『神道集』の神々

第十七 信濃国鎮守諏方大明神秋山祭事

信濃国一宮は諏方の上宮で、本地は普賢菩薩である。
二宮は諏方の下宮で、本地は千手観音である。

人皇五十代桓武天皇の御代、奥州に悪事の高丸という朝敵がいて、人々を苦しめていた。
この時、田村丸という兵がいた。 我が国の生まれではなく、震旦国の人である。 漢の高祖に朝広(趙高)という家臣がいて、謀反を起こしたが敗北した。 田村丸は朝広方の兵で、我が朝に落ち延びて勝田宰相の許に来た。 宰相には子が無かったので、養子にして稲瀬五郎田村丸と名乗らせた。

帝は田村丸を将軍として高丸征伐を命じた。 田村丸が清水寺の千手観音に願をかけると、七日目の夜半に「鞍馬の毘沙門は我が眷属であるので、この天王に願え。奥州に向う時は山道寄りに下るようにせよ。そうすれば兵を付き副わせよう」とお告げが有った。 田村丸は鞍馬に参詣して多聞天・吉祥天女・禅尼師童子に祈願し、「堅貪」という三尺五寸の剣を授かった。 田村丸はこれを主君に申し上げ、三月十七日に都を出た。
観音のお告げに従って山道寄りに奥州に向う途中、信濃国伊那郡において、梶葉の水干に萌黄縅の鎧を来た武士と出会った。 田村丸が「私は悪事の高丸を追罰する使者です」と云うと、武士は「高丸は弓勢が優れ、神通力は国内第一で、四天王が戦っても倒すのは難しいでしょう」と云った。 そこに、藍摺の水干に黒糸縅の鎧を来た武士がやって来た。 田村丸が奥州に行く事を知ると、「私もお供をしましょう」と云った。

数日が経って、一行は高丸の住処に到着した。 高丸はかねてからこの事を知っていたので、城郭を構えて用心を怠らなかった。 城郭は堅固で、とても攻め落とせそうになかった。 副将軍の波多丸と憑丸は高丸の兵と戦い、二人で三百騎ばかり討ち取ったが、波多丸は生け捕りにされた。 高丸は波多丸を縛り、前の木に吊るした。 田村丸は二本の矢を放ち、小手を縛った縄と鉤の緒を切って、波多丸を救出した。
信濃で出会った二人の武士が駆け付け、波多丸・憑丸と合わせて五人で戦った。 将軍は海上に船を浮かべ、鞠遊びや流鏑馬をした。 それを見た高丸の娘が「父上、あれをご覧なさい」と云ったので、高丸は石の扉を少し開けた。 その時、梶葉の水干の武士が高丸の左目を射た。 将軍が堅貪の剣を抜くと、剣は高丸に切り掛かり、その首を切り落とした。 将軍たちは城内に乱入し、高丸の八人の子供を討ち取った。

将軍が信濃国伊那郡大宿に着いた時、梶葉の水干の武士は「我はこの国の鎮守の諏方大明神で、千手観音・普賢菩薩の垂迹である。清水観音の計により将軍に随行した。我は狩庭の遊びを好むので、狩の祭を行って欲しい」と云って姿を消した。 将軍が「どうして千手観音・普賢菩薩は殺生を好むのでしょう」と問うと、明神は「我は殺生を職とするものに利益を施し、神前の贄とする事で畜生を救済する志を持っている」と答えた。
将軍は諏方の地を明神に寄進し、深山の狩を始めた。 その縁日は悪事の高丸を亡ぼした七月二十七日である。 此の祭の時は必ず大雨大風となるのは、死狂の日だからである。 十悪の情が滅び、国が騒動するのである。 また、畜類の成仏する日なので、諸天が感動するのだと云う。
その後、藍摺の水干の武士も「我は王城守護の住吉大明神である」と云って姿を消した。

諏方大明神は高丸の十六歳の娘を生け捕りにして御前に置いていたが、その娘の腹に一人の王子が出来た。 明神はその子を上宮の神主に定め、我が体として「神」姓を与え、子孫に伝えさせた。

田村丸は上洛して高丸の首を宇治の宝蔵に納めた。 そして、清水に大きな御堂を造営した。 この御堂は勅願所となり、勝敵寺と呼ばれた。

諏方大明神

諏訪大社上社本宮[長野県諏訪市中洲宮山]。
祭神は建御名方神。
諏訪大社下社秋宮[長野県諏訪郡下諏訪町上久保]・春宮[下諏訪町大門]。
祭神は八坂刀売神・建御名方神で、事代主神を配祀。
式内社(信濃国諏方郡 南方刀美神社二座〈並名神大〉)。 信濃国一宮。 旧・官幣大社。

「諏方縁起事」によると、諏方の上宮は甲賀三郎、下宮は春日姫である。 また、「諏方大明神五月会事」によると、諏方の上宮は祇陀大臣、下宮は金剛女である。
垂迹本地
諏方大明神上宮普賢菩薩
下宮千手観音

秋山祭

八ヶ岳西南麓一帯(長野県諏訪郡原村及び富士見町)の原野は「神野」と呼ばれ、諏訪明神の御狩場と伝えられる。 天正の頃に描かれた上社古図中の御射山の図[参照]によると、この場所には虚空蔵(中十三所の山御庵、現・国常立命社)と三輪社が並立して鎮座していた。 現在は上社本宮の境外摂社である国常立命社と御射山社(祭神は建御名方命・大己貴命・高志沼河姫命)が拝殿内に並んで祀られている。

諏訪大社では年四度の御狩神事が行われた。 御射山祭(秋山祭)はその一つで、旧暦七月二十六~三十日(現在は新暦八月二十六~二十八日)に執り行われた。

諏訪円忠『諏方大明神画詞』(諏訪祭巻第五~第六)[LINK]は御射山祭の様子を以下の様に記す。 同書[LINK]は御射山祭の由来を以下の様に説く。
「扨も此御狩の因縁をたづぬれば、大明神昔天竺波提国の王たりし時、七月廿七日より同卅日に至るまで、鹿野苑に出で狩をせさせ給ひける時、美教と云乱臣忽ちに軍を率して、王を害し奉らんとす。其の時王金の鈴を振りて、蒼天に泣て八度叫びてのたまはく、我今逆臣の為に害せられんとす、狩る所の畜類全く自欲の為にあらず、仏道を成ぜしめむが為也、是若天意にかなはば、梵天我をすくひ給へと。其時梵天眼を以て是を見て、四大天王に勅して、金剛杖を執て、郡党を誅せしめ給ひにけり。今の三斎山(御射山)、其儀をうつさるゝ由申伝たり」

『陬波御記文』は三斎山(御射山)について
「三業の作罪を断て尽くすが故に、此の蜜会を三斎山と名く。此の山は霊鷲山の艮より生ぜり。当に慈尊の法華を説きたまへるの地なり。故に普賢身変山と名く。此の地を踏むものは、悪趣に堕とさじ。此地草木樹林に及ぶまで、皆是我が身分の所現なり。草木を剪り寸地を穿たんものは、我神人に非ず」
と説く。
(金井典美・岡田威夫「金沢文庫の古書「陬波御記文」について—御射山祭新資料—」[LINK]、金沢文庫研究、13巻、8号、pp.1-6、1967)

『神道集』では秋山祭(御射山祭)と五月会の由来を個別に説くが、『諏訪信重解状』の「当社五月会御射山濫觴事」[LINK]では坂上田村麿が安倍高丸を追討した際の諏方明神の託宣により四度御狩(五月会・御作田・御射山・秋庵)が始められたとし、
「就中五月会・御射山は、国中第一の大営神事也。[中略]忝くも桓武皇帝の宣下を奉り定め置らる神事也。皇敵追討の賞也」
と述べる。

悪事の高丸

虎関師錬・恵空『元亨釈書和解』巻第九の延鎮伝[LINK]には、
「釈延鎮は報恩大師の徒弟なり。清水寺に住居せらる。されば坂将軍田村麻呂と遇るより親しき友となりて常に対談に及べり。然る間将軍には奥州の逆賊高丸を征伐致すべき由の綸言にてありしかば、その時将軍延鎮に語りて曰く、「我皇詔を承り東夷の賊徒を征せんことは、偏に法力の加護を蒙らずんばあるべからず。[中略]偏に貴僧の祈誓を頼み申すなり」と告げられば、延鎮すなはち「心得申したり」と諾はれける」 「高丸はすでに駿州まで攻上りて清見関にやどりけるところに、将軍その時軍兵を出しぬと聞て立帰り、奥州を堅めたりしが、官軍の輩、夷賊としきりに合戦しけるところに、将軍の身方には矢種もつきはてゝ、今は射当べき鏃に事ぞを欠きける折節、不思議なるかな小さき比丘および小さく男子のちらちらと見へて、軍場に落散たるその矢を拾取り、たゞちに将軍のもとに持来りてわたしけるなり。其の時、将軍奇怪の思をなして居られたりしが、すでに軍も勝利を得ることありしかは、将軍まのあたり高丸を射て、神楽岡に斃し、其の首をやすやすと取て、帝城にさゝげたり」 「将軍は急速に延鎮のもとに詣て曰く、「たのもしきかな、貴僧の護念加祐に依てすでに逆心の寇をこゝろよく誅戮せし事、抑本望を遂げ候ひき。さる程に師の修せられし法要はそれ何たる行力にてありしや、承りたくこそ侍れ」と申されば、延鎮の曰く、「さればにや、我法の中に於て勝軍地蔵・勝敵毘舎門の行のありけるが、我すなはち此の二像を造てうやうやしく供養をまふけ、その法をよく修せる事にてありける」と申されば、将軍はこれをきいて、すなはちかの軍場の二人の矢を拾ひし事を物語せられしゆへ、さあらば其の像を拝すべしとて、やがて殿中に入てかの像を見るに、矢の瘢刀の痕あまた其の体に被りおはします。加之しかのみならず泥土もなを多く脚に塗て見へたり」
とある。

『諏方大明神画詞』(縁起中)[LINK]には「桓武天皇御宇、東夷安倍高丸暴悪の時」に坂上田村丸が安倍高丸を追討した事を記す。
将軍坂上田村丸は延暦二十年[801]二月に勅を奉り、安倍高丸追討の為に奥州に下向した。 将軍は心の中で「伝へ聞く諏訪大明神は東関第一の軍神なり、梟夷追討の為に鳳詔を被りて素境に向ふ。神力にあらずば賊衆を誅しがたし。神鑒をたれて所願を成就し給へ」と祈願した。 信濃国伊那郡と諏方郡との境に至った時、一騎の兵客が参上した。 兵客は穀葉の藍摺の水干を着て、鷹羽の箟矢を負い、葦毛の馬に乗っていた。 将軍が誰人か問うと、兵客は「当国の住人なり、誠に官仕の志ありて参向す」と答えた。 将軍は只人にあらずと思い、兵客を先陣として奥州に趣いた。
将軍が密かに高丸城(宅谷岩屋)を伺い見ると、背後は碧巌に寄り、前方は蒼海を向いている。 左右は鉄石が厳しく閉じられていて、人も馬も通れない。 高丸は城に閉じ籠って軍兵も出門せず、官軍は進退極った。 将軍が信州の兵客に相談すると、兵客は馬に鞭打って海上に望み、全く同じ姿の五騎に分身した。 また、黄衣の化人が二十余人現れ、それぞれ的を捧げて海上に走った。 両軍が不思議に思っていると、海上で流鏑馬の射礼が始まった。
高丸は畏怖して見に出て来なかったが、城内の男女一同に勧められ、鉄城の門戸に望んだ。 的がはたはたと靡く音がしたので、高丸は矢数が尽きたと思って頭を出して見た。 兵客が残していた手挟の鏑矢を射ると、雁又の鏃が両目に当たり、高丸は逆さまに海に落ちた。 その時、黄衣の化人が集まって高丸の首を取った。 兵客は首を鉾の先に刺し貫いて掲げ、官軍一同は勝鬨を上げた。 高丸の部下はこれを見て帰降し、須臾の間に城郭が崩れ落ちた。 将軍は涙を流して神威を仰ぎ、士卒は合掌した。 分身五騎は十三所の王子、黄衣の化人は眷属であった。
将軍は神兵を先陣として帰洛の途に就いた。 信濃国佐久郡と諏方郡との境に至った時、神兵の装束が冠帯に改まり、「我は是れ諏訪明神なり、王城を守らんが為に将軍に随遂す。今既に賊首を奉る、今更に上洛に及ばず、此砌に留るべし。又遊興の中に畋猟殊に甘心する所なり」と告げた。

また、同書(縁起第三)の安藤氏の乱の条[LINK]には、
「武家其濫吹を鎮護せんために、安藤太と云ふ者を蝦夷管領とす。此は上古に安倍氏悪事の高丸と云ける勇士の後胤なり。その子孫に五郎三郎季久、又太郎季長と云は、従父兄弟也」
とあり、高丸は津軽安藤氏の祖とされている。

『義経記』巻二の「鬼一法眼の事」[LINK]には、
「ここに代々の御門の御宝、天下に秘蔵せられたる十六巻の書あり。異朝にも我が朝にも伝へし人、一人としておろかなる事なし。[中略]本朝の武士には、坂上田村麿これを読み伝へて、あくしのたかまる(悪事の高丸)を取り、藤原の利仁これを読みて、あかゞしら(赤頭)の四郎将軍を取り」
とある。

『田村の草子』[LINK]によると、近江の国にあくしのたか丸(悪事の高丸)という鬼が出て往来の人々を害した。 坂上俊宗(田村丸)は十六万騎の兵を率いて高丸の城を攻めた。 俊宗が火界の印を結んで城を焼くと、高丸は海に逃れ、唐と日本の境の岩を刳り貫いて城を作った。 多くの兵を討たれた俊宗が都に戻る途中、鈴鹿の坂の下で鈴鹿御前に迎えられた。 鈴鹿御前は「凡夫の身では叶いません。兵は都に帰して、私が参りましょう」と言い、神通の車に乗って高丸の城に向かった。 高丸は岩戸を立てて引き籠ったが、鈴鹿御前は十二の星と二十五菩薩を天下らせ、岩屋の上で妙音を奏でて舞い踊らせた。 高丸の寵愛する娘が音楽を聞いて岩戸を三寸ほど開くと、二十五菩薩と天童子が音楽に合わせて舞っているので、その面白さに岩戸を広々と開けてしまった。 俊宗は神通の鏑矢を射って高丸の眉間を打ち砕き、剣を投げて高丸親子七人の首を落とした。

稲瀬五郎田村丸

実在の坂上田村麻呂に相当する。

史実の坂上田村麻呂は天平宝字二年[758]生まれ。 延暦十年[781]七月に征夷大使・大伴弟麻呂の副使(副将軍)に任ぜられて蝦夷征討に従軍。 同十六年[787]十一月には征夷大将軍に任ぜられ、同二十一年[802]四月に大墓公阿弖利為と盤具公母礼が率いる五百余名の蝦夷を降した。
その後は正三位・大納言まで昇進し、弘仁二年[811]五月二十三日に死去。 没後に従二位を追贈された。
『公卿補任』[LINK]には、
「毘沙門化身、来護我国云」
とある。

『田村の草子』[LINK]は主人公の名を
「先御名をあらためて、田村丸とぞ申しける。きりやう(器量)ことがら人にすぐれ、御力はいか程あるともかきりなし(限り無し)、やがて御げんぷく(元服)ありていなせの五郎さかの上のとしむね(稲瀬五郎坂上俊宗)と申ける」
とある。

勝田宰相

坂上田村麻呂の実父である坂上苅田麻呂に相当する。

『続日本紀』巻三十八の延暦四年[785]六月癸酉[10日]条[LINK]には、
「右衛士督従三位兼下総守坂上大忌寸苅田麻呂等、表を上て言す。臣等は本是れ後漢霊帝の曽孫阿智王の後也。[中略]帰化して来朝せり、是れ則ち誉田天皇(応神天皇)治天下の御世也」
とある。
『神道集』で田村丸を震旦国の人とするのは、この記述を元に創作したものか。

清水寺

音羽山清水寺[京都府京都市東山区清水]
本尊は十一面千手観音(清水観音)。
北法相宗総本山。 西国三十三所観音霊場の第十六番札所。

『都名所図会』巻三(左青龍)[LINK]には、
「音羽山清水寺の本尊十一面千手千眼観世音菩薩、脇士は毘沙門天、地蔵菩薩なり。抑当寺の来由を尋ぬるに、大和国小島寺の沙門延鎮、宝亀九年[778]の夏、霊夢を感ずる事ありて、木津川の辺に行きて見れば、一つの流れに金色の光あり。源を尋て直に登るに一流の滝あり。傍をみれば、茅ふきたる庵に白衣を着せる老翁あり。延鎮此庵に入りて、御身はいかなる人ぞ。翁の曰く、我名は行叡、此地に住む事は既に二百歳に及べり。常に千手真言を誦ふ。我貴僧を待つこと久し。東に行かんと思ふ志あれば、御身しばらくこゝに住給へ、我此霊木を以て大悲の像を作り、精舎を建てん願あり、若遅くかへりなば、御身我にかはりて此ねがひを成就し給へといへり。延鎮もとより夢の告あれば、辞する事なく翁の心にまかせける。大に悦びて、翁は東に向うて庵を出たり。夫より延鎮此所に住めり」
「延暦十七年[798]に将軍坂上田村丸、産婦のために鹿を猟して、音羽山にわけ入り、かの草庵に至れり。延鎮田村丸に逢うて翁のしめせし事を告ぐる。田村丸渇仰の思をなし、屡延鎮の相好を見るに、神仙の如し。是即大士の化現ならんと信心いやまし、家に帰りて妻女に語れり。妻の曰、わが病を治せんとて多くの殺生をなす、此罪いたつて深かるべし。其教にまかせて、大悲の尊像を安置し奉らば、いかばかりの利益なるべしと、夫婦心をあはせて、観音寺を建てゝ延鎮に寄附せん事を約す。又行叡より授かりし霊木を以て、観音の像を作らん事を願ふ。延鎮其夜夢中に、十一人の僧来つて大悲の像を作る。長八尺、十一面四十臂の千手観音なり。造り終つて十一人の工僧行方を知らず。夢覚て見るに、赫奕たる尊容現じ給ひて目前にあり。当寺本尊是なり」 「田村丸延暦二十年[801]に詔をうけて東夷征伐の時、此本尊に祈りしかば、観世音、地蔵、毘沙門天、彼戦場に現じ給ひて、ことごとく退治し給ふ。同二十四年[805]に、田村丸太政官符の宣旨を蒙りて堂塔を建立し、勅願所となし、又大同二年[807]紫宸殿を賜ひて伽藍となし、観音寺を改めて清水寺と号せり」
とある。

鞍馬

鞍馬寺[京都府京都市左京区鞍馬本町]
本尊は尊天(毘沙門天・千手観音・護法魔王尊)。
鞍馬弘教総本山。

『都名所図会』巻六(後玄武)[LINK]には、
「抑此寺は延暦十六年[797]に、大中太夫藤伊勢人の草創なり。此人仏に帰する事篤く、たゞ勝地を求めて精舎をいとなみ、観世音の像を安置せんと常に願へり。ある夜の夢に、洛北の山嶺に至る。忽然として白髪の老翁現れ、語つて日く、此山は天下にすぐれ、形は三鈷に似て、つねに彩雲たなびく。汝此所に精舎を建立せば、利益無量ならんとぞ。太夫翁の名を問ひしに、王城の鎮護貴船神なり。夢覚めて何れのところともしらでありければ、久しく飼へる白馬に鞍を粧ひ、むかし摩騰法蘭は、舎利像経を白馬に乗せ、震旦に来れり。されば白馬は霊畜なり。汝定めて夢の地をしるらんとて、童子をつけて馬を放ちしに其の馬都の北なる山に駈り、茅の中にぞ止りぬ。童帰りて此よしを告ぐる。太夫往きてその山を見るに、夢にたがはず。しかも叢林に毘沙門天の像を得たり。則一宇をいとなみて、この像を安置せり。されども、観音の像を置かずして、願いまだとげざるよしと恩へる。又其の夜の夢に、天童来りて日く、汝多門天(多聞天)の像を得て観世音を願ふ。応知まさにしるべし、観音と多門天の名は異なれども同一体なり。覚めて後、願今は充てりと歓喜せり。又一宇をいとなみて、千手観音を安置す。今の西の観音院これなり」
とある。

住吉大明神

住吉大社[大阪府大阪市住吉区住吉2丁目]
第一本宮の祭神は底筒男命。
第二本宮の祭神は中筒男命。
第三本宮の祭神は表筒男命。
第四本宮の祭神は息長足姫命(神功皇后)。
式内社(摂津国住吉郡 住吉坐神社四座〈並名神大 月次相嘗新嘗〉)。 摂津国一宮。 二十二社(中七社)。 旧・官幣大社。

『日本書紀』巻第一(神代上)の第五段一書(六)[LINK]によると、伊弉諾尊は黄泉から帰った後、筑紫の日向の小戸の橘の檍原に至って禊除をした。 「乃ち興言して曰はく。上瀬は是れ太だ疾し。下瀬は是れ太だ弱し。便ち中瀬に濯ぎたまふ。因りて生める神を、号けて八十枉津日神と曰す。次に其の枉れるを矯さむとして生める神を、号けて神直日神と曰す。次に大直日神。又海の底に沈き濯ぐ。因りて生める神を、号して底津少童命と曰す。次に底筒男命。又潮の中に潜き濯ぐ。因りて生める神を、号して中津少童命と曰す。次に中筒男命。又潮の上に浮きぐ。因りて生める神を号して、表津少童命と曰す。次に表筒男命。凡て九神有す。其の底筒男命・中筒男命・表筒男命は、是れ即ち住吉大神なり。底津少童命・中津少童命・表津少童命は、是れ阿曇連が所祭る神なり」とある。

第五段一書(十)[LINK]には、
「橘小門に還向りたまひて、払ひ濯ぎたまふ。時に、水に入りて、磐土命を吹き生す。水を出でて、大直日神を吹き生す。又入りて、底土命を吹き生す。出でて、大綾津日神を吹き生す。又入りて、赤土命を吹き生す。出でて、大地海原の諸の神を吹き生す」
と異名を記す。

同書・巻第八の仲哀天皇八年[199]九月己卯[5日]条[LINK]によると、天皇は橿日宮で熊襲征討の議を行った。 神功皇后に神が憑り「玆の国(熊襲)に愈りて宝有る国。譬へば処女の睩の如くにして、津に向へる国あり。眼炎く金・銀・彩色、多に其の国に在り。是を栲衾新羅国と謂ふ。若し能く吾を祭りたまはば、曾て刃に血ぬらずして、其の国必ず自づから服ひなむ」と告げた。 天皇が神託を疑うと、神はまた皇后に憑り「其れ汝王、如此言ひて、遂に信けたまはずば、汝、其の国を得たまはじ。唯し、今、皇后始めて有胎はらませり。其の子獲たまふこと有らむ」と告げた。 天皇はこれを信じようとせず、熊襲征討を強行したが、勝つことなく帰還した。 翌九年[200]二月五日に天皇は急病になり、翌日崩御された。

同書・巻第九の神功皇后摂政前年[200]三月条[LINK]によると、神功皇后は自ら神主となり「先の日(前年九月五日)に天皇に教へたまひしは誰れの神ぞ。願はくは其の名をば知らむ」と祈った。 七日七夜の後、「神風の伊勢国の百伝ふ度逢県の拆鈴五十鈴宮(皇大神宮)に所居す神、名は撞賢木厳之御魂天疎向津媛命」、「幡荻穂に出し吾や、尾田吾田節の淡郡(伊雑宮[三重県志摩市磯部町上之郷]などに比定)に所居る神」、「天に事代、虚に事代、玉籖入彦厳之事代神」、「日向国の橘小門の水底に所居て、水葉も稚に出で居る神、名は表筒男・中筒男・底筒男神」と神名を示された。
三韓(新羅・高麗・百済)を征伐した後[LINK]、皇后は新羅から帰還し、十二月十四日に筑紫で誉田天皇(応神天皇)を生んだ。 軍に従ってきた表筒男・中筒男・底筒男の三柱の神が皇后に「我が荒魂を、穴門の山田邑(住吉神社[山口県下関市一の宮住吉1丁目])に祭はしめよ」と託宣したので、穴門直践立を荒魂を祭る神主とし、祠を建立した。

神功皇后摂政元年[201]二月条[LINK]によると、皇后は穴門豊浦宮で仲哀天皇の殯を行い、海路で都に向った。 これを知った麛坂王・忍熊王は謀反を起こした。 皇后の船は難波に向かう途中で進めなくなった。 務古水門(武庫の港)に還って占うと、天照大神は「我が荒魂をば、皇居に近づくべからず。当に御心を広田国(広田神社[兵庫県西宮市大社町])に居らしむべし」、稚日女尊は「吾は活田長峡国(生田神社[兵庫県神戸市中央区下山手通1丁目])に居らむと欲す」、事代主尊は「吾をば御心の長田国(長田神社[兵庫県神戸市長田区長田町3丁目])に祀れ」、表筒男・中筒男・底筒男の三柱の神は「吾が和魂をば大津の渟中倉の長峡に居さしむべし。便ち因りて往来ふ船を看さむ」と託宣した。 皇后は神の教えのままに神々を鎮祭し、平穏に海を渡ることが出来た。

異伝[LINK]によると、仲哀天皇が橿日宮に居らした時、神功皇后に神が憑り「其れ今御孫尊(天皇)の所御へる船、及び穴門直践立が所貢れる水田、名は大田を幣にして、能く我を祭はば、美女の睩の如くて、金・銀の多なる、眼炎く国(新羅国)を以て御孫尊に授けむ」と告げた。 天皇が神託を疑って神に名を尋ねると、「表筒雄・中筒雄・底筒雄」と三神の名を称し、重ねて「吾が名は、向匱男聞襲大歴五御魂速狭騰尊なり」と宣った。 天皇が后に「聞き悪き事言ひ坐す婦人か、何ぞ速狭騰と言ふ」と云うと、神は「汝王、是の如くに信けたまはずば、必ず其の国を得じ。唯し今皇后の懐妊はらみませる子、蓋し獲たまふこと有らむ」と告げた。 その夜、天皇は病気になり崩御された。

『摂津国風土記』逸文〔卜部兼方『釈日本紀』巻第六(述義二)に引用〕[LINK]には、
「住吉と称へる所以は、昔、息長帯比売の天皇の世、住吉の大神、現れ出でて、天の下を巡り行きて、住むべき国を覓ぎ給ひし時、淳名椋の長岡の前に到り給ひき〈前とは今の神宮の南の辺、是れ其の地なり〉。すなはち謂り給ひしく、こは実に住むべき国なりと宣り給ひて、遂に讃め称へて、真住吉し住吉の国と云ひて、すなはち神の社を定め給ひき」
とある。

『諸社根元記』の住吉の条[LINK]には、
「延喜神祇式曰摂津国住吉郡住吉坐神社四座、伊弉諾尊所生、第一 底筒男神 第二 中筒男神 第三 表筒男神 第四 神功皇后霊神、三社並神功皇后鎮座也」「御本地 第一 薬師 第二 阿弥陀 第三 大日 第四 聖観音」
とある。

橘成季『古今著聞集』巻第一(神祇)[LINK]には、
「住吉は四所おはします。一の御所は高貴徳王大菩薩なり。御託宣に曰く、我は是れ兜率天の内なる高貴徳王菩薩なり。国家を鎮護せんが為に、当朝墨江の辺に跡を垂る」
とある。

『山家要略記』(山王部)[LINK]には、
「本朝千載伝に云ふ、天地開闢して後、三葉の葦海上に開し之在昔、住吉大神天降し、鋒を四面の波間に立て葦の葉の上に垂迹、是れ吾国興起おこることの縁也。道照和尚記に云ふ、住吉明神は娑竭羅王の化身也。釈尊在世説法の日、蛇身を改め神明と現れ、釈迦の遺教を護り恒に虚空に住す。天地開闢の最往天降り吾国を営興す。蓋し吾国の地主也」
とある。

『玉伝深秘巻』の「七歌鳥風問答記」には、
「住吉大明神は天忍穂耳尊の御子にて御座す。安閑天皇の御宇に、摂津国住吉津守の浦に御影向あり」
とある。 また、同書の「阿古根浦口伝」には、
「この神、津守の浦に跡を垂れたまふことは、安閑天皇御宇三年[536]正月十三日にはじめて御影向ありしことなり。この神はその日より前には四天王に住みたまひける。その時の御名をば、金剛輪妙多自在天神と申しき。又は、仙達御足達尊やまたちみたりたちのみこととも申すと云々。延光中納言住吉に参籠の時、示現に見奉るところなり」
とある。

『八幡愚童訓(甲本)』巻上には、
「(神功皇后は)四王寺山に御行して、榊の枝に大鈴を付け御手に捧て立給事、六日儘に成れ共其験無し。[中略]第七日には虚空に光明充満て光り、則虚空蔵菩薩と成り、菩薩又俗躰と成給ふ。其御形は翁仙人の如し。此の俗の申給は、「我は是れ地神第五の彦波瀲尊成り。軍に軍には大将軍を先と為す。我子月神と云は力つよく心武し。是を進すべし、隣敵を責給へ」とて、「月神や有」と召せば、月神空中より出づ。御冠に赤衣を着し、平胡籙を負、鏑矢二に御弓を執具し持せ給て前に坐す。此彦波瀲尊と申は住吉大明神の御事也。月神と申は高良大明神(高良大社[福岡県久留米市御井町])の御事也」
とある。

王子

諏訪大社上社の初代大祝・有員に相当する。
上社の大祝は現身の諏訪大明神とされ、有員の子孫である神氏(諏訪氏)の一族から選ばれた八歳の童男が即位した。 大祝は上社前宮(長野県茅野市宮川)の神殿に住居し、神長官(守矢氏)と共に上社の祭祀を執り行った。

『諏方大明神画詞』(諏訪祭巻第一)[LINK]の正月一日の条には、
「祝は神明の垂迹の初、御衣を八歳の童男にぬぎきせ給ひて、大祝と称し、我において躰なし、祝を以て躰とすと神勅ありけり。是則御衣祝有員神氏の祖なり」
とある。

『諏訪信重解状』の「以大祝御体事」[LINK]には、
「右大明神御垂跡以後、人神と現れたまひ、国家鎮護眼前たるの処、機限に鑒み、御体隠居の刻、御誓願に云はく、我に別躰無し、祝を以て御躰と為すべし、我を拝せんと欲せば、須らく祝を見るべし云々。仍て神字を以て祝の姓に与へ給ふ」
とある。

『陬波私注』は有員を諏訪大明神の叔父とする。 「続旦大臣と申は大明神の叔父御前、天竺より御同道、大明神御体を隠させ給し御時、御装束を彼の大臣に抜き着せ奉り給て御衣木法理と号し、我の躰は法理を以て躰とせよと誓給し也」「御衣木法理殿御実名は有員云々」(「法理」は「祝」を表す)。
(金井典美「金沢文庫の古書「陬波私注」について—中世における諏訪信仰の新資料—」[LINK]、金沢文庫研究、15巻、9号、pp.8-14、1969)

『神家系図』の「諏訪神元祖御衣木祝有員由来事」[LINK]には、
「用明天皇の御宇[586-587]、大明神信濃国諏方郡影向し給ふの時、有員童子の形体を為して御共せしむる也。爰に同郡内守屋大臣大明神と諍い奉り、御来臨の間守屋山に至り、彼の大臣大明神と御合戦あり。時に有員御共して合戦の忠を致し大臣を追い落し、則ち守屋山麓に於て社壇を構へ、諏訪大明神と化現せしめ給ふ。即ち有員始めて祝となり、祭礼を成し奉る者也。豈に大明神は普賢、有員は文殊師利菩薩の化身と云ふ」
とある。

『神氏系図』の後書[LINK]によると、諏訪大明神の子孫である五百足の夢に尊神が現れ、「汝の妻・兄弟部、既に妊れり、身分娩せば必ず男子を挙ぐ。成長し吾将に之れに憑み有らんと欲せば、汝宜しく鍾愛すべし」と告げた。 兄弟部は男子を産み、神子(熊子)と名付けた。 神子が八歳の時、尊神が化現し、御衣を神子に脱ぎ着せ、「吾に体無し、汝を以て体と為す」と神勅して姿を消した。 これが御衣着祝・神氏有員の始祖である。
用明天皇二年[587]、神子は湖南の山麓に社壇を搆えた。 神子の九代目の子孫が有員(武麿)である。
延暦二十年[801]二月、坂上田村麻呂が勅を奉じて蝦夷を征伐した時、有員は幼くして随行した。 有員は尊神のお告げに従い、高丸の賊首を取って将軍に送った。 帰洛後にその神異奇瑞が天聴に達し、宣旨が下されて社壇が搆造され、諏訪郡が神領として寄附された。 また、寅申の年に一国の貢税課役を以て行う式年造営(御柱大祭)が始まった。 有員は大祝と為り、これを御衣着祝と謂った。

『諏訪系図』の一本〔太田亮『姓氏家系大辞典』の諏訪の項に引用〕[LINK]には、
「仁王三十一代、敏達天皇第三泊瀬王子也。勝照三年[587]、上宮太子、泊瀬王子、蘇馬子、群臣と師を帥て、物守屋を渋川に誅し給ふ。其の功を感じ給ひ、御衣を泊瀬王子に賜ふ。故に之を御衣の臣有員と謂ふ。其の子・諏方神殿に於いて。初冠して神太郎武員と云ふ」
とある。

また、『諏訪系図』の別の一本〔同上〕には、
「桓武天皇の第六皇子を有員と曰ふ。平城天皇大同元丙戌年[806]、始めて平姓を賜ひ、信州諏方上宮大祝職に任ず。此れを御表衣の祝・有員と謂ふ。是より以来、子孫相続して其の職を守り、其の住・諏方なるを以て、故に遂に諏方氏と為る」
とある。

『神長守矢氏系譜』の守矢清実の条[LINK]には、
「大祝職位書云 桓武帝第五皇子、平城帝御宇大同元年丙戌、御表衣祝有員極衣法奉授神長清実十三所行事也、其後有員諸祭行給ふ、[中略]仁和二年丙午[886]御表衣大祝有員八拾七歳にて御射山大四御庵頓死」
とある。
この伝に基づき、御射山社境内の大四御庵社の側に「初代大祝有員の墓」が設けられている。