2010.11.7
珈琲を煎れる その1

 自分は珈琲よりは紅茶党であった。珈琲を良く飲んだのは学生時代に休講になった時に入る喫茶店だったが、嫌いではないのだがこれは旨いという思いをしたことがなかったのである。もしメニューに紅茶か昆布茶があればそちらをよく頼んでいた。
最近は秋〜冬の食後は紅茶と決まっていたのだが、相方に「珈琲豆を挽くのを手伝ってみない?」と聞かれたので、「手で挽くと美味しいの?」と聞いたら、「試してみれば?」とのこと。珈琲挽きの機械が面白そうなのでやってみる事にした。
なんでも相方が若い頃に誕生日のプレゼントにもらったものだそうで、がっしりとした鋳物の胴体にマルーン色が渋い。珈琲豆を入れてハンドルをぐるぐる回すだけなのだが、相方の説明によると電動式の機械は早くて便利だがグラインダーが熱を帯びて豆の風味が損なわれてしまう。手でぐるぐる回すと熱の心配がないとのこと。 やはり旨いものを手に入れるのはじっくり時間をかけないといけないということか。
で、ぐるぐる回してみるといろいろなことが判ってきた。 鋳物製のハンドルの模様が美しい。静止しているときはそれほどでもないが、ぐるぐる廻り出すとこれが美しく見えるのである。このハンドルの模様を考案した人はそういう効果を考えていたのだろうか? 現代ではぐるぐる廻る機械は珍しくもなんともないが、近代工業の黎明期にはもの珍しかったのではないだろうか?手を触れると危険なので廻っていることが良く判るように考えたのだろうか?掻き氷のあのぐるぐる廻るハンドルを思い出した。現代はなんでも目にもとまらぬ勢いで回転しているがゆっくり廻ることの面白さを再認識した次第である。
 次に気になったのは、そのハンドルは中心が僅かにズレていて、フレながら廻るのである。輪っかの中心にドリルで穴を開けてあるだけで、外周は旋盤加工をしていないので鋳物の微妙な型ズレをそのまま許容しているらしい。現代工業製品の常識から言ったら不良品だが、これはゆっくり廻るから許されるのだろうか?いや、却ってゆっくりフレながら廻っているのを見ているとなぜか心が休まる。ターンテーブルの上で廻るレコード盤の僅かな偏芯やソリが無性に懐かしくなってきた。
そして、珈琲豆がグラインドされてゴロゴロシャリシャリという音と手に伝わる反動のリズムもフレている。
私は大きな発見をしたのである。そう、ゆらいでいるのである。人間の肉体のゆらぎを伴って廻すリズムと珈琲豆が挽かれる時の硬軟のゆらぎが相まって、なんとも言えない心地なのである。昼間に起きた面倒くさい雑事や新聞の紙面を賑わすニュースのことなど奇麗さっぱり飛んでいって無心になれるのである。これは書道の硯で墨を摺る過程と同じではないか!半紙に筆を降ろすまえにこころを鎮める、それである。
もしこの珈琲豆挽きが習慣になってしまったら、相方から「今日の音はいつもと違うは。仕事が上手くいかなかったんでしょ?」などとこころの内側を悟られてしまうかもしれない。そうか、お茶を煎れるとか珈琲を煎れるということはそういう事だったのか。あまりにも普段の生活のスピードのなかで大切なものを見過ごしてきたことを実感した次第である。
 なにか面白くなってきて、豆を入れる蓋を開けて豆がグライダーにゆっくり引き込まれてゆくのを見ながら子供のようにぐるぐるハンドルを廻してしまった。
やっと豆が挽き終わったと思ったら、今度はペーパーの中に粉を入れてゆっくりお湯を注ぎ、ドリップというものを初めてやってみた。なるほど珈琲を煎れるとはこんなに時間が掛かるものだったのだ。豆を挽き始めてから20分は経過しただろうか。マグカップに注いで口元に運んでみる。とても深い香りが立ち込めている。ゆっくり飲んでみると、なんという芳醇な味。珈琲ってこんなに旨い飲み物だったのか!
「自分で煎れたものはなんでも旨いものよ」と相方の弁。いやそれもあるかもしれないが、自分は物理的に何かが確かに違うと確信したのであった。やはりこれはゆらぎの恩恵ではないだろうか?
珈琲の道も奥が深そうだ。

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