『神道集』の神々

第三十九 玉津島明神事

第十二代景行天皇に衣通姫という后がいた。 衣通姫は大和国山辺郡の地頭・山辺右大臣高季卿の娘である。
天皇が亡くなって姫が悲嘆に暮れていると、三十五日目の暁に天井で物音がした。 振り仰いでご覧になると、帝の面影が見えた。 帝は文を結えて枕元に投げ落とし、姿を消した。 衣通姫がその文を見ると、確かに帝の手跡で「この世での宝財は全く冥途の財産ではない。后妃・采女と仲睦まじくても冥途では独り行く。前後に人は無く、ただ羅刹の声だけが喧しい」と書かれ、最後に一首の歌が記されていた。
 わくらばに問ふ人あらば死出の山 泣き泣き独り行くと答へよ
衣通姫の嘆きはますます深くなり、死後のお供をしようと和歌浦に身を投げ、玉津島明神として顕れた。 その後、帝も神として顕れた。 男体と女体がある。

玉津島明神

玉津島神社[和歌山県和歌山市和歌浦中3丁目]
祭神は稚日女命・息長足姫命(神功皇后)・衣通姫命で、明光浦霊を配祀。
旧・村社。
『紀伊国神名帳』[LINK]には海部郡に「従四位上 玉出島大神」とある。

史料上の初見は『続日本紀』巻第九の神亀元年[724]十月壬寅[16日]条[LINK]で、聖武天皇が紀伊国に行幸して海部郡玉津島頓宮に十余日逗留した際の
又詔して曰く、「山に登り海を望むに最も好し。遠行を労せずして、以て遊覧するに足れり。故に弱浜の名を改めて明光浦とし、宜しく守戸を置きて、荒穢せしむことなかれ。春秋二時に官人を差遣し、玉津島の神・明光浦の霊を奠祀せしめよ」と。

『神道集』では衣通姫を景行天皇の妃とするが、『日本書紀』巻第七[LINK]によると衣通姫(衣通郎姫)は允恭天皇の妃(皇后忍坂大中姫の妹)である。

『津守国基集』[LINK]には
住吉の堂の壇のいしとりに紀の国にまかりたりしに和歌の浦の玉つ島に神の社おはす、尋ね聞けば衣通姫のこの所を面白がりてかみになりておはすなりと、かのわたりの人云ひ侍りしかば詠みて奉りし
 年ふれど老もせずして和歌浦に 幾代に成ぬ玉つ島姫
が収録されている。

『親房卿古今集序註』には
衣通姫とは応神天皇御子二流(二派)の皇子と云人の女也。 其姉は人皇十九代允恭天皇の后也。 其妹容顔絶妙にして、其色衣にとおりて照かゝやきけり。 仍衣通姫と云。天皇きこしめして、使をつかはしてめされければ、皇后に憚申て不参内。 七たひまてめされけれと、猶いなみ申されければ、御使中臣烏賊津と云人、七日迄不食して、庭中に伏して憂歎申けるほとに、不得止してまいり給ひけり。 後に和歌の浦に跡をたる。 是を玉津島明神と申也。又住吉四所神殿の中に、此明神其一とす。 昔の歌の道を好給けるに依て、今も此道をまもる神にましますと云々。 又或抄云、玉津島明神奉崇給事、家々に云様有、それも無謂。 当流所習は、光孝天皇御悩有し時、御祈祷ある曙に、赤袴着たる女房枕に立て云、「立かへり又も此世に跡たれん 其名うれしきわかのうらなみ」と。 御門御夢に見へれは、夢中に誰人そと問給ふ。衣通姫と答たまふ。 仍仁和三年[887]九月十三日、右大弁源隆行勅使として、和歌浦玉津島の社を造立して、次信遍上人勧請して奉崇本地聖観音。 是妃和歌浦に垂跡事は彼立帰の歌に見たり。
とある。

『山家要略記』の「玉津嶋明神衣通姫化身の事」[LINK]には
扶桑明月集に曰ふ、允恭天皇十年[421]、衣通姫病を受て床に臥す。 天皇大に以て驚歎し新羅国の医師耆淵を召て之を療せしむ。疾忽に癒す。 耆淵賞を被りて本国に帰る。昔衣通姫和歌浦に遊興す。 誓を発して終に玉津嶋明神と為る。
とある。

『紀伊続風土記』附録巻之十七(神社考定之部下)の玉津島神社の条[LINK]には
玉津島神社
    稚日女尊
 祀神 神功皇后
    衣通姫
右本国神名帳に従四位上玉出島大神とある是なり。 最上世より斎ひ祀れる神一座、後に合せ祀れる神二座、すへて三柱の神を玉津島明神と申奉る。 最上世より斎ひ祀れる神は伊邪那岐・伊邪那美命御子、御名を稚日女尊と申して、伊都郡天野に在す丹生津比女神と同神に御坐す。 始めて此地に鎮まり坐せる事、神世よりしか有けん。
神功皇后新羅を征伐し給ひし時、衆の神等、皇后を助けて功勲を顕し給ふ中にも、この御神赤土を以て功勲立て給へるを以て、皇后其功労に報い給ひて伊都郡丹生川上管川藤代峯に鎮め奉り給へり。 [中略] 今天野に在するは後に遷し奉れるなり。 其皇后を助け給へる事播磨風土記に書す所詳なり。
皇后かく此御神を尊ばせ給ひ、又難波より日高に赴かせ給ふにも、日高より都に還り上らせ給ふにも、皆此地を歴給ひし事なれば、此御神に猶深き御由縁のおはしましけん。 やゝ後に皇后を御社に合せ祀りて二座の神となし奉れるにや。
光孝天皇仁和年中帝御悩坐しましゝ時、御夢に視給ふ事ありて、仁和二年[886]九月十三日右大弁源隆行朝臣を勅使として紀伊国弱浦に遣はされ、衣通姫を玉津島明神と祝ひ給へり。 [中略] 然れば此御代より又衣通姫を合せ祭りて三座の神となし給へるなり。
とある。

後世には和歌三神の一として崇敬された。 例えば、寺島良安『和漢三才図会』巻第十六(芸能)の和歌三神の条[LINK]には
玉津島神 紀州海部郡弱ノ浦に在す。
住吉大明神 摂州住吉郡に在す。
柿本人麿 播州明石の大倉谷に在す。
とある。

垂迹本地
玉津島明神(衣通姫命)聖観音

「わくらばに問ふ人あらば……」

『曾我物語(真名本)』巻第八の衣通姫説話[LINK]は『神道集』とほぼ同内容だが、景行天皇の詠んだ歌を
わくらばに問ふ人あらば死出の山 泣く泣く独り越ゆと答へよ
とする。

叡海『一乗拾玉抄』巻一(序品下)[PDF]では醍醐天皇の詠んだ歌とする。
延喜の御門(醍醐天皇)は地獄に堕玉ふ。 折節吉野の日蔵上人頓死して冥途を見玉ふに、冠り装束にて罪人一人地獄に堕玉ふ。 上人立ち寄て「何なる人ぞ」と問ひ玉ふに、「我は是れ延喜の御門也」と云へり。 而に上人蘇り玉ふに、御門日本へ伝言せよとて宣ふ様は、「有為の財宝は小罪も非ず。后き妻女の和なる袂も中有の旅にトモナハず。臣下大臣の崇敬も冥途の苦患を助けず。相ひ副ふとては影バカリ也」とて、遣る方なげに見へて一首の哥をあそばしけり。
 ユウ奈落ならくの底に沈むには 刹利の首陀もかわらざるけり
 わくらばに問ふ人あらば泣く泣くも 死出の山路を独りこそゆけ

伴蒿蹊『関田耕筆』巻之二(人部)[LINK]では斉明天皇の詠んだ歌とする伝承を記す。
斉明天皇冥府にして本田善助(本田善光の嫡子。「本田善佐」とも表記する)にまみえ給ひ、
 わくらばに問ふ人あらば死出の山 なくなくひとり行くとこたへよ
と宣ひけると伝ふ。 こは『古今集』[LINK]にある在原行平卿の歌、
 わくらばに問ふ人あらば須磨の浦に もしほたれつゝわぶと答へよ
というを引き直せるなり。 斉明の御製日本紀に出でたるを考へて、其代の体にあらざるをも知るべし。