第二十三 日光権現事
日光権現は下野国の鎮守である。 赤城大明神と沼を争った事や唵佐羅麼の話は遥か遠い昔である。二荒山が本地垂迹を顕したのは、人皇四十九代光仁天皇の末から桓武天皇の初め、天応二年から延暦初年の頃である。 勝道上人が山に登り、一大伽藍を建立された。 今の日光山である。
日光山には男体と女体がある。
男体の本地は千手観音である。
女体の本地は阿弥陀如来である。
下野国の従五位上勲四等二荒神に正五位下を授け奉る。であるが、この二荒神が現在の二荒山神社(宇都宮、日光)のどちらに該当するかは未詳。
(男体山の)巓に神社を祀り給ふは、勝道上人神護景雲元年[767]四月、初て跋渉を企てゝ、半路にして雷鳴し、路に迷ひて登ることを得ず。 夫より十五年を経て天応元年[781]四月又企てゝ、登らんとすれども果さず。 同二年[782]三月、経を写し仏を図し、山麓に至りて一七日読経し、神明に誓ひ、山頂に至ることを得ば、経巻仏像を絶頂に置きて、天地の神明の為に供養し、神威を崇め奉らんと祈念し誓ひ、漸三度目に登臨を極むと云々。 此時上人神祠を祀り給ふは、天地の神明を祀り給ふなり。 其後弘仁七年[816]登山の時に、三神の影向を拝し給ひて祀りけるは、是日光三社権現の鎮りましますの始なり。と伝える。 男体山山頂の神祠は現在は二荒山神社の奥宮となっている。
本社祭神は大己貴命なり。本地千手観音。
抑当社日光三社権現は、普門示現の神境、仏乗相応の霊場なるに仍りて、神護景雲のむかし、勝道上人深く観音の妙智力を仰ぎ、遠く無人の境に入りて、遂に黒髪山(男体山)の嶺に登り給ふ時、地主神明忽然として現れ給ひて、倶に人法を擁護すべしと、神勅を蒙り給ふ。 地主神明と申し奉るは、男体権現大己貴命、女体中宮田心姫命、本宮権現は味耜高彦根命にてまします。 本地は千手・弥陀・馬頭、応用には大黒・弁天・毘沙門の福智徳三天の権化なり。 是を日光三社権現と申し奉る。
当山の古縁起には、三神始て勧請の事は、開山上人四本瀧寺にすみ給ひし時、精舎の東南に初て勧請し給へり。其後遷宮の事ありしに仍りて、御神たびたびすさみ給ひし事、旧記に見えたり。最初上人三神の霊像を安置の社地は、大河に接せし丘地にして、時々洪水逆浪し、社頭終には危からん事を思惟し給ひ、御遺弟道珍・教旻・千如等と相議して、天長年中[824-834]社殿を小玉殿の東に移し給へり。其後二十余年を経て、嘉祥三年[850]座主昌禅、輪下の尊鎮・法輪等と議せられ、法華・常行の二堂の後は、東西中院の中央に当りて、勝地此所に過ぐべからずとて、即遷宮し奉り給ふといへり。〈其頃法華・常行の二堂の後とあるは、今の仏岩也。社地は今の御宮内、鐘楼の辺に当れり〉此時始て四本龍寺の旧社を本宮と称し、遷宮の社頭を新宮と号し奉るとある。 新宮権現は現在は二荒山神社の本社となっている。
日光三社の本地仏堂、千手観音は新宮の本地なり。 馬頭観音は本宮の本地、各座像八尺五寸。 阿弥陀は滝尾の本地。長九尺五寸。 是は慈覚大師当山に登り、寺院建立の砌、此尊像を彫造し給ふものなり。 此堂内乾の隅に、勝道上人の木像を安置し、艮の方に軍荼利明王の木像をも安す。とある。 三仏堂は現在は二荒山神社から分離・移転して、日光山輪王寺の本堂となっている。
男神・女神・太郎、杉の上に降りたまひ、之を二荒山三所の神と謂ふ。 今、其の迹を尋ぬるに、則ち所謂男体本宮は男神也、滝尾女体中宮は朝日姫也、新宮太郎明神は馬王也、宇都宮は猿麻呂也。とあり、本宮と新宮が通説とは逆になっている。 また、
或は曰ふ、所謂男神・女神は日本武尊と橘妃也。と異説を付記する。
河内郡に在り 社領千石。とある。
祭神 事代主命。〈異説有り〉 開山勝道上人。
| 垂迹 | 本地 | |
|---|---|---|
| 日光三所権現 | 新宮権現(男体山) | 千手観音 |
| 滝尾権現(女峰山) | 阿弥陀如来 | |
| 本宮権現(太郎山) | 馬頭観音 | |
抑滝尾は、弘仁十一年[820]七月二十六日、弘法大師始て当山に下著し給ひ、先四本龍寺の室に入り給ひ、上人の遺弟教旻・道珍等、其余の徒を伴ひ、滝尾に到り給ふに、滝有りて乱糸に似たりとて、是より白糸の名起れりとぞ。 嶺を亀山と名附け給ふ。 其形の伏亀に似たるを以てなり。 空海和尚、境地の霊区なるを感じ給ひ、大杉のもとに庵を結び、壇を設けて、仏眼金輪法を修し給ふ事一七日夜、池中より一白玉出現す。 是則天輔星なりとて祀り給ひ、小玉殿と称する是なり。 又も勤行せられしに、天より一白玉降りて、水上に浮び、「我は妙見星なり。公が請に仍りて今来下せり。此所は我が住所にあらず、此嶺に女体の霊神いませり、此地に祝ひ奉るべし、我をして中禅寺に安住せしめば、末代迄人法を守護せしむべし」と、語り畢りて見えず。 依て中禅寺に崇め奉らる。 また尊星の告によりて修法し、霊神の影向を請ひ給ふに、忽霊神化現し給ふ。 其貌天女の如く、端正美麗、金冠瓔珞を以て荘厳に飾り、其身扈従の侍女、前後を圍繞し、僮僕左右に充満し、異香紛紜として、霊神出現の尊容を拝し、心願満足す。 即崛上に社殿を造立して勧請し奉り、手書題額し「女体中宮」と云々。本社の条[LINK]には
祭神 田心姫命の垂迹、本地阿弥陀仏。 鎮座は人皇五十二代、嵯峨天皇の御願所にして御造立といふ。本地堂の条[LINK]には
弥陀・観音・勢至の三尊を安ず。 恵心僧都の作なり。とある。
日光三社の内なり。 社地仮橋の筋向なる丘上に鎮坐。 前は大谷川の流に対し、東北の方は稲荷川に接す。
祭神阿遅志貴高彦子根神なり。 此神は大己貴命の御子にて、本地馬頭観音なり。 縁起略に云く、大同三年[808]勝道上人四本龍寺を建立の時、本堂の南に三社権現を勧請し給ふ。とある。
御本社 拝殿あり。 祭神味耜高彦根命。 本地仏は馬頭観音なり。 大同三年、勝道上人此所に勧請し給ふ。 当社は宇都宮と御一躰といふ。 又宇都宮の社伝は大己貴命といふ。とある。
勝道上人弘仁七年教旻・道珍等を伴ひ、登山しける時に、男体山の頂上にて、三神の影向を拝し給ひ、下山の時、麓に社殿を造立し給ふとあるのは、当社のことなり。 是則三社鎮座の草創といふ。本地観音堂の条[LINK]には
本尊千手大士立木の像、一丈六尺素木、勝道上人の作。 堂内の左右は四天王の像を安ず。 坂東十八番の札所なり。
伝へいふ、此山を補陀落山と名付けられし事は、往古開祖勝道上人当山草創、多年の間屡観音の霊験を被り給ひ、殊に延暦三年登山し給ひ、西湖(中禅寺湖)の南岸に於て、大士の影響を感見ましまして、みづから其尊容を手刻して安置し給ひ、かつ上人つらつら思惟し給ふに、二荒各処の山中にて、観音薩埵の種々の奇瑞を示し給ふこと、是たゞ吾信力のみにあらず、当山は必大士有縁の霊境なるべしと悟らせ給ひ、大士のすみ給ふ南海の補陀落山を此所に標顕して、即当山を補陀落山と名付け給へるよし。とある。 本地観音堂は現在は二荒山神社から分離し、日光山輪王寺の別院・中禅寺となっている。