『神道集』の神々

第二 宇佐八幡宮事

宇佐八幡宮は豊前国に鎮座する。 (八幡大菩薩が宇佐に顕現したのは)欽明天皇十二年で、(日本に渡来した)善紀元年の三十年後である。 また大宮司補任帳によると僧聴三年で、そうだとすると宣化天皇三年である。
宇佐由来記によると、豊前国宇佐郡山谷の辺に八頭の老翁が化現した。 大神比義という人が五穀を絶って奉幣し「あなたがもし神ならば、我が前に顕れて名乗りたまえ」と祈願した。 この時、八頭の老翁の姿が消えて二三歳の小児と成り、竹の葉に乗って「我は日本人皇十六代誉田天皇である。名は護国霊験威力神通大自在王菩薩と号す」と託宣した。
同じ頃、馬城峯に石体権現が大帯姫・比咩大神と三所に並び顕れた。 高さは一丈五尺、広さは一丈ばかりの石体である。 人々がこれを怪しんで近づき、御殿を造って覆おうとすると、「我が石体として顕れたのは、将来に至るまで久しくある為である。御殿を造ってはならない」と託宣が有った。 石体が東を向いているのは、王城を守り百王を鎮護するためである。
若宮は南に在る。 武内は西北に在る。 剃髪出家の地である。
同じ頃、この山にある長さ一丈程度、広さ七尺程度の石が割れ、その中に阿弥陀三尊の御正体が有った。 石の中にどうして金銅の三尊が有ったのか、希代の不思議である。
この山に神が顕れてから、馬城の名を改めて御許山と名づけた。
石体権現を少し下った所に、正・像・末の石鉢がある。 大菩薩が神として顕れた時、三つの鉢の霊水にその姿を映した。 その光は内裏に移って照し耀き、主上を大いに驚かせた。 神は宮人に「我は人皇十六代誉田帝である。豊前国馬城峯に神として顕れた瑞光である」と託宣した。

この山から五十町ほど離れた所に一つの山が有り、小蔵山(小倉山)・菱形山・亀山の三つの名が有る。 人皇四十五代聖武天皇の御宇、神亀二年にこの山に御殿を造って勧請した。 この御殿は三十年毎に造り替える。 この御殿は南向きである。

三所の内、西は一の御前、法体の大菩薩である。 中は二の御前、女体の大帯姫である。 東は三の御前、比咩大神である。 本地は、釈迦如来・阿弥陀如来・観音菩薩である。
五十七代陽成院の御代、元慶元年十一月十三日に「我が本地は釈迦如来である。女体は我が生母で阿弥陀如来の変身である。俗体は観音菩薩の化身で、我が娘比咩大神である」と託宣が有った。

宇佐八幡宮

宇佐神宮(大分県宇佐市南宇佐)
祭神は誉田別尊(応神天皇)・比売大神(多岐津姫命・市杵嶋姫命・多紀理姫命)・大帯姫命(神功皇后)
式内社(豊前国宇佐郡 八幡大菩薩宇佐宮名神大、比売神社名神大、大帯姫廟神社名神大)。 豊前国一宮。 旧・官幣大社。
史料上の初見は『続日本紀』(天平九年[737]四月乙巳朔)の「使を伊勢神宮・大神社・筑紫の住吉・八幡二社及び香椎宮に遣はし、幣を奉り新羅無礼の状を告げしむ」。

『宇佐八幡宮弥勒寺建立縁起』(大神清麻呂解状)によると、八幡大神は応神天皇の霊であり、欽明天皇の御宇[539-571]に宇佐郡御許山に顕現した。 戊子年[568]に大神比義が鷹居社(宇佐市上田)を建立し、自ら祝となって八幡大神を祀った。

異伝(辛嶋家主解状)によると、八幡大神は欽明天皇の御宇に宇佐郡辛国宇豆高島(稲積山)に天降り、大和国膽吹嶺(伊那佐山)、紀伊国名草海島、吉備宮神島を経て、再び豊前国宇佐郡に戻り馬城嶺(御許山)に顕現した。 その後、比志方荒城潮辺(宇佐市下乙女の乙咩社)に遷座し、辛嶋勝乙目が奉仕した。 また、酒井泉社(宇佐市辛島の泉社)、宇佐河渡社(宇佐市樋田の郡瀬社)を経て、鷹居社に遷座した。 ここで大神は鷹と化して御心が荒々しくなり、人が五人行くと三人を殺し、十人行くと五人を殺した。 崇峻天皇三年[590]から三年間、辛嶋勝乙目が祈祷して大神の御心を和ませ、同五年[592]に社殿を建立して奉斎した。 天智天皇の御宇[668-672]に鷹居社から小山田社(宇佐市小向野)に遷座した。

『八幡宇佐宮御託宣集』によると、欽明天皇二十九年[568]に小倉山の麓の菱形池の辺に一身八頭の鍛冶翁が化現し、人が五人行くと三人を殺し、十人行くと五人を殺した。 大神比義が行くと、翁の姿はなく金色の鷹が梢の上にいた。 比義が祈念して「誰が成り変りしか」と問うと、たちまち金色の鳩と成って袂の上に飛来した。 比義は五穀を断って三年間修行し、同三十二年[571]に奉幣して祈ったところ、三歳の小児が竹の葉の上に現れて 「辛国の城に始て八流の幡と天降りて吾は日本の神と成れり」 「我は是れ日本人皇誉田天皇広幡八幡麻呂也。我が名は護国霊験威力神通大自在王菩薩」 と託宣した。

異伝によると、八幡大神が鷹と化しで顕現したのは和銅元年[708]である。 大神比義(注記によると、比義の子の春麻呂)が来て、辛嶋勝乙目と両名で五穀を断って千日間精進し、大神の御心を和らげた。 同三年[710]に「我れ霊神成て後、虚空飛翔る。棲息無し。その心荒たり」と託宣が有った。 祈祷を続けて大神を鎮め、同五年[712]に鷹居瀬社の社殿を建立した。 霊亀二年[716]に「此所は路頭にして、往還の人無礼なり。此等を咎むれは甚だ愍し。小山田の林に移住せむと願給ふ」と託宣があり、小山田社を建立して遷座した。

養老七年[723]に「我今坐する小山田社は、其の地狭隘し。我菱形山に移らんと願ひ給ふ」と託宣があり、神亀二年[725]正月二十七日に小倉山に一之御殿を建立した。 同日、「吾未来の悪世の衆生を導かんが為に、薬師・弥勒二仏を以て、我が本尊と為す。理趣分・金剛般若・光明真言陀羅尼を念持する所なり」と託宣があり、弥勒禅院と薬師勝恩寺を建立した(両寺は天平十年[738]に宇佐神宮境内に移転し、合併して弥勒寺となった)。 天平三年[731]に託宣があり、同六年に比売大神を祀る二之御殿を建立した。 また、弘仁十一年[820]に神託が有り、同十四年四月に大帯姫を祀る三之御殿を建立した。
垂迹本地
宇佐八幡宮応神天皇釈迦如来
比売大神観音菩薩
神功皇后阿弥陀如来

石体権現

宇佐神宮の奥宮・大元神社(宇佐市正覚寺)
祭神は比売大神(多岐津姫命・市杵嶋姫命・多紀理姫命)。

御許山の山上に鎮座する。 本殿はなく、山頂の禁足地に在る三つの巨岩を御霊代とする。

『日本書紀』(神代紀・第六段の一書)[LINK]によると、日神と素戔嗚尊が天安河で誓約した時、日神は三柱の女神(瀛津嶋姫命、湍津姫命、田霧姫命)、素戔嗚尊は六柱の男神(天忍穂耳尊、天穂日命、天津彦根命、活津彦根命、熯之速日命、熊野忍踏命)を生んだ。 日神は六柱の男神を我が子として天を治めさせ、日神の生んだ三柱の女神は葦原中国の宇佐嶋に天降らせた。
この"宇佐嶋"について、宇佐の御許山とする説と、宗像の沖ノ島とする説がある。

『八幡宇佐宮御託宣集』によると、天平二年[730]に「我、石体と顕るることは、未来の悪世に至つて、久しからんが為なり。此の風に当り、此の流を呑まん者は罪障を滅すべきなり。御殿を造り覆ふこと勿れ」と神託が有った。

若宮・武内

石体権現の御霊代の近くにある二つの岩。 「奥宮御許山絵図」[LINK]によると、先ず石体権現(一・二・三)を拝し、武内(四)→北辰(五)→善神王(六)→若宮(七)→白山(八)→善神王(九)の順番で巡拝したものと思われる。

"若宮"は八幡神の御子神を祀る岩と思われる。
『八幡宇佐宮御託宣集』に引用する「阿蘇縁起」によると、大帯姫は方士を龍宮に派遣し、「我が懐妊の子は、是れ男子なり。龍宮懐妊の子は是れ女子なり。我が太子を聟と為し、君が女子は婦と為さん。乾満の両珠を借し給へ。忽に異国を降伏すべきなり」と仰った。 皇后は即時に乾珠・満珠を得て、三韓を討ち平らげて帰国した。 八幡神は「我が母は、龍宮に約束を成し給ひき。龍女と其の契を果し遂げん」と仰り、日向に入って龍女を娶られた。 その時に生まれた御子が若宮四所(若宮・若姫・宇礼・久礼)である。
また、若宮四所は「御母方、龍種たる間、御心猛き故に、異国征伐の大将なり。又心穢き輩、神敵の者は、罸せらるる時、大菩薩若宮に仰せ、八目の流鏑を放たるるなり」とある。

"武内"は武内宿禰の霊を祀る岩と思われる。

剃髪出家の地

『八幡宇佐宮御託宣集』によると、宝亀八年[777]五月十八日に「明日辰時を以て、沙門と成って、三帰五戒を受くべし。自今以後は殺生を禁断して、生を放つべし。但し国家の為に、巨害有るの徒出で来らん時は、此の限りに有るべからず」と託宣が有った。 馬城峯より南の方に四五町離れた峯に於いて、八幡神は法蓮和尚を師として出家受戒し、等正覚を成就した。 その峯には霊鬘・玉冠・御髪剃り筥等が石と成っており、これを御出家峯と云う。

阿弥陀三尊の御正体

『八幡宇佐宮御託宣集』によると、御正体の阿弥陀三尊が顕現したのは承久三年[1221]十月二日。

正・像・末の石鉢

大元神社の拝殿から南に少し下ったところに、"三鉢の水"と呼ばれる霊水が現在も涌出している。

『八幡宇佐宮御託宣集』には「件の霊水には、木の葉入らず、霜雪凍らず」「忽ちに三鉢の水を出す。神慮として、大に雨ふれども増さず、大に酌めども減らず、大に旱れども干ず、大に寒けれども凍らず」とある。 また、石体権現の三石と三鉢の水の関係について、「大菩薩、衆生利益の水心より、衆生利益の石躰を現す。石を体と為し、水を意と為しまします」と説く。