『神道集』の神々

第十三 赤山大明神事

赤山大明神の本地は地蔵菩薩である。
その本地の名は武答天神王で、これは牛頭天王と一体である。
経文によると、牛頭天王には三つの名が有る。 第一は牛頭天王、第二は武答天神王、第三は薬宝賢明王という。 この三種の名は「三諦一諦」「非三非一」の法門、則ち『妙法蓮華経』である。

また、義浄三蔵訳『仏説武答天神王秘密心点如意蔵王陀羅尼経』によると、この天王には十種の変身がある。 第一は武答天神王、第二は牛頭天王、第三は倶摩羅天王、第四は蛇毒気神王、第五は摩那天王、第六は都藍天王、第七は梵王、第八は玉女、第九は薬宝賢明王、第十は疫病神王である。 この十種の変身は皆一体にして、衆生を利益する。

武答天神王は頂上に十一面が有り、面毎に白牙を出す。 また四面に八角を現す。 毛髪は皆赤色で、悉く忿怒の相である。 最頂は仏面で慈悲の相である。

武答天神王の婦人は十人の子を生んだ。 即ち、甲・乙・丙・丁・戊・己・庚・辛・壬・癸の尊である。
同経によると、武答天神王は八王子・五帝龍王など無数の眷属と共に仏の所に詣で、法を聞いた。

また、北方に都跋国という国がある。 武答天神王は本来はその国に在ったという。
武答天神王は本来は観自在菩薩であり、過去無量劫に成仏して尊号を正法明と云う。 衆生を利益するため、仮に武答神と名づくのである。

赤山大明神

赤山禅院[京都府京都市左京区修学院関根坊町]
本尊は赤山大明神(泰山府君)。
比叡山延暦寺別院。 天台宗修験道総本山管領所。

『望月仏教大辞典』の赤山明神の項[LINK]に、
「天台守護三十番神の一。即ち支那の泰山府君神にして、慈覚大師円仁の勧請する所なり。慈覚大師伝[LINK]に依るに、円仁は唐開成三年(即ち承和五年[838])を以て入唐し、明年遣唐使に随ひ舶に乗じて帰国せんとするに、途上逆風に遭ひて登州の界(山東省)に著し、仍て赤山法華院に登り、明年春、当処の山神に祈願して冥助を乞ひ、若し本願を遂ぐることを得ば、帰国の後禅院を建立して山神を資益せんことを誓ひ、尋いで唐に留まり五台山を巡礼し、又長安に入りて密教を伝へ、帰朝の後未だ其の所願を果すを得ず、貞観六年[864]正月命終に当り、弟子等に托するに赤山神の為に禅院を造るべきことを以てす。仍て仁和四年[888]大衆力を合せて銭二百貫を投じ、延暦寺西坂下南大納言の山荘を求めて禅院を建立し、時に太政大臣越前公年給一分一人を施入し、天皇亦詔して内給一分一人を施入し給ひしことを記せり。是れ当禅院の濫觴なり」「其の本地に関しては、大己貴神、素盞嗚尊、地蔵菩薩、或は虚空蔵菩薩の所説あるも、支那の赤山法華院は又新羅院と呼ばれ、新羅人の住居せし地なれば恐らく新羅神ならんと云ふ」
とある。

『源平盛衰記』巻第四の「赤山大明神の事」[LINK]に、
「赤山大明神と申すは、慈覚大師渡唐の時、清涼山の引声の念仏を伝へ給ひしに、此の念仏を守護せんとて、大師に芳契を成し給ひ、忽ち異朝の雲を出て、正に叡山の月に住み給ふ。されば大師帰朝の時、悪風に逢て其舟あやふかりければ、本山の三宝を念じ給けるに、不動毘沙門は艫舳に現れ給へり。此の明神は又赤衣に白羽の矢負つゝ、舟の上に現じ給ひつゝ、大師を守護せられけり。山王は東の麓を守り給へ、我は西の麓に侍らん、閑なる所を好む也とぞ仰せられける。赤山とは、震旦の山の名也、彼の山に住む神なれば、赤山明神と申すにや、本地地蔵菩薩なり、太山府君とぞ申す」
とある。

『都名所図会』巻三(左青龍)[LINK]に、
「赤山社は修学寺村の東山下にあり。慈覚大師唐土より帰朝のとき、明神は白羽の矢負ふて船の上に現じ、天台守護となりたまふ。神託によつてこのところに勧請しけり〈転宅の節、当社の神札をうけて家に張れば、鬼門金神の祟りなしとぞ〉。神前に迦字の梵字を三所にかくる。本地堂は地蔵菩薩にして、慈覚大師の作なり」
とある。

志晃法印『寺門伝記補録』第一(祠廟部 甲)[LINK]に、
「夫れ赤山明神はもと是れ大唐国赤山の鎮神なり、むかし唐国明州(登州の誤りか)に瘴疫流行す、州人多く厄死に逢う時に、嵩嶽神の眷神化して童形となり来て救護す、或は楊の枝を把て薬水を病の口に注き、または雄剣を振て疫鬼を他方に逐う、これに依りて国中家々咸な厄患を免がれ州内始めて安穏なることを得たり、ここにおいて州人、祠を当国の赤山に建て神童を崇め祭り以て先恩に報ず、是れ即ち赤山明神なり」
とある。 また、「尊意阿闍梨おもえらく、赤山神は嵩嶽神の眷属なり、新羅神は即ち是れ嵩神なり」、即ち赤山明神は新羅明神(園城寺の鎮守神)の眷属であると主張した。
垂迹本地
赤山大明神地蔵菩薩

武答天神王

参照: 「祇園大明神事」武答天神
武答天神王が頂上に十一面を有するという記述は、『双身八曼荼羅抄』〔承澄『阿娑縛抄』巻第百三十六(毘沙門天王)に引用〕[LINK]
「昔国在り、都鉢羅国と名づく。其の国〇大疫癘発し、人民皆悉く病死す。時に国王発願念仏し、観音に帰依す。時に十一面観自在菩薩、十一牛頭毘沙門と変化し、毘沙門亦十一面牛頭摩訶天王と現る」
や『吽迦陀野儀軌』[LINK]に説く證入漫荼羅の
「中央主都鉢主多聞天王、弥王上居。〈中略〉東方牛頭有、正面可甚怖畏。頂上十一面怖畏形、各牛角出為出其荘厳
を受けているように思われる。
(三崎良周『密教と神祇思想』、「中世神祇思想の一側面」、創文社、1992)

『神道集』では赤山大明神と武答天神王・牛頭天王を同一視しているが、別個の尊格とするのが一般的である。

牛頭天王

参照: 「祇園大明神事」牛頭天王

薬宝賢明王

参照: 「祇園大明神事」薬宝賢菩薩

倶摩羅天王

元来はヒンドゥー教の主神シヴァの息子で、鳩摩羅天とも音写される。 クマーラ(Kumāra)は童子を意味し、孔雀に乗る六面の童子姿で表される。

「祇園大明神事」に、
「第八の王子は結毘と名づく。また大陰神と名づく。また倶摩良天王と名づく。本地は龍樹菩薩なり」
とある。

『祇園牛頭天王縁起』[LINK]に、
「第三王子は倶魔羅天王と名づく〈本地は弥勒菩薩也〉。歳徳神に変じて、秋三月を行ふ」
とある。

『三国相伝陰陽輨轄簠簋内伝金烏玉兎集(簠簋内伝)』巻一の八将神方の条[LINK]に、
「第三大陰神は倶摩羅天王、本地は聖観自在尊なり」
とある。

蛇毒気神王

参照: 「祇園大明神事」蛇毒気神王

摩那天王

不詳。 伝本によっては摩耶天王と表記される。

都藍天王

不詳。

梵王

元来は古代インド神話における創造神ブラフマー(Brahmā)で、梵天王とも呼ばれる。 仏教では娑婆世界の主であり、色界・初禅の大梵天を住処とする。 帝釈天と共に正法護持の神とされ、十二天の一として上方を守護する。

『梁塵秘抄』巻第二[LINK]に、
「大梵天王は、中の間にこそ在しませ。少将波利女の御前は、西の間にこそ在しませ」
という四句神歌が収録されている。
この今様が作られ、歌われていた時代には、祇園社の「中の間」に(祇園天神として)祀られていたのは「大梵天王」であった可能性が有る。
(川村湊『牛頭天王と蘇民将来伝説 —消された異神たち—』、第1部 備後から京都へ、第3章 婆梨采女とは誰か、作品社、2007)

玉女

日本において玉女という言葉がよく現れるのは、鎌倉時代の密教関係文献と陰陽家の諸書である。
十二世紀の台密図像学書『阿娑縛抄』には、「玉女法」[LINK]の項目が設けられている。 それによると、玉女作法は陰陽家が盛んに用い、真言教でもこれを修するといい、かなり俗説的な内容であったらしい。 具体的には、夫婦円満の作法や諸願成就の法として行われていたらしい。
一方、陰陽家の説は、『簠簋内伝』巻一の三鏡之方事の条[LINK]に、
「此の三鏡は、日・月・星の三光、天・人・地の三才、法・報・応の三身、阿・鑁・吽の三字、仏部・蓮華部・金剛部の三部、理・智・事の三点、弥陀・釈迦・薬師の三尊、吒枳尼・聖天・弁才天の三天也。春大円鏡智の故に三弁宝珠の形を以て礼拝すべし。三鏡は三玉女是れ也
と説かれている。
また、同書・巻三の太歳神前後対位の条[LINK]に、
「太歳東空殿に移り、玉女神に相合する時を太歳対と曰ふ〈嫁娶・結婚・出仕・対面等の事に用ふべし〉」
とあり、玉女の福神的性格をよく表している。
(田中貴子『外法と愛法の中世』、第1部 女神と竜女、第3章 〈玉女〉の成立と限界—『慈鎮和尚夢想記』から『親鸞夢記』まで、砂子屋書房、1993)

三鏡(三玉女)について、『永暦大雑書』[LINK]には「三鏡宝珠と申は、中央を天皇玉女といひ、右を色星玉女といひ、左を多願玉女といふ。是れ即ち日月星の三光、天地人の三才に象どり、最上の吉方なる故に、いづれの暦にても先是を画て其始を寿く也」とある。

疫病神王

牛頭天王は数多の疫病神(行疫神)たちの王である。 『簠簋内伝』巻一[LINK]に、
「我(牛頭天王)末代には行疫神と成りて、八王子眷属等、国に乱入す」「濁世の衆生は必ず三毒に耽りて煩悩増長し、四大不調にして甚だ寒熱の二病を受くるは、牛頭天王部類眷属の所行なり」
とある。

『簠簋抄』巻二[LINK]に、
「伊弉諾・伊弉冊尊、高間が原より天の逆鉾を指し下し、南海に国や有んと尋ね給ふに、老翁一人蕅の葉に乗り海上に出給。二柱の尊と問ひ給ふ様は、汝何なる者ぞや。答云く、我は此の界の地主と云。其の故如何。此の界開闢有に付ては草木の色青かるべし。東方薬師瑠璃処成たるべし。我、末代に行疫神と成て、三毒対治の為に現すべし云々。是れ此の界の地主にてまします故に、(『簠簋内伝』の)第一巻に牛頭天王の義を篇み、第二巻に地の開闢の義を篇む也」
とある。

甲・乙・丙・丁・戊・己・庚・辛・壬・癸

『簠簋内伝』巻二の十干之事の条[LINK]によると、青帝青龍王は金貴女を妻として十人の王子が生まれた。
「甲・乙は木神なり。本地は薬師・降三世夜叉。東方大円鏡智の精魂、肝の臓・胆の腑に配し、魂魄は迹して千草万木と成る」
「丙・丁は火神なり。本地は観音・軍荼利夜叉。南方平等性智の精魂、心の臓・小腸の腑に配し、魂魄は迹して火光三昧と成る」
「戊・己は土神なり。本地は大日・大聖不動明王。中央法界体性智の精魂、脾の臓・胃の腑に配し、魂魄は迹して堅固大地と成る」
「庚・辛は金神なり。本地は阿弥陀・大威徳夜叉。西方妙観察智の精魂、肺の臓・大腸の腑に配し、魂魄は迹して金銀銅鉄輪と成る」
「壬・癸は水神なり。本地は釈迦・金剛夜叉。北方成所作智の精魂、腎の臓・膀胱の腑に配し、魂魄は迹して広川大海と成る」

八王子

参照: 「祇園大明神事」八王子

五帝龍王

『簠簋内伝』巻二[LINK]に、
「天は元容貌無く、地は亦形像有るに非ず。猶、鶏卵の団圝として実無きが如し。是れを最初の伽羅卵と曰ふ。辰に天開いて蒼蒼たり、厥の大なること幾許と云ふを知らず。地闢いて広広たり、其の博きこと幾程と云ふを察せず。盤牛王、其の中に生平す。長け大なること十六万八千由膳那也。頭の円きを天と為し、足は方なるを地と為す。〈中略〉上に居しては大梵天王と号し、下に座しては堅牢地神と曰ふ。迹不生なるを盤牛大王と名づけ、本不滅なるを大日如来と称す。本体龍形にして広量地に沈む。〈中略〉五方に五宮を構へ、八方に八閣を開き、等しく五宮の采女と妻愛し、五帝龍王を産出す」
とある。

十干之事の条[LINK]に、
「第一の妻女を伊采女と号す。然りて青帝青龍王を生す。春七十二日を領す。金貴女を妻愛して、十人の王子を生す。所謂、甲・乙・丙・丁・戌・己・庚・辛・壬・癸等也」
とある。

十二支之事の条[LINK]に、
「第二の妻女を陽専女と号す。然して赤帝赤龍王を生す。夏七十二日を領す。昇炎女を妻愛して、十二人の王子を生す。所謂、子・丑・寅・卯・辰・巳・午・未・申・酉・戌・亥等也」
とある。

十二客事の条[LINK]に、
「第三の妻女を陽専女と号す。然して白帝白龍王を生す。秋七十二日を領す。福采女を妻愛して、十二人の王子を生す。所謂、建・除・満・平・定・執・破・危・成・納・開・閉等也」
とある。

九図之名義の条[LINK]に、
「第四の妻女を癸采女と号す。然して黒帝黒龍王を生す。冬七十二日を領す。上吉女を妻愛して、九人の王子を生す。所謂、一徳天上水・二義虚空火・三生造作木・四殺剣鉄金・五鬼欲界土・六害江河水・七陽国土火・八難森林木・九厄土中金」
とある。

七箇善日の条[LINK]に、
「第五の妻女を金吉女と号す。然して黄帝黄龍王を生す。四季土用七十二日を領す。堅牢大神を妻愛して、四十八人の王子を生す」
とある。

楊憲本『簠簋内伝』の七箇善日の条に、
「第五に盤牛大王星の宮と和合す。辰に星の宮胎娠す。爰に盤牛王已に五大を究竟せんと欲す。粤に星の宮に対して宣給ふ。春夏秋冬の四時を四人の王子に与ふ。此の度盤牛端生の王子は、男子成り共女子成も、之(宇浮絹の鎧などの宝)を得べし。〈中略〉然に十月を満足して女子を誕生す。彼を天門玉女妃と名づく。是れ則ち黄帝黄龍王也。然して堅牢大地神王に妻愛して四十八人の王子を産出す。〈中略〉四十八王子を産出すと雖も、方寸の地を持ざるに依て、定る住処無し。故に忽に女子の相を転じて男子の相と成り、黄帝黄龍王と号し、四十八王子同じく一千人の郎等を召し具し、然り而して百千若干の眷属を領して、恒河の源沙羅双樹の下にして、四大龍王に対して謀叛を企つ。一七日の合戦し給ふ時に、恒河の流盛に血と成て下たる。文選博士之を察して、恒河の源に諸神の論諍を留む。十八の四土用を集て七十二日を成し、五帝龍王等く領知し給ふと云々」
とある。
(渡辺守邦「『簠簋抄』以前 —狐の子安倍の童子の物語—」[LINK]、国文学研究資料館紀要、14号、pp.63-124、1988)

『仏説武答天神王秘密心点如意蔵王陀羅尼経』

「祇園大明神事」における『秘密心点如意蔵王呪経』『武答天神王経』と同一と思われる。

都跋国

「兜跋」とも表記され、吐蕃(古代チベット)あるいは吐魯番トルファンに比定されるが定説は無い。 『吽迦陀野儀軌』における「都鉢」や『双身八曼荼羅抄』における「都鉢羅国」も同国を指すと思われる。

『望月仏教大辞典』の毘沙門天の項[LINK]に、
「本邦山城鞍馬寺には兜跋毘沙門と称する像を安ぜり。頭上に三個の火焔文様ある頭光を負ひ、右手に宝塔を擎げ、左手に宝棒を持し、地天及び藍婆、毘藍婆の二夜叉鬼を踏めり」「兜跋の名称に関しては大梵如意兜跋蔵王経(阿娑縛抄所引)[LINK]に、如意蔵王が無畏観世音自在菩薩等の十種の降魔身を現ずることを説く中、第六に毘沙門天、第七に兜跋蔵王を挙げ、兜跋蔵王は威徳自在なること毘沙門天王の如く、身相面貌は忿怒降魔、安祥円満にして無量の福智光明有り、兜跋国に権現せる大王の形像なりと云ひ、又吽迦陀野儀軌巻上[LINK]に因曼陀羅界等の八大曼荼羅界を説く中、第六證入曼荼羅界の中央主を都鉢主多聞天王と名づくと云ひ」
とある。

三崎良周は『吽迦陀野儀軌』を『神道集』(祇園・赤山)の典據と推定し、「牛頭天王を以て兜跋(都鉢)毘沙門天の威験と同等のものに見ていた」と述べている。
(三崎良周『密教と神祇思想』、「中世神祇思想の一側面」)

正法明

智顗『観音玄義』巻下[LINK]に、
「観音三昧経に云く、先きに已に成仏し、正法明如来と号す、釈迦は彼の仏の為に苦行の弟子と為る」
とある。 また、吉蔵『法華義疏』巻第十二[LINK]に、
「観音三昧経に云く、観音我が前に在りて、成仏して正法明如来と名く、我は苦行の弟子たりきと。又云く、我と観音とは倶時に正覚を成ぜりと」
とある。
『観世音三昧経』は六朝時代に中国で撰述された偽経で、観音が既に成仏して正法明如来と号し、釈迦が観音の弟子となって苦行を積むなどという、従来の観音経関係の経説に見ないことを記しており、観音の慈悲救済の神通力を強調するための、中国的な発展を示すものである。
(牧田諦亮「観世音三昧経の研究—六朝観音信仰の基盤—」[LINK]、人文学論集、1号、pp.53-76、1967)