申の方に当り怪岩奇峰聳列し奇勝世の喧称する所なり。 俗に日本武尊東征し玉ひ、帰路に越え給ひし処と云ふ。
斯く由緒ある神社なれど、今は境内の一隅に僅かなる社殿一宇あるに止り、維持等確立せざるに依り、明治四十二年[1909]其独立を廃し本社の境内神社となれり。とある。
山本毅「白雲衣権現考」[LINK]には
白雲衣権現と妙義権現および波己曽神社との関係についての記載があるのは『上野国妙義山旧記』(妙義山旧記)のみである。 妙義山旧記は妙義権現別当石塔寺(廃寺)と中之嶽神社(下仁田町上小坂鎮座)別当巌高寺(廃寺)との白雲衣という呼称の帰属についての紛争の記録の集成である。 これに所収される『妙義権現別当石塔寺由緒書』(石塔寺由緒書)と仮に称する記録(日付奥書なし)[LINK]にとある。是則白衣観音の現相俯応の效験ナレハ白雲衣山と号すと、白雲衣が白衣観音に由来する呼称であるという記述が見える。 また白雲山を白雲衣山と記載したことも知る。 小稿において白雲衣を「びゃくえ」と訓むのは右による。
また石塔寺由緒書には袈裟石上に現然と立給ふ、白雲衣山の地主破古曽三社大明神也と見える。 さらに『石塔寺の大猷院(徳川家光)朱印に関する覚書』(朱印覚書)と仮に称する記録(日付と奥書なし)[LINK]にも白雲衣山地主破古曽三社大明神と見えていることから、白雲衣山の地主神が破古曽三社大明神と称したことが理解できる。
三社大明神は『破胡曽(妙義町諸戸宮谷戸鎮座)神社由緒書』と仮に称する慶安二年(1648)八月廿七日の日付を有する記録[LINK]に破胡曽大明神ハ日本仁王四十九代光仁天皇御宇上野国十四郡内利根河西七郡中ニ群馬ノ郡地頭ハ群馬太夫満行ト申、 [中略] 当山破古曽三社大明神と見えるから、八郎説話にもとづく神号である。
満行大権現
破古曽大明神
八郎大明神
つまり白雲衣山は、白雲衣権現であり、白雲衣権現とは波己曽神社の中世における呼称なのである。 しかしそうすると、ひとつの神社がふたつの権現号を有していることになり問題となるが、妙義山旧記には妙義権現という権現号は見えず、「白雲衣妙義」という記述のみが見えている。 妙義とは本来「白雲衣の妙義」であり、権現号ではなかったのではないだろうか。
(山本毅「白雲衣権現考」、神道及び神道史、54号、pp.78-95、1997)
中之嶽神社[群馬県甘楽郡下仁田町上小坂]
祭神は日本武尊。
旧・村社。
金洞山の中腹に鎮座し、社殿背後の巨岩(轟岩)を御神体としている。
『北甘楽郡郷土誌』の中之嶽神社の条[LINK]には
中之嶽神社 大字上小坂村字中之嶽にあり、日本武尊、大国主命を祭る。 当社の創建は遠く白鳳二年[662または673]にして、往昔日本武尊東征の帰途此山中に賊住めりと聞き登攀さられ、橘姫の遺屍として携帯せられたる姫の頭髪を見給ひて、深く追想の情を発せられしと、村人尊の嘆惜を思ひ武尊大神と称し社宇を建立。
元和三年[1617]相州小田原の臣長清永く岩穴に住し、兵法、撃剣の奥義を極め、且つ神殿、拝殿を再築し、金洞山巌高寺なる一大巨刹を創立せらる、之れより武尊大権現並に大黒天と称し、武尊を奥宮に、大国主命を前宮に斎かる。とある。
山本毅「白雲衣権現考」[LINK]には
紛争は天和三年(1863)年に起った。 ことの始まりは妙義権現を管理する江戸の東叡山寛永寺内の元光院から、六月廿一日付けの書上(記録①)[LINK]が寺社奉行に提出されたことにはじまる。 すなわち巌高寺の僧長義が「白雲衣妙義」という札を立てて「所々へ出し勧進なと仕」っており妙義権現と混同され迷惑を被っているので、これを差し止めていただきたいというのが書上の主旨である。 つまり記録①は訴状である。
寺社奉行の裁定は早く、六月二十七日には長義は弁明書と、弟子長海と巌高寺支配の品川寺住僧俊居の連判を付した謝罪誓約書(記録②)[LINK]を寺社奉行に提出している。 つまり巌高寺の敗訴である。 また俊居は但書をも提出している。
長義の主張は記録②の弁明書にかいま見ることができる。 これによれば中之嶽が白雲衣と名乗ることは「往古ヨリ名乗」りきたることであり、石塔寺の末寺「菅応寺(廃寺)之縁起」には「白雲衣山中嶽」と見えているという。 また中之嶽神社の山号である金銅山(現在の金洞山)についても言及して、金銅山が「醍醐三宝院御門跡ヨリ」拝領した称号で、厳密には中之嶽神社本殿が設置されている巨岩の称号であり、中之嶽神社全体の山号は本来は白雲衣山であると述べている。
つまり白雲衣権現とは中之嶽神社のことであると長義は主張しているのである。 それから中之嶽神社が醍醐三宝院に属することにも注目しておきたい。 つまり中之嶽神社は修験道に属する神社であったのである。
中之嶽神社の周辺に石門という楼門状の巨岩があるが、これは女性の象徴と理解できる。 白雲衣権現に男体女体があるという神道集の記述を想起すれば、石門が白雲衣権現の女体にあたるのではないかと思う。とある。
また白雲衣権現の男体は、主峰の白雲山すなわち妙義権現がこれにあたるのではないだろうか。
白雲衣権現は妙義(波己曽)山の主峰白雲山を男体とし、東峰の金洞山ないし石門を女体とする神ではなかったか。
垂迹 | 本地 | |
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八郎大明神 | 薬王菩薩 | |
辛科大明神 | 文殊菩薩 | |
野栗御前 | 普賢菩薩 | |
白倉大明神 | 男体 | 不動明王 |
女体 | 毘沙門天 | |
満行権現 | 地蔵菩薩 | |
白雲衣権現 | 虚空蔵菩薩 |
高井の岩屋
総社の蛇穴山古墳または下日野の蛇食池に比定される。蛇穴山古墳[群馬県前橋市総社町総社]
一辺の長さ約40メートルの方墳で、埋葬主体は横穴式石室。 8世紀初頭の頃に造られたと推定される。
『群馬高井岩屋縁起』[LINK]によると上毛野君田道の墓所である。
人皇十七代仁徳天皇五十三年[365]、新羅朝貢 らず。 夏五月、上毛野君竹葉瀬を遣して、其の闕貢 を問はしめたまふ。 [中略]俄 ありて且 重ねて竹葉の弟田道を遣して、則ち之を詔す云々。 時に新羅、左を空けて右を修[備]ふ。 是に田道精騎を連れて其の庄[左]を撃つ。 新羅の軍潰 れぬ。 因りて兵を従[縦 ]ちて、乗 みて数百人を殺す。 即ち四邑の人民を虜 にす。 以て帰りぬ。 同五十五年[367]、蝦夷叛きぬ。 遣し撃めんとし玉ふ。 今則ち、蝦夷の為に敗られて、以て伊寺水門に死りぬ。 後に蝦夷又襲ひ、人民を略す。 因りて田道が墓を掘る。 則ち大蛇有りて、目を発瞋 て、墓より出でて蝦夷を咋 ふ。 悉く蛇の毒 を被りて、多く死亡す。 唯一二人逸るることを得ると。 其の故に時の人の云はく、「田道既に亡 すと雖も、遂に讎 を報す。何ぞ死にたる人の知無からむや」といふ。
其後、蒼海の風呂沼へ出て、生飼を食す。 其節、人味(人身)御供に備へらし人を化粧薬師に祭る。 又田道の墓所の山を蛇穴山と云ひ、本地弁財天を祭り置く也。 蒼海大明神は国霊郡霊、従四位学校院若御子の神(御霊神社[群馬県前橋市元総社町])、田道国郡霊の始祖是れ也。
然るに宗光室海津姫に御子誕生あり。 [中略] 其為に、子孫長久障解くため、高井郷蒼海は故の人味御供の棚場也。 帝に奏聞し寺を建立し、宗光山阿弥陀寺と号。 毎年九月八九日の法華経千部大施餅鬼執行して、矌劫化霊機縁にて、最初の薬師は十二の大願、化粧薬師と成り玉て、仏陀を縁として、無上菩提を成し玉へ、実相真如の月証玉ふ、回向広大功徳亦無量也。とある。
福田晃『神道集説話の成立』には
すなわち、『縁起』は、死んで蝦夷に報復した田道大蛇譚に、田道大蛇の生贄を食したる後述譚を添える。 そして、その生贄に立った者を祀ったものが化粧薬師であり、その田道の墓所が今も古墳として残る本地仏弁財天を祀る蛇穴山といい、また、長尾氏の祀るところの御霊宮蒼海大明神にふれて、田道の御霊こそ国郡霊の始祖だと述べる。 こうして『高井岩屋縁起』は、那波八郎譚に入る。 それは、あくまでも田道大蛇譚とは別種の伝承として叙述する。 しかし、結末における〔宗光・尾幡一族の繁栄〕の条に至って、田道大蛇生贄譚との複合が試みられている。
それは、宗光の子の誕生に当って、宗光山阿弥陀寺を建立し、高井岩屋の贄に立った者の霊を祀ることによって、一族繁栄を将来したとするもの。 意味の十分に通じぬ箇所もあるが、「最初ノ薬師ハ十二ノ大願、化粧薬師ト成玉テ」云々と田道大蛇の生費祭祀譚と習合する意図がうかがえる。 すなわち、当『縁起』は、あくまでも那波八郎譚を蛇穴山・化粧薬師の伝承なる田道大蛇譚を引き寄せて叙述するものなのである。とある。
(福田晃『神道集説話の成立』、第4編 上信地方縁起の生成、第4章 那波八郎大明神説話の成立)
佐藤喜久一郎『近世上野神話の世界』には
上毛野君田道が蝦夷に討たれ、墓から大蛇が出て復讐するという伝説自体は、『日本書紀』の仁徳天皇五十五年の記事[LINK]に基づいたものと推される。 しかし、この記事では、上毛野君田道は「伊寺水門」(千葉県夷隅郡ないし宮城県石巻市と考えられる)で討たれたとあって、墓所がどこにあるのかは明記されていない。 普通に考えれば「伊寺水門」の近くであろうが、田道が上毛野君であることと、「蛇穴山」の蛇との連想から、上野国の総社を舞台とする伝説として成長したのだろう。とある。
『群馬高井岩屋縁起』でも『上毛伝説雑記』に載せられたのとほぼ同様の伝説が述べられていて、「前田道、後満胤二君、大蛇化現岩屋生贄之縁起」と明記されている。 つまり、八郎神の物語の前日譚として、上毛野君田道の物語があったという捉え方なのである。
(佐藤喜久一郎『近世上野神話の世界』、第3章 『神道集』と「在地縁起」)
『上野国志』の多胡郡名所の条[LINK]には
蛇食池、印地村の高井と云ふ所にありとある。 これは群馬県藤岡市下日野に現存する。
角川源義「私の民話論 —上野国の中世神話—」[LINK]には
小幡から白倉神社の白倉を経て、亀穴峠をくだると鮎川に出る。 藤岡市上日野で、鮎川ぞいの道をくだると下日野の印地である。 古くから小幡の地とは何かと交渉があった。 もちろん貫前信仰圏にあり、願行寺唱導圏でもあった。
下日野に入ると鮎川は大きく蛇行していた。 問題の蛇食池は下日野の黒石にあった。 黒石は近くに出来た地名で、古くは字名高井戸に含まれていた。 緑泥片岩の峡谷のため川幅は狭く、水触による奇怪な岩組みが数キロにわたって続き、川水は激湍となり飛竜を思わせた。 不思議なことに流れの淀む淵があり、川ながら蛇食池の名があった。 この淵に面して岩屋らしい形状の岩組みがあり、いかにも贄棚を設けるにふさわしい様子であり、いろいろと民話の生まれそうな印象を深くした。
鮎川蛇食池の岩屋は、もともと川上に設けられた水霊信仰の斎場であったが、水神の犠牲伝承に結ばれ、贄棚を設けた岩屋へと変化したものであろうか。
『伊勢崎風土記』[LINK]には群馬八郎物語の異伝を記している。 [中略] この異伝には宮内判官宗光や尾幡姫が登場していないが、蛇喰池は小幡にあるとし、犠牲を川上に供えて祀ったという点が『神道集』と違っている。
農耕社会にあっては水神を川上に祀るという方法が、もっとも古代的な祭りであった。 この祭りは水の神(貫前神)に仕えた巫女(尾幡姫・海津姫)によって行なわれたであろう。 蛇は農耕社会の神であったはずだが、犠牲を求めると信ぜられるようになり、鮎川の岩屋に贅棚を設けて生贅を供えた。 生贄を出す恐れはしだいに深まり、これを求める大蛇を退治する英雄の登場となった。とある。
徳田和夫「神道集「那波八郎大明神事」の形質」[LINK]には
岩屋の伝承は総社と小幡の二箇所に見られるわけだが、こうした同伝承の飛び地現象はやはり総社側と小幡側の信仰唱導圏の交流から起きたものと考えるべきであろう。 換言すれば、「那波八郎大明神事」の主舞台は小幡の地であるから、本来はこの地の伝承としておくのが縁起の内容上からも妥当であると思われる。 それが伊香保明神の信仰圏を象徴する群馬太夫の名に引かれて、群馬郡の総社に運ばれたと見るべきであろう。とある。
宮内判官宗光
『群馬県多野郡誌』の地内神社[群馬県藤岡市下日野]の項[LINK]には柴崎氏系譜によれば藤原魚名の子中務少輔鷲取の三男三條宮内大輔宗光宝亀七年[776]東夷征伐の命を蒙り東下して坂東一帯を帰復し後に至り小幡権頭宗定の養子と為り上野国多胡郡を賜はり吉井に住し武徳益々振ふに至つた。 依つて氏神天児屋根命を同国日野山に勧請し辛科大明神と称した。 爾後柴崎氏累代の氏神として之を祭つた。とある。
八郎大明神
八郎神社[群馬県伊勢崎市福島町]祭神は群馬八郎満胤。
旧・村社
関重嶷『伊勢崎風土記』下之巻の八郎祠(下福島村)の条[LINK]には とある。
また、同書[LINK]には とある。
『群馬高井岩屋縁起』『幸科大明神縁起』『上州群馬郡新波山満勝寺略縁起』等も八郎大明神が顕現した地を那波郡の福島とする。
角川源義「私の民話論 —上野国の中世神話—」[LINK]には とある。 なお、八郎神社が合祀されたのは、正しくは明治四十二年[1909]である。
(角川源義「私の民話論 —上野国の中世神話—」、『日本の民話(3) 神々の物語』、角川書店、1973)
那波八郎大明神を火雷神社に比定する説が有る。
福田晃『神道集説話の成立』では同説に関して と述べている。
(福田晃『神道集説話の成立』、第4編 上信地方縁起の生成、第4章 那波八郎大明神説話の成立、三弥井書店、1984)
また、加沢平次左衛門『加沢記』巻之二の「善導寺振舞之事 附開山物語之事」[LINK]には とあり、大島由起夫「『神道集』にみる上野国の神々」では と指摘している。
(大島由起夫「『神道集』にみる上野国の神々」、国文学解釈と鑑賞、1993年3月号)