『神道集』の神々

第十七 信濃鎮守諏訪大明神秋山祭事

信濃国一宮は諏訪の上宮で、本地は普賢菩薩である。
二宮は諏訪の下宮で、本地は千手観音である。

人皇五十代桓武天皇の御代、奥州に悪事の高丸という朝敵がいて、人々を苦しめていた。
その頃、田村丸という武士がいた。 元は震旦国の朝広(趙高)の兵士で、日本へ落ち延びて勝田宰相の養子となって稲瀬五郎田村丸と名乗った。
帝は田村丸を将軍として高丸征伐を命じた。 田村丸が清水寺の千手観音に願をかけると、七日目の夜半に「鞍馬の毘沙門は我が眷属であるので、この天王に願え。奥州に向う時は山道寄りに下るようにせよ。そうすれば兵を付き副わせよう」とお告げが有った。
将軍は鞍馬に参詣して多聞天・吉祥天女・禅尼師童子に祈願し、"堅貪"という三尺五寸の剣を授かった。 観音のお告げに従って山道寄りに奥州に向う途中、信濃国伊那郡において、梶の葉の水干に萌黄縅の鎧を来た殿原と出会った。 次いで、藍摺の水干に黒糸縅の鎧を来た殿原と出会った。
高丸の居城は堅固で、とても攻め落とせそうになかった。 将軍が苦戦していると、信濃で出会った二人の殿原が駆け付けて来た。
将軍は海上に船を浮かべて鞠遊びや流鏑馬をした。 それを見た高丸の娘が「父上、あれをご覧なさい」と云ったので、高丸は石の扉を少し開けた。 その時、梶の葉の水干の殿原が高丸の左目を射た。 将軍が堅貪の剣を抜くと、剣は高丸に切り掛かり、その首を切り落とした。 将軍たちは城内に乱入し、高丸の八人の子供を討ち取った。

将軍が信濃国伊那郡大宿に着いた時、梶の葉の水干の殿原は、「我はこの国の鎮守の諏訪大明神で、千手観音・普賢菩薩の垂迹である。清水観音の計により将軍に随行した。我は狩庭の遊びを好むので、狩の祭を行って欲しい」と云って姿を消した。 将軍が「どうして千手観音・普賢菩薩は殺生を好むのでしょう」と問うと、明神は「我は殺生を職とするものに利益を施し、神前の贄とする事で畜生を救済する志を持っている」と答えた。
将軍は諏訪の地を明神に寄進し、深山の狩を始めた。 その縁日は悪事の高丸を亡ぼした七月二十七日である。
その後、藍摺の水干の殿原も「我は王城守護の住吉大明神である」と云って姿を消した。

諏訪大明神は高丸の十六歳の娘を生け捕りにして御前に置いていたが、その娘の腹に一人の王子が出来た。 明神はその子を上宮の神主として、"神"の氏を与えた。

田村丸は上洛して高丸の首を宇治の宝蔵に納めた。 そして、清水に大きな御堂を造営した。 この御堂は勅願所となり、勝敵寺と呼ばれた。

諏訪大明神

参照: 「諏訪縁起事」
垂迹本地
諏訪大明神上宮普賢菩薩
下宮千手観音

秋山祭

御射山祭は旧暦七月二六~三十日(現在は新暦八月二六~二八日)に執り行われた。
上社の御射山は八ヶ岳西南麓(長野県諏訪郡原村及び富士見町)にある。 その一帯には"神野"と呼ばれる原野が広がり、諏訪明神の御狩場と伝えられる。 上社本宮の摂社である御射山社が鎮座し、その拝殿内には諏訪明神と国常立尊(虚空蔵菩薩)が並んで祀られている。 中世の御射山祭では御狩神事を中心として、山宮奉幣・饗膳式などの神事が盛大に営まれ、諸国から参じた武士による小笠懸・相撲・草鹿・武射・競馬など各種の武道競技が奉納された。

諏訪円忠『諏訪大明神絵詞』[LINK]によると、天竺波提国の王が七月二十七日~三十日まで鹿野苑で狩を行った時、美教という乱臣が軍を率いて王を害しようとした。 その時、王が金の鈴を振って「狩る所の畜類は全く自欲の為にあらず。仏道を成せしめむが為也。是若天意にかなはば梵天我をすくひ給へ」と叫んだので、梵天は四天王に勅して群党を誅した。 三斎山の儀(御射山の御狩)はこれを移したものである。

悪事の高丸

蝦夷の阿弖利為(阿弖流為)をモデルにした人物。

『続日本紀』延暦八年[789]六月三日の条[LINK]によると、征東将軍・紀古佐美は阿弖流為が率いる蝦夷軍と交戦した。 当初は官軍が優勢だったが、巣伏村で蝦夷軍に反撃されて大敗した。
『日本紀略』延暦二十一年[802]四月十五日の条[LINK]によると、大墓公阿弖利為と盤具公母礼が率いる五百余名の蝦夷軍は坂上田村麻呂に投降した。 田村麻呂は両名の助命を提言したが、同八月十三日に河内国で処刑された。

『諏訪大明神絵詞』[LINK]では、"安倍高丸"と称される。坂上田村丸は延暦二十年[801]二月に安倍高丸追討の勅命を受け、東関第一の軍神と伝え聞く諏訪大明神に心中で祈願した。 東山道を奥州に下向する途中、信州伊那郡・諏訪郡の境において穀葉の藍摺の水干を着た兵客に出会い、この兵客を先陣とした。 高丸は堅固な城に籠っており、官軍は進退極まった。 相談を受けた信濃の兵客は海に出て、五人の騎手に分身した。二十余名の黄衣の者が化現して的を捧げて走り、海上で流鏑馬が始まった。 高丸は用心してこれを見なかったが、流鏑馬の矢が尽きたと思って顔を出した時、兵客は残してあった鏑矢を投げつけた。 矢が目に刺さった高丸は海に落ち、黄衣の者に討ち取られた。 兵客は諏訪明神の化身、五人の分身は十三所の王子、黄衣の者はその眷属であった。

稲瀬五郎田村丸

坂上田村麻呂をモデルとした人物。

史実の坂上田村麻呂は天平宝字二年[758]生まれ。 延暦十年[781]七月に征夷大使・大伴弟麻呂の副使(副将軍)に任ぜられて蝦夷を征伐。 同十六年十一月には征夷大将軍に任ぜられた。
その後は正三位・大納言まで昇進し、弘仁二年[811]五月二十三日に死去。 没後に従二位を追贈された。
『公卿補任』[LINK]には「毘沙門化身、来護我国云」と記されている。

清水寺

音羽山清水寺(京都府京都市東山区清水)
北法相宗総本山。 西国三十三所観音霊場の第十六番札所。
本尊は十一面千手観音(清水観音)。

『清水寺縁起』[LINK]によると、宝亀九年[778]四月八日、賢心(後の延鎮上人)が夢告に従って山城国愛宕郡八坂郷東山の音羽の滝下に到り、そこで草庵を結んで修行している行叡居士と出会った。 行叡は此の地は寺堂を造るべき勝地で、庵の前の株は観音の料木であると云い、姿を消した。 賢心は千手観音像を彫って行叡の庵に安置した。
同十一年[780]、坂上田村麻呂は鹿を捕らえようと音羽山に入り、修行中の賢心と出会った。 賢心は田村麻呂に殺生の罪を説き、田村麻呂はその教えに従って清水観音に帰依した。 その後、蝦夷征伐を命じられた田村麻呂は清水観音の遣わした若武者(毘沙門天)と老僧(地蔵菩薩)の助力で戦に勝利した。 延暦十七年[798]、都に凱旋した田村麻呂は清水観音の御堂を大改築し、毘沙門天・地蔵菩薩を観音の脇侍として祀った。

鞍馬

鞍馬寺(京都府京都市左京区鞍馬本町)
鞍馬弘教総本山。
本尊は尊天(毘沙門天・千手観音・護法魔王尊)。

『鞍馬蓋寺縁起』[LINK]によると、宝亀元年[770]、鑑真の弟子の鑑禎が霊夢を見て鞍馬山に入った際、鬼魅に襲われたところを毘沙門天王の加護で救われた。 鑑禎は山中に草庵を結び、毘沙門天王像を安置した。
延暦十五年[796]、観音を奉斎すべき勝地を求めていた藤原伊勢人は、貴船明神の神託により鞍馬山に入り、毘沙門天王を祀る草庵を見出した。 いぶかる伊勢人の夢に天童が現れ、「汝しらずや観音と毘沙門とは、たとへば般若と法華のごとし。眼目異名之本地是一なり。疑惑すべからず」と告げたので、新たに精舎を建立し、毘沙門天王の傍に千手観音像を安置した。

住吉大明神

住吉大社(大阪府大阪市住吉区住吉二丁目)
祭神は底筒男命・中筒男命・表筒男命・息長足姫命。
式内社(摂津国住吉郡 住吉坐神社四座並名神大
摂津国一宮。 二十二社(中七社)。 旧・官幣大社。

諏訪大明神の王子

諏訪大社上社の初代大祝・諏訪有員。
出自は明らかでなく、『神氏系図』[LINK]によると御名方富命(建御名方命)の末裔であるが、桓武天皇の皇子とする説も有る。
江戸時代まで上社の大祝は現身の諏訪大明神とされ、有員の子孫である神氏(諏訪氏)の一族から選ばれた八歳の童男が即位した。 大祝は上社前宮(長野県茅野市宮川)の神殿(ごうどの)に住居し、神長官(守矢氏)と共に上社の祭祀を執り行った。

『諏訪大明神絵詞』[LINK]には「祝は神明の垂迹の初、御衣を八歳の童男にぬぎきせ給ひて、大祝と称し、我において躰なし、祝を以て躰とすと神勅ありけり。是則御衣祝有員神氏の祖なり」とある。