『神道集』の神々

第十二 祇園大明神事

祇園大明神を世の人は天王宮と呼んでいる、即ち牛頭天王である。 牛頭天王は武答天神王等の部類の神で、天形星・武答天神・牛頭天王として崇めている。 当世は疫病神が病気を流行らせるので、人々は牛頭天王を深く信仰している。
祇園大明神は男体は薬師如来、女体は十一面観音である。

往昔、北海の婆斯帝回国の北陸に天王が在り、牛頭天王と称した。 吉祥婆利釆女・武答天王と申すのはこれである。
龍王に五人の娘がいた。 第一は大自在天夫人、第二は陰大女(波利釆女)、第三は須弥山王夫人、第四は琰羅王夫人、第五は文殊菩薩の教えにより南方無垢世界で等正覚を成じた八歳の龍女である。
天王はこれを聞き、南海国に趣いた。 日が暮れたので、宿を借りるために巨端将来という長者の所に行くと、巨端将来は散々に悪口罵詈して天王を追出した。 七谷と七峯を越えたところに小さな家が有った。 主の名は蘇民将来といった。 蘇民将来は宿を貸して天王を饗応した。 翌朝、天王は蘇民将来に南海の娑竭羅龍王宮を知っているか否か尋ねた。 蘇民将来は知っていると答え、桑船を仕立てて天王を南海国に送った。
龍王は喜んで天王を陰大女の聟とした。 天王は龍宮で八年を過し、八人の王子をもうけた。 第一は相光天王、第二は魔王天王、第三は倶魔良天王、第四は徳達天王、第五は良侍天王、第六は達尼漢天王、第七は侍信相天王、第八は宅相神天王という。
九年目の春、天王は本国に帰る途中、蘇民将来の家に寄り、昔のような饗応を受けた。 天王は蘇民将来に「巨端将来には宿を借りようとした時に追い出された恨みを忘れる事ができない。多くの眷属神を放って滅ぼそうと思う」と云った。 蘇民将来は「私の一人娘があの家で召使いとなっています。名を端厳女、または蓮華女といいます」と云った。 天王は「柳の枝を切って札を作り「蘇民将来之子孫」と書いて、あなたの娘の肩に着けなさい」と云った。
蘇民将来は札を秘かに端厳女に送った。 娘は父の教えに従って札を肩に着けた。 その後、天王の王子と眷属八万四千六百五十四神が巨端将来の邸に乱入し、一日一夜の内に百余人を滅ぼした。 その中で蘇民将来の娘だけが難を逃れる事ができた。
天王は蘇民将来と端厳女を連れて中天竺の法界自在国に帰った。 蘇民将来が自分の国に戻る時、天王は「蘇民将来之子孫を名乗る者がいたら、その家に悪神たちを入れない事を誓おう」と云った。 蘇民将来の端厳女は今は波利釆女、または粟佐梨と云う。

牛頭天王は三面十二臂である。 頂上に牛頭が有り、右手には鉾を執り、左手で施無畏の印を結ぶ。 東王父・西王母・波利釆女・八王子など多くの従神が取り囲んでいる。
『普賢経』『牛頭天王経』『波利釆女経』『八王子経』などは竹林精舎で説かれた。 会衆は大比丘衆八万人・菩薩衆三万人である。
仏は文殊菩薩に告げた。 「この会衆の中に一人の菩薩がいる。 名は牛頭天王菩薩または武答天神菩薩・薬宝賢菩薩と云う。 この菩薩は薬師如来の変現である。 左面は日光菩薩、右面は月光菩薩、頂上の牛頭は妙法蓮華経である。 両腕は十二神将または十二大願の意である。 左足は東方浄瑠璃世界、右足は西方極楽世界である。 東王父神は普賢菩薩、西王母神は虚空蔵菩薩、波利采女は十一面観音である。 蘇民将来及び粟佐利女は、本地薬王・薬上の二菩薩である。 蛇毒気神及び海龍王は、本地弥勒・龍樹の二菩薩である」

問、八王子の本地は如何なるものか。
答、本地については異説がある。 ある説では、八王子は大聖文殊である。 別の説では、八王子は八部菩薩である。 義浄訳『秘密心点如意蔵王呪経』(或は『武答天神王経』と云う)にそう説かれている。 『八王子真言』には「普賢・文殊・観音・勢至・日光・月光・地蔵・龍樹・唵阿彼耶云々」と云う。
問、八王子の名は。
答、説によって相違がある。 『武答天神経』から書き写すと以下の通りである。
第一王子は星接、別名は太歳神、または相光天王、本地は普賢菩薩である。
第二王子は唵恋、別名は大将軍、または魔王天王、本地は文殊師利菩薩である。
第三王子は勝宝宿、別名は歳刑神、または徳達神天王、本地は観世音菩薩である。
第四王子は半集、別名は歳破神、または達尼漢天王、本地は勢至菩薩である。
第五王子は解脱、別名は歳殺神、または良侍天王、本地は日光菩薩である。
第六王子は強勝、別名は黄幡神、または侍神相天王、本地は月光菩薩である。
第七王子は源宿、別名は豹尾神、または宅相神天王、本地は地蔵菩薩である。
第八王子は結毘、別名は大陰神、または倶摩良天王、本地は龍樹菩薩である。

大興善寺の不空三蔵訳『天形星真秘密』上には、牛頭天王と武答天神は一体異名と説いている。

祇園大明神(男体)

八坂神社[京都府京都市東山区祇園町北側]
中御座の祭神は素盞嗚尊。
東御座の祭神は櫛稲田姫命で、神大市比売命と佐美良比売命を配祀。
西御座の祭神は八柱御子神(八島篠見神・五十猛神・大屋比売神・抓津比売神・大年神・宇迦之御魂神・大屋毘古神・須勢理毘売命)。
また、傍御座に稲田宮主須賀之八耳神を祀る。
二十二社(下八社)。 旧・官幣大社。

文献上の初見は藤原忠平『貞信公記』の延喜二十年[920]閏六月二十三日条[LINK]
咳病を除かんが為、幣帛・走馬を祇園に奉るべきの状、真祈をして申さしめ、又鑑上人をして冥願を立てしむ。

吉田兼倶『二十二社註式』(祇園社)[LINK]には
牛頭天皇、初て播磨国明石浦(兵庫県明石市の海岸)に垂迹し、広峯(広峯神社[兵庫県姫路市広嶺山])に移る。 其の後、北白川東光寺(岡崎神社[京都市左京区岡崎東天王町])に移る。 其の後、人皇五十七代陽成院元慶年間[877-885]に感神院に移る。
とある。 内閣文庫本『二十二社記』[LINK]はこの後に「託宣に曰く、我れ天竺祇園精舎守護の神云々。故に祇園社と号す」と付記する。
更に続けて
人皇六十一代朱雀院承平五年[953]六月十三日の官符に云く、「応に観慶寺を以て定額寺と為すべき事。〈字は祇園寺〉山城国愛宕郡八坂郷地一町に在り。檜皮葺三面堂一宇、〈庇四面在り〉檜皮葺三面礼堂一宇、〈庇四面在り〉薬師像一体・脇士菩薩像二体・観音像一体・二王・毘頭盧一体・大般若経一部六百巻を安置す。神殿五間檜皮葺一宇、天神・婆利女・八王子。五間檜皮葺礼堂一宇」と。 右、山城国の解を得るに称く、「故常住寺十禅師伝燈大法師円如、去る貞観年間[859-877]に建立為し奉る」と。 或は云ふ、「昔、常住寺十禅師円如大法師、託宣に依り、第五十代清和天皇貞観十八年[876]、山城国愛宕郡八坂郷樹下に移し奉る。其の後、藤原昭宣公、威験を感じ、台宇を壊ち運び精舎を建立す。今の社壇は是也」と。 第六十四代円融院治五年、天延二年[974]三月、官符を被る、愛宕郡観慶寺感神院を以て延暦寺別院と為す事。 六十四代円融院天禄三年[972]、祇園社を以て日吉の末社と為す。
とある。

『社家条々記録』[LINK]には
貞観十八年、南都円如上人、始て之を建立す。 是れ最初の本願主也 。別記に云ふ、貞観十八年、南都円如、先づ堂宇を建立し、薬師・千手等の像を安置し奉る。 則ち今年夏六月十四日、天神、東山の麓、祇園林に垂跡せしめ御座す。
とある。

『東大寺雑集録』巻一の承和四〈甲午〉年[837]条[LINK]には
六月廿六日、興福寺円如法師祇園天神を建立す。 是れ則ち春日水屋(春日大社の摂社・水谷神社)を移す。
とある。

『峯相記』の広峯山の条[LINK]には
元正天皇御宇霊亀二年[716]、吉備大臣入唐す。 在唐十八年、所学十三道、殊に陰陽を極芸とせり。 聖武天皇御宇、天平五年[729]帰朝、当山の麓に一宿し給へり。 爰も夢にも非ず、現にも非ず、貴人出来して、「我、古丹が家を追出され、蘇民が為に助られて、浪人と成てより以来、居所未だ定まらず。汝と唐朝に契たりしを憑て追ひ来る也」云々と。 則ち当山に崇め奉る牛頭天王是也。 数年を経て後、平安城を立られし時、東方守護の為に祇園荒町に勧請し奉ると云々。 恐らくは当社(広峯神社)を以て本社と云べしと云々。
とある。

『都名所図会』巻三(左青龍)の祇園社の条[LINK]には
抑祇園牛頭天皇を、愛宕郡八坂郷感神院に勧請せし濫觴は、聖武天皇の御宇、天平五年三月十八日、吉備大臣唐土より帰朝の時、播磨国広峰に垂跡し給ふを崇め奉れり。 其後常住寺の十禅師円如上人に神託あつて、帝城守護の為、貞観十一年[869]に遷座し給ふなり。
薬師堂は観慶寺と号す。 本尊は薬師如来、作は伝教大師なり。 陽成院の勅願所として、開基は円如上人といふ。
とある。

『八坂郷鎮座大神之記』[LINK]には
斉明天皇即位二年〈丙辰〉[656]八月、韓国の調進副使伊利之使主再来の時、新羅国牛頭山に座す須佐之雄尊の神御魂を斎き祭り来りて、皇国に祭り始む。 之に依りて愛宕郡に八坂郷並に八坂造の姓を賜ふ。 十二年の後、天智天皇の御宇六年〈丁卯〉[667]、社号を感神院と為し、宮殿を造営して、牛頭山に坐す大神を牛頭天王と称し奉り、祭祀畢る。
とある。

明治初年の神仏分離により祇園感神院は廃され、八坂神社となった。 観慶寺の薬師如来立像などは大蓮寺[京都府京都市左京区東山二条]に移管された。

牛頭天王

『二十二社註式』の祇園社の条[LINK]には
中間〈牛頭天皇。大政所と号す。進雄尊の垂跡〉
とある。

『諸社根元記』の祇園の条[LINK]には
中間 大政所、牛頭天王、素戔嗚尊の垂跡、本地薬師。
とある。

『伊呂波字類抄』巻八の祇園の条[LINK]には
牛頭天王の因縁。天竺より北方に国有り。 その名を九相と曰ふ。 其の中に国有り。名を吉祥と曰ふ。 其の国の中に城有り。 牛頭天王、又の名は武塔天神と曰ふ。
とある。

『祇園牛頭天王御縁起』[LINK]には
須弥山の半腹に国有り、豊饒国と云ふ。 其の国の王を名づけて武答天王と曰ふ。 一人の太子有り、七歳にして其の長七尺五寸也。 頂に三尺の牛頭有り、又三尺の赤き角有り。 父大王、希代の太子を生む者哉と思ひ給ひて、大王の位を去りて、太子に譲りたまふ。 其の御名を牛頭天王と号したてまつる。
時に関白殿下・三公・公卿僉議して、此の天王に后宮を迎へんと欲すと雖も、御姿を驚怖して近き奉る女人これ無し。
とある。

『三国相伝陰陽輨轄簠簋内伝金烏玉兎集(簠簋内伝)』巻一[LINK]には
中天竺摩訶陀国、霊鷲山の艮、波尸那城の西に、吉祥天の源、王舍城の大王を名づけて、商貴帝と号す。 曾て、帝釈天に仕へ善現天に居す。 三界の内に遊戯す。 諸星の探題を蒙りて、名けて天刑星と号す。 信敬の志深きに依りて、今、娑婆世界に下生して、改めて牛頭天王と号す。 (楊憲本では「元は是れ、毘盧遮那如来の化身なり」と付記する) 頭には黄牛の面を戴きて、両角尖にして猶夜叉の如し。 厥の勢い長大にして一由膳那也。 厥の相顔他に異なり、故に更に后宮有ること罔し。
同巻の天道神方の条[LINK]には
天道神は牛頭天王也。 万事に大吉。 此の方に向きて袍衣(胞衣)を蔵す。 鞍置き始め、一切の求むる所、成就の所也。
とある。

承澄『阿娑縛抄』巻第百三十六(毘沙門天王)[LINK]には
大梵如意兜跋蔵王呪経上に云く。 彼の如意蔵王能く万像を変じ、諸の衆生を度する為、十種の降魔の身を現ず。 一には無畏観世音自在菩薩、二には大梵天王、三には帝釈天王、四には大自在天、五には摩醯首羅天、六には毘沙門天王、七には兜跋蔵王、 [中略] 八には多婆天王、九には北道尊星、十には牛頭天王
とある。

上述の承平五年の官符などを見ると、祇園社の祭神は当初は「天神」と呼ばれていたと考えられる。 牛頭天王の名称が文献上で確認できるのは、信西『本朝世紀』の延久二年[1070]十月十四日の祇園社火災の記事(久安四年[1148]三月二十九日条に引用)[LINK]
牛頭天皇の御足焼損す。 蛇毒気神焼失し了んぬ。
とされる。 なお、皇円『扶桑略記』第二十九の同日条[LINK]には
感神院の大廻廊、舞殿、鐘楼、皆悉く焼亡す。 但し天神御躰は取り出し奉る。
とあり、牛頭天王ではなく「天神」と記されている。

天野信景『塩尻』巻之五十三[LINK]には
牛頭天王の梵語〈密宗の次第物に見ゆ〉世に多く知る者なし。 瞿摩掲唎婆耶提婆囉惹、瞿摩は牛の梵語、掲唎婆耶は頭の梵語、提婆は天、囉惹は王なり。
とあるが、これは原語ではなく「牛・頭・天・王」を一字づつ梵語に変換したものだろう。

『望月仏教大辞典』の牛頭天王の項[LINK]にも
或は梵名瞿摩掲唎婆耶提婆囉惹の訳にして、元と印度祇園精舎の守護神なりとも云ふ。
と記すが、
之を印度伝来の神とするは蓋し據る所なきが如し。
と否定的である。

武答天神

『備後国風土記』逸文[LINK]〔卜部兼方『釈日本紀』巻第七(述義三)[LINK]所引〕には
疫隅の国の社。 昔、北海に坐しゝ武塔神、南海の神の女子をよばひに出で坐しけるに、日暮れたり。 彼所に蘇民将来二人在りき。 兄の蘇民将来は甚貧窮しく、弟の将来は富饒みて屋倉一百在りき。 爰に武塔神、宿処を借りたまふに、惜みて借し奉らず。 兄の蘇民将来は借し奉る。 即ち粟柄を以て座となし、粟飯等を以て饗へ奉つる。 奉ること爰に畢へて、出で坐せる後に、年を経て八柱の子を率て還り来て詔りたまはく、「我、将来が為報答ムクイせむ。汝が子孫其の家に在りや」と問はしめたまふ。 蘇民将来答へ申さく、「己れ女子とこの婦と侍ふ」と申す。 即ち詔りたまはく、「茅の輪を以ちて腰の上に着けしめよ」と詔りたまふ随に着けしめき。 即夜に蘇民と女子二人とを置きて皆悉にころしほろぼしてき。 即ち詔りたまはく、「吾は速須佐雄能神なり。後の世に疫気在らば、汝、蘇民将来の子孫と云ひて、茅の輪を以ちて腰に着けよ。詔の随に着けしめば、即ち家なる人は免れなむ」と詔りたまひき。
とある。
上記の説話は疫隅国社(素盞嗚神社[広島県福山市新市町戸手])の由来であるが、『釈日本紀』では
先師申して云く、此れ則ち祇園社の本縁也。 大仰せて云く、祇園社三所は何神やと。 此の国記の如く、武塔天神は素戔嗚尊也。 少将井は本御前と号く、奇稲田姫か。 南海の神の女子は今御前か。
と述べており、後代に祇園社の祭神を素戔嗚尊とする説の根拠となった。

『伊呂波字類抄』巻八の祇園の条[LINK]には
牛頭天王、又の名は武塔天神と曰ふ。
とある。

『祇園牛頭天王御縁起』によると、武答天王は豊饒国の王で、その太子が牛頭天王である。

祇園大明神(女体)・陰大女・波利釆女

『備後国風土記』逸文における南海の神の女子に相当する。 上記『釈日本紀』では先師の説として「南海の神の女子は今御前か」と述べているが、後代には素戔嗚尊の后(本御前)である櫛稲田姫命と同一視された。

『二十二社註式』の祇園社の条[LINK]には
西間〈本御前。奇稲田媛の垂跡。一名は婆利女。一名は少将井。脚摩乳・手摩乳の女〉
とある。

『諸社根元記』の祇園の条[LINK]には
西間 少将井、波利釆女、稲田姫の垂跡、本地十一面。
とある。

『伊呂波字類抄』巻八の祇園の条[LINK]には
沙竭羅龍王の女の名を薩迦陀と曰ふ。 此れを后と為し、八王子を生む。
とある。

『祇園牛頭天王御縁起』[LINK]には
大海中、沙竭羅龍王の女、其の数多あり。 第一は八歳成仏の女、第二は珍輪義女、第三は婆利釆女也。 此の第三の女、天王の后と為りたまふべしと。
とある。

『簠簋内伝』巻一[LINK]には
是より南海に沙竭羅龍宮あり。 是に三人の明妃あり。 第一を金比羅女と名づく。 第二を婦命女と名く。 北海の龍宮に嫁請して、難陀跋難陀城に収まれる。 爰に第三を頗梨采女と号す。 紫磨黄金の美膚、八十種好の花の粧を備へ、閻浮檀金の麗容に、三十二相の月の桂を写すなり。
歳徳神方の条[LINK]には
此の方は頗梨采女の方なり。 八将神の母也。 容貌美麗にして忍辱慈悲の体也。 故に尤も諸事に之を用ふべき也。
とある。

陰大女とは他資料には見えない名称だが、田中貴子『外法と愛法の中世』には
また、『覚禅抄』第四[LINK]にも吉祥天の父母について記す箇所がある。
斎余本頂経云。 吉祥天女父、頂多門天王。 母ハ陰具大女
この母の名に類似の名前が『神道集』巻第三-十二「祇園大明神事」に見出せる。
此ハ竜王ニハ五人娘在ス。 第一ハ大自在天夫人也。 第二ハ陰大女ト名、即波利釆女ト云フ是也。 (後略)
『神道集』の陰大女は沙迦羅竜王の第二の姫で、後に祇園牛頭天王の妃となる人物である。
とある。
(田中貴子『外法と愛法の中世』、第1部 女神と竜女、第3章 〈玉女〉の成立と限界—『慈鎮和尚夢想記』から『親鸞夢記』まで、砂子屋書房、1993)

天形星

『辟邪絵(地獄草紙)』[LINK]には疫鬼を喰らう鬼神の姿が描かれ、その詞書[LINK]には
かみに天形星と名づくる星まします。 牛頭天王およびかの部類ならび諸々の疫鬼を捕りて酢にさしてこれを食とす。
とある。

『簠簋内伝』巻一[LINK]には
時に虚空界より青色の鳥来たる。 瑠璃鳥と名づく。 形は菊翠の如し。 声は鳩鴒に似たり。 来たりて帝王の檻前に居す。 等しく天王に哢ふて曰く、「我は是れ天帝の使者たり。汝も元同朋たらくのみ。汝を名づけて天刑星と号し、我を名けて毘首羅天子と曰ふ」
同書・巻三の太歳神前後対位の条[LINK]には
太歳常に天刑星の法を行ふ。 今此の行法の間、広寒殿に坐したまひて、四空・四禅・六欲諸天・天王天衆皆悉く囲繞して仁王斎会を勤行する時を太歳位と曰ふ。
同書・巻五(文殊曜宿経)の同時宿之事の条[LINK]には
長安城に人死一万人あり。 是の故、彼の帝王哀傷して天刑星の法を勤む時、牛頭天王現じ給ひ、託して曰ふ。 我が主る所の牛宿、雑乱たるが故に衆人を滅す。 若し此の宿を取りて、毎日の丑時に配当せば苦しむべからず。
とある。

『晋書天文志』[LINK]には
漢代の京房は『風角書』を著した。 それには集星という一章があり、記載されている妖星は、いずれも月の傍に現れるものである。 それぞれ五色の方雲がついており、五つの寅の日に現れる。 それぞれが惑星から生じたものだという。 その書物にいう。 「天槍・天根・天荊・真若・天榬・天楼・天垣は、みな歳星から生じたものである。甲寅の日に現れる。その星のまわりには二つの青色の方雲がある。[後略]」と。これらの星が見えれば、水害・旱害・兵乱・喪事・飢饉・兵乱が起こり、それが指す方角では、国が滅んで王が死ぬとか、敗戦して将軍が殺される。
とある。
(『世界の名著 続1 中国の科学』、山田慶児・坂出祥伸・薮内清訳「晋書天文志」、中央公論社、1975)

天形星(天刑星)の名はこの妖星「天荊」に由来するという説が有る。

婆斯帝回国

未詳。
『簠簋内伝』巻一における波尸那城(楊憲本では「波尸城」)に相当するか。

娑竭羅龍王(海龍王)

娑竭羅(娑伽羅)はサーガラ(Sāgara)の音写で「海」を意味する。

鳩摩羅什訳『妙法蓮華経』序品第一[LINK]には同聞衆として、
八龍王あり、難陀龍王・跋難陀龍王・娑伽羅龍王・和修吉龍王・徳叉迦龍王・阿那婆達多龍王・摩那斯龍王・優鉢羅龍王等なり。 各、若干の百千万の眷属と倶なり。
を挙げる。 また、同経提婆達多品第十二[LINK]によると、文殊菩薩は娑竭羅龍宮において『法華経』を宣説した。

『望月仏教大辞典』の娑竭羅龍王の項[LINK]には
此の龍王は護法の龍神として、法華経巻一序品、華厳経巻一世主妙厳品等に之を列衆の一に加へ、又海龍王経四巻、仏為海龍王説法印経、仏為娑伽羅龍王所説大乗経及び十善業道経各一巻は、仏が特に此の龍王の為に演説せられたる経として伝えらる。 名称の由来に関し、法華経文句巻二下[LINK]に「娑伽羅とは居海に従いて名を受く、華厳に称する所なり。旧に云はく国に因りて名を得と。本は智度の大海に住し、迹は滄溟に処す」と云ひ、華厳経疏巻五[LINK]には「娑伽羅とは此に海と云うなり。 大海中に於いて此れ最尊なるが故に独り其の名を得」と云へり。
とある。

娑竭羅龍王は『備後国風土記』逸文における南海の神に相当する。 『釈日本紀』巻第七(述義三)[LINK]では先師の説として、
祇園の神殿の下に龍宮に通ずる穴有るの由、古来申し伝はる。 北海の神、南海の神の女子に通ふの儀、符合するか。
と述べており、卜部家では南海の神の住処を龍宮と認識していたと思われる。

大自在天王夫人

大自在天(Maheśvara)はヒンドゥー教の最高神シヴァを仏教に取り入れた尊格で、色界・第四禅の色究竟天を住処とする。 その夫人は烏摩(Umā)である。

『望月仏教大辞典』の烏摩妃の項[LINK]には
摩醯首羅天の妃、毘那夜迦天の母にして、胎蔵曼荼羅外金剛部院の西方大自在天の左側に坐せる尊なり。 大聖歓喜双身大自在天毘那夜迦王帰依念誦供養法[LINK]に「摩醯首羅大自在天は烏摩女を婦となし、生む所三千の子あり。其左の千五百は毗那夜迦王を第一と為す。諸の悪事を行ひ、十万七千の諸の毘那夜迦類を領せり。右の千五百は、扇那夜迦善持天を第一と為す。一切の善利を修し、十七万八千の諸の福伎善持衆を領せり」と云ひ、大教王経、第九、第十には金剛薩埵が忿怒身を現じて大自在天を降伏する時[LINK]、左足を以て大自在天を踏み、右足を以て烏摩天后の乳間を踏みて大に逼迫せしめ、終に化度して仏法に引入せし次第を記せり。
とある。

須弥山王夫人

須弥山(Sumeru)は古代インドの宇宙観において世界の中心に聳える高山で、衆山の王として「須弥山王」と称される事も有るが、その夫人とは何を指すのかは不詳。

琰羅王夫人

琰羅王(Yama-rāja)は古代インド神話における冥界の王で、焔摩・閻魔などと音写される。 その夫人は黒夜天(Kāla-rātri)または死后(Mṛiti)である。

『密教大辞典』の黒夜天の項[LINK]には
胎蔵現図曼荼羅外院閻摩天の西にあり、又は暗夜天・黒暗天とも云ふ。 大日経疏五[LINK]及び阿闍梨所伝曼荼羅によらば、閻摩天の東にあり、大疏十六[LINK]には左辺画黒暗后と云へり。 閻摩天の侍后なり、然るに大疏五及阿闍梨所伝曼荼羅の外、死后・黒夜・閻摩后を並べ挙ぐるもの稀なる故に、常に謂ふ閻摩后は即ち黒夜天なるが如し。
とあり、死后の項[LINK]には
閻摩天妃なり、又は死王とも名く、梵名を没㗚底と云ふ。 死后・閻摩后同異につき古来異説あり、阿闍梨所伝曼荼羅には閻摩后の西に閻摩没㗚底后を連ね、大疏五には、閻摩之西作閻摩后及死后、亦是閻摩后也(閻魔の西に閻摩后及び死后を作れ、亦是れ閻摩の后也)と釈し、[中略]玄法・青龍二軌には、南門より東に夜摩女(Yamī)、南門の西に、七母並黒夜死后囲繞と説く、夜摩女は焔摩后なるべきが故に、是等は死后焔摩后を別とせるものなり。 然るに大日経・同疏・広大・摂大二軌等、死后及び黒夜の外に閻摩后を説かざるもの多く、現図曼荼羅には夜摩女(Yamī)ありて死后の名見えず。
とある。

八歳の龍女

鳩摩羅什訳『妙法蓮華経』提婆達多品第十二[LINK]には、八歳の龍女の成仏を説く。
智積菩薩が文殊菩薩に「此の経(法華経)を修行して、速かに仏を得る有りや不や」と問うた時、
文殊師利の言はく、 「娑竭羅龍王の女有り。年始めて八歳なり。智慧利根にして、善く衆生の諸根の行業を知り、陀羅尼を得、諸仏の所説の、甚深の秘蔵悉く能く受持し、深く禅定に入つて諸法を了達し、刹那の頃に於て菩提心を発し、不退転を得たり。弁才無礙にして、衆生を慈念すること、猶ほ赤子の如し。功徳具足し、心に念ひ口に演ぶること、微妙広大なり。慈悲仁譲、志意和雅にして、能く菩提に至れり」
智積菩薩は「此の女の須臾の頃に於て便ち正覚を成ずることを信ぜず」と疑い、舎利弗も「女人の身には猶五障あり、一には梵天王となることを得ず、二には帝釈、三には魔王、四には転輪聖王、五には仏身なり。云何イカンぞ女身速かに成仏することを得ん」と否定した。
爾の時に龍女、一つ宝珠有り。 価直三千大千世界なり。 持以て仏にタテマツる。 仏即ち之を受けたまふ。 龍女、智積菩薩、尊者舎利弗に謂つて言はく、「我、宝珠を献る。世尊の納受、是の事疾しや不や」。 答へて言はく、「甚だ疾し」。 女の言はく、「汝が神力を以て我が成仏を観よ。復此れよりも速かならん」。 当時の衆会、皆龍女の、忽然の間に変じて男子と成つて、菩薩の行を具して、即ち南方無垢世界に往いて、宝蓮華に坐して等正覚をを成じ、三十二相、八十種好あつて、普く十方の一切衆生の為に妙法を演説するを見る。

八王子

『備後国風土記』逸文における武塔神の八柱の子に相当する。

『祇園牛頭天王御縁起』[LINK]には
婆利釆女の宮に入りて、八箇年を送りたまふ。 然る間に八人の王子を誕生せり、七男一女なり。
その名称・本地など[LINK]について
八人の王子はミナ天王の勅を承り、年中の守護の役を定めたまふ。
第一の王子は相光天王と名づく。〈本地は釈迦如来也〉 変化は太歳神なり。 春の三月を行ふ役神也。
第二の王子は魔王天王と名づく。〈本地は文殊師利菩薩也〉 大将軍と変じて、四方を司り、相遶すること三年にして充る也。
第三の王子は倶魔羅天王と名づく。〈本地は弥勒菩薩也〉 歳徳神と変じて、秋の三月を行ふ。
第四の王子は徳達神天王と名づく。〈本地は観世音菩薩也〉 歳末神と変じて、冬の三月を行ふ。
第五の王子は羅侍天王と名づく。〈本地は薬師如来也〉 黄幡と変じて、平満成収等十二支(十二直)を司る。
第六の王子は達尼漢天王と名づく。〈本地は普賢菩薩也〉 伏龍神と変じて、八専を行ふ。
第七の王子は侍神相天王と名づく。〈本地は阿弥陀如来也〉 豹尾に変じて、四季の土用各々十八日を行ふ。
第八の王子は宅相神才天王と名づく。〈本地は地蔵菩薩也〉 大隠神と変じて、夏の三月を行ふ役神也。
此の八王子の眷属は八万四千六百五十四神也。 其の外、十二鬼神・七鬼神等を具足して、彼の蘇民を守護したまふ者也。
とある。

『簠簋内伝』巻一によると、牛頭天王が龍宮城に到った後[LINK]
爰に天王我が大旨を龍王に奏す。 龍王、快然として天王を周章し奉る。 急ぎ不老門を開き、長生殿に移し、頗梨釆女に合歓せしむ。 緑亀丹鶴に賀祥せり。 然して龍王山海の珍味を尽くし、国土の美食を調へ、餉饗すること日久し。 已に三七余歳を経るも、天王と女御と別るゝ無きこと浅からず。
故に契盟に暇罔く、宜しく八王子を得る。 一は総光天王、二は魔王天王、三は倶摩羅天王、四は得達神天王、五は良待天王、六は侍神相天王、七は宅神相天王、八は蛇毒気神也。
巨旦調伏の威儀を述べた後[LINK]には
信じても信ずべきは、牛頭天王・八王子等なり。 其の八王子とは、太歳・大将軍・大陰・歳刑・歳破・歳殺・黄幡・豹尾等也。
八将神方の条[LINK]には
八将神は牛頭天王の王子にして、春夏秋冬四土用の行疫神なり。
第一太歳神は総光天王、本地は薬師如来なり。 (楊憲本では「本地薬師如来の垂迹なり」)
 此の方に向きて造作に大吉。敢へて木を栽らず。
第二大将軍は魔王天王、本地は他化自在天なり。 (楊憲本では「盤牛王の化身と申すなり」)
 此の方に向きては万事に凶。故に世の人、三年塞がりと号す。
第三大陰神は倶摩羅天王、本地は聖観自在尊なり。 (楊憲本では「本地は観自在菩薩なり」)
 此の方に向きては万事に凶。殊に嫁取結婚等は凶。
第四歳刑神は得達神天王、本地は堅牢地神なり。 (楊憲本では「本地は毘沙門天王なり」)
 此の方に向きては犯土は凶。爾りと雖も兵具を収むるは大吉。
第五歳破神は良侍天王、本地は河伯大水神なり。 (楊憲本では「本地は龍樹菩薩なり」)
 此の方に向きては海河を渡らず。造作は則ち牛馬死す。
第六歳殺神は侍神相天王、本地は大威徳なり。 (楊憲本では「本地は千手観音なり」)
 此の方に向きては弓箭を取らず。嫁取結婚等は凶。
第七黄幡神は宅神相天王、本地は摩利支天なり。 (楊憲本では「本地は勝軍地蔵なり」)
 此の方に向きて開軍、陣幡は吉。財宝を収るは尤も凶。
第八豹尾神は蛇毒気神、本地は三宝大荒神なり。 (楊憲本では「本地は三宝荒神なり」)
 此の方に向きては大小便するは凶。六畜を収めず。
とある。

『吽迦陀野儀軌』麼迦多聞宝蔵吽迦陀野神妙修真言瑜伽念誦儀軌𮥩𮥟漫荼羅品第一[LINK]には
観證入曼荼羅世界。 中央主都鉢主多聞天王、弥王上居。 山下三夜叉鬼女有。 大天王腰長大刀著。 東方牛頭有、正面可甚怖畏。 頂上十一面怖畏形、各牛角出為出其荘厳。 又正面左右各一面有、其又畏相、衣服帝釈天相也。
其女右第一良侍天、左手鉾右𨨞。 次赴須王神、左右持独鈷。 左方一達尼漢天、左右作拳、各牙当臆意左方鉾立。 次侍相天、右刃左鉾。 次四方東北角一渇都天王、左弓右二箭。 次相光天、合掌左方鉾立。 次魔王天、左鉾右刀未地付。 次倶魔羅王、左刀右棒、左方鉾立。 次徳達天王、左弓右箭、左鉾立。 次宅神摂天、左手持弓横当意、右手持用箭。
とあり、八王子に相当する尊名が見られる。

巨端将来

『備後国風土記』逸文における「蘇民将来二人」の弟の将来に相当する。

『祇園牛頭天王御縁起』[LINK]には
然るに其の日将さに暮れんとし宿所を需むるに、イトナむべき屋無し。 時に郷人語りて云ふ、「此の処に古端長者有り。彼の屋、御宿所に宜しかるべし」。 即ちカシコに到りて、士卒を遣はして宿を借るゝに肯許ぜず。 重ねて大臣を以て借るゝに更に諾さず。 其の時に天王自ら往きて宿を借る。 彼の長者、慳貪世に超へ、邪見にして意を恣にす。 故に却りて怒り天王を罵りて、終に宿を許るし奉らざるなり。 天王大に怒つて曰く、「此の如きの邪見の族をば世に置くべからず」。 即ち蹴殺さんと欲したまふ。 大臣言さく、「御祝の時節なれば然るべからず、後の日に追罸あるべし」と云々。
天王が后・八王子を連れて豊饒国に帰る途中、
御眷属の中に見目・嗅鼻といふ者有り。 彼に勅して言はく、「汝等、古端が家に行きて、何事の有る、之を見るべし」と宣下有り。 二人勅を承て彼に行く。 然るに彼等が神変は人の目に見ずして行く。 爰に古端、相師を召して言はく、「此の間、以ての外に恠異多し、之を占へ」と。 相師曰く、「三日が内の大凶、天王の御罸なり」と云々。 古端大に驚きて曰く、「何なる祈祷を以てか、此の災難を遁れんや」と。 相師云ふ、「縦ひ三伏の祭を為すと難も、天王の御罸は遁れ難し。身体唯危亡在り」と。 古端、相師が袂を引き留めて云はく、「冀くは祈祷の勤を示せ」と。 相師答へて曰く、「千人の大徳の法師を屈請し、大般若経を読誦すること七日七夜せば、若くは此の難を遁る可きか」と。
古端大に悦び、千人の法師を請じ、般若経を講読し奉る。 見目・嗅鼻走り還つて此の由を奏す。
天王、八万四千等の眷族に勅して曰く、「古端が家に行きて、従類眷族等悉く追罸せしむべし。邪見放逸の徒は末代の煩なり」と云々。 五千余人の眷族部類滅亡せしめんと欲して、既に発向して古端が家を見るに、千人の法師並び座して、大般若を読誦す。 彼の六百巻の経は忽ち四十余丈六重の鉄の築地と為る。 函は天盖と為る。 更に入るべき様無し。 走り還りて此の旨を奏聞す。 天王重ねて勅して曰く、「亦還りて彼処を巡見すべし。千人の法師の中に、隻目に疵ある法師有る。飲酒に飽満して、酔眠して経を読まず、節々トキドキ驚くと雖も、文字に当らず、謂れ無き字を読む法師有るべし。彼所より乱入し、古端及び従類等悉く蹴殺すべし」と。
古端長者を滅ぼした後、
末代なりと雖も、巨端の類にては、皆罰する所也。 誠に慳貪放逸の者は、諸天三宝の冥罸を蒙るき也。 然るに蘇民は貧賤と雖も、慈悲なるに依りて、憐愍擁護の徳を蒙る也。 然れば巨端を呪詛する者をば、天王の御眷属と思し聞て、擁護有るべしとの御誓約これ在り。 茲に因て、世上の祝儀は彼を呪詛することを表すなり。 十二月の末に比、人々節酒を造るは、古端が血を表し、餅を舂きて大に取りてアタタケと名づくは、端が肉を形どる(象る)。 餅を輪に入るゝは骨なり。 赤き餅は端が身色なり。 扱打ギツチユウと謂て玉をウツは端が眼なり。 十五日にシメを焼き失ふは、端が死骸也。 悪魔を退罰し、凶邪を払ひ捨つる意也。
又、正月にオコナヒと号して堂舎を叩くは、八万四千六百五十四神等眷属、巨端が家に入て、垣壁を叩く表相也。 五月五日の角粽チマキは古端が髻也。 菖蒲は首の髪也。 又六月一日に天薬神を降したまふ時、正月の餅を取り出して、端が執骨と号すれば、天王大に歓喜したまふと云々。
とある。

『簠簋内伝』巻一[LINK]には
天王歓んで、三日斎して、宜しく車馬を企て、甚だ眷属を率して、南海に趣かんと欲す。 厥の道遼遠にして八万里程なり。 君未た三万里に遷はず。 人馬労驤す。 南天竺の傍に一の国有り。 夜叉国と曰ふ。 彼の花洛に望む。 厥の国の鬼王を名づけて巨旦大王と号す。 厥の国の四姓、魑魅魍魎の類たり。 天王安然として彼の鬼関に望む。 鬼王弾呵して戸を閉ざし天王を通さず。 宿乏しうして舌を弾じて空しく去る。
天王が南海で頗梨采女を娶って八王子が誕生した後[LINK]
天王、中天に帰らんと欲す。 或る時、八王子に命じて曰く、「我は中天の主たり。往昔南海に趣きし時、中間に国有り。広達[遠]国と曰ふ。彼の国主を巨旦大王と大王と名づく。ミナ是れ、魑魅魍魎の類なり。己に彼の鬼門を望みて、一宿を求めんと欲す。巨旦恚怒して我をして弾呵せしむ。我、已に斎せん故に恐然として退去す。今、彼の国に到り鬼王が城郭を破却せんと欲す」。 時に八王子等、各四衆八龍等百千の若干の眷属を相率ゐて、上には瞋恚の鎧を着し、手には降魔の剣を抱き、神通の弓に飛行の矢を矧け、刀杖限り罔し、干戈色を交へ、己に彼の国に蜂起せしむ。
トキに鬼王忽然として阿羅藍鬼の相有り。 寔に不思議の相を成し、博士に命じてトを問ふて曰く、「何なる妖孽有らんや。深く阿羅監鬼の相を受け、精気貞まらず。胸躍つて動搖す。汝以つて深く察せよ」。 士謹みて天地陰陽の員数を勘へ、亀甲八郭の経旨を閲するに、「昔中天に王有り。牛頭天王と号す。将に婦を求めん為に南海に趣く。頭に牛角の相有り。関門に望むと雖も戸を閉ぢて弾呵す。王、斎せしゆゑに妨碍を為すこと罔し。早く廿一年を経。宜く南海に至り、頗梨釆女を嫁請して八王子を生ず。今、厥の八王子等、四衆八龍等百千若干の眷属を相具して、此の城郭を破却せんと欲す。豈に以て此の禍を遁るべけんや」。鬼王が曰く、「何なる祭祀を以て解除せしめん」。 士が曰く、「一千人の苾蒭(僧侶)を供養して、正に退散することを得べし」。 鬼王が曰く、「何なる法を勤修せん」。 士が曰く、「太山府君王法を行じて頗る解除すべし」。
辰に鬼王歓喜して、天には鉄網を張り、地には磐石を敷く。 四方を長鉄の築地を構じ、同じく外には大沢の溝堰を堅め、内には玉の宝殿を造り、同じく清浄の床を飾る。 嬉慢歌舞の八旬の大衆は四維に安座し、鉤索鏁鈴の四衆の薩埵は四方に侍立す。 同じく宝の高坐の上には羅綾の打敷を掛け、并びに天蓋の瓔珞、幢幡の華慢は維の風中に飜覆す。 清浄の明僧有り。 諸の大陀羅尼を唱満す。
爰に天王、安然として彼の鬼館を望む。 鉄城高大にして神力方便の術意にも更に叶ひ難き者也。 時に天王阿儞羅・摩儞羅の両鬼を以て鑑見せしむ。 爰に懈怠の比丘有り。 深く睡眠に沈み、偈句を諳んず。 故に真言詳らかならず。 已に牖窓と成りて、大穴生ず。 爰に天王便を得て、神力の翎をツクロひ、彼の鬼舘に入りたまふ。 諸の眷属、共に乱入し、彼の一族を没敵すること沙揣を蒔くが如し。
とある。 この個所は、楊憲本では太山府君王法ではなく「祭星の法」とする。
后妃釆(頗梨釆女)・八人王子等、百千若干の眷属を相伴ひ、彼の広遠国に到り、八万四千の温病鬼と成りて、巨旦が一族を破没せんと欲す。 時に巨旦、忽然として胸驚動揺し、速かに博士を呼び、これを相せしむ。
博士が云く、「祭星の法に任せて、金銭銀錦を抛てば、豈此の災に逅はんや。啻に、爰に一の法術あり。汝、まさに七珍をもつて、道場を厳飾し、また、金玉を柱となし、羅綾を蓋となし、然して一千人の苾蒭を供養して、衆僧をして、百部の大般若・仁王経を講読せば、宜しく此の害を免るべし」と。
辰に巨旦歓喜して、忽に衆僧を集めて、般若会を修す。 厥の威力、十六大丈の鉄壁となりて、四方に囲繞し、上に鉄羅網を掩ひ、下に盤石を積る。 爰に天王、彼の門閭に望み、四面堅固にして、神力更に及ぶことなし。 爾に、阿儞羅・摩儞羅の両鬼をもつて、之を見せしむ。 鬼王、これを鑑るに、懈怠の比丘あり。 深く睡眠に沈み、偈句を諳んず。 已に牖窓と成りて、大穴生ず。 鬼王、喜びて天王に奏す。 天王、熙々として、かの牖窓を凌ぎ給ひ、然して左に方願力智の弓を褰げ、右に忍進禅の箭を矧げ、「枳哩枳哩縛日羅曳示吽発咤」と、射放し給へば、館中に籠る巨旦が一族、皆射賊され畢りぬ。
巨旦大王を滅ぼした後、
然して后、彼の巨旦が屍骸を切断す。 各五節に配当し、調伏の威儀を行ず。
厥の五節の祭礼とは、正月一日の赤白の鏡餅は巨旦が骨肉なり。 三月三日の蓬萊の草餅は巨旦が皮膚なり。 五月五日の菖蒲の結粽は巨旦が鬢髪なり。 七月七日の小麦の素麺は巨旦がスジなり。 九月九日の黄菊の酒水は巨旦が血脈なり。 総じて蹴鞠は頭、的は眼なり。 門松は墓験なり。 修正の導師は葬礼の威儀、咸是れ巨旦調伏の儀式なり。
然して、牛頭天王、龍宮界より閻浮提に還帰したまふ。 長保元年[999]六月一日、祇園精舎に於て三十日の間巨旦を調伏したまふ。 今の世に至るまで此の威儀を学ぶ。 六月一日の歯堅肝要也。 悪みても悪むべきは巨旦が邪気、残族、魑魅魍魎の類なり。
金神七殺方の条[LINK]には
此れ金神は巨旦大王が精魂也。 七魂遊行して南閻浮提の諸衆生を殺戮するなり。 故に尤も厭ふべき者也。
とあり、非常に恐れられた。

蘇民将来

『備後国風土記』逸文には「蘇民将来二人ありき」とあり、兄弟二人を蘇民将来と称していたが、後代の文献では貧窮の一人を蘇民将来とする事が多い。

『祇園牛頭天王御縁起』によると、牛頭天王が古単長者に宿を断られた後[LINK]
仍て余の家に向つて宿を求む。 家主云ふ、「御宿は望むと雖も、恨むらくは貪乏の陋宅にして御宿に足らず」。 天王曰く、「旅宅は必ず貧富を選ばず」とて、即ち家に入りたまふ。 彼の屋の為躰テイタラク、上は藁葺、垣はコモ張、敷物は茅ムシロたり。 即ち亭主茅席一枚を取出して曰く、「此は新しき席なり、天王に敷かせ奉るべし」と。 諸大臣・三公等は古き茅ムシロに坐す。 然るに供御には粟飯を備へ奉る。 夜明ければ既に出で給ふ。 天王、主に語りて曰く、「人は慈悲を以て本と為す。今宵の旅宿、感歎極まり無し。汝の名は何」と。 主、「蘇民将来」と答へたてまつる。 天王重ねて曰く、「汝の志、誠に深し。貧家なるに依つて玉を与ふべし、此の玉をば牛玉と名づく。是の玉を持てば、所願悉く成就して満足せざるといふこと無からん」と。 語りて玉を与へ竟りて則ち龍宮にミユキなり。
天王が龍宮で婆利釆女を娶って八王子が誕生した後、
厥の後、天王、王子並に后宮を相具して豊饒国に還御なる。
時に又蘇民の家をして御宿所に定めらる。 彼の節に当りて、蘇民が心中に念願して云く、「仰ぎ冀くは富貴人と成りて、今一度天王に御宿召されば、生前の大慶為るべし」と。 彼の牛王に向ふこと尋常の人に向ふが如くして、所願の次第を言語カタる。 即時に屋宅並に七珍万宝、意の如くに涌出す。 不思議の思ひを為す。 其の期に当りて天王の御幸あり。 蘇民大に喜悅の眉を開き、頭を地に投げて、天王を恭敬し礼拝し奉る。
とある。

『簠簋内伝』巻一[LINK]によると、牛頭天王が巨旦大王に宿を断られた後、
爰に千里の松園有り。 彼の林中に陰る。 爰に一の賤女あり。 手に筟笊を持ち、肩に篇竿を担ぎて、松の翠葉を拾ふ。 天王問ふて曰く、「汝に室宅有りや、暫く躰留を為さん」。 女曰く、「我は則ち巨旦が奴婢たり、宿は少くして局の内なり。是より東方一里程を去りて浅茅生ふる原あり。彼の曠野の中に莓買ムグラ生ひ掛かりたる庵有り。貧賤にして禄乏し。彼を蘇民将来と曰ふ。外には慈哀の志を抱き、内には悲敬の計らひを含む。彼に往きてて宿を求め玉へ」と云ふ。
天王歓喜し、決然と東に向ひ、車の轍を攀ぢ駒の響をカラメかし、急ぎ彼の野中に至る。 爰に柴門有り。 同じく藁屋の扉有り。 彼の庵主を見るに、齡長けたる老翁なり。 手には柴の箒を抱い、室内の塵を掃ひ、足には藁履を沓いて庭前の草を竭す。 爰に天王、車を羚羊のアゼに轟かし、馬を兎狢の径にハシラせて、速に往きて、旅宿を問ひたまふ。 将来微笑して曰く、「我は貧賤の主たり。家はワズかにして三閣に過ぎず。豈若干の眷属を収留せんや」。 天王曰く、「我一り宿留せん。正に愍念すべし」。 時に将来梁粟の茎を抱きて上閣の席と為す。 天王歓喜して彼の席上に座し給ふ。
天王曰く、「我若干の長途を凌ぎて人馬共に疲労す。汝粮食有りや」。 翁曰く、「我は是。貧賤にして禄乏し。更に一升の米なし」。 併し爰に一つの瓢あり。 瓢の中に粟米を収む。 幽にして半器に過ぎず。 是を瓦釜の中に収め、煮熱すること刹那程なり。 是をナギの葉上に置きて、天王等を餉饗し、眷族に配補す。 天王曰く、「汝の志足れる哉、大なる哉。禄は鰥寡孤独の人にも劣れり。心は富能貴徳の君にも勝れり。汝が其の志を謝せん」。 千金を抱きて亭主に報ず。
将来曰く、「君は何方より何処に往かせたまふ」。 天王詫げて曰く、「我は中天の主たり。未だ后宮罔し。故に南海に明妃有り。彼の女に嫁娶せんと欲す。是れより娑竭羅城へは幾ばくの長途を凌がんや」。 将来曰く、「中天より南海に至ること、厥の道八万里也。君未だ三万里程に逮はず。茲より彼に到ること巨海深遠にして車馬の行路少なり。何を以て南海に到り、何に依りて龍女に合はん」。 辰に天王愁然として已に中天に帰らんと欲す。 将来重ねて曰く、「我に一の宝船有り。名けて隼鷂と曰ふ。両端高大にして龍頭鷁首を学び、脚早く行くこと速やかなり。刹那に数万里程を過ぐ」。 時に天王歓喜踊躍の思に住し、咸く車馬を擲つて、彼の船中に移り、忽然として須叟に龍宮城に到る。
また、牛頭天王が巨旦大王を滅ぼした後[LINK]
後に蘇民将来が所に至る。 変じて祐しき長者なり。 久しく天王の帰国を期す。 五宮を造り八殿を構へ、八王子を請じ入れて、三日車を停め、諸珍果を尽す。 故に天王喜快して、彼の夜叉国を蘇民将来に報ず。 然して誓願して曰く、「我末代に行疫神と成て、八王子眷属等、国に乱入す。汝が子孫なりと曰へば妨碍すべからず。汝に一の守護を定む」。 所以る二六の秘文を授く。
天徳神方の条[LINK]には
天徳神とは蘇民将来の方也。 或は武塔天神と白ふ。 宜しく此の方に向はば病を避くべし。 舟に乗るは吉。 剛猛、造舎、出行は吉。
此の神、広遠国の王なり。 牛頭天王の大檀那也。 八万四千の行疫神流行するも、此の方を犯さず。 大吉の方と識るべき也。
とある。

蘇民将来は八坂神社の摂社・疫神社に祀られている。 夏越祭では参拝者は疫神社の鳥居に設けられた大茅輪を通って邪気を祓い、茅之輪守(「蘇民将来子孫也」護符)と粟餅を社前で授与される。

長岡京市埋蔵文化財センター[LINK]によると、京都府長岡京市の開田四丁目で出土した木簡の表裏には「蘇民将来之子孫者」と墨書されており、蘇民将来に関わる信仰が長岡京時代[784-794]まで遡ることを示している。

粟佐利女(端厳女・蓮華女)

『備後国風土記』逸文における「蘇民の女子」に相当する。

『祇園牛頭天王御縁起』[LINK]では巨端将来の乙姫に相当する。
時に蘇民将来曰く、「彼の巨端将来が娘、乙姫一人許り、之を恵みたまへ。彼の姫、少心にして孝順なり」と云々。 時に天王言はく、「然らば茅輪を作りて、赤き絹のキレに褁みて、〈今の続命縷是也〉「蘇民将来之子孫也」と云ふ札を帯に付けよ。彼の災難を免るべし」と。

『簠簋内伝』巻一[LINK]では巨旦の奴婢女に相当する。
爰に天王の曰く、「我昔此の国に到る時、此の松園の中に一人の賤女有り。巨旦が奴婢女たりと雖も、我が為には恩徳の人なり。彼の女を助けんと欲す」。 桃の木の札を削りて、急急如律令の分を書写し弾指せしむ。 彼の牒、賤女が袂の中に収まる。 然して此の禍災を退く。

粟佐利女と類似した名称に「粟舎利」がある。 『河原由来書』には
そもそも河原に奉ずる氏神は、天竺毘舎利国の大王縁太羅太子と申し候。
かの縁太羅王子、日本穐津嶋に我手指七つ切り投げ給ひ、近江国志賀浦に流れ留まり、人の形となり候。 その名を粟舎利と申すなり。 その時、巨旦大王と申す者あり、賢貪第一の者に候間、祇園牛頭天王天竺より飛び来り給ひ、かの長者に罰を当て給ふとき、かの粟舎利の子に蘇民将来と申す者あり。 かの者の内に奉公仕り候。天王かの蘇民将来の命ばかり助け給ふなり。
粟舎利ならびに蘇民将来親子は志賀浦に住み給へば、河原の先祖なり。 粟舎利は志賀明神と祝ひ給ふなり。
とあり、粟舎利の子を蘇民将来とする。

薬宝賢菩薩

「赤山大明神事」では薬宝賢明王とする。

覚禅『覚禅鈔』(薬師法)[LINK]には
祇薗牛頭天王 薬宝賢童子〈本地薬師〉の如し。
神農〈薬師の所変と云々〉医師説。
とある。
三崎良周「中世神祇思想の一側面」には
但しここにいう薬宝賢童子というのは明らかではない。 薬師経関係の経軌にも見えないようである。 しかし、阿娑縛抄第百五十八の毘沙門天王巻[LINK]に「義釈四に云く。北門西面に於て当に毘沙門王を置くべし。其の左右には夜叉八大将を置け。一をは摩尼跋陀羅と名づく、訳して宝賢と曰ふ。二をは布魯那跋陀羅と名づく、訳して満賢と曰ふ」とあるし、後世の作ではあるが、覚千(1756~1806)の自在金剛集三[LINK]には、毘沙門の眷属として宝賢大将というものを出していることは注意すべきで、これ等には宝賢の上に薬の字のないことが少しく疑問であるが、やはり同じものと見て支障はないようである。
薬宝賢明王とか或いは童子は、毘沙門の眷属としては支障がないことになるし、それは宝賢とも別のものでないことにもなろう。
とある。
(三崎良周『密教と神祇思想』所収、創文社、1992)

東王父・西王母

『山海経』には「又西すること三百五十里、玉山といふ。是れ西王母の居る所なり。西王母の状は、人の如くして、豹の尾、虎の歯ありて、善く嘯ゆ。蓬髪にして勝(髪飾り)を戴く。是れ天の厲(病神)及び五残(災禍悪疫を司る星)を司る」(西山経)、「西王母、几に梯りて、勝を戴く。其の南に三青鳥あり。西王母の為に食を取る。昆侖虚の北に在り」(海内北経)、「人あり、勝を戴き、虎歯にして豹の尾あり、穴処す。名づけて西王母といふ」(大荒西経)とあり、疫病神の取締りを任務とするらしい。
『荘子』には「西王母は之(道)を得て、少広(山)の上に坐す」(大宗師編)とあり、西王母を得道の真人としている。 また、『淮南子』には「羿、不死の薬を西王母に請ひしに、恒娥竊みて月に奔る」(覧冥訓)とあり、西王母を不死の薬の持主として、神仙として扱っているのが窺われる。
後漢の頃から西王母と並んで東王公が崇拝され始めた。 『呉越春秋』には「東郊を立てて以て陽を祭り、名づけて東皇公といふ。西東郊を立てて以て陰を祭り、名づけて西王母といふ」とある。
魏晋時代以後になると、東王公と西王母とを一対の神として見る傾向が著しくなり、『集仙録』には「東王公は男仙を宰領し、西王母は女仙を宰領する」とある。
(森三樹三郎『支那古代神話』、第1章 神々の列伝、西王母[LINK]、大雅堂、1944)

『伊呂波字類抄』巻八の祇園の条[LINK]には
牛頭天王、又の名は武塔天神と曰ふ。 其の父の名を東王父天と曰ひ、母の名を西王母天と曰ふ。 其の二人の間に生れし王子を名づけて武塔天神と曰ふ。
とある。

蛇毒気神

『二十二社註式』の祇園社の条[LINK]には
東間〈蛇毒気神は龍王の女。今御前なり〉
とある。

『諸社根元記』の祇園の条[LINK]には
東間 蛇毒気神、沙竭羅龍王女の垂跡、本地毘沙門。
とある。

一条兼良『日本書紀纂疏』上第五[LINK]には
三は蛇毒気神、疑ふらくは是れ八岐大蛇の化現か。
とある。

一方、『簠簋内伝』巻一の八将神方の条には
第八豹尾神は蛇毒気神、本地は三宝大荒神。
とあり、『簠簋抄』巻一[LINK]には
蛇毒鬼とは、龍宮にて七人の王子を生し給ふ時、衣那と月水を血逆の池へ捨給ふ。 彼が集りて蛇毒鬼神と成り給ふ。 しかるに七王子を召つれて閻浮提に帰り給ふ時、海上にて舟動かざるに依て、珍財を海底に沈れども其の験無し。 其の七王子の裳を切て沈め給ふ時、第三の王子を直に海中に入れ給ふ時、彼の蛇毒鬼、大陰神を戴き上て、蛇毒が曰、「我も是の王子たり。何ぞ捨て給ふや」。 天王の曰、「我が子にあらず」と有り。 重て蛇毒が曰、「血逆の池に捨て給ふ衣那と月水と集て我と成る也」と云ふ。 其しるしを見んとて、頗梨采女、乳水をしぼり出し給ふ時、七人の王子と同く蛇毒の口にも入る。 其の時、蛇毒も王子たりと有て、舟に乗て帰朝有り。
とある。

「赤山大明神事」には
此の天王には十種の変身有り。 [中略] 四は蛇毒気神王。
とある。

上述の『本朝世紀』『扶桑略記』には延久二年の祇園社の火災で蛇毒気神の像が焼失した事が記されており、その頃には牛頭天王(天神)と共に蛇毒気神が祀られていた事が判る。 また、『扶桑略記』の延久二年十一月十八日条[LINK]には
官使を以て、感神院の八王子四躰、并に蛇毒気神・大将軍御躰焼失の実否を検録す。
とある事から、蛇毒気神・大将軍は八王子とは別だったと考えられる。

三崎良周「中世神祇思想の一側面」には
次に蛇毒気神なる神は、普通、経軌に見当たらないようである。 蛇毒を消すのに効用あるとされるのは、孔雀王呪経等に説かれている孔雀尾である。 それは、孔雀法や蘘虞利童女法等に、療蛇毒法として用いられることが記されている。 特に平安時代の寛助の別行の第五と第六、成賢の遍口鈔第四などに、辟蛇法事[LINK]とか救蛇苦経事[LINK]とかいう類の記述が多く、更には、覚禅鈔第八十五の不動本[LINK]には「除疫癘事」「除悪毒事」「治蛇毒事」と並べ記されてもあって、牛頭天王の疫毒に隣せる蛇毒の神が共に祀られるようになったのではあるまいか。
祇園社には、牛頭天王と妃婆利釆女と八王子と三座あって、記録によっては、八王子の代りに蛇毒気神となっており、或いは、八王子の中に蛇毒気神が入ってもいる。 [中略] しかし、赤山大明神事の項には、牛頭天王の十種の反身、即ち武塔天神王、牛頭天王、鳩摩羅天王、蛇毒気神、摩耶天王、都[ママ]天王、梵王、玉女、薬宝賢明王、疫病神が示されており、そこでは蛇毒気神は牛頭天王の反身、いわば属性神・変化神の如きものとなっている。
即ち、思うに、蛇毒気神も大将軍も、密家や陰陽家の教説によって、扶桑略記の記載の如くに、八王子とは別に祀られていたものを、簠簋内伝や神道集においては更に教説を加上して、或は八王子の中へ、或は牛頭天王の反身の中へ取り入れてしまったのであろう。
とある。

垂迹本地
祇園大明神(牛頭天王)薬師如来
波利采女十一面観音
八王子文殊菩薩
八王子(各別)太歳神(相光天王)普賢菩薩
大将軍(魔王天王)文殊菩薩
歳刑神(徳達神天王)観音菩薩
歳破神(達尼漢天王)勢至菩薩
歳殺神(良侍天王)日光菩薩
黄幡神(侍神相天王)月光菩薩
豹尾神(宅相神天王)地蔵菩薩
大陰神(倶摩良天王)龍樹菩薩
東王父普賢菩薩
西王母虚空蔵菩薩
蘇民将来薬王菩薩
粟佐利女薬上菩薩
蛇毒気神弥勒菩薩
海龍王龍樹菩薩

『秘密心点如意蔵王呪経』等

牛頭天王の諸縁起中には、天王信仰の所依ともいうべき経典が引かれている。

(1) 仏説武答天神王経秘密心点如意蔵王陀羅尼経、略して秘密心点如意蔵王呪経・秘密心点経・武答天神王経・武答天神経などともいう。
『神道集』の「祇園大明神事」には
或は、八王子とは、即ち八部菩薩是也。 義浄三蔵所訳、秘密心点如意蔵王呪経にも云へり。 或所には武答天神王経とも云へり。
今は武答天神王経に付て之を写す。 第一の王子をば星接と名づく。 亦は太歳神と名づく。 亦は相光天王と名づく。 本地は普賢菩薩也。 [以下略]
「赤山大明神事」には
又、仏説武答天神王経秘密心点如意蔵王陀羅尼経に云、 此は義浄三蔵所訳也、 此の天王には十種の変身有り。 [中略] 又、同経に云く、武答天神の八王子と五帝龍王乃至余王、無数の眷属と倶に仏所に詣づ。 [以下略]
『祇園牛頭天王御縁起』[LINK]には
秘密心点如意蔵王呪経に曰く。 時に世尊、一光明を放ちて、都跋羅国を曜したまふ。 光明普く彼の国を照して、還りて世尊の頂上に摂す。 忽然として光の中に牛頭天王を現はす。 八大王子・五龍王及び無数の眷属と、倶に来りて会中に詣づ。 世尊、前に告て言ひたまふ、「咄、大善男子、我が勅を蒙るや」と。 時に天王、着くる所の無価の瓔珞を脱ぎて、釈尊に献じて、是の言を作す、「我、過去よりコノカタ、化度の願有り。当に仏勅を承らん」と。 時に世尊微笑して、大光明を放りて、天王の身を照すこと、閻浮檀金色の如くして、是の言を作したまふ、「汝善男子、医王・調御師、過去無量劫よりコノカタ、慈悲心を以て、一切の受苦の衆生を利益す。舎衛国の人民、七種の悪病に遇ひて、死悶せんこと遠からず。亦、邪毒鬼王と為りて、精気を𠵇[ママ]、速に大苦悩を救へ」と云々。 時に天王、七種の神呪を説きて、十五の大願を発し、受苦を抜済して、衆生を化度すと云々。
とある。

(2) 天形星真言秘密。
「祇園大明神事」には
大興善寺の不空三蔵所訳、天形星真言秘密の上に、牛頭天王・武答天神を一体異名と説けりと云々。
とある。 天野信景『牛頭天王弁』[LINK]には
天刑星秘密儀軌〈三巻、不空三蔵の訳す所也〉、牛頭天王癘魂を縛撃し、疫難を禳除する事有り。〈牛頭天王修法、此儀軌に在り〉
と見える。 恐らく両者は同一の書であろう。
「赤山大明神事」では無名の経文を引いて、牛頭天王・武答天神王・薬宝賢明王の三称を「三諦一諦、非三非一の法門也。此れ則ち妙法蓮華経也云々」と述べているが、この無名経は比叡山において述作された中古天台の偽経の一つであろう。 秘密心点経や天形星真言秘密や(天刑星秘密儀軌)も亦、台密において制作された偽経・偽軌の類と思われる。

(3) 牛頭天王経・波利釆女経・八王子経。
「祇園大明神事」には
普賢経(「薬宝賢経」の誤写か)・牛頭天王経波利釆女経八王子経等は、竹林精舎の説也。 爾の時の衆会は、大比丘衆八万人、菩薩衆三万人也。 其の中には文殊を上首とせり。 [以下略]
とあり、種々の経典があったかのように述べられているが、個々に存してかどうか甚だ疑わしい。 恐らくは牛頭天王縁起のことを色々に称したと思われる。

(4) 八王子真言。
「祇園大明神事」には
八王子真言に曰、普賢・文殊・観音・勢至・日光・月光・地蔵・龍樹・唵阿彼耶。
とある。 これも中古天台の説から生まれて来たと思われる。

(5) 薬宝賢経。
『祇園牛頭天王御縁起』[LINK]には
又、薬宝賢経の説に曰く。 時に世尊、文殊の問を得て、牛頭天王の行を答へたまふ。 今、此の会中に一の菩薩有り、牛頭天王菩薩と名づく。 無量劫よりコノカタ、大慈大悲を成就し、善く無量の法門を修習し、諸の衆生の為に、安穏を得せしむ。 故に世に出現すと云々。
然るに、又天王は本誓を忘れたまはず、受苦の衆生を化せんが為に、カリに素盞烏尊と号し、吾が朝に跡を垂れ、来りて皇城を鎮護し、人民を抜済したまふ。 故に感応道交の室の内には、抜苦与楽の風涼しく、隨縁真如の浪の底には、和光同塵の月朗かなり。 或は渇仰する者は、蕩々たる尊容を拝し、或は帰敬する者は、巍々たる威力を蒙る。 其の感応は勝計すべからず。 爰に吉備大臣詣でて、霊壇に至る。 其の時、天王親ら告て曰く、「我は是れ牛頭天王なり。本師は薬師如来也」と云々。
復た曰く、口は四牙を噛み、身は万針を生ず。 左の手には日輪を捧げ、右の手には月輪を擎ぐ。 左の足には東雲を極む。 浄瑠璃界の薬師如来也。 右の足には西霧を尽す。 安養界の阿弥陀仏也。 ヒトヘに薬師・弥陀の力用を兼ね、普く十二・六八の誓願を厳飾す。 次に梵髪中に牛頭を戴くは、是れ妙法蓮華経也。 何となれば則ち、五味の中、醍醐味を病即消滅の薬王と為せば也。 三車の中には、大白牛車をもて、後生善処の引導に仮る。 爰に知んぬ、巨端を罸するは、タダに一朝の忿りに匪ず、邪見放逸の凡愚を懲めんが為なりと。 人々早く心中の無慚の貪欲を飄へして、慈悲哀憐の本誓を修め、薩般若海に流入して、無上の善心を増進すれば、衆病悉除の憑み有りて、四生恐怖の憂ひ無し。 現世には福智両足を成就して、当来には安養の浄刹に往生せん者也。
とある。 「カリに素盞烏尊と号し、吾が朝に跡を垂れ」とあるから、我が国において制作された偽経である事は言うまでもない。
(西田長男『神社の歴史的研究』、「祇園牛頭天王縁起の成立」[LINK]、塙書房、1966)