2011.2.20
さすらいの代償:映画 イージー・ライダー 〜 さすらいのカウボーイの情景

 このふたつの映画は今でも時々DVDで観る。いずれも中学2年の終わりから高校2年頃に散々お世話になった作品である。その後も、観た時の自分の年齢に応じて ”そういう見方もできるか?” と、いつも自分の人生を振り返らせてくれた大切な作品なのである。そろそろ感想を書き留めてみる時期かなと思った次第である。

 いずれもピーター・フォンダが主演し、”さすらいの” は監督まで務めているのだが、どちらも脚本にも深く関わっているそうだ。共通点を探してみれば ”さすらいの代償” というところだろうか。そして主人公の立場が本人の意思の外でどんどん悪い方向に追いやられてゆくところだ。
 冒頭から ”いやな予感” のシーンが用意されている。前者はバイク旅行の最初の夜にモーテルで宿泊を拒否されるシーンと、後者は川を流れてゆく少女の死体と遭遇するシーンである。
”イージー・ライダー” で描かれているのは、アメリカの開拓精神が人々を西へ西へ向かわせる原動力になったのだが、舞台の時代となった60年代末では西の果てであるカリフォルニアから東へ向かう若者の姿である。目的はルイジアナで行われるマルディグラ=謝肉祭見物なのだが、東へ戻るほど彼らの存在が否定されてゆく。モーテルの主人に追い返された翌日にたどり着いたのは恐らくアリゾナの片田舎の農家である。昼食を勧められて庭で子沢山の家族と一緒に食べるシーンがこの映画で ”ほっと” する唯一の場所である。農家の主人の ”自分もカリフォルニアに憧れてやってきたがここ(アリゾナ州はカリフォルニア州の東隣)に居るってわけさ” というセリフに対して主人公は ”土地に根を張って生きるのは誇らしいことだ” と応えている。大麻取引で大金を得て当時カリフォルニアで流行のチョッパーバイクでマルディグラへ物見遊山というイージーな若者像なのだが、主人公は根っこでは堅気の持ち主なのかもしれない。
 この堅気っけが次作の ”さすらいの” の主人公の動機に直結しているのである。主人公は結婚して農家を始めたものの(場所は恐らくはニューメキシコあたりか?)、一生ここで汗水流して暮らすのか?と思ったのだろうか、妻子を置いて同じような境遇のふたりの男達と ”夢のカリフォルニア” を目指して ”さすらいの旅” に出てしまう。しかしながら7年間の ”さすらい” に終止符を打って家に戻る選択をする。
ふたつの映画の主人公はいずれも帰る場所があるという設定になっているのである。しかしながらいずれも結末は ”帰れない” ということになる。それは自分の蒔いた種によって自分の意志ではなく、他人との関わり合いの中でどんどん危険な状況に追い込まれてゆくのである。”イージー・ライダー”では開拓精神は自己防衛のための ”ならず者排斥” に姿を変え、”さすらいの” では逆に ”ならず者” の罠にはまってしまう。
 ”イージー・ライダー”では途中で合流した飲んだくれ弁護士(ジャック・ニコルソンの当り役)と3人で野宿しているところを南部の人達から襲われる。南部の人達は主人公と相棒(この映画の監督を努めたデニス・ホッパー)には軽傷を負わせ、弁護士だけを殺す。こうすることによって主人公と相棒は弁護士を殺害した逃亡者に仕立てられてしまう。最後のシーンで主人公達は南部の人達からショットガンで吹き飛ばされて終わるのだが、そうした結末でなくとも、ルイジアナ州に足を踏み入れた時点で主人公達には既に行き場が無くなっていたのである。
 ”さすらいの” では、一度は家に戻ったものの、”夢のカリフォルニア” へ旅立った相棒が自分の蒔いた種によってならず者に捕われたことを知って助けにゆく。まるで ”走れメロス” のような設定なのだが、結局ならず者とのガンファイトで命を落とす。 仮に相棒を助けに行かなかったとしても、ならず者はいつかやって来て主人公の命を狙ったであろう。

 ”イージー・ライダー” は60年代末にアメリカが抱えていた自己矛盾を描いていると思うし、”さすらいの” は男の友情や女性(主人公の妻)の視点を交えて西部劇の様式で描いた大人の寓話と感じていた。
今回は、善人がどうにもならない状況に追いつめられる様が怖いと感じた次第である。
いずれの映画も旅の過程の美しいアメリカの原野の映像が救いである。初めてこれらの映画を観てからおよそ40年後の感想である。

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