『神道集』の神々

第九 鹿嶋大明神事

そもそも鹿嶋大明神は天照太神の第四の御子である。 天津児屋根尊は金の鷲に駕して常陸国に天下り、古内山旧跡の鹿嶋の里に顕れた。
本地は十一面観音である。

この神の氏人である大仲臣鎌足村子は、天津児屋根尊が金の鷲に駕して天下った時に銀の鶴に乗ってお供をした者の末裔である。 人皇三十七代孝謙天皇の御代に様々な大臣を定めた時、鎌足は最初の内大臣になった。 人皇三十九代天智天皇の御代に、始めて藤原の姓を賜った。
藤氏の始祖は鎌足内大臣である。 今では多くの帝・后・大臣・公卿が藤氏の末々枝葉である。 鎌足は神から鎌を賜り、内裏の勅により朝敵を誅した。 三十二歳で内大臣になり、五十六歳で亡くなった。 位は大織冠である。
その御子は次男の左大臣正二位不比等である。 元明・元正の二代の帝に仕え、十三年間大臣の位にあったが、太政大臣には成らなかった。 諱を淡海公という。
淡海公には二人の御子と二人の弟があった。 一人の弟は宇合式部卿で、鎌足の三男である。 これを式家という。 もう一人の弟は内麻呂で、鎌足の四男である。 これを京家という。 (淡海公の)嫡子は武智麻呂で、これを南家という。 次男は房前参議で、これを北家という。 以上を藤氏四家といい、関白家はこの末裔である。

鹿嶋大明神は藤氏の氏神なので、氏人が帝・后・大臣になる時は御使いを奉る。 帝が奈良にいらした時、常陸国は遠方なので、鹿嶋大明神を大和国三笠山に遷して春日大明神と名付け奉った。 今も藤氏の氏神であり、一人三公・女御后・月卿雲客は皆(春日大明神を)馮んでいる。 都が平安京に移ってから、その近くに新しく遷した御神が大原大明神である。 また、山蔭中納言が遷した御神が吉田明神である。

日本国に生まれた一切衆生は神道を仰いでいる。 神明の御本地は仏菩薩で、諸仏は世界を利益する為に神明として顕れる。 『悲花経』には「我滅度後、於末法中、現大明神、利益衆生」と云う。
八幡大菩薩は開成太子に「得道来不動法性、自八正道垂権迹、皆得解脱苦衆生、故号八幡大菩薩」と告げた。
日吉山王七所明神は三如来四菩薩である。 其の中の十禅師の本地の地蔵菩薩の託宣には「一度唱名号、功徳如虚空、我誓無尽願、所願悉円満」とある。
金剛象王権現の託宣には「昔在霊鷲山、説妙法花経、今在金峯山、示現象王身」とある。
また、賀茂明神は「本躰観世音、常在補陀落、為度衆生故、示現大明神」と云う。
日本一州の一万三千七百余の神社は、皆大権の垂跡で、悉く和光利生する。

鹿嶋大明神

鹿島神宮[茨城県鹿嶋市宮中]
祭神は武甕槌大神。
式内社(常陸国鹿嶋郡 鹿嶋神宮〈名神大 月次新嘗〉)。 常陸国一宮。 旧・官幣大社。
史料上の初見は『続日本紀』巻第二十一の天平宝字二年[758]九月丁丑[8日]条[LINK]の「常陸国鹿島神奴二百十八人を便ち神戸と為す」。

『日本書紀』巻第一(神代上)の第五段一書(六)[LINK]によると、伊弉諾尊が十握剣で軻遇突智を斬った時に、
「復た剣の鐔より垂る血、激越そそきて神となる、号けて甕速日神と曰す。次に熯速日神。其の甕速日神は、是れ武甕槌神の祖なり。亦曰く、甕速日神。次に熯速日神。次に武甕槌神」
とある。

同書・巻第二(神代下)の第九段[LINK]に、
「天石窟に住む神、稜威雄走神の子甕速日神、甕速日神の子熯速日神、熯速日神の子武甕槌神ます」
とある。

斎部広成『古語拾遺』[LINK]に、
「武甕槌神〈是れ甕速日神の子、今、常陸国、鹿嶋神、是れ也〉」
とある。

『天書』逸文〔卜部兼方『釈日本紀』巻第六(述義二)に引用〕[LINK]に、
「武甕槌は天之進神也。其の先は稜威雄走より出る。昔、大円霧有り。方四里許り。其の中に小孔有り、石窟と化為る。石窟に神有り。是れを雄走と謂ふ。雄走は甕速日を生む。甕速日は熯速日を生む。熯速日は甕槌を生む」
とある。

前田家本『水鏡』巻上の神武天皇条[LINK]には、三剣(草薙剣、天蝿斫剣、韴霊)の由来に続いて
「其三の剣の第三の剣の分散の時、同時に十握の剣の中より六躰の神化生し給き。其内第一は女神、其名字熯速日の尊、是今の春日大明神の御母儀にて御座なり」「春日大明神は是彼伊弉諾の尊の御子の一女三男のうつりに、十握の剣の剣腹の六躰の化生の御神の第一の女神の御子にて化成し給ければ、伊弉諾の尊の御孫は春日大明神にて御座ける」「春日大明神は父は座さず。母ばかりにて化生の御神にて座。是深秘也」
(引用文は一部を漢字に改めた)とある。

『古事記』上巻[LINK]によると、天照大神は建御雷神と天鳥船神を葦原中国に遣わした。 二神は出雲国の伊那佐の小浜(稲佐の浜)に降り、十掬剣を波に逆さに突き立てその剣先に座し、大国主神に「天照大御神・高木神の命以ちて、問ひに使はせり。汝がうしはける葦原中国は、我が御子の知さむ国ぞと、言依さし賜はり。故れ汝が心は奈如にぞ」と問うた。 大国主神は「は得白さじ。我が子八重言代主神、是れ白す可き」と答えた。 天鳥船神を遣わすと、八重事代主神は「かしこし、此の国は、天神之御子に立奉りたまへ」と云い、船を踏み傾け、天の逆手を青柴垣に打ってお隠れになった。
「今汝が子事代主神かく白しぬ。亦白す可き子有りや」と問うと、大国主神は「亦我が子建御名方神有り。此を除ては無し」と申した。 建御名方神は千引石を持って来て、「誰ぞ我が国に来て、忍び忍び如此かく物言ふ。然らば力競為む。故我先づ其の御手を取らむ」と言った。 建御雷神が手を取らせると、その手は立氷(つらら)と成り、また剣の刃と成ったので、建御名方神は恐れて退いた。 建御雷神は建御名方神を引き寄せ、その手を若葦を取る様に掴み拉いで投げ放ったので、建御名方神は逃げ去った。 科野国之洲羽海(信濃国の諏訪湖)に追い詰めて殺そうとした時、建御名方神は「恐し、我をな殺したまひそ。此の地を除きては、他処に行かじ。〈中略〉此の葦原中国は、天神御子の命のまにまに献らむ」と申し上げた。
更に「今汝が子等、事代主神・建御名方神二神は、天神御子の命の随に違はじと白しぬ。汝が心は奈如にぞ」と問うと、大国主神は「僕が子等二神の白せる随、僕も違はじ、此の葦原中国は、天神御子の命の随献らむ。唯僕が住所をば、天神の御子の天津日継知らしめさむ、とだる天之御巣如くして、底津石根に宮柱ふとしり、高天原に、氷木たかしりて、治め賜はば、僕は、百足らず八十坰手に隠りて侍ひなむ」と申してお隠れになり、出雲国の多芸志の浜に天之御舎(出雲大社)が造営された。 建御雷神は高天原に帰り、葦原中国を言向け和平した事を復奏した。

『日本書紀』巻第二(神代下)の第九段[LINK]によると、高皇産霊尊は葦原中国の平定のために武甕槌神と経津主神を遣わした。 二神は出雲国の五十田狭小汀(稲佐の浜)に降り、十握剣を逆に地に突き立てその鋒先に座し、大己貴神に「高皇産霊尊、皇孫を降しまつりて、此の地に君臨はむとす。故、先づ我二の神を遣して、駈除ひ平定しずめしむ。汝が意如何。避りまつらむや不や」と問うた。 大己貴神は「まさに我が子に問ひて、然して後にかへりことまうさん」と答えた。 稲背脛が使者となって事代主神に高皇産霊尊の勅を伝えると、事代主神は「我が父、避り奉るべし。吾亦、違ひまつらじ」と答え、海中に八重蒼柴籬を造って去った。
使者が帰って報告すると、大己貴神は国土平定に用いた広矛を二神に献上し、「吾此の矛を以て、卒に治功せること有り。天孫、若し此の矛を用て国を治らば、必ず平安さきくましましなむ。今我れ当に百不足の八十隈に、隠去れなん」と云ってお隠れになった。 その後、二神はまつろわぬ神々を誅して葦原中国を平定し、高天原に戻った。

『常陸国風土記』香嶋郡の条[LINK]に、
「古老曰く、難波長柄豊前馭宇天皇(孝徳天皇)の世、己酉の年(大化五年[649])に、大乙上中臣鎌子・大乙下中臣部兎子等、総領高向大夫に請ひて、下総国の海上国造の部内、軽野より南一里、那賀国造の部内、寒田より北五里を割きて、別に神郡を置く。其の処に有る天之大神社、沼尾社坂戸社、三処を合せて、総べて香島天之大神と称す。よりて郡に名づく。清濁得糺、天地草昧以前、諸祖天神かみろみかみろぎ八百万神を高天原に会集へ給ひし時に、諸祖神告り給ひしく、今我御孫命の光宅しらさむ豊葦原水穂之国と告り給ひしにより、高天原より降り来たまひし大神、名を香嶋天之大神と称す。天にては号を香嶋之宮と曰ひ、地にては豊香嶋之宮と名づく」
とある。 社殿の造営については
「淡海大津朝[667-671]に、初て使人を遣して神の宮を造らしめき」
とある。

『鹿島宮社例伝記』[LINK]に、
「大宮柱太敷立始給事、于時神武天皇元年辛酉[B.C.660]より二十一年在造立」
とある。

『春日権現験記』第一巻[LINK]に、
「昔し我朝悪鬼邪神あけくれ戦ひて、都鄙やすらかざりしかば、武甕槌の命是を哀みて、陸奥国塩竈浦にあまくだり給。邪神霊威に恐れ奉りて、或はにげさり或はしたがひたてまつる。そのゝち常陸国跡の社(跡宮[茨城県鹿嶋市神野4丁目])より鹿島に遷らせ給」
とある。

伊弉諾・伊弉冊尊を鹿嶋・香取大明神とする説がある。
存覚『諸神本懐集』[LINK]に、
「天神七代をは伊弉諾・伊弉冊と申しき。伊弉諾尊は男神なり、今の鹿嶋の大明神なり。伊弉冊尊は后神なり、今の香取の大明神なり」
(引用文は一部を漢字に改めた)とある。
また、『三国相伝陰陽輨轄簠簋内伝金烏玉兎集』巻三の神上吉日の条[LINK]に、
「壬申は二柱の神、高天原より天の逆鉾を差下し、自凝島を得造り、筑波山に落下し、男体女体と顕れ、鹿嶋香取大明神と現れ給ふ日也」
とある。
垂迹本地
鹿嶋大明神十一面観音

天津児屋根尊

中臣氏・藤原氏の祖神。 河内国一宮の枚岡神社[大阪府東大阪市出雲井町]に祀られ、春日大社[奈良県奈良市春日野町]の第三殿に勧請された。

管見の限り「天照太神の第四の御子」とする説は他に見ない。 通説では、天児屋根命の神統は以下の通りである。
『日本書紀』巻第一(神代上)の第七段一書(三)[LINK]:「中臣連の遠祖興登産霊が児天児屋命」
『新撰姓氏録』左京神別上の藤原朝臣の条[LINK]:「津速魂命三世孫天児屋命」
『先代旧事本紀』巻第一(神代本紀)[LINK]:「次津速魂尊。児市千魂尊。児興登魂命。児天児屋命〈中臣連等の祖〉」

『源平盛衰記』巻第一の「清盛化鳥を捕ふ 並一族官位昇進 附禿童 並王莽の事」[LINK]に、
「昔天照大神、邪神を悪み給ひて天岩戸に籠らせ給ひたりしかば、天下悉く闇にして人民悲しみ歎きしに、御弟の天児屋根尊、八万四千の神達を相語らひ、岩戸の御前にして様々祈り申させ給ひたり」
とあり、天児屋根尊を天照大神の弟とする。
これは、『古今和歌集序聞書』(三流抄)[LINK]に、
「月神と云は鹿嶋大明神、〈中略〉月神は諸事を得心て天照大神の後見として国土の事を計給、是を天児屋尊と云也」
(引用文は一部を漢字に改めた)とあるように、天児屋命と月神の同体説によると思われる。

古内山

鹿島神社[茨城県東茨城郡城里町上古内]の背後の山を指す。

『東茨城郡誌』上巻[LINK]に、
「鹿島神社 西郷村大字上古内に鎮座す。武甕槌命、健御名方命、八坂止女命を合祀す。当地は往古より鹿島土谷の称ありて、大神の降臨ありし所なれば、社祠を造営し以て皇国鎮護の鎮守となるの称あり。〈中略〉武甕槌命東国平定の際此地方に到れること以て推治すべく、且往年鹿島神宮社殿造営の時は必ず此古内山の木材を以てしたりともいふ」
とある。

『日本三代実録』巻第十二の貞観八年[866]正月二十日丁酉条[LINK]に、
「鹿島大神宮惣六箇院、廿年間に一の修造を加ふ。所用の材木は五万余枝、工夫は十六万九千余人、料稲は十八万二千余束。造宮の材を採る山は那賀郡に在り
とあり、古内山に比定されている。

大仲臣鎌足村子

「村子」は「むらじ」の当て字と思われる。

『大鏡』巻下[LINK]に、
「神武天皇より始め奉りて、三十七代に当りたまふ孝徳天皇の御代よりこそは、様々の大臣定まりたまふなれ。但し此の御時中臣の鎌子の連と申して内大臣に成り始め給ふ。其の大臣は常陸国に生れ給へりければ、三十九代に当り給へる御門天智天皇と申す、其の御門の御時こそ、此の鎌足の大臣の御姓藤原と改まり給ひたれ。然れば世の中の藤氏の始は、内大臣鎌足の大臣と為奉れり。其の末々より多くの御門、后、大臣、公卿等様々に成り出で給へり」 「大織冠は大臣の位にて二十五年、御年五十六年にてなん薨れ御座しましける」
とある。

『春夜神記』によると、常陸国鹿島郡の土民の赤子のところに白狐が来て、赤子を腹の上に乗せて「自尊佐理均在位シソンサリクヰサイイ七歳作坐冠天子シサササコテシ」と云い、藤巻の鎌(藤の蔓を巻き付けた鎌)を授けた。 子供は成長して都に上り、大内裏の塵取の下男となった。
蘇我入鹿は中大兄皇子(後の天智天皇)に土を踏ませようと謀り、法興寺で蹴鞠を催した。 皇子の右足の沓の緒を結ばなかったので、蹴鞠の最中に沓が脱げて土を踏みそうになった。 梃の下から塵取男が走り出て皇子を背負い、梃の上に登らせた。 皇子は男を召して中臣鎌子連と為した。
天智天皇は蘇我入鹿の一族を滅ぼそうと欲し、中臣鎌足と相談して丈六の釈迦像〈今の興福寺金堂の仏像である〉を造る事を発願した。 皇極天皇四年[645]六月三日、鎌足は大極殿において蘇我入鹿の首を狐の鎌で伐った。 鎌足は内大臣に任ぜられ、中臣姓を改め藤原姓を賜った。
その後、鎌足は常陸国を拝領し、下向の途中の深山で鎌を深く埋めた。 この地は今は武士の居所となっている。 今の鶴岡八幡宮[神奈川県鎌倉市雪ノ下2丁目]の宮山が鎌を埋めた場所である。
辰狐が藤巻の鎌を赤子に授け、鎌足はその鎌で入鹿を討って大臣の位に登り、藤氏は天下の摂録を掌るようになった。
下野国の松岡明神(下野国は誤記か。相模国の鶴岡八幡宮の地主神・丸山稲荷社。一説に下総国の宗任神社[茨城県下妻市二本紀]に比定される)はत(ta)天である。 鹿島大明神と一体で、春日明神である。 即位灌頂は吒天の法である。

藤氏四家

『尊卑分脈』[LINK]の系図によると、武智麿(南家祖)・房前(北家祖)・宇合(式家祖)・麿(京家祖)の四人はすべて不比等の子である。

しかし、『大鏡』巻下[LINK]に、
「鎌足の大臣の三郎は宇合とぞ申しける。四郎は麻呂と申しき。此の男君達皆宰相許りまでぞ成り給へる。〈中略〉此の不比等の大臣の御男君達二人ぞ御座しける。太郎は武智麻呂と聞えて、左大臣まで成り給へり。二郎は房前と申して、宰相まで成り給へり。〈中略〉扨不比等の大臣の男子二人又御弟二人とを四家と名づけて、皆門分ち給へりけり。其の武智麿をば南家と名づけ、二郎房前をば北家と名づけ、御兄弟らの宇合の式部卿をば式家と名づけ、其の弟の麻呂をば京家と名づけ給ひて、之れを藤家の四家とは名づけられたるなりけり」
とあり、『神道集』の記述は『大鏡』を典拠としているようである。

春日大明神

参照: 「春日大明神事」春日大明神

『大鏡』巻下[LINK]に、
「鎌足の大臣生れ給へるは、常陸の国なれば、彼処に鹿島と云ふ所に、氏の御神を住ましめ奉り給ひて、其の御時より今に至るまで新しき御門・后・大臣立ち給ふ折は、御幣の使必ず立つ。帝奈良に御座しましゝ時に鹿島遠しとて、大和国三笠山に振り奉りて、春日明神と名づけ奉りて、今に藤氏の御氏神にて、公家男女使いに立てさせ給ひ、后宮・氏の大臣・公卿皆此の明神に仕うまつり給ひて、二月・十一月上の申の日御祭にてなむ、様々の使立ち訇る」
とある。

大原大明神

大原野神社[京都府京都市西京区大原野]
祭神は春日大社と同じ(武御賀豆智命・伊波比主命・天之子八根命・比咩大神)。
二十二社(中七社)。 旧・官幣中社。

延暦三年[784]、藤原乙牟漏(桓武天皇の皇后)が春日大社の分霊を大原野に勧請した。

『大鏡』巻下[LINK]に、
「帝此の京に遷らしめ給ひては、又近く振り奉りて、大原野と申す。二月の初卯の日・霜月の初子の日と定めて、年に二度の御祭あり。又同じく公家の使たつ。藤氏の殿儕皆此の神に御幣十列奉り給ふ」
とある。

吉田明神

吉田神社[京都府京都市左京区吉田神楽岡町]
祭神は春日大社と同じ(健御賀豆智命・伊波比主命・天之子八根命・比売神)。
二十二社(下八社)。 旧・官幣中社。

貞観元年[859]、藤原山蔭が春日大社の分霊を神楽岡に勧請した。

『大鏡』巻下[LINK]に、
「猶し近く、又振り奉りて、吉田と申して御座はしますめり。此のの吉田明神は、山蔭の中納言の振り給へるぞかし。御祭の日、四月下の子・十一月下の申の日とを定めて、我が御族に、御門・后・宮立ち給ふものならば、官祭に成さんと誓ひ奉り給へれば、一条院の御時より官祭には成りたるなり」
とある。

開成太子

光仁天皇の皇子、桓武天皇の異母兄。 勝尾寺の開山。

日吉山王七所明神

参照: 「高座天王事」山王権現

十禅師

参照: 「高座天王事」十禅師権現

金剛象王権現

参照: 「吉野象王権現事」象王権現

賀茂明神

参照: 「御神楽事」賀茂大明神

『悲花経』

参照: 「神道由来之事」『悲花経』