「神道集」巻第八
上野国那波八郎大明神事
そもそも那波の八郎大明神と申すは、日本人王四十九代、光仁天王の御時、上野国十四郡の内、利根河より西七郡の中に、群馬大夫満行とそ申しける。
男子は八人有り。
満行はかなく成りし後、群馬を八に分て知行す。
その中に八郎満胤は容貌麗にして、才覚有頂なり。
芸能人に勝れ、弓馬の道に長ず故、都へ出仕して父の代官たり。
故に満行は、この子を惣領に立て、舎兄七人を腋とせり。
[中略]
七人の舎兄達与力同心して、八郎満胤をは夜討にして、屍をば石唐櫃に入れ、高井郷の鳥喰池、辰巳の方に当りたる蛇喰池の中の、鳴当蛇塚の岩屋と云る、岩中に深く収めける。
しかれども、満胤は才覚有頂の人なれば、心に誓を起こす事深くして、三年と申すに、諸大龍王並に伊香保・赤城の龍神達に、龍水の智徳を乞て、鳥食池の大蛇に相馴て、大蛇の形と成り給ふ故に、舎兄七人を始めとして、妻子眷属に至るまで、贄に取りまわしたまひけり。
[中略]
宗光は数珠をサラサラと搏しつつ、南無一乗妙法蓮花経、薬王・勇施の二菩薩、多門・持国の二天、羅刹十女、法花守護の天等冥官、後生を助け給へとて、低伏し給へば、大蛇は首を池に付けて、我は只今君が経を聴聞して、一念の妄執忽ちに亡して、刹那の怨害の思ひも留めて、斯つ善知識に値たてまつりたる事、生々世々にも報し尽すべからず、今より以後、この岩屋も贄を懸る事有るべからず、只今聴聞する処の一乗妙典の功徳に依りて、神明の形を受け、当国に留りて、悪世の衆生を利益せんと語り捨てて、大蛇は岩屋の内へ入りければ、宗光は贄の棚より下り給ふ。
[中略]
その夜に震動雷電して。大雨をふらし、大蛇は那波の郡へ下りて、下村と云ふ処に神と顕れたまひて、今の世に八郎大明神と申すはこれなり。
[中略]
昔は宮内判官宗光、今は大納言右大将殿と申すは、国の為に父たり、人民の為に母たり、大蛇の為に知識たり。
故に人の喜びや積みけん。
その後神と顕れて、多胡郡の鎮守辛科大明神と申すは、京家の宗光これなり。
野粟御前と申すは、尾幡姫これなり。
白鞍大明神と申して、男体・女体在す。
これまた尾幡の権守宗岡夫婦の御事なり。
八郎大明神の御父、群馬大夫満行は神と顕れ、群馬郡の内長野庄に、満行権現とて、満行権現とも読めたり。
今の戸榛名と申すは即ちこれなり。
同じく母御前も神と顕れたまひて、男体・女体在す。
その母御前と申すは、今の白雲衣権現これなり。
戸榛名は本地は地蔵菩薩なり。
白雲衣権現は本地は虚空蔵菩薩なり。
八郎大明神とは本地は薬王菩薩なり。
辛科大明神は本地は文殊なり。
野粟御前は本地は普賢菩薩なり。
白鞍大明神と申すは、男体は本地は不動明王これなり、女体は本地は毘沙門天王これなり。
「辛科大明神縁起」
其宵震動雷電して大雨降らし、大蛇は那波の郡へ下り、福嶋と言所に神と顕れ給ひて、今の世八郎の大明神と申すはこれなり。
[中略]
宮内判官宗光大納言右大将と申は、国のためには父たり、夫婦のためには母たり、大蛇のためには善知識たり。
故に人の悦やつもりけん。
其後神とあらはれて、多胡の庄の鎮守辛科大明神と申は京家の宗光の事也。
白倉の明神と申は男躰・女躰御座ありける。
是又小幡権之守宗綱夫婦の御事なり。
八郎の大明神之父群馬之大夫満行も神と顕れ、群馬之郡長野の郷に満行権現とて、今の戸榛名と申則是也。
御前も神と顕れ波己曽大明神と顕れ、同脇宮拾弐宮是也。
本地は千手観音、末社七社是也。
去間高田八ヶ村と名付。
戸榛名本地地蔵菩薩。
八郎大明神本地薬王菩薩也。
辛科大明神本地文殊の化身。
御前本地普現[普賢]菩薩。
白倉の明神男躰は本地不動明王、女躰は本地毘沙門天王也。
「社寺縁起伝説辞典」
那波八郎大明神(小林宣彦)
『神道集』における那波八郎大明神伝説の内容は以下の通りである。
光仁天皇の御代、上野国群馬郡を治める地頭は群馬大夫満行といった。
満行には男子が八人いたが、中でも末の八郎満胤は、容姿・才智・武芸すべてに優れていたので、父の代理として都に出仕していた。
満行の死後、群馬郡を八つに分けて兄弟が治めたが、満行の意志により、八郎が総領となり、七人の兄は脇地頭となった。
満行の死後、再び八郎は都に上り宮仕えに精励したので、帝は大いに感心し、目代という国司の代理官ともいえる職を与えた。
兄七人は、弟に従うことを面白く思わず、相談・協力しあって八郎を夜襲で殺し、遺体を蛇食池の中島にある蛇塚岩屋に投げ込んだのである。
ところが、八郎は才智優れた人物であったので、池に沈められてから三年目に伊香保沼の竜神、赤城沼の竜神など大竜王たちと近づきになって竜水の智徳を譲り受け、鳥食池の大蛇ともよい仲になり、ついには大蛇の姿となった。
八郎は、神通力を身に付けた後、兄たちとその子孫を皆殺しにした。
さらに、国中の人を全部取り殺そうとしたので、この事が都に報告された。
帝は非常に驚いて、池に生贄を上げるのは一年に一回にするよう命じられた。
大蛇も帝の命令を恐れ入って承知した。
上野国の領地を治める人々は、輪番で毎年九月九日、高井岩屋に生贄を献げることになった。
上野国甘楽郡尾幡庄の地頭は尾幡権守宗岡という人物で、その年の生贄の当番であった。
生贄となる宗岡の十六歳の娘は海津姫といった。
折から、奥州へ黄金を求める使者として、三条の宮内大夫藤原朝臣宗成の子で宮内判官宗光が都から下ってきた。
地頭の宗岡は、宗光の貴公子ぶりを見て、尾幡の屋敷へ迎え入れて歓待する。
宗光に尾幡姫を引き合わせると、二人は夫婦の契りを深く結ぶようになった。
宗光は自らの大役をすっかり忘れていたが、尾幡姫は生贄になることを思って嘆き悲しむ。
それを宗光が見とがめると、宗岡は、姫が大蛇の生贄に決まっていることを告げる。
その話を聞いた宗光は、尾幡姫の身代りとなることを決め、輿に乗り込み高井岩屋までやってくる。
宗光は贄棚で法華経を広げて読み上げはじめ、しばらくすると大蛇が出てくるが、宗光の読経を聞いて黄金の涙を流す。
読経の後、大蛇の怨念は消え、上野国の神となって利益を施すことを告げて岩屋へ帰って行った。
その夜に雷鳴震動して大雨が降り、大蛇は那波郡の下村で神として現れた。
これが那波八郎大明神である。
上野国司の目代がこの事件を帝に報告すると、帝は大喜びとなり、宗光を上野国に留まらせ、上野国司に任命した。
宗光は大納言・右大将に昇進し、舅の宗岡は目代となった。
宗光は国中の人から感謝され、その後、多胡郡の辛科大明神として現れた。
尾幡姫は野粟御前に、尾幡権守宗岡夫婦は白鞍大明神の男体と女体にそれぞれ現れた。
八郎大明神の父である群馬大夫満行も群馬郡長野庄で満行権現として現れた(=戸榛名)。
母も白雲衣権現として現れ、男体と女体がある。
それぞれの本地は、八郎大明神は薬王菩薩、辛科大明神は文殊菩薩、野粟御前は普賢菩薩、白鞍大明神の男体は不動明王なり、女体は毘沙門天、満行権現は地蔵菩薩、白雲衣権現は虚空蔵菩薩をあてている。
以上が『神道集』所収の縁起内容である。
「上野国那波八郎大明神事」との題名であるが、実際に活躍するのは、都から下向してきた宗光(=辛科大明神)であり、高崎市吉井町の辛科神社が所蔵する『辛科大明神縁起』をはじめ、他の在地縁起書も『神道集』と内容に関して大きな異同は見られない。
前橋市総社市高井の蛇穴山古墳は、八郎満胤が投げ込まれた高井岩屋であると伝えられているが、『群馬高井岩屋縁起』、『上州群馬郡岩屋縁起』の書名はそれを指している。
那波八郎大明神の社としては、延喜式内社・上野国八宮の火雷神社(佐波郡玉村町下之宮)と伊勢崎市の旧下福島村の八郎社が考えられている。
[中略]
満行権現は榛名一帯で信仰されており、榛名山麓には戸榛名神社が多数あるが、長野庄の戸榛名は高崎市榛名町の旧久留馬の社にあてられる。
また、白鞍大明神は甘楽郡旧新屋村の白倉神社があてられているが、白雲衣権現は不明である。
名称 | 比定社 | 本地仏 | 鎮座地 |
八郎大明神 | 八郎神社 | 薬王菩薩 | 伊勢崎市福島町 |
満行権現 | 戸榛名神社 | 地蔵菩薩 | 高崎市神戸 |
白雲衣権現 | 波己曽社 | 虚空蔵菩薩 | 富岡市妙義町 |
辛科大明神 | 辛科神社 | 文殊菩薩 | 高崎市吉井町神保 |
野粟御前 | 野栗神社 | 普賢菩薩 | 甘楽郡甘楽町秋畑 |
白鞍大明神 | 白倉神社 | 不動明王 毘沙門天 | 甘楽郡甘楽町白倉 |
明治44年、豊武神社に合祀。
昭和45年に八郎神社を分祀・再建