2017.4.1
市川崑とピーター・フォンダ

 思い出深い映像を回顧していると、この2人が出て来た。

 最初の市川崑作品との出会いは1964年の東京オリンピックの記録映画であった。
当時は小学校3年生で、オリンピック翌年の冬の季節だったと思う。今は無き二子玉川園の正門の右側に映画館が併設されていて、親に連れられて近所の幼なじみと3人で観に行ったのであった。
 子供ながらに感じたのはとても厳しく冷たいカメラ視線である。選手の表情のアップが多かったように記憶しているのだが、勝利の歓喜の表情ではなく、恐れ、失意、忘我、痛みといったような表情が深く記憶に残っている。
 特に印象的だったのは自転車のロードレースの一団がもの凄いスピードで目の前を駆け抜けていく中で、一瞬にして起きた転倒事故で顔をしかめる選手の表情である。”痛そう” という想像ではなく自分の心臓を鷲掴みにされたようにドキドキした記憶である。今にして思うと、競技場の観客席やTV映像では決して見る事ができない至近距離からの選手の表情がテーマだったのではないだろうか? 
 勿論、当時は市川崑の名前など知る由もなかったが、子供の頃の映像や音の記憶はトラウマのようなものかもしれない。

 それから8年が過ぎた1972年のことである。 
高校二年になりたての4月29日の昭和天皇誕生日だったと思うが、ふらっと山を歩きたくなり、目的地を思案していたところ足柄付近が候補に挙がった。オリンピックの年にボーイスカウトのキャンプで記憶に刷り込まれた ”山合いの御殿場線の景色” という原風景がどこかにあったのかもしれない。
 東海道線の国府津駅で御殿場線に乗り換え、山北駅で下車した。この駅は東海道線の丹那トンネル開通以前に、箱根山を迂回していた時代の鉄道の要所であり、駅前に蒸気機関車D52が保存展示されていた。周辺の手短な路地から町を俯瞰できるような高い場所を探して山際から海が見えるほどの標高まで登った。山行と言えるようなものではなく、遠足の域を出なかったが解放感を感じて帰路に着いた。
 その日の晩、市川崑監督のTV時代劇、木枯らし紋次郎を観た。当時、高校のクラス内でもこの番組は話題になっていたので覗いてみたという感じである。
 ところがオープニングの映像を見てハッとした。それは昼間、山北周辺の山を歩いて見てきた景色が重なったからである。
 このオープニングは今でもYoutubeで観ることができるが、名シーンではないだろうか?
小室等の作曲になるギターのイントロも好ましく、上条恒彦が歌う、”いくつ峠を越えた?” というフレーズとも重なるように、股旅人が振り返ると自分が登って来た峠道が俯瞰できるというシーンである。
 自分はこのシーンを見たいために山歩きを続けるようになったのかもしれない。そしてこのシーンに出て来るカットはなんとなく8年前の東京オリンピック記録映画を思い起こさせたのであった。

 そして同じ年に観たのがピーター・フォンダ監督・主演の西部劇 "さすらいのカウボーイ" 原題 "The Hired Hand" のTV放映であった。
2007年に手に入れたDVDのメーキング編によると、当時のテレビ放映版はピーター自身が関与しておらず、ディレクターズ・カットを残しておきたかったそうで上映時のカットに再編集を試みたとのこと。
 1972年のテレビ放映は殆ど記憶に無かったのだがこのDVDを観てみると、どこか木枯らし紋次郎のカットが重なってくるのであった。メーキング編でピーター本人が語るには、当時来日した際に市川崑監督から、”君は女性の撮り方が判っているようだね(自分はまだ判らない)” と感想を聞かされたとのこと。
やはり、ピーター自身も市川作品は観ていたようである。

 市川崑は翌1973年、木枯らし紋次郎に続いて映画、”股旅” を撮っている。3人の若く未熟な渡世人が旅をするストーリーは3人の男が夢のカリフォルニアを目指して旅する "さすらいのカウボーイ" と通じるところがある。
市川崑の脳裏には少なからずピーター作品があったのかもしれない。

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