『神道集』の神々

第二 宇佐八幡宮事

宇佐八幡宮は豊前国に鎮座する。 (八幡大菩薩が宇佐に顕現したのは)欽明天皇十二年已未で、(日本に渡来した)善紀元年の三十年後である。 また『大宮司補任帳』によると僧聴三年で、そうだとすると宣化天皇三年戊午である。
『宇佐由来記』によると、豊前国宇佐郡山谷の辺に八頭の老翁が化来した。 大神比頴と云う人が五穀を絶って奉幣し「あなたがもし神ならば、我が前に顕れて名乗りたまえ」と祈願した。 この時、八頭の老翁の姿が消えて二・三歳の小児と成り、竹の葉に乗って「我は日本人皇十六代誉田天皇である。名は護国霊験威力神通大自在王菩薩と号す」と託宣した。
同じ頃、馬城峯に石体権現が大足姫・比頴大神と三所に並び顕れた。 高さは一丈五尺、広さは一丈ばかりの石体で、寒雪の頃でもなお暖かい。 人々がこれを怪しんで近づき、御殿を造って覆おうとすると、「我が石体として顕れたのは、将来に至るまで久しくある為である。御殿を造ってはならない」と託宣が有った。 石体が東を向いているのは、王城を守り百王を鎮護するためである。
若宮は(石体権現の)南に在る。 武内は(石体権現の)西北に在る。
(馬城峯は八幡大菩薩の)剃髪出家の地である。
同じ頃、この山にある長さ一丈程度、広さ七尺程度の石が割れ、その中に阿弥陀三尊の御正体が有った。 石の中にどうして金銅の三尊が有ったのか、希代の不思議である。
この山に神が顕れてから、馬城の名を改めて御許山と名づけた。
石体権現から南に少し下った所に、正・像・末の石鉢がある。 大菩薩が神として顕れた時、三鉢の霊水にその姿を映した。 その光は内裏に移って照し耀き、主上を大いに驚かせた。 神は宮人に「我は人皇十六代誉田帝である。豊前国馬城峯に神として顕れた瑞光である」と託宣した。

この山から五十町ほど離れた所に一つの山が有り、小蔵山・菱形山・亀山の三つの名が有る。 人皇四十五代聖武天皇の御宇、神亀二年乙丑にこの山に御殿を造って(八幡大菩薩を)勧請した。 この御殿は三十年毎に造り替える。 また、この御殿は南向きである。

三所の内、西は一の御前、法体の大菩薩である。 中は二の御前、女体の大足姫である。 東は三の御前、比頴大神である。 本地は、釈迦如来・阿弥陀如来・観音菩薩である。
五十七代陽成院の御代、元慶元年丁酉十一月十三日に「我が本地は釈迦如来である。女体は我が生母で阿弥陀如来の変身である。俗体は観音菩薩の化身で、我が娘比媈大神である」と託宣が有った。

ある人が云うには、応神天皇の崩御は二月十五日で、涅槃会の日である。 放生会もまた(八月の)十五日である。 故に(八幡大菩薩の本地は)釈迦・弥陀と云う。

問、山谷の辺の八頭の翁とは、何処の山谷で、何の翁であるか。
答、宇佐郡馬城峯を下った所に菱形山がある。 この山谷の麓に翁が居り、異体を怪しんで大神比義がその実体を顕した。

問、首に八頭が有るとは、どういう意味か。
答、今の八幡と顕れたのが即ちこれである。 八幡の意味は様々である。 一は応神天皇御誕生の時、八本の幡を立てられたので、其の名を得た。 二は晨旦国の太宗(の姫)の胎内から御誕生の時、其の家の上に空から八本の幡が天下った。 椌船に其の八本の幡を副えて、海上に放たれた。 仍って、この太子を八幡と名づけた。 故に我朝に此の船が着いた処を八幡崎と云う。 今の翁が八頭であることも良く心得合うべきである。 彦山の略記には「稽首八幡大菩薩」と云う。 勝尾寺の縁起には「故号八幡大菩薩」と云う。

問、八幡大菩薩と申す神は、深い慈悲が余心を超えるのか。
答、「八幡」とは八正道と聞く。 正見・正思惟・正語・正業・正命・正精進・正念・正定である。 「菩薩」とは慈悲を先として、化他を本とする。 「大」とは妙覚無上の(菩薩)位である。 衆生を利益するために菩薩摩訶薩の名を借りる。 例えば、文殊の本地は龍種上尊王如来、観音の本地は正法明如来、浄名居士は金光如来である。

問、(八とは)何を表しているのか。
答、「八」には多くの意味がある。 諸仏の出世には、必ず八正道が有る。 衆生を教化する法は、八宗八教の宗義の判教である。 釈尊出世の本懐は、八箇年の説法である。 (法華)経は八軸の妙文である。 阿弥陀如来は八種の功徳を以て浄土を荘厳する。 八正の宝階には八種の音楽を奏で、宝池の床には八功徳の水波が寄せ、八種の清風が梢を渡る。 日月燈明仏には八人の王子がある。 薬師如来は八大菩薩を伴う。 厭うべきは八寒地獄・八熱地獄である。 恐るべきは八難処である。 勤むべきは八忍八智である。 行ずべきは八解脱である。
和光垂跡の諸仏も「八」を司どる事が多い。 『大仲臣経』には「八百万の神達、高天原に留り在して、天の八重雲を伊豆の千別に千別する」と云う。 素盞烏尊は「八雲立つ出雲八重垣」と云う。 日吉社には八王子、鹿嶋宮には八龍神、伊豆・箱根二所権現には八大金剛童子がある。
八幡大菩薩は生死を流転する凡夫を導き、八苦の愛河を渡し、八正の直路に入れ給う。 (八幡の)神号を象徴してる。

問、何故「幡」を神号とするのか。
答、幡は軍陣を破る先相(前触れ)で、怨敵を従わせる方法である。 世間の法では、我が朝では源平両氏の合戦の時、白幡・赤幡が並んだ。 赤幡の軍陣が多いので平氏は奢り、白幡が敵陣に進んで源氏が勝利した。 承久の乱では、鳳城の官軍と関東の兵が宇治川を距てて対峙した。 承久三年辛巳六月十四日、東夷が真木島(槙島)を渡り、敵陣に関東の幡を立て並べると、官軍は退散し、武士は入洛し、関東の軍兵が幡を並べて皇居に向かい、鳳城軍は負けた。 幡の意義は以上の通りである。
出世も同様で、十二部経の幡を高く差し挙げると、九十五種の外道は戸を閉ざし、七万二千の邪見は門を塞いだ。 法華・涅槃及び平等大会の幡をさし、出世の本懐を遂げ給うと、五逆の調達も、敗種の二乗(声聞・縁覚)も、断善の闡提も、悉有仏性の友と成る。 来迎二十五菩薩の中で普賢菩薩は幡幢を持す。 十種供養の第七は幡蓋である。
今の八幡三所は弥陀三尊の垂跡であり、超世本願の幡を差し、増上縁の幡を靡かせ、大願大悲の幡を先立て、五濁悪世の凡夫を導こうと思召されるので、これを御神号とされ、八幡大菩薩と名乗られた。

問、人王十六代応神天皇は早い時代に誕生されたのに、何故空しく三百余年を過ごされ、椌船の小児や八頭の老翁となってから、神明として顕れたのか。
答、神慮は量り難く、凡識の窺い知れる処ではない。 但し、諸仏の応跡は一准ではない。 その由来は浅劣を嫌わず、時の縁が至れば、和光垂迹する。 熊野証誠権現・宇津宮大明神は、熊野(熊野部)千代包・唵佐良摩を因縁として顕れた。 この二人は共に鹿を射る事を因縁とする。 北海国牛頭天王・法宿権現は、蘇民将来に宿を借り、唐崎女別当の所で休息した。 その由来を尋ねると、飯を奉って深く契りを結んだ事にある。 今の大菩薩の本起は、日本の神功皇后である。 太宗の陳の梁子(女子か)等の因縁は、浅劣の因縁と云うのだろうか。

宇佐八幡宮

宇佐神宮[大分県宇佐市南宇佐]
一之御殿の祭神は八幡大神(応神天皇)。
二之御殿の祭神は比売大神(多岐津姫命・市杵嶋姫命・多紀理姫命)。 一説に玉依姫命とする。
三之御殿の祭神は大帯姫命(神功皇后)。
式内社(豊前国宇佐郡 八幡大菩薩宇佐宮〈名神大〉、比売神社〈名神大〉、大帯姫廟神社〈名神大〉)。 豊前国一宮。 旧・官幣大社。
史料上の初見は『続日本紀』巻第十二の天平九年[737]四月乙巳[1日]条[LINK]の「使を伊勢神宮・大神社・筑紫の住吉・八幡二社及び香椎宮に遣はし、幣を奉り新羅無礼の状を告げしむ」。

『宇佐八幡宮弥勒寺建立縁起』の大神清麻呂解状[LINK]には、
「大御神(八幡大神)は、是れ品太天皇(応神天皇)の御霊なり。磯城嶋の金刺宮の御宇、天国排開広庭天皇(欽明天皇)の御世[539-571]、豊前国宇佐郡馬城嶺(御許山)に於いて、始て顕はれ坐す。爾時、大神比義、歳次戊子[568]、鷹居社(鷹居八幡神社[大分県宇佐市上田])を建て祝い奉る、即ち其れ祝りに供す。多年を経て、更に改めて菱形の小椋山の社を移し建つ」
とある。

同書の辛嶋家主解状には、
「大御神は初め天国排開広庭天皇の御世、宇佐郡辛国の宇豆の高島に天降り坐す。彼れ従り大和国の膽吹嶺に移り坐す。彼れ従り紀伊国の名草海嶋に移り坐す。彼れ従り吉備宮神島に移り坐す。彼れ従り豊前国宇佐郡馬城嶺に始めて現し坐す。是大菩薩は、比志方の荒城潮の辺(乙咩神社[宇佐市下乙女])に移り坐す。その時、家主上祖の辛嶋勝乙日、大御神の御許に参り向かい、長く跪き其の命を候ふ」 「大御神、潮の辺に泉水を堀り出し御浴び給ふ。郡の西北の角に在り。大御神、其の処に坐して御口手足を洗浴ひ給ふ。爾時、豊前国にもとより坐す神の崇志津比咩神を以て酒を奉る。茲に因りて今、酒井泉社(泉神社[宇佐市辛島])と号く。彼れ従り宇佐河の渡りに有る社(郡瀬神社[宇佐市樋田])に移り坐す。同郡の東北の角なり。彼れ従り鷹居社に移り坐す。爾時、大御神、其の所に於いて鷹と化成給ひて、御心荒れ畏しく坐して、五人行けば三人は殺し二人は生き、十人行けば五人は殺し五人は生き給う。爰に辛嶋勝乙日、倉橋宮の御宇天皇(崇峻天皇)御世、庚戌[590]より壬子[592]迄、并に三歳の間、祈り祷て大御神の心命を和げ、宮柱を立て斎き敬ひ奉る。因て以て鷹居社と名づく。辛島勝乙曰、即ち其の祝と為りたり。同じ時、辛嶋勝意布売を以て禰宜と為す也。近江大津朝庭(天智天皇)の御世[668-672]、鷹居社より小山田社[宇佐市小向野]に移り坐す。即ち禰宜辛嶋勝波豆米、宮柱を立て斎き敬い奉る」
とある。

神吽『八幡宇佐宮御託宣集』名巻二(三国御修行部)[LINK]によると、応神天皇は同天皇四十一年[310]二月十五日に崩御。 その霊は天竺・震旦・龍宮・日本で御修行され、冥顕に御利生を給われた。 ただし、先帝の霊である事は未だ顕れなかった。

同書・霊巻五(菱形池辺部)[LINK]によると、欽明天皇二十九年[568]に菱形池の辺に鍛冶の翁が一身八頭の姿を現し、五人行くと三人死に、十人行くと五人死んだ。 大神比義が行くと、翁の姿はなく金色の鷹が梢の上にいた。 比義が祈念して「誰が成り変りしか」と問うと、たちまち金色の鳩と成って袂の上に飛来した。
比義が五穀を断って三年間修行し、同三十二年[571]に奉幣して祈ったところ、三歳の小児が竹の葉の上に現れて、「辛国の城に、始て八流の幡と天降つて、吾は日本の神と成れり」「釈迦菩薩の化身なり。一切衆生を度むと念ふて神道と現るなり。我は是れ日本人皇誉田天皇広幡八幡麻呂也。我が名をば、護国霊験威力神通大自在王菩薩と曰ふ」と託宣した。

異伝[LINK]によると、和銅元年[708]に宇佐河(駅館川)の西岸・東峰に八幡大神が鷹と化して現れた。 大神の御心は荒々しく、五人行くと三人殺され、十人行くと五人殺された。 大神比義(あるいは大神春麻呂)が来て、辛嶋勝乙目と両名で五穀を断って千日間精進し、大神の御心を和らげた。 同三年[710]に「我霊神と成つて後、虚空に飛び翔る。棲息無く、其の心荒たり」と託宣が有った。 祈祷を続けて大神を鎮め、同五年[712]に鷹居瀬社の社殿を建立した。
霊亀二年[716]に「此所は路頭にして、往還の人無礼なり。此等を咎むれは甚だ愍し。小山田の林に移住せむと願給ふ」と託宣があり、大神諸男と辛嶋勝波豆米が小山田社の社殿を建立した。
養老七年[723]に「我今坐する小山田社は、其の地狭隘し。我菱形山に移らんと願ひ給ふ」と託宣が有った。

同書・験巻六(小倉山社部上)[LINK]によると、神亀元年[724]に小倉山に大神宮(現・宇佐神宮の上宮)を造営し、大神朝臣諸男を祝とした。 翌二年正月二十七日に小倉山に遷座。
同日、「神吾未来の悪世の衆生を導かんが為に、薬師・弥勒二仏を以て、我が本尊と為す。理趣分・金剛般若・光明真言陀羅尼を念持する所なり」と託宣が有った。 勅定により、菱形宮の東の日足の林に弥勒禅院を建立した。 御願主は八幡大菩薩である。 また、同宮の東南の南無江の林に薬師勝恩寺を建立した。 弥勒寺の初代別当は法蓮和尚である。 これは大菩薩が如意宝珠を得た時の約束に依るものである。
天平九年[737]に「我当来の導師弥勒慈尊を崇めんと欲す。伽藍を遷し立て、慈尊を安ゑ奉り、一夏九旬の間、毎日慈尊を拝み奉らん」と神託が有った。 翌年五月十五日、弥勒禅院を菱形宮の境内に移転して弥勒寺を建立した。 また、薬師勝恩寺を同時に移転して弥勒寺の金堂を建立した。

同書・威巻七(小倉山社部下)[LINK]によると、天平勝宝元年[749]十一月十九日に内裏で七歳の童子に「神吾京に向かはん」と託宣が有った。 十二月戊寅[18日]に八幡神は入京し、平城宮南の梨原宮に新殿を造って神宮(手向山八幡宮[奈良県奈良市雑司町]の前身)とした。 同月丁亥[27日]に禰宜の大神杜女が東大寺を拝した。 天皇・上皇・皇太后も行幸されて大法要が営まれ、八幡大神に一品、比咩神に二品の神階が奉られた。
大神杜女と大神田麻呂に穢(薬師寺僧行信の厭魅に関与)が有り、同七年[755]に「汝等穢過有り。神吾、今よりは帰らじ」と託宣が有った。 八幡神は海を渡って伊予国宇和嶺(八幡神社[愛媛県八幡浜市矢野神山])に移り、十二年間はここから菱形宮に飛来して託宣した。
天平神護元年[765]三月二十二日に「今我が居る所の宮は、穢等を践み達りて、縦横既に故塘と為れり。我が安んずる所に非ざるなり。願はくは浄き処に移つて、朝廷を守護し奉らん。其の地は、我が占んに随へ」、同二年十一月九日に「大尾に移るべし」と託宣が有った。

同書・力巻八(大尾社部上)[LINK]によると、天平神護二年の冬に宇佐公池守が大尾山の頂に大菩薩宮(現・大尾神社)の造営を開始。 翌年の神護景雲元年[767]に神体を奉安した。
同三年[769]九月乙丑[25日]、大宰主神の習宜阿曽麻呂が八幡の神託と偽って「道鏡を皇位に即かしめば、天下太平ならん」と上奏。 称徳天皇の勅使として和気清麻呂が大尾社に参詣すると、「我が国家は、開闢より以来、君臣定れり。臣を以て君と為ること、未だ之れ有らざるなり。天の日嗣には必ず皇緒を立つ。無道の人は、宜しく早く払ひ除くべし」と託宣が有った。

同書・通巻十(大尾社部下)[LINK]によると、宝亀十年[779]に「吾前に坐する此の菱形宮にしては、神の名始て顕れ、位封転高きなり。是を以て、願はくば此の旧き宮に住みましまして、身に冑鎧を着て、朝廷および国家を守護し奉らん」と託宣が有った。
同書・大巻十一(又小椋山社部上)[LINK]によると、宝亀十一年[780]から翌年にかけて菱形小椋山の旧宮を改め造り、延暦元年[782]に大尾社から神体を遷した。

同書・名巻二(三国御修行部)に引用する阿蘇一本縁起[LINK]によると、阿蘇権現は天照大神の六代の孫子で、神武天皇の二郎、高知尾明神の弟、八幡大菩薩の兄である。 此の三人は共に唐朝から日本国に渡って来た。
日向国臼杵郡熊代村に来ると、山の中に不思議な音楽が聞こえた。 その地下十五丈ほど入ると、黄金珠玉の殿楼の内に端厳奇麗の貴女がいて、其の名を采女と云った。 高知尾明神はこれを見て留まり、そこから出なかった。
二人の弟は兄と分れて、肥後国夜部山の草部吉見の小屋にやって来た。 其の夜、吉見の娘が阿蘇権現と同衾して懐妊し、月満ちて男子が誕生した。 阿蘇権現は八幡に「汝早く花都に到り、帝子を誕生して、百王守護の誓約を遂げよ。我は当峯に留つて、継兄の高知尾を見奉り、亦汝が本願をも助けん」と告げた。
三郎は貴約を奉り、長い年月の遊化の後、花洛の京に入って、大帯姫の腹に宿られた。

八幡系図

件の三人(高知尾、阿蘇、八幡)は薨御の後、三国を利生し、唐土より本朝に帰り、三神は三処(高千穂神社[宮崎県西臼杵郡高千穂町三田井]、阿蘇神社[熊本県阿蘇市一の宮町宮地]、宇佐神宮)に垂跡した。

同巻[LINK]には「八幡は住吉を父と為し、香椎を母と為す」と異伝を記す。
住吉縁起によると、大帯姫は新羅征伐の時、四王寺山に登って祈願した。 大鈴を榊の枝に付けて高く振り、「朝廷の神達、乞ふらくは神威を施し、敵国を降伏せしめたまへ」と云うと、その夜に住吉大明神が形を現し、夫婦と為った。 第三の王子の八幡が妊まれて、後に産まれた。 今の宇佐宮である。

比頴大神(比媈大神)

通常は比売大神(または比咩大神)と表記する。

『八幡宇佐宮御託宣集』国巻四(三所宝殿以下事)[LINK]には、
「人皇第一神武天皇の御母、玉依姫の御霊なり」「聖武天皇御宇天平年中、託宣有り。国加郡に住みたまふ玉依比咩命なり。又都麻垣(妻垣神社[大分県宇佐市安心院町])に住みたまふ比咩大御神なり。本は宇佐郡安心院別倉の東の方の高き岳(妻垣山)に坐すなり」あるいは「宇佐宮の二殿御体は、玉依姫か。是れ陳の大王の娘にして、大隅国に流れ付かしむ。其の王子は即ち大隅正宮是なり。その母玉依姫は宇佐の二殿なり」
とある。
また、同書・護巻三(日本国御遊化部)[LINK]には、
「第二御殿 天平三年[731]神託す。同六年甲戌[734]遷宮の時、造らる」
とある。

『八幡愚童訓(乙本)』巻上の「垂跡事」には、
「姫大神と申は、龍王の御女、応神天皇の妃にておはします。世間の習、夫の次に妻を本とするに准して、第二とし奉れり」 「或は又姫大神をのぞひて、玉依姫を西ノ御前と申事あり。玉依姫と申は、神武天皇の母后、鸕鷀草葺不合尊の后也」
とある。

大足姫

『八幡宇佐宮御託宣集』国巻四(三所宝殿以下事)[LINK]には、
「人皇第十五代神功皇后の御霊なり」「嵯峨天皇御宇弘仁年中、託宣有り。大帯姫は皇后の霊誕なることを示現するなり」
とある。
また、同書・護巻三(日本国御遊化部)[LINK]には、
「第三御殿 嵯峨天皇御宇弘仁十一年[820]神託あり。同十四年[823]の官符に云く。大宰府の弘仁十四年癸卯四月十四日の符に偁く。新に八幡大菩薩宮・大帯姫細殿を造りたてまつり」
とある。

『八幡愚童訓(乙本)』巻上の「垂跡事」には、
「左は第三大多羅志女神功皇后、又は気長足姫尊」
とある。
垂迹本地
宇佐八幡宮応神天皇釈迦如来
比売大神観音菩薩
神功皇后阿弥陀如来

善紀元年

参照: 「正八幡宮事」善紀元年

『大宮司補任帳』

不詳。
『八幡宮寺巡拝記』巻上の第七条「宇佐宮の事」[LINK]にも
「(八幡大菩薩)始て神明とあらはれ給ふ、大宮司補任帳には、僧聴三年と云り
とある。
「僧聴」は私年号の一つで、僧聴元年は宣化天皇元年[536]に相当する。

『宇佐由来記』

宇佐八幡宮の縁起書と思われるが、具体的にどの書を指すかは不明。

八頭の老翁

『八幡宮寺巡拝記』巻上の第七条「宇佐宮の事」[LINK]には、
「豊前国宇佐郡蓮台山の麓の谷奥に鍛治する翁あり、其相㒵甚奇異也、大神比頴これを見つけて、只人に非ずと思て、五穀を断ちて、三年間給仕して、後に御幣を捧て祈祷して云、我三季まて給仕しつる事は、その相㒵は頭八あり、只人に非ざるによりて也、若神ならは我前に顕はし給へと、此時失せて三歳の小児と顕れて、竹の葉に立給て託宣しての給く(宣わく)、我は日本の人王十六代の誉田天皇也。我は護国霊験威力神通大自在王菩薩と云也」
(引用文は一部を漢字に改めた)とある。

大神比頴

宇佐神宮の大宮司職を務めた大神氏の祖。
通常は「大神比義」と表記されるが、『八幡宮寺巡拝記』巻上の第七条(上記)には「大神比頴ナミヨシ」という表記が見られる。

『三輪高宮家系』[LINK]によると、大田々根子命の六世孫の三輪君身狭の子で、三輪君特牛の兄弟である。 即ち、大神比義を大和の大神氏と同族としている。

一方、『八幡宇佐宮御託宣集』霊巻五(菱形池辺部)[LINK]には、
「比義は何れの国の人なるを知らず。誰が家の子といふことを弁ず」
とあり、出身地も出自も不明である。 その姿は仙翁に似て、霊帽を戴いている。 五百余歳の年齢を表し、八幡大菩薩の三国霊行の間、常に随っていた。

同書・国巻四(三所宝殿以下事)[LINK]には、
「老翁と現はるものは、彼(大神比義)の霊なり。一体分身の外用にして、両霊潜通の内証なり。第一殿に副ひ奉り、万徳御前と申し、八幡の源を顕はし奉る」「大神比義の霊は、御炊殿に仰ぐべし。万徳御前是れなり。先祖相伝の秘義なりと云々」
とあり、下宮(御炊殿)の一之御殿には大神祖神社(祭神は大神比義翁)が相殿に祀られている。

護国霊験威力神通大自在王菩薩

八幡大神の菩薩号。
『東大寺要録』所収の弘仁十二年[821]八月十五日の官符[LINK]には、
「天応の初[781]、神徳を計量し、更に尊号を上りて、護国霊験威力神通大菩薩と曰ふ、延暦二年[783]五月四日託宣したまはく、吾は無量劫の中、三家に化生し、方便を修し、衆生を導済す、吾が名はこれ大自在王菩薩なり、宜く今号を加へて護国霊験威力神通大自在王菩薩と曰ふ」
とある。

馬城峯(御許山)

『日本書紀』巻第一(神代上)の第六段一書(三)[LINK]には、
「日神、方に素戔嗚尊の元より赤き心有るを知りて、便ち其の六柱の男(天忍穂耳尊、天穂日命、天津彦根命、活津彦根命、熯之速日命、熊野忍蹈命)を取りて、以って日神の子として、天原を治しむ。即ち、日神の生める三柱の女神(瀛津嶋姫命、湍津姫命、田霧姫命)を以ては葦原中国の宇佐嶋に降居さしむ」
とある。
この「宇佐嶋」の所在については所説有るが、谷川士清『日本書紀通証』巻四[LINK]には「宇佐嶋は即ち豊前国宇佐郡」として、
「見林(松下見林)曰く、宇佐嶋は海島に非ず。二川、神山を周流す。故に島の名有り」 「玉木翁(玉木正英)曰く、三女神始て降臨の処を御許山と日ふ。神宮を距ること東へ五十町許り。絶頂に磐石あり。常に清水を湛ふ。旱魃に涸るること莫く、雨雪に汚れず。之れを石清水と称す。後に今の社地に遷し祭る」
と注す。

『八幡宮寺巡拝記』巻上の第七条「宇佐宮の事」[LINK]の馬城峯に関する記述(石体権現・若宮・武内・御出家の峯・御正体)は『神道集』とほぼ同内容だが、
「東にあたりて三丁斗を去て、石面に龍馬の足の跡あり、深さは二寸斗也、大菩薩の人王とましましける時に、龍馬に乗給て、此山へかけり給しか故に、昔は馬城峯と号、今は神明と顕れて、此山に住給ふ」
(引用文は一部を漢字に改めた)と付記する。

『八幡宇佐宮御託宣集』王巻十四(馬城峰部)[LINK]には、
「八幡大菩薩人皇たる昔、霊瑞の馬に乗り、此の山に飛び翔る。龍蹄多く石の面に入ること二寸許、以て見在す。今是を龍蹄巌と謂ふ。此の馬栖む故に、馬城峯と名づく」
とある。

石体権現

大元神社[大分県宇佐市正覚寺]
祭神は八幡大神・比売大神・神功皇后。
宇佐神宮の奥宮で、御許山の山上に鎮座する。 本殿はなく、山頂の禁足地に在る三つの巨岩を御霊代とする。

『八幡宇佐宮御託宣集』王巻十四(馬城峰部)[LINK]によると、欽明天皇の御宇[540-571]、豊前守が朝に戸を開けると、東方に金色の光が見えた。 国の諸司を東に派遣し、日足浦に住む大神波知という八百歳の翁を尋ねて問うと、翁は「此より南に山有り。名は御許と号く。其の山に昔八幡と申したてまつる人、往返し給ふ。彼の人、末世を利せんが為に、今神明と顕現し坐すなり。その瑞光為らんか」と答えた。 使者が登って見ると、そこには三つの大石が有り、大鷲が此の石から毎朝飛び下り、飛び上がって、金色の光を放っていた。 報告を受けた豊前守は帝王に「八幡大菩薩顕れ給ふ。末世の人の恩顧を満さんが為に、示現したまふ故に、崇め奉る所なり」と申し上げた。
天平二年[730]に石体権現を覆う御殿を造ろうとした時、「我、石体と顕るることは、未来の悪世に至つて、久しからんが為なり。此の風に当り、此の流を呑まん者は罪障を滅すべきなり。御殿を造り覆ふこと勿れ」と神託が有った。

若宮・武内

『八幡宇佐宮御託宣集』王巻十四(馬城峰部)の絵図[LINK]によると、石体権現の御霊代の左右に磐座が在り、左方(南)の磐座が「若宮」、右方(北)の磐座が「武内」である。

「若宮」の祭神を明記した資料は管見の限り見当たらないが、八幡の御子神(若宮神)を祀る磐座と考えられる。
同書・名巻二(三国御修行部)に引用する阿蘇縁起[LINK]によると、新羅・高麗が日本を攻めようとしていた時、大帯姫は八幡を懐妊していた。 大帯姫は方士を龍宮に遣わして「我が懐妊の子は、是れ男子也。龍宮の懐妊の子は、又女子也。我が太子を婿と為し給へ。君が女子を婦と為め」と約束し、龍宮の乾珠・満珠を借りて新羅・高麗に勝利した。 八幡は「我が母は、龍宮に約束を成し給ひき、其の契りを果たして遂げん」と宣い、日向国に入って龍女を娶った。 この時に生まれた御子が若宮二所・若姫二所の計四所である。

同書・霊巻の裏書には、
「或る人云く、大神朝臣比義は、武内大臣の再来なりと云々」 「比義は馬城峯に於ては、波知翁と号け、石躰の神となる。今は武内神と号け、第三の霊石に副ひ奉るは是れか」
とあることから、「武内」は大神比義を祀る磐座と考えられる。

剃髪出家の地

『八幡宇佐宮御託宣集』王巻十四(馬城峰部)[LINK]によると、宝亀八年[777]五月十八日に「明日辰時を以て、沙門と成つて、三帰五戒を受くべし。自今以後は殺生を禁断して、生を放つべし。但し国家の為に、巨害有るの徒出で来らん時は、此の限りに有るべからず」と託宣が有った。
同書には「(法蓮和尚を)今請じ奉つて師と為す。馬城峯の御在所よりは、南の方に四、五町許り去り、此の峯に於て、御出家す。霊鬘・玉冠・御髪剃筥等、面々に石と成り、一々尚新なり。これを御出家峯と謂ふ。此の峯よりは坤の方十四五町の下の山中に、御正覚座の石有り」とある。

御正体

『八幡宇佐宮御託宣集』王巻十四(馬城峰部)に引用する承久三年[1221]十二月の八幡御許山の牒[LINK]には、
「当山石体大菩薩を尊崇せられ、去る十月二日、御正体の阿弥陀三尊、顕現せしめたまふ奇異不可思議の子細の事」「去る十月二日、風枝を鳴さず、雨壌を破らず、静なるに、頽山の響有り。駭き巡つて見る間。御在所の北、一町余りの行程を隔てて降る、二丈許りの大石有り。此の石、自ら半ば破れて彼の御鏡顕現す。縡の挙動、誠に以て不可説なり」
とある。

正・像・末の石鉢

大元神社の斎庭から南に少し下ったところに、「三鉢の水」と呼ばれる霊水が涌出している。

『八幡宇佐宮御託宣集』王巻十四(馬城峰部)[LINK]には、
「石体の御傍に遠からずして、三の井有り。霊水を湛へ澄めり。御鉢の香水と号く。件の水は、雨降れども増さず、日旱れども減らず。只本の水の如し。乃ち往古近代の奇異なり」「(八幡大神の)御貌を此の水に写し坐し、其の光を内裏に耀かす間、占はるる時申して云く。人皇第十六代誉田天皇の御霊、神明と成り、豊前国厩峯に顕れ坐す瑞光なりと云々。鎮護国家、正像末三世の霊水なり」
とある。

小蔵山・菱形山・亀山

宇佐神宮の上宮が鎮座する小山。

『八幡宇佐宮御託宣集』護巻三(日本国御遊化部)[LINK]には、
「此の菱形は三山の惣名なり。北辰影向の地なり」「抑も菱形の称は、斯の峯の形、菱の角の如くにして、一山の秀たるに非ず、三方に分れて峙ちたり」「一は小倉山、北の方に在り、亀の象に相似たり。故に亦亀山と名づく」「二は大尾山、東の方に在り。亀山の尾に当る故に、爾云ふなり」「三には宮山、西の方に在り。造営の時、神壇等を築き奉るは、此の山の土なり。故に宮山と云ふ」
とあり、小椋山(亀山)・大尾山・宮山の総称を菱形山とする。

元慶元年の託宣

『八幡宇佐宮御託宣集』護巻三(日本国御遊化部)[LINK]によると、元慶元年[877]に大分八幡宮[福岡県飯塚市大分]で「我日本国を持たんが為に、大明神と示現す。本体は是れ釈迦如来の変身にして、自在王菩薩是れなり。法体に名づく。女体と申すは、我が母、阿弥陀如来の変身なり。俗体と申すは、観音菩薩の変身にして、我が弟なり」と神託が有った。 この弟とは応神天皇の御弟ではなく、霊行の時の御事である。

放生会

『八幡宇佐宮御託宣集』霊巻五(菱形池辺部)[LINK]によると、養老四年[720]に隼人の乱が起き、朝廷の祈願に対し「我行きて降伏すべし」と神託が有った。 大神朝臣諸男は三角池(薦神社[大分県中津市大貞]の神池)の真薦で枕(八幡大神の御験)を作り、隼人征伐のために日向に行幸した。 彦山権現・法蓮・華厳・覚満・躰能もこれに同行した。
隼人征伐後、神亀元年[724]に「吾れ此の隼人多く殺却する報には、年別に二度放生会を奉仕せん」と託宣が有った。
法蓮が高原嶽(香春岳)で日想観を修すると、修法の峯から紫雲が聳えて大宰府を覆った。 この奇瑞を公家に奏上すると、天皇は法蓮を召されて法眼和尚に叙した。 和尚は下向後、五人の同行(大菩薩・法蓮・華厳・覚満・躰能)により放生会を修し、永代の例とした。
「八月十四日大菩薩和間浜に遷行し、御頓宮(和間神社[大分県宇佐市松崎])に入りたまふ。当会の為体、奇麗にして甚だ妙なり。九品の浄刹の荘厳を移し、二十五菩薩の舞楽有り。同じき夜に六根懺悔の行法有り。伝戒乞戒の儀式有り。同十五日潮半満の時、大菩薩浮殿に出で御ふ。法蓮和尚等、導師已下を勤行し、放生陀羅尼を唱へ、大乗経典を誦せしむ。此の間に、鱗貝の生命を買い放ち、甚深の法命を施与す。又嚢日の様を表し、今時の式を調ふ。久々津儛(傀儡舞)を幕の中に出し、左に旋り右に旋り海の上に浮ぶ」

晨旦国の太宗

参照: 「正八幡宮事」陳の大王

八幡崎

参照: 「正八幡宮事」八幡崎

稽首八幡大菩薩

「彦山の略記」が何を指すのかは不明。
『八幡宮寺巡拝記』巻下の第三十一条「別当宗胤頌文の事 附八幡大菩薩の心」[LINK]には、
「第七代別当宗胤「稽首八幡大菩薩 示現神通度衆生 断除十悪為十善 覆護衆生能与楽」此の頌を作てもちて宝前に参て、若し神慮に叶はゝ焼くる事なしとて焼きけるに、紙は皆焼けて文字はかり残り、〈中略〉五体を地に投くる礼をなして、我頭に大菩薩の御足をいたゝき奉る思ひを、稽首とは云也」
(引用文は一部を漢字に改めた)とある。

勝尾寺

応頂山勝尾寺[大阪府箕面市粟生間谷]
本尊は十一面観音。
高野山真言宗。 西国三十三所観音霊場の第二十三番札所。

『八幡愚童訓(乙本)』巻下の「仏法事」には、
「開成皇子(光仁天皇の皇子)、勝尾寺にて善仲・善算を受戒の師とし、大般若を写さんとて、天道に向て金・水(金粉と硯水)を祈請し給ふ事、一七夜也。七日にみちなんとする暁の夢に、容儀美麗にして衣冠たゞしくしたる人、写経の為にとて、金丸を青地の錦の袋に入て右手をのべて与へ給ふ。皇子長跪して両手をさゝげて拝納す。「誰人にて御座やらむ」と問奉られければ、「得道来不動法性、自八正道垂権迹、皆得解脱苦衆生、故号八幡大菩薩(得道より来、法性を動かさず。八正道を示し、権迹を垂る。皆苦の衆生を解脱するを得、故に八幡大菩薩と号く)」とて去給ふとみて、夢覚て後、経台の上にまわり二寸・長七寸の金丸あり」
とある。

龍種上尊王如来・金光如来

金光如来は金粟如来の誤記と思われる。

『望月仏教大辞典』の金粟如来の項[LINK]には、
「過去仏の名。維摩の前身と称せらるゝ如来なり。浄名玄論第二[LINK]に「復た有人釈して云はく、浄名、文殊は皆往古の如来にして、現じて菩薩となる。首楞厳に云が如き、文殊は龍種尊仏たりと。発迹経に云はく、浄名は即ち金粟如来なり」と云ひ、又維摩経義疏第一[LINK]に「有人言はく、文殊師利は龍種上尊仏、浄名は即ち是れ金粟如来なりと。相伝へて云ふ、金粟如来は思惟三昧経に出づと。今未だ本を見ず」と云へる其の説なり。此の中、発迹経及び思惟三昧経は現蔵中に之を収めず」
とある。

鳩摩羅什訳『首楞厳三昧経』巻下[LINK]には文殊師利法王子が過去世に龍種上如来として成仏した事を説く。

正法明如来

参照: 「赤山大明神事」正法明

「八」の意義

『曽我物語(真名本)』巻第二には、行教和尚の言葉として
「それ、おもんみれば八幡大菩薩と申して八の数をつかさどり給ふ事は、諸仏の出世は必ず八正道あり。〈中略〉八幡と云ふ神号をば方取り給ふにこそ」
と、ほぼ同内容を記す。

大仲臣経

中臣祓は、『延喜式』に収める六月・十二月晦の大祓詞[LINK]に起源をなし、文武百官を集めた朝議としての二季大祓行事は宣読の形式になる公的行事だったのに対し、これを奏申の形式に改め、私的に人々によって唱読されたものである。 大祓詞は中臣氏がこれを読唱し伝えたことから、中臣祓ともいい、中臣祭文[LINK]大仲臣経などと呼ばれて世間に流布し、盛んにその功徳が宣伝せられた。
(岡田荘司「中世初期神道思想の形成 —『中臣秡訓解』・『記解』を中心に—」[PDF]、日本思想史学、10、pp.1-10、1978)

大祓詞には、
「高天原に神留り坐す、皇親神漏岐神漏美の命以ちて、八百万の神等を、神集へ集へ賜ひ、〈中略〉天の磐座放ち、天の八重雲を、伊豆の千別に千別て……」
とある。

八雲立つ出雲八重垣

参照: 「御神楽事」素盞烏尊

日吉社の八王子

参照: 「高座天王事」大八王子

鹿嶋宮の八龍神

参照: 「春日大明神事」南八龍神・北八龍神

伊豆・箱根二所権現の八大金剛童子

参照: 「二所権現事」雷殿八大金剛童子
参照: 「二所権現事」吉祥駒形・能善権現

熊野証誠権現

参照: 「熊野権現事」証誠殿

熊野部千代包

参照: 「熊野権現事」千代包

宇津宮大明神

二荒山神社(宇都宮)
参照: 「宇都宮大明神事」宇都宮大明神(男体)

唵佐良摩

参照: 「日光権現事」唵佐羅麼

北海国牛頭天王

参照: 「祇園大明神事」牛頭天王

蘇民将来

参照: 「祇園大明神事」蘇民将来

法宿権現

参照: 「高座天王事」大宮法宿権現

唐崎女別当

唐崎神社[滋賀県大津市唐崎1丁目]
祭神は女別当命わけすきひめのみこと。 通説では琴御館宇志丸宿禰(祝部氏の祖)の妻であるが、一説に唐崎一松の霊、石占井御前、または海少童命とする。
日吉大社の境外摂社。

祝部行丸『日吉社神道秘密記』[LINK]には、
「唐崎女別当社〈口伝〉 婦女或は松の精神之を祝ふ。或は琴御館種々の相伝之有り」
とある。

寒川辰清『近江国輿地志略』巻之十五(志賀郡十)[LINK]には、
「女別当社 是れ唐崎大明神なり」 「鎮坐記に曰ふ、大宮初顕地、口伝の社也。人皇三十五代舒明天皇御宇[621-641]之を祭る云々。行丸日吉秘記に曰ふ、唐崎社は大己貴命・日吉大比叡神初現の地に、石占井御前を祭る故に、女別当の号ありと云」
とある。

『東海道名所図会』巻一[LINK]には、
「唐崎神祠 幸崎の松の下にあり。日吉山王の御旅所なり。日吉の社僧伊勢園守る。祭神海少童命。毎歳六月晦日夏越祓に、遠近群参する事夥し」
とある。