鹿島神宮 | 茨城県鹿嶋市宮中 | 式内社(常陸国鹿嶋郡 鹿嶋神宮〈名神大 月次新嘗〉) 常陸国一宮 旧・官幣大社 |
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沼尾神社 | 茨城県鹿嶋市沼尾 | |
坂戸神社 | 茨城県鹿嶋市山之上 |
現在の祭神 |
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そもそも鹿嶋大明神は、天照太神の第四の御子なり。 天津児屋根尊は金鷲に駕して、常陸国に天下り、古内山旧跡鹿嶋里に顕れたまふ。 その間は幾千年と云ふ事を知らず。 御本地は十一面観音なり。
そもそも鹿嶋大明神は、常陸国に垂迹故、天神七代、国常立尊より、伊弉諾・伊弉冊尊の御代終りて、地神五代に荒振神達を鎮め、大小神祇在々に定りたまふ。 その時天津児屋根尊は金の鷲に乗て、常陸国中郡古内山に天下りたまふ。 その後国中を廻り鹿嶋郡は吉き処とて、御在所を定む。 鹿嶋に思惟大明神とて山中に石在り。 即ち大明神の御思惟有る処なり。
[中略]
忝くも当時御在す御宝殿は西向きなり。 ある人の云く、天王寺へ向へり。 この地は東岸の終、日本国は東の終なるが故に、仏法東漸より始と終とを思へり。
不開御殿は北向きなり。
奥御前は天明大神等なり。
六所明神は大龍神なり。
南八龍神は、本地は不動明王これなり。
[中略]
北八龍神は、本地は毘沙門天王これなり。
[中略]
そもそも鹿嶋三所は沼尾・酒戸並ふる。
沼尾は本地は薬師なり。 [中略] これは明神の御弟なり。
酒戸は本地は地蔵菩薩なり。 [中略] これは明神の御妹なり。
息洲三所は本地は釈迦・薬師・地蔵・不動・毘沙門等これなり。
手子后は本地は釈迦なり。 これ三世常住の如来、一代五時の教主なり。
鹿嶋の大明神は、本地十一面観音なり。 和光利物のかげあまねく、一天をてらし、利生済度のめぐみ、とおく四海にかうぶらしめたり。 このゆへに、たのみをかくるひとは、現当の悉地を成じ、こゝろをいたすともがらは、心中の所願をみつ。 奥ノ御前は本地不空羂索なり。 左右の八龍神は、不動・毘沙門なり。
抑鹿嶋太神宮は天照太神の輔佐にましまして、此葦原に跡をたれ、邪神をたいらげ安国となし、日本の鬼門に鎮座して護国安民じ給へり。 寔に是吾国の貴賤みな此神の恩沢を蒙らざるものなし。 誰か尊崇せざらんや。 爰に人王四十三代元明天王和銅元年に、満願上人とて毎日方広経一万巻を読て諸国に巡行し、一切衆生を済度せし聖あり。 是世人みな文殊菩薩の化身なりと帰依しあへり。 此上人偶鹿嶋の社に参籠して、神威倍増のために数日読経して恭く法味をさゝげ給へば、太神宮御正躰を顕し御手づから常陸帯を授たまふ。 上人歓喜踊躍しなを数月法楽し神恩を報じ奉れば、不思儀なるかな地より金色の蓮花涌出して、そにうへに十一面観世音菩薩示現し給ふ。 上人稀有の思ひをなして礼拝讃歎し、謹て本地垂跡一躰分身の神慮なる事を覚れり。 粤におゐて行基菩薩を延請し、御長一丈六尺の十一面観世音菩薩并に釈迦薬師地蔵弥勒の尊像を彫刻し奉りて、頻に伽藍建立の志をおこす。 時に宮司従五位下中臣鹿嶋連等、ちからを合せて本地堂を神宮沢に造営し、尊像を安置して鎮護国家の道場となせり。
鹿島大明神(六日)
常陸国鹿島郡
本地十一面
[図]
Ⅰ 一宮
1 鹿島神宮(鹿島社)。
5 タケミカヅチ。 本地仏は『神道集』では十一面観音、『茨城県資料』中世編Ⅰ「解説」には不空羂索観音とする。 鹿島神向寺には、本地仏とされる9世紀の小金銅仏の如来座像と菩薩立像がある。
6 神宮寺は天平勝宝年中(749~57)に三論宗系の寺院として創建(のちに法相宗に転じたとも)。 はじめ鹿島神の本地堂として、宮中の東南、松浦郷鉢形の神宮寺沢の地にあったという。 承和4年(837)に定額寺に列した。 他に関係寺院として広徳寺・護国院・正等寺・普済寺・安居寺・根本寺・涼泉寺・五台院などがあったが、護国院のみが現存する。 これらの寺院もはじめは、三論宗であったが、本地堂が鎌倉末期に社殿の東北、井馬場のかたわらに移され。神宮寺の名実が備わり、真言宗(醍醐寺松橋流)に転宗したことにともなって、多くが真言宗に改宗した。 なお、広徳寺は宮中にあった大宮司や大禰宜の菩提所。 根本寺は鹿島神宮の供僧。 供僧等の寺であったと推定される護国院は、和銅2年(709)に宮中に建立という。 護国院の前身も、鎌倉末期に護摩堂として中興されたものであろう。