2007.5.20
奇跡のゆらぎ方

 5月の空は秋の空に似て澄んでいる。特に早朝の空は真っ青で風もなく、木々の新緑とのコントラストが鮮やかである。この鮮やかさは早起きしないと満喫することは叶わない。しかし高気圧に覆われていてもこれが朝9時ぐらいになると真っ青がすこし鈍りはじめ、うっすら雲が出始める。お昼過ぎになると雲は流れるようになり、夕方になって陽が沈みかけると再び雲が引いて真っ青な色が戻り、夕焼けの青紫となって最後は色を失う。
一日の中で空の色も、雲の流れも、風もゆらいでいることを感じる。早朝からだんだん空の色が変わり、雲が出て、風が吹きだすのは、太陽が昇って大地が太陽の熱を受けるからである。そこに上昇気流が生じ、海や川の水面や山や森から水蒸気が立ち昇って、上空で雲となるからである。大気がざわめくと言ったらよいだろうか? もし、大気も水もない星だったら太陽の陽を浴びてもなにも起こらないであろう。おまけに地軸が少し傾いていることで四季が生じる。やはり地球という星は奇跡の星であると思わざるを得ない。このように空の色も雲の流れも風もゆらいでいる中で暮らせることはなんと有り難いことだろうか。

 ゆらぎとは少し言い方を変えると変化があるということである。我々人間・生物はそうしたゆらぎ=変化の中に存在しているという事である。物事の状態が変化していくとき、僅かな変化や緩やかな変化には気づきにくい。ある程度を超えないと五感には働きかけない。早朝の真っ青な空を眺めていると、ただ青の奇麗さだけだが、時間が経ってそこに雲が流れてくるとその形が変わっていく様は面白い。人の形に見えたり、動物の形に見えたり、アイスクリームに見えたり、連想が伴ってくる。ただし、そこにはなにか意図を見いだすことはできないし、次はどんな形になるのかという予測もしずらい。
1964年10月10日の昼下がり、日本晴れの東京の上空に五色の大きな輪が見えた。小学校3年生だった自分も見たが、国民の誰もが実物を見たりテレビに釘付けになった。東京オリンピックの開会式で自衛隊の5機のジェット機が描いた五輪である。ここまでくると意図ははっきり判るし、もう感動の域である。風に吹かれて細く鮮明だった輪が次第にぼやけてにじみ、薄れてしまいには跡形も無く消えてしまった。そうなることは予測もできる。このように変化もある域を超えると意図を伴い、感動を呼ぶようになる。高校野球でもスタンドの群衆の一人一人が違った色のボードを頭上に掲げてモザイク状の"人絵"が登場したり、それが動いたりすると「お〜〜」という感嘆の域である。

 さて、なにかの意図をもって変化をつけることで、点や線が情報を伝える文字になったり、それを巧みに構築してゆくと心を揺さぶる小説になったり、書道や絵画になったりするわけである。要は、ゆらぎ方に応じて雲のようになんの意味も持たない形から文字や記号を経て文学や美術にまでなりうるということである。まったくランダムにバラバラに碁石が並んでいても、ある意図を持って並び方を工夫すればそれで人に意思を伝える事も出来るし、感動を与えることもできるわけである。
逆に、人に感動を与えたり、驚嘆させたり、やすらぎを与えるには碁石をどのように置けばよいのだろうか? 音楽の場合は五線紙の上にオタマジャクシをどのように並べればよいのだろうか? どんなに手間暇かけた料理も出す順番を間違えたら台無しだし、味や嗅いも突きつめれば原子・分子の並び方次第である。全く自分の感性を頼りにオタマジャクシを並べるのが音楽家の習性であり、並べ方の法則を追い求めるのが科学者の習性と言えようか。視覚にこだわる画家も、味覚にこだわる調理師も、嗅覚にこだわる調香師も、肌触りにこだわる服飾師も、みんなゆらぎの具合に思い悩んでいるのではないだろうか?
もし悩み疲れたら、外へ出て空を見上げて雲を見てみよう。風に吹かれてみよう。草の匂いを嗅いでみよう。川の水音を聴いてみよう。それは決して無駄な行為ではないことが判るはずだ。この太陽系、地球ならではの奇跡のゆらぎ方に感謝。

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