『神道集』の神々

第二十三 日光権現事

日光権現は下野国の鎮守である。 赤城大明神と沼を争った事や唵佐羅麼の話は遥か遠い昔である。

二荒山が本地垂迹を顕したのは、人皇四十九代光仁天皇の末から桓武天皇の初め、天応二年から延暦初年の頃である。 勝道上人が山に登り、一大伽藍を建立された。 今の日光山である。

日光山には男体と女体がある。
男体の本地は千手観音である。
女体の本地は阿弥陀如来である。

日光権現(男体)

二荒山神社[栃木県日光市山内]
祭神は大己貴命(男体山)・田心姫命(女峰山)・味耜高彦根命(太郎山)。
式内論社(下野国河内郡 二荒山神社〈名神大〉)。 下野国一宮(論社)。 旧・国幣中社。
史料上の初見は『続日本後紀』巻第五の承和三年[836]十二月丁巳[25日]条[LINK]の「下野国従五位上勲四等二荒神に正五位下を授け奉る」であるが、この二荒神が現在の二荒山神社(宇都宮、日光)のどちらに該当するか定かでない。

植田孟縉『日光山志』巻之四[LINK]は日光山の開山を
「(男体山の)巓に神社を祀り給ふは、勝道上人神護景雲元年[767]四月、初て跋渉を企てゝ、半路にして雷鳴し、路に迷ひて登ることを得ず。夫より十五年を経て天応元年[781]四月又企てゝ、登らんとすれども果さず。同二年[782]三月、経を写し仏を図し、山麓に至りて一七日読経し、神明に誓ひ、山頂に至ることを得ば、経巻仏像を絶頂に置きて、天地の神明の為に供養し、神威を崇め奉らんと祈念し誓ひ、漸三度目に登臨を極むと云々。此時上人神祠を祀り給ふは、天地の神明を祀り給ふなり。其後弘仁七年[816]登山の時に、三神の影向を拝し給ひて祀りけるは、是日光三社権現の鎮りましますの始なり」
と伝える。
男体山山頂の神祠は現在は二荒山神社の奥宮となっている。

同書・巻之二[LINK]には、
「新宮権現拝殿 三仏堂と相双ぶ。〈中略〉本社祭神は大己貴命なり。本地千手観音」「抑当社日光三社権現は、普門示現の神境、仏乗相応の霊場なるに仍りて、神護景雲のむかし、勝道上人深く観音の妙智力を仰ぎ、遠く無人の境に入りて、遂に黒髪山(男体山)の嶺に登り給ふ時、地主神明忽然として現れ給ひて、倶に人法を擁護すべしと、神勅を蒙り給ふ。地主神明と申し奉るは、男体権現大己貴命、女体中宮田心姫命、本宮権現は味耜高彦根命にてまします。本地は千手・弥陀・馬頭、応用には大黒・弁天・毘沙門の福智徳三天の権化なり。是を日光三社権現と申し奉る」「当山の古縁起には、三神始て勧請の事は、開山上人四本瀧寺にすみ給ひし時、精舎の東南に初て勧請し給へり。其後遷宮の事ありしに仍りて、御神たびたびすさみ給ひし事、旧記に見えたり。最初上人三神の霊像を安置の社地は、大河に接せし丘地にして、時々洪水逆浪し、社頭終には危からん事を思惟し給ひ、御遺弟道珍・教旻・千如等と相議して、天長年中[824-834]社殿を小玉殿の東に移し給へり。其後二十余年を経て、嘉祥三年[850]座主昌禅、輪下の尊鎮・法輪等と議せられ、法華・常行の二堂の後は、東西中院の中央に当りて、勝地此所に過ぐべからずとて、即遷宮し奉り給ふといへり。〈其頃法華・常行の二堂の後とあるは、今の仏岩也。社地は今の御宮内、鐘楼の辺に当れり。〉此時始て四本龍寺の旧社を本宮と称し、遷宮の社頭を新宮と号し奉る」
とある。
新宮権現は現在は二荒山神社の本社となっている。

同書・巻之一[LINK]には、
「三仏堂 新宮鳥居の北の方にあり。往古金堂と称するは是なり。〈中略〉日光三社の本地堂、千手観音は新宮の本地なり。馬頭観音は本宮の本地、各座像八尺五寸。阿弥陀は滝尾の本地。長九尺五寸。是は慈覚大師当山に登り、寺院建立の砌、此尊像を彫造し給ふものなり。此堂内乾の隅に、勝道上人の木像を安置し、艮の方に軍荼利明王の木像をも安す」
とある。
三仏堂は現在は二荒山神社から分離・移転して、日光山輪王寺の本堂となっている。

林羅山『二荒山神伝』[LINK]の大筋は『日光山縁起』(後述)と同様であるが、
「男神・女神・太郎、杉の上に降りたまひ、之を二荒山三所の神と謂ふ。今、其の迹を尋ぬるに、則ち所謂男体本宮は男神也、滝尾女体中宮は朝日姫也、新宮太郎明神は馬王也、宇都宮は猿麻呂也」
とあり、本宮と新宮が逆になっている。 また、この後には、
「或は曰ふ、所謂男神・女神は日本武尊と橘妃也」
と異説を付記する。

寺島良安『和漢三才図会』巻第六十五(地部)[LINK]には「日光山の社 河内郡に在り 社領千石 祭神 事代主命〈異説有り〉」とある。

日光権現(女体)

別宮・滝尾神社
祭神は田心姫命。
日光山内の別所に鎮座する。

『日光山志』巻之二[LINK]には、
「抑滝尾は、弘仁十一年[820]七月二十六日、弘法大師始て当山に下著し給ひ、先四本龍寺の室に入り給ひ、上人の遺弟教旻・道珍等、其余の徒を伴ひ、滝尾に到り給ふに、滝有りて乱糸に似たりとて、是より白糸の名起れりとぞ。〈中略〉空海和尚、境地の霊区なるを感じ給ひ、大杉のもとに庵を結び、壇を設けて、仏眼金輪法を修し給ふ事一七日夜、池中より一白玉出現す。是則天輔星なりとて祀り給ひ、小玉殿と称する是なり。又も勤行せられしに、天より一白玉降りて、水上に浮び、我は妙見星なり。公が請に仍りて今来下せり。此所は我が住所にあらず、此嶺に女体の霊神いませり、此地に祝ひ奉るべし、我をして中禅寺に安住せしめば、末代迄人法を守護せしむべしと、語り畢りて見えず。依て中禅寺に崇め奉らる。また尊星の告によりて修法し、霊神の影向を請ひ給ふに、忽霊神化現し給ふ。其貌天女の如く、端正美麗、金冠瓔珞を以て荘厳に飾り、其身扈従の侍女、前後を圍繞し、僮僕左右に充満し、異香紛紜として、霊神出現の尊容を拝し、心願満足す。 即崛上に社殿を造立して勧請し奉り、手書題額し「女体中宮」と云々」
「祭神 田心姫命の垂迹、本地阿弥陀仏。鎮座は人皇五十二代、嵯峨天皇の御願所にして御造立といふ」
「本地堂 本社より西の方、〈中略〉弥陀・観音・勢至の三尊を安ず。恵心僧都の作なり」
とある。

『神道集』では日光権現を男体・女体の二所とするが、後代はこれに太郎山を加えて日光三所権現とするのが一般的である。
『日光山志』巻之一[LINK]には、
「本宮権現 日光三社の内なり。社地仮橋の筋向なる丘上に鎮坐。前は大谷川の流に対し、東北の方は稲荷川に接す」「祭神阿遅志貴高彦子根神なり。此神は大己貴命の御子にて、本地馬頭観音なり。縁起略に云く、大同三年[808]勝道上人四本龍寺を建立の時、本堂の南に三社権現を勧請し給ふ」
とある。
本宮権現は現在は二荒山神社の別宮・本宮神社となっている。

秋里籬島『木曽路名所図会』巻之六の本宮神社の条[LINK]には、
「御本社  拝殿あり。祭神味耜高彦根命。本地仏は馬頭観音なり。大同三年、勝道上人此所に勧請し給ふ。当社は宇都宮と御一躰といふ。又宇都宮の社伝は大己貴命といふ」
とある。
垂迹本地
日光三所権現新宮権現(男体山)千手観音
滝尾権現(女峰山)阿弥陀如来
本宮権現(太郎山)馬頭観音

赤城大明神

参照: 「上野国勢多郡鎮守赤城大明神事」赤城大明神

中禅寺湖を指す。 伝本によっては「赤城大明神とを諍ひ」とあるが、『日光山縁起』と同系の説話と考えると「を諍ひ」の方が妥当と思われる。

中禅寺湖畔、男体山の登拝口には二荒山神社中宮祠が鎮座する。
『日光山志』巻之四[LINK]には、
「三社権現本社〈中略〉勝道上人弘仁七年教旻・道珍等を伴ひ、登山しける時に、男体山の頂上にて、三神の影向を拝し給ひ、下山の時、麓に社殿を造立し給ふとあるのは、当社のことなり。是則三社鎮座の草創といふ」
とある。

また、中禅寺湖畔の観音堂には男体山の本地仏である十一面千手観音像(立木観音)を安置する。
同書には、
「本地観音堂〈中略〉本尊千手大士立木の像、一丈六尺素木、勝道上人の作。堂内の左右は四天王の像を安ず。坂東十八番の札所なり」「往古開祖勝道上人当山草創、多年の間屡観音の霊験を被り給ひ、殊に延暦三年登山し給ひ、西湖(中禅寺湖)の南岸に於て、大士の影響を感見ましまして、みづから其尊容を手刻して安置し給ひ」
とある。
本地観音堂は現在は二荒山神社から分離し、日光山輪王寺の別院・中禅寺となっている。

唵佐羅麼

『宇都宮大明神代々奇瑞之事』[LINK]における温佐郎麿、『日光山縁起』における小野猿丸、『二荒山神伝』における小野猿麻呂に相当。
「上野国勢多郡鎮守赤城大明神事」では赤城沼の龍神の名を唵佐羅摩女とする。

勝道上人

日光修験道の開祖。
『補陀洛山建立修行日記』[LINK]によると、天平七年[735]四月二十一日に下野国芳賀郡の若田高藤介の子(幼名は藤糸)として誕生。 高藤介夫妻は子宝に恵まれず、伊豆留(栃木市出流町)の千手観音に祈願して藤糸を授かったという。 同十三年[741]九月十一日の夜、明星天子が降臨して藤糸に三帰依と四弘誓願を授けた。
天平勝宝六年[754]、藤糸は家を出て伊豆留や大剣峰(横根山)で山林修行をした。 天平宝宇五年[761]、下野薬師寺で剃髪して沙弥戒を受け、巌朝と号した(後に勝道と改名)。 翌六年七月には具足戒を受け、虚空蔵求聞持法を修した。
天平神護二年[766]、大剣峰から二荒山に向かい、三月中旬に山麓の大河(大谷川)に到着した。 そこで求聞持真言を唱えると、北岸に深砂大王が顕現し、二匹の蛇で大谷川に橋を架けた。 蛇橋を渡った勝道は山内に草庵を結んで勤行し、千手観音を本尊とする四本龍寺を四神峰に建立した。
神護景雲元年[767]四月十日、二荒山登頂を試みるが深雪と雷のために途中で断念。 天応元年[781]四月に二度目の登頂を試みるが、深い霧に阻まれて再度断念。 翌二年[782]三月には湖岸に宿して七日間精勤修行し、三度目にして宿願の二荒山登頂を果たした。 延暦三年[784]には山中の湖を遊覧し、湖中に金色の千手観音を感得。 同年五月二日、湖岸に神宮寺(中禅寺)を建立して千手観音像(立木観音)を奉安し、その側に二荒山神社中宮祠を造立した。
延暦八年[789]四月、上野国総講師に補任。 大同二年[807]の東国旱魃に際して、二荒山で祈雨を修した。
弘仁七年[816]八月に四本龍寺の北の巌窟(離怖畏所)に入り、翌八年[817]三月一日に入定。

【参考】日光山縁起

冒頭で簡単に言及された日光権現と赤城大明神の沼争いおよび唵佐羅麼(小野猿丸)の話に関しては『日光山縁起』[LINK]に詳しい。

有宇中将は才芸優れた人物であったが、鷹狩に熱中して帝の不興を買い、鷹(雲上)と犬(阿久多丸)を連れ、青鹿毛の馬に乗って都を去った。 中将は陸奥の朝日長者の下へ身を寄せ、その姫君(朝日の君)の婿となった。 六年後、中将は母の姿を夢に見て恋しくなり、朝日の君を残して、鷹と犬を連れて青鹿毛で都に向かったが、途中の妻離川(阿武隈川)の水を飲んで病気になり、二荒山の山中で落命した。 炎魔王宮で中将の過去世を調べたところ、元は二荒山の猟師だったが、鹿と間違えて母を誤射してしまい、その罪を償うために神となって貧苦の者を救済しようと誓願を立てていた事が判明した。 青鹿毛は猟師の母の生まれ変わりだった。 炎魔王はその誓願を果たさせるために中将を蘇生させた。
中将が生き返った後、朝日の君は懐妊して一子が誕生した。 その名は馬頭御前で、青鹿毛の生まれ変わりだった。 中将は上洛して大将に昇進、馬頭御前も都に上って中納言になった。 中納言が都から下って朝日長者のもとに居た時、侍女の腹に子供が出来た。 その子は奥州小野に住んで小野猿丸と称し、弓の名手となった。

有宇中将は日光権現として顕れ、下野国の鎮守となった。
湖水(中禅寺湖)を巡って日光権現と赤城大明神の間に争いが起きた時、鹿嶋大明神は猿丸に助勢を求めるよう日光権現に助言した。 猿丸は鹿(女体権現の化身)を追って日光山に入り、そこで日光権現の要請を了承した。 日光権現は大蛇、赤城大明神は百足と化して激しく争った。 猿丸の射た矢は百足の左眼に命中し、負傷した百足は退散した。 日光権現は猿丸の功績を讃えて「此国を今よりゆづるなり。我子太郎大明神と共に此麓の一切衆生を利益すべきなり。汝をはこの山の神主となすなり」と仰った。 また、一羽の鶴が飛んで来て、左の羽の上には馬頭観音。右の羽の上には大勢至菩薩が見えた。 鶴は女人に変じて「馬頭観音は太郎大明神也。勢至菩薩は汝(猿丸)か本地なり。汝は恩(小野)の森の神となりて彼麓の衆生を導へし」と告げて消えた。
権現は下野国には日光三所と現れ、常陸国では鹿嶋大明神と現れる。
雲上と云う鷹は本地虚空蔵菩薩である。
阿久多丸と云う犬は本地地蔵菩薩で、今は高尾上と顕れている。
青鹿毛と云う馬は太郎大明神で、馬頭観音の垂跡である。
有宇中将は男体権現で、本地は千手観音である。
朝日の君は女体権現で、阿弥陀如来の化身である。
その後、太郎大明神を下野国河内郡小寺山(宇都宮の荒尾崎)に遷座して、若補陀落大明神と号し奉った。 社壇の南の大道を通る者が下馬の礼をせず、もし秋毫の誤りが有れば神罰が下るので、瑞籬を北の山に遷し奉った。