『神道集』の神々

第二十五 春日大明神事

この御神の大社は常陸国の鎮守・鹿嶋大明神である。 仏法守護鎮護国家の為に、人皇四十八代称徳天皇の御代、神護景雲元年に三笠山に移り来た。 南都に移る時、一丈程の白鹿に乗り、二人のお供を連れた。 その二人の御供とは時風・秀行である。
春日四所明神の一宮の本地は不空羂索観音である。
二宮の本地は薬師如来である。
三宮の本地は十一面観音である。
四宮の本地は地蔵菩薩である。

そもそも鹿嶋大明神が常陸国に垂迹された由緒であるが、天神七代の国常立尊より伊弉諾・伊弉冊尊の御代が終り、地神五代の御代に荒振神たちを鎮め、大小の神祇の鎮座地が定まった。 その時に天津児屋根尊は金の鷲に駕して、常陸国の中郡古内山に天下られた。 その後に国中を廻り、鹿嶋郡は吉き処であるとして御在所に定められた。
鹿嶋には思惟大明神という石が山中に在る。 即ち大明神の御思惟が有る所である。
御宝殿は西向きである。 ある人の説によると、天王寺を向いている。 仏法が東漸して、日本国の東岸の終りまで来た事を思わせる。
不開御殿は北向きである。
奥御前は天明大神等である。
六所明神は大龍神である。
南八龍神の本地は不動明王である。
北八龍神の本地は毘沙門天王である。
鹿嶋三所は鹿嶋大明神と沼尾・酒戸である。
沼尾の本地は薬師如来で、明神の御弟である。
酒戸の本地は地蔵菩薩で、明神の御妹である。
息洲三所の本地は釈迦如来・薬師如来・地蔵菩薩・不動明王・毘沙門天王等である。
手子后の本地は釈迦如来である。
御足洗で心の塵を濯ぎ、神宮寺で本地を拝する。

『日本記』によると、蒼海の底に大日如来の印文が有った。 それを伊弉諾・伊弉冊尊が天逆鉾を下して探し、顕されたのが即ち日本国である。 天照大神の御前において天津児屋根の子孫が天子の政治を助け、大日如来・十一面観音が帝・后となり、国を守り、人民を憐れむ。 故に本朝の神と云うのである。

春日大明神

春日大社[奈良県奈良市春日野町]
第一殿の祭神は武甕槌命。
第二殿の祭神は経津主命。 通説では斎主命と同神とする。
第三殿の祭神は天児屋根命。
第四殿の祭神は比売神。 通説では天児屋根命の后神であるが、一説に天照大神とする。
式内社(大和国添上郡 春日祭神四座〈並名神大 月次新嘗〉)。 二十二社(上七社)。 旧・官幣大社。
『新抄格勅符抄』巻十(神事諸家封戸)大同元年[806]牒[LINK]に「春日神 廿戸 常陸国鹿島社に寄せ奉る。天平神護元年[765]」とあり、この時期に春日大社勧請の準備が開始されたと考えられる。

『続日本紀』巻第七の養老元年[717]二月壬申朔[1日]条[LINK]には、
「遣唐使、神祇を盖山の南に祠る」
とあり、春日大社勧請以前から三笠山(盖山)は祭祀の場であった。

『春日社記』[LINK]には、
「一御殿 武甕槌命〈鹿嶋〉 常陸国。二御殿 斎主命〈香取〉 下総国。三御殿 天児屋根命〈平岡〉 河内国。四御殿 姫太神〈太神宮〉 伊勢国」
「神護景雲二年正月九日、大和国添上郡三笠山に垂跡。同年十一月九日寅日寅時、宮柱立て御殿造り畢る。常陸国より御影向。御乗物は鹿を以つて御馬と為し、柿木の枝を以つて御鞭と為し給ふ。[中略]神護景雲元年六月廿一日、伊賀国名張郡夏身郷一瀬河(積田神社[三重県名張市夏見]付近)にて御沐浴、鞭を以つて験を為し立て給ふ。樹と成りて生ひ付く。其れより後、同国薦生中山(中山神社[三重県名張市薦生]付近)に数月御す。時風、秀行等に、焼栗を各々一つ賜ひて宣はく、「汝等子孫、断絶無く我に仕るべくは栗殖へんに、必ず生付くべし」と。即ち生付き了る。之に因りて始めて中臣殖栗連と号す。同年十二月七日、大和国城上郡安部山に御坐、同二年、三笠山に御垂跡也」
とある。

『諸社根元記』の春日の条[LINK]には、
「本地 第一 不空羂索、又説 釈迦 第二 薬師 第三 地蔵 第四 十一面 若宮 文殊」
とある。
また、『古社記断簡』には、
「一宮〈束帯〉武雷槌命〈常陸国〉之を鹿島大明神と号く、御本地 釈迦〈或不空羂索〉 二宮〈同〉斎主命〈下総国〉香取大明神、御本地 薬師〈或弥勒〉 三宮〈僧〉天児屋根命〈河内国〉平岡大明神、御本地 地蔵菩薩 四宮〈女〉相殿姫神〈伊勢大神宮〉天照大神、御本地 十一面観音〈又大日〉」
とある。

『神道集』では「三宮は本地は十一面観音なり」「四宮は本地は地蔵菩薩なり」とするが、管見の限り同説は他に見ない。

『春日権現験記』第一巻[LINK]には、
「夫春日大明神は、満月円明の如来、久遠成道のひかりをやはらげ、法雲等覚の薩埵、内証本地の影をかくす。専一朝の忠神として、鎮に四海の安寧をまもり給。天津彦天皇はじめて葦原中国に入給し時、邪神ひせぎ奉りしかば、天より宝剣を投げてこれを誅。大汝命・事代主命、天照太神をあやぶめたてまつりしに、経津主〈香取〉・武甕槌命〈鹿島〉等追討使として、両神さりし時国を治むる矛を奉る。天岩戸をゝし開きては六合のとこ闇を照して、万民の愁を休め給。即ち天照太神・児屋根尊、合体御契深くして、伊勢太神宮も同く第四御殿に跡をたれたまふ」 「その源を尋ぬれば、昔し我朝悪鬼邪神あけくれ戦ひて、都鄙やすらかざりしかば、武甕槌の命是を哀みて、陸奥国塩竈浦にあまくだり給。邪神霊威に恐れ奉りて、或はにげさり或はしたがひたてまつる。そのゝち常陸国跡の社(跡宮[茨城県鹿嶋市神野4丁目])より鹿島に遷らせ給。つゐに神護景雲二年春法相擁護のために御笠山にうつり給ひ」 「香取平岡の両神に申されしかば、同じ年の冬影向し給てよりこのかた、霊験としふりて利益日あらたなり」
とある。
また、
「承平七年[937]二月廿五日亥時ばかり神殿鳴動して風吹。子時に橘氏女御宝前にて声をはなつ。神殿守ならびに預などをめし集むれば、已つゝしみ恐れて候。又今月廿三日より御読経に候。興福寺僧勝円をめす。即御託宣云、我ははやく菩薩に成にたり、然るを公家いまだ菩薩の号を得しめざるやとおほせらる。こゝに天台山修行の僧千良申しけるは、菩薩の御名をばいかゞ申侍覧と申せば、慈悲万行菩薩と名のらせ給」
とある。

『大和名所図会』巻之一の春日大宮四所大明神の条[LINK]には、
「春日大明神御歌 我をしれ釈迦牟尼仏の世にいでゝ さやけき月の世をてらすとは」
「東第一の神殿は、武甕槌神を祭る。又の御名武雷神・建布都神・豊布都神とも申す。[中略]同年(神護景雲二年)十一月九日、三笠山に跡を垂れ給ふ」
「第二の神殿は経津主神。又の御名斎主神、又斎之大人ともいふ。[中略]下総国香取明神是なり。神護景雲二年に三笠山に遷り給ふ」「第三の神殿は天児屋根命。中臣祖神なり。[中略]河内国平岡明神なり。御鎮座は人皇三十七代孝徳天皇四年[648]十一月戊申の日、三神に先だちて三笠山に遷り給ふ」
「第四の神殿は姫太神。[中略]又一説に天照太神の分神とも、又或説には第四姫太神は武甕槌命の姫君にして、天児屋根の御妻女なり。故に平岡明神の相殿にまします」
とある。

『三国相伝陰陽輨轄簠簋内伝金烏玉兎集』巻三の神中吉日の条[LINK]には、
「戊申は藤原太政大臣、春日宮を造営し、子孫繁昌にて、両国の大王を聟に取りたまふ日也」
とある。

不空羂索観音

藤原氏の氏寺である興福寺[奈良県奈良市登大路町]の南円堂の本尊。

『春夜神記』によると、南円堂は補陀落山を表している。 長岡右大臣(藤原内麻呂)と弘法大師が相談し、丈六三目八臂の不空羂索観音を造立し、補陀落山を象って御堂は八角に造立する事にした。 長岡右大臣は建立前に亡くなったので、御子の左大臣冬嗣が大師と相談し、弘仁四年[813]に南円堂を建立して、大師が鎮壇の法を修した。
不空羂索観音が左肩に鹿皮をまとうのは、武甕槌命が三笠山に移られた時に鹿を神使とした因縁に依る。
本地供の相伝によると、先ず不空羂索三尊を観想し、次に右辺に不空忿怒王(不空奮怒王)三尊、左辺に二童子を観想する。 次に垂迹の形相を観想する。 俗形で白鹿に乗り、左手に『金剛般若経』、右手に『成唯識論』第七を持つ。
四所の明神は垂迹は各別であるが、一躰分身であり差別は無い。 故に南円堂の本尊を春日大明神の本地とする。
秘伝によると、不空忿怒王は不動明王の躰である。 不空羂索観音は不空忿怒王の三昧に入り、春日大明神として現れる。
垂迹本地
春日四所明神一宮(鹿嶋大明神)不空羂索観音(または釈迦如来)
二宮(香取大明神)薬師如来(または弥勒如来)
三宮(枚岡大明神)地蔵菩薩
四宮(比売神)十一面観音(または救世観音、大日如来)

鹿嶋大明神

参照: 「鹿嶋大明神事」鹿嶋大明神

天津児屋根尊

参照: 「鹿嶋大明神事」天津児屋根尊

中世の春日社では第三殿の天児屋根命と本地仏(地蔵菩薩)への信仰が盛んになった。
『春日権現験記』第十六巻[LINK]には、
「いかなる罪人なれども他方の地獄へはつかはずして、春日野のしたに地獄をかまへてとり入つつ、毎日晨朝に第三御殿より地獄菩薩の灑水器に水を入て、散杖をそへて水をそそぎたまへば、一したたりの水罪人の口に入て苦患しばらくたすかりて、すこし正念に住する時、大乗経の要文陀羅尼などを唱て聞せ給こと日々にをこたりなし」 「地蔵は当所第三の御本地なり。殊利益めでたくおはすると申ならひたり。念仏の導師付属の薩埵也。本地垂跡いづれもたのもしくこそ侍れ」
とある。

古内山

参照: 「鹿嶋大明神事」古内山

思惟大明神

鹿島神宮の要石を指すと思われる。

『鹿島宮社例伝記』[LINK]には、
「奥之院の奥に石の御座有り。是れ俗に「かなめ石」と云ふ。山の宮とも号す。大明神降り給し時、此石に御座し侍る。金輪際に連なると云ふ」
「常州殊に地震の難繁き国、石御座有りけるにや。為に地震動かざる故、当社に於て地震動かず」
とあり、近世には鹿島神宮の要石が地震を起こす大鯰を押さえているという俗信が流布した。

無住『沙石集』拾遺の「鹿島石のみまし」[LINK]によると、右大弁入道光俊が鹿島神宮に参詣した時に、「尋ねかね 今日見つるかな ちはやぶる 深山の奥の 石の御座みましを」と詠み、「これは大明神天よりあまくだり給ひて、時々座禅せさせ給石なり。万葉集のみましと云これなり」と語った。 この逸話に因んで「石の御座」「御座石」「座禅石」とも呼ばれる。

御宝殿

一般的には本殿(正殿)を云うが、ここでは鹿島神宮の仮殿(奉拝殿)を指す。

『鹿島宮社例伝記』[LINK]には、
「楼門の西向に当り、御社在り。奉拝殿と曰ふ。正御殿にあらず。遷宮等の時、暫し此社に御座し移し給ふ。御仮舎所也」
とある。

明治十四年[1881]まで楼門の正面に西向きに建てられていたが、その後は境内を移転し、昭和二十六年[1951]からは現在地に南向きに建てられている。
現在、下記の摂末社・所轄社の分霊を祀っている。
摂社:奥宮(武甕槌大神荒魂)、高房社(建葉槌神)、三笠社(三笠神)、跡宮(武甕槌大神荒魂)、息栖神社(岐神・天鳥船神・住吉三神)、沼尾神社(経津主神)、坂戸神社(天児屋根命)
末社:須賀社(素盞鳴尊)、熊野社(伊弉諾命・事解男命・速玉男命)、津東西社(高龗神・闇龗神)、祝詞社(太玉命)、稲荷社(保食神)、潮社(高倉下命)、阿津社(活津彦根命)、熱田社(素盞鳴尊・稲田姫命)、御厨社(御饌津神)、国主社(大国主神)、海辺社(蛭子命)、鷲宮(天日鷲命)、押手社(押手神)、年社(大年神)
所轄社:大国社(大国主神)

不開御殿

鹿島神宮の正殿。 正月七日の夜の御戸開神事以外の時は御扉は開かれない。
史料上の初見は『吾妻鏡』巻第三十三(仁治二年[1241]二月十二日庚午条)[LINK]の「丑の刻、常陸国の鹿嶋社焼亡す。但し不開御殿・奥御殿等は焼かず」。

『鹿島宮社例伝記』[LINK]には、
「不開御殿と曰ふ。奉拝殿の傍に御座す。是れ則ち正御殿也。北向に御座す。本朝の神社多と雖も、北方に向て立給ふ社は稀也。鬼門降伏、東征静謐鎮守、当社御神殿霊法の如く、此社北向ける、御神躰正東に向ひ安置し奉る、内陣の例法也」
とある。

奥御前

鹿島神宮の摂社・奥宮
祭神は武甕槌大神荒御魂。
史料上の初見は不開御殿と同じ。

存覚『諸神本懐集』[LINK]には、
「奥の御前は本地不空羂索なり」
とある。

『鹿島宮社例伝記』[LINK]には、
「是より東三丁を去て、奥院とて御座す。是れ大明神禅定三昧の内院とも曰ふ。諸神官等参詣、俗出家に心あらん人は念誦読経も高声ならず」 「御社神躰をば正敷不奉居。此御殿には夜御座となし、輙昼夜参詣する事を不許。天照太神影御社とも云ひ伝ふ」
とある。

天明大神は不詳。

六所明神

不詳。

鹿嶋三所

『常陸国風土記』香嶋郡の条[LINK]には、
「天之大神社(鹿島神宮)、沼尾社、坂戸社、三処を合せて、総べて香島天之大神と称す」
とある。

沼尾

鹿島神宮の境外摂社・沼尾神社[茨城県鹿嶋市沼尾]
祭神は経津主命。

『鹿島宮社例伝記』[LINK]には、
「沼尾社は、本社より七里を去る。是れ則ち経津主命、香取大明神也。此神始て常陸鹿島に天降り、後に下総神崎と云ふ所に御座とも云へり、其後香取には垂跡給と云ふ。則ち当社三所大明神と崇敬し奉る」
とある。

酒戸

鹿島神宮の境外摂社・坂戸神社[茨城県鹿嶋市山之上]
祭神は天児屋根命。

『鹿島宮社例伝記』[LINK]には、
「坂戸宮、本社より北五里を去る。天児屋根尊、是れ則ち河内国平岡の神也。日神天磐戸に籠り賜ふ時、此御神謀を以て、磐戸を開き賜ふ。当社三所大明神と崇敬し奉る」
とある。

南八龍神・北八龍神

靇神社[茨城県鹿嶋市宮中1丁目]
祭神は高龗神・闇龗神。

『諸神本懐集』[LINK]には、
「左右の八龍神は不動毘沙門なり」
とある。

『鹿島宮社例伝記』[LINK]には、
「八龍神とて両社左右に峙賜ふ。恐雨師風神佰風神之現外護眷属、中宗との御神、賞罰新に御座にや」 「八大龍王并六拾四億之大龍王、皆此神の内外守護給にや」
とある。

谷田川谷山『鹿嶋誌』[LINK]には、
「八龍神 拝殿の脇に二社、楼門の中に四体、大町の左右に二社、すべて八所に祭れば八龍神社といへりしか、明治維新の初めに取り払ひて、今は跡形もなきに至れり」
とある。

八所の龍神の内、大町の左右二社が合祀されて現在の靇神社となり、大町区の鎮守社として祀られている。

息洲三所

息栖神社[茨城県神栖市息栖]
祭神は久那斗神(岐神)・天鳥船神・住吉三神(底筒男命・中筒男命・表筒男命)。 一説に気吹戸主神とする。
国史現在社(於岐都説神)。 旧・県社(鹿島神宮の境外摂社)。
史料上の初見は『日本三代実録』巻第四十七の仁和元年[885]三月十日乙丑条[LINK]の「常陸国正六位上於岐都説神に従五位下を授く」。

『鹿島宮社例伝記』[LINK]には、
「本社より南に当り三十里去て、息栖宮在り、是れ遥宮と云ふ。塩津老翁〈岐神〉、伊弉冉の御子に御座す由。此社左右にも八龍神御座す。本社より之れ祭礼勤行す、末社也」
とある。

秋里籬島『木曽路名所図会』巻之五の息栖大明神の条[LINK]には、
「祭神 気吹戸主命」 「本地堂 本社の右にあり。薬師如来を安す」
「当社は人皇十五代、神功皇后東夷征伐の御時、南海木の水門に泊り給ふ。此時鷁船海波に漂泊て進得ず。水夫力をつくせど行ず。遂に武庫の海浜に戻る。皇后怪しみ給ふ処に、此明神忽ち三筒男の神と現じ、武甕槌命・経津主命顕れ、東征の将軍となりて其副となり給ふ。皇后これに従ひ、神のをしへの如く、鷁船忽ち走りて容易賊敵を征し給ふ。還幸の御時、武甕槌神を鹿嶋に祭り、振威主神を楫取に祭り、此神を泛洲の浜に祭給ひて、崇敬他に異なり。故に東国三社といふ」
「厥后五十代平城天皇、明神を尊崇し給ひて、大同二年[806]四月十三日、藤原内麿に勅して、こゝに神祠を建」
とある。

中山信名『新編常陸国誌』巻七(神社・仏寺)[LINK]には、
「岐神を祭る〈息栖神社伝記〉、此神建御雷神、経津主神二神の嚮導として天下を周流つヽ共に荒振神を平げ順はしめ玉ひし神也〈日本紀〉」
とあり、その他の説には、
「旧記に云、息栖五処大明神、中央気吹戸主神、相殿四座、二座は稜威雄走命、熯速日命、又云、住吉三前神、中央気吹戸主命、天鳥船命」 「一社の説かくまちまちにて、或は息吹戸主神と云ひ、又は猿田彦神と云ふ、息吹戸主は息栖明神と云ふ、息栖の字によりて云る説と聞ゆれば、信がたし」
と否定的である。

明治神社誌料編纂所『府県郷社 明治神社誌料』上巻[LINK]には、
「創立年代詳ならず、伝云ふ、神功皇后御宇三年[203]春二月命東国而造祠殿於泛洲之浜而令祭之〈今軽野村大字日川〉と、是れ蓋本社の創建ならんか、祭神岐神は、天孫降臨に先立ち武甕槌神経津主神と与に天下平定の任に当り給ひし神にして、且此の地鹿島香取の中間に在りて、古来鹿島香取と与に東国三社と称せらる、惟ふに本社の創立鹿島香取と時を同じうし、神代以来の鎮座なるか、元と泛洲之浜即今の軽野村大字日川に鎮座あらせられしが、平城天皇大同二年四月、藤原内麻呂勅に依り今の地に奉遷せりと」
とある。

手子后

手子后神社[茨城県神栖市波崎]
祭神は手后比売命。 一説に海上の安是の嬢子とする。
旧・村社。

『鹿島宮社例伝記』[LINK]には、
「本社より五十里を去て、息栖の辰巳に当り、天宮社有り。是をば俗に手子妃と云ふ。末社なり。是れ大明神の御子と云り。東方守護の鎮守と云々。本社より之を祭礼勤行す」
とある。

『鹿嶋誌』[LINK]には、
「手子崎神社 東下村羽崎に有り、旧記には、神遊社ともいへるよしみえて、こは大神の御女の神なりといひ伝へたり、按するに上つ代香嶋郡童女松原〈則羽崎の辺なり〉にて神の郎子・神の嬢子といふありて、かたみにむつびたりけるが、遂に松樹と化りて奈美松・古津松といへる故事風土記に見ゆ、さればこの童女を祭れる社にはあらざるか」
とある。

吉田東伍『大日本地名辞書』の手子崎神社の項[LINK]にも
「謂ゆる海上の安是の嬢の霊祠にて、手子は古言嬢、崎は妃なり」「按、今の手子妃の祠は、古風土記の少女松原の地にして、安是の嬢子を祭れることは、社例伝記なる国風の歌に、此社を詠せるに、神の乙女とよみ、風土記に、嬢を加味乃乎止売と云へるものと合せり、是れ明証と云ふべし」
とある。

御足洗

鹿島神宮境内の御手洗池。 かつては御手洗池で潔斎をしてから鹿島神宮に参拝した。

『鹿島宮社例伝記』[LINK]には、
「神泉有り、御手洗と号す。昔、宮作りの先に一夜湧出と云ふ。又大明神、大曲と云ふ弓にて堀出し給へりとも云ふ」
「此御池の辺に小社有り。八龍神とも曰ふ。御手洗大明神とも云ふ。神躰二座有り」
とあるが、この八龍神(御手洗大明神)を祀る小社は現存しない。

神宮寺

『類聚三代格』の太政官符「応闕度補鹿嶋神宮寺僧五人事」(嘉祥三年[850]八月五日)[LINK]には、
「去る天平勝宝年中[749-757]、修行僧満願此部に到来し、神の為に発願し、始めて件の寺を建つ。大般若経六百巻を写し奉り、仏像を図画し住持すること八箇年なり」
とある。

『筥根山縁起并序』[LINK]には、
「高野天皇天平勝宝元年己丑、万巻、常州鹿島霊社に詣で神宮寺を建つ。年八秋を経て住持せしむ間、一心に冀う所他無し」
とある。

『鹿島宮社例伝記』[LINK]には、
「神宮寺は、本社巽の方五里去て、建立の基ひ遠し。其開基を云へば、四十三代元明天皇の御宇、和銅元年[708]戊申、万巻上人是を建立す。三十間之紺堂(金堂か)、鷲尾(鴛瓦か)を以て葺と云ふ。本尊丈六之釈加(釈迦)如来、脇立十一面観音自在菩薩、弥勒菩薩にて有り。[中略]此神宮寺は昔の基跡を改め、今御手洗河の辺に移御座す。十一面観音・薬師如来・地蔵并に不動明王・毘沙門天皇是れ也」
とある。

『常陸州鹿嶋太神宮本地尊像略縁起』には、
「爰に人王四十三代元明天王和銅元年に、満願上人とて毎日方広経一万巻を読て諸国に巡行し、一切衆生を済度せし聖あり。是世人みな文殊菩薩の化身なりと帰依しあへり。此上人偶鹿嶋の社に参籠して、神威倍増のために数日読経して恭く法味をさゝげ給へば、太神宮御正躰を顕し御手づから常陸帯を授たまふ。上人歓喜踊躍しなを数月法楽し神恩を報じ奉れば、不思儀なるかな地より金色の蓮花涌出して、そにうへに十一面観世音菩薩示現し給ふ。上人稀有の思ひをなして礼拝讃歎し、謹て本地垂跡一躰分身の神慮なる事を覚れり。粤におゐて行基菩薩を延請し、御長一丈六尺の十一面観世音菩薩并に釈迦・薬師・地蔵・弥勒の尊像を彫刻し奉りて、頻に伽藍建立の志をおこす。時に宮司従五位下中臣鹿嶋連等、ちからを合せて本地堂を神宮沢に造営し、尊像を安置して鎮護国家の道場となせり」
とある。
垂迹本地
鹿嶋三所鹿島神宮十一面観音
沼尾神社薬師如来
坂戸神社地蔵菩薩
北八龍神不動明王
南八龍神毘沙門天
息栖神社釈迦如来・薬師如来・地蔵菩薩・不動明王・毘沙門天
手子后神社釈迦如来

白鹿

『鹿嶋誌』[LINK]には、
「鹿を神使といふことは、古事記に葦原中国平定せん神を択ぶところに、天尾羽張神は〈大神の父神なり〉天安河の水を逆に塞ぎ上げて、道を塞ぎをはしませば、他神の行くことかなはじよりと、天迦久神を遣して問はしめたまひしかば、武甕槌大神をまゐらせたまへりしことあり、平田氏(平田篤胤)の説にこの天迦久神は天鹿神にて、これぞ大神の鹿を使とする起源なりといへり」
とある。

時風・秀行

『興福寺濫觴記』の「春日四所大明神御鎮座之事」[LINK]には、
「社司は神宮預中臣連時風、造宮預中臣連秀行なり。〈時風・秀行は天児屋根命二十五世の孫大宗の息也。一男時風は、今の春日祠官辰市家の祖也。二男秀行は今の春日祠官大東家の祖也。大和国添上郡辰市郷に住み而して後に釆地と為す矣。故に其の郷を放ち、霊神を奉斎す焉。今在る所の辰市神社は時風・秀行也〉」
とある。

日本記

中世の文献では、しばしば「日本紀に曰く」として神仏習合的な神話・説話が語られ、これらを「中世日本紀」と称する。 「大日如来の印文」はその代表的なモチーフの一つで、「神道由来之事」でも言及されている。

【参考】二神約諾

中世の史観では、天皇と摂関家との関係の由来を、天照大神と天児屋根命の「二神約諾」に求める。

『日本書紀』巻第二の第九段一書(二)[LINK]には、天孫降臨の際の天照大神の言として
「復、天児屋命・太玉命に勅すらく、「惟爾二の神、亦ともに殿の内に侍ひて、善く防護を為せ」とのたまふ」
とある。

皇円『扶桑略記』第二十九の寛治七年[1093]七月二十日条[LINK]の興福寺僧綱大法師等奏状には、
「当社(春日大社)は、霊異揭焉の処、鎮護国家の砌なり。我が大日本国は、天照大神の勅により、天児屋根命の扶持を力とす。是を以て上は王室を衛り、下は民家を撫づ。朝庭は頭を低うし、黔黎は手を束ぬ。日本九州の域、尽く皆その扶持を頼めり」
とあるが、具体的な神勅は挙げない。

慈円『愚管抄』は上記の『日本書紀』の神勅を引用する。 同書・巻三[LINK]には、
「臣家の出で来て世を治むべき時代につよくなり居る時まで、又天照大神、天児屋の春日大明神に「同に殿の内に侍ひて、能く防護を為せ」と御一諾畢にしかば、臣家にて王をたすけ奉らるべき期至りて、大織冠は聖徳太子につゞき生れ給て、又女帝の皇極天皇の御時、天智天皇の東宮にておはしますと、二人して世をおこし行ひけり。入鹿が頸を節会の庭にて、自ら切らせ給ひしにより、「たゞ国王の威勢ばかりにて、この日本国のあるまじ。たゞ乱れに乱れなんず。臣下のはからひに仏法の力をあはせて」と思し召しけることの始は顕に心得られたり」
とある。

同書・巻七[LINK]にも
「天児屋根命に、天照大御神の「殿の内に侍ひて、よく防ぎ守れ」と御一諾をはるかにし、末の違ふべき様の露ばかりも無き道理を得て、藤氏の三功と云ふ事出で来ぬ。その三と云ふは、大織冠の入鹿を誅し給ひしこと、永手大臣・百河(百川)宰相が光仁天皇を立て参らせし事、昭宣公(藤原基経)の光孝天皇を又立て給ひし事、此三なり」
「摂籙の臣の、器量めでたくて、その御政事をたすけて、世を治めらるれば事も欠けず。さる程に君は卅が内外にて皆うせさせ給ふ。是れこそは太神宮の、この中程は、君の君にて昔の如くえ有るまじければ、此料にこそ神代より「よく殿内を防ぎ守れ」といひてしかば、その子孫に又かく器量あひかなひて、生れ合ひ合ひして、この九条の右丞相(藤原師輔)の子孫の、君の政事をばたすけんずるぞと作り合せのられたるなり」
とある。

『源平盛衰記』巻第一の「清盛化鳥を捕ふ 並一族官位昇進 附禿童 並王莽の事」[LINK]には、
「日本は是れ神国なり。伊弉諾・伊弉冊尊の御子孫国の政を助け給ふ。昔天照大神、邪神を悪み給ひて天岩戸に籠らせ給ひたりしかば、天下悉く闇にして人民悲しみ歎きしに、御弟の天児屋根尊、八万四千の神達を相語らひ、岩戸の御前にして様々祈り申させ給ひたりければ、日神再び天下を照らし人民大きに悦びけるに、天照大神、児屋根尊に仰せ合はせて云く、「我が子孫は此の国の主として万人を憐まん、汝が子孫は臣下として国の政を助けよ」と御約束あるによつて、御裳灌河の御流、海内を治め坐し、春日明神の御子孫、朝の政を輔け給へり。されば摂政関白の御末の外は、輒く官職を諍ふべきにあらず」
とある。

『通海参詣記』巻下[LINK]には「吾か君(天照大神)天の巌戸を開き給し時、大中臣の嚢祖天屋根命(天児屋根命)に契て曰はく、「朕が子孫は天位をつかさどり、汝が子孫は国柄を執る」と契ありし。今にかはらず、皇孫天子の位を嗣玉ふ。藤氏執柄の臣としてたがう事なし」とある。
上記の『源平盛衰記』や『通海参詣記』では、天岩戸開きの際に二神約諾が有ったと伝える。

『三国伝記』巻第二の「大和国長谷寺事」[LINK]には、
「第六天の魔王、我が朝を侵せしを、天照太神知めして、春日大明神に対して曰く、「我は国王となり、汝は臣下として、此の国に天降り、日域の衆生を利ん」と契て後、忝くも二神此土の塵に同坐す。然らば則ち、天照太神の孫は藤氏と君臣水魚の眤に違ふ事なく、国を治め民を哀み玉ふ事、此の二家繁昌せば国家安穏なるべし」
とあり、第六天魔王説話と二神約諾を結び付けている。