『神道集』の神々
第三十九 玉津島明神事
第十二代景行天皇に衣通姫という后がいた。 衣通姫は大和国山辺郡の地頭・山辺右大臣高季卿の娘である。天皇が亡くなって姫が悲嘆に暮れていると、三十五日目の暁に天井で物音がした。 振り仰いでご覧になると、帝の面影が見えた。 帝は文を結えて枕元に投げ落とし、姿を消した。 衣通姫がその文を見ると、確かに帝の手跡で「この世での宝財は全く冥途の財産ではない。后妃・采女と仲睦まじくても冥途では独り行く。前後に人は無く、ただ羅刹の声だけが喧しい」と書かれ、最後に一首の歌が記されていた。
わくらばに問ふ人あらば死出の山 泣き泣き独り行くと答へよ
衣通姫の嘆きはますます深くなり、死後のお供をしようと和歌浦に身を投げ、玉津島明神として顕れた。 その後、帝も神として顕れた。 男体と女体がある。
垂迹 | 本地 |
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玉津島明神(衣通姫命) | 聖観音 |
「わくらばに問ふ人あらば……」
『曾我物語(真名本)』巻第八の衣通姫説話[LINK]は『神道集』とほぼ同内容だが、景行天皇の詠んだ歌をわくらばに問ふ人あらば死出の山 泣く泣く独り越ゆと答へよとする。
叡海『一乗拾玉抄』巻一(序品下)[PDF]では醍醐天皇の詠んだ歌とする。
延喜の御門(醍醐天皇)は地獄に堕玉ふ。 折節吉野の日蔵上人頓死して冥途を見玉ふに、冠り装束にて罪人一人地獄に堕玉ふ。 上人立ち寄て「何なる人ぞ」と問ひ玉ふに、「我は是れ延喜の御門也」と云へり。 而に上人蘇り玉ふに、御門日本へ伝言せよとて宣ふ様は、「有為の財宝は小罪も非ず。后き妻女の和なる袂も中有の旅に倶 ず。臣下大臣の崇敬も冥途の苦患を助けず。相ひ副ふとては影斗 也」とて、遣る方なげに見へて一首の哥をあそばしけり。
聞 奈落ならくの底に沈むには 刹利の首陀もかわらざるけり
わくらばに問ふ人あらば泣く泣くも 死出の山路を独りこそゆけ
伴蒿蹊『関田耕筆』巻之二(人部)[LINK]では斉明天皇の詠んだ歌とする伝承を記す。
斉明天皇冥府にして本田善助(本田善光の嫡子。「本田善佐」とも表記する)にまみえ給ひ、
わくらばに問ふ人あらば死出の山 なくなくひとり行くとこたへよ
と宣ひけると伝ふ。 こは『古今集』[LINK]にある在原行平卿の歌、
わくらばに問ふ人あらば須磨の浦に もしほたれつゝわぶと答へよ
というを引き直せるなり。 斉明の御製日本紀に出でたるを考へて、其代の体にあらざるをも知るべし。
玉津島明神
玉津島神社[和歌山県和歌山市和歌浦中3丁目]祭神は稚日女命・息長足姫命(神功皇后)・衣通姫命で、明光浦霊を配祀。
旧・村社。
『紀伊国神名帳』[LINK]には海部郡に「従四位上 玉出島大神」とある。
史料上の初見は『続日本紀』巻第九の神亀元年[724]十月壬寅[16日]条[LINK]で、聖武天皇が紀伊国に行幸して海部郡玉津島頓宮に十余日逗留した際の
『神道集』では衣通姫を景行天皇の妃とするが、『日本書紀』巻第七[LINK]によると衣通姫(衣通郎姫)は允恭天皇の妃(皇后忍坂大中姫の妹)である。
『津守国基集』[LINK]には が収録されている。
『親房卿古今集序註』には とある。
『山家要略記』の「玉津嶋明神衣通姫化身の事」[LINK]には とある。
『紀伊続風土記』附録巻之十七(神社考定之部下)の玉津島神社の条[LINK]には とある。
後世には和歌三神の一として崇敬された。 例えば、寺島良安『和漢三才図会』巻第十六(芸能)の和歌三神の条[LINK]には とある。