第二十六 御神楽事
そもそも刧初の人は、姿形が美しく、身に光明を帯び、天に登ることも自在で、快楽は思いのままであった。 寿命は一千歳で、身長は一千尺、或いは二千尺であった。 その後、物を食すようになり、身の光明も次第に衰えた。 天下は暗闇になった為、日月が現れた。 田主もこれから始まり、終に天子を定めて主上とした。 鳳輦や輿などもこれに随って始まった。 民主王から浄飯王まで八万四千二百十人の人王が現れた。日本国では、地神二代までは年月も定まらなかった。 地神三代の天津彦根尊の御時、年月や居所が定まった。 三十一万八千五百四十三年である。 彦火火出見尊は六十三万七千八百九十二年である。 その次の鵜羽葺不合尊は八十三万六千四十二年である。 神武天皇元年〈辛酉〉年から今の文和三年〈甲午〉年まで二千四十七年である。
崇神天皇の御時、日本の諸国に一宮を建て、殊に神祇を崇めた。 神道・行幸・神輿・神駕の事などはこの御時に始まった。 この儀式は八十余代、年序は一千四百四十余年になる。 これは人代の儀式である。
聊かでも絵馬を奉納し、僅かでも幣帛を供え、散供を撒けば、神は深く喜ばれる。 ましてや、金銀を以て御輿を飾り、珠玉を以て鳳輦を飾れば、神はどれだけ喜ばれるだろうか。 現世における栄楽、後生善処の願望が叶うことは疑い無い。
そもそも神楽とは、「
第一の「茅葉屋経」とは、天照太神が天下った時、素盞烏尊が悪神で国中に障碍を成した。 天照太神は天岩戸を閉じて出て来なかった。 故に面足尊と太玉尊が相談し、天芳山(天香具山)の金を入手し、忌部尊が一尺三寸の鏡を鋳た。 その鏡には痾が有ったので捨てた。 日前明神というのはこの鏡である。 「日の前」と書くのは、天照太神の前という事である。 後にまた鋳た鏡には痾が無かったので、これを用いた。 常葉の木の根を抜いて、これを天岩戸の前に立て、赤・白・青の三幣を立てた。 中の枝には鏡を懸け、下の枝には赤幣を立て、上の枝には青幣を立てた。 上に青幣を立てる事は、天を表す。 その次に白幣を立てる事は、月神を表す。 その次に赤幣を立てる事は、日光が天下を照らす事を表す。 この鏡は、今の内侍所である。 常葉の木は、今の榊であり、即ち「神の木」と書く。
天岩戸の前で庭火を焚き、八百万の神々が集まり神楽を行い、天照太神は天岩戸を細めに開いてこれを見た。 すると、天照太神の御姿が鏡に写って耀いた。 その時に八百万の神々はこれを見て、「あな面白し」という言葉は、これから始まった。 天照太神は天岩戸から出なかったが、手力雄神が天岩戸を押し開き、天照太神を押し出した。 その時、世守神が七五三(注連縄)を天岩戸の前に引き、今後は入れないようにした。 今の世に十一月に七五三を引く事は、この時に始まった。
垂仁天皇の時、天照太神を伊勢国度会郡に始めて祀った。 社殿を茅の葉で葺き、その後に年月を経たので、「茅葉屋経」と云う。 崇神天皇の時、諸国に神を祀り、その社殿をみな茅の葉で葺いた。
第二の「岩破」とは「千石破」と同一で、天岩戸を押し破ると云う事である。
第三の「山破」とは、天手力雄神の事である。 春日宮の御前に東向に祀られた小社がこれである。
第四の「茅葉振」とは、天岩戸の前で八百万の神々が庭火を焚き、神楽を行った事である。 その時に色々な茅の葉を手に捧げ、鈴を副えて舞った。 これを「多種振」と云う。 また、茅の葉で蓑を作り、それを着て舞った。 これを今の世に「茅葉蓑」と云う。
第五の「千鉾振」とは、天岩戸が開かれた時、素盞烏尊に対して八百万の神々が千の鉾を立てて振った事である。 古撰集の歌には
我舞は天の逆鉾立ておきて 祈る祈りも叶はざりけり
とある。 神楽の由来の概略はこのようなものである。
問、賀茂・伊勢の本地は大日・観音と云う。 もしそうなら、社頭で仏法の名を忌む事は、何を以て知り得るのか。
答、斎院・斎宮では殊に三宝の名を忌み、その名を云わず、僧を「髪長」、経を「染紙」と云う。 仏法将来後、我が朝は僅かに七百余年である。 社頭の儀式礼法は古例を作り替える事を悪事とするので、賀茂明神の斎院や伊勢太神宮の斎宮の儀式は昔通りにするのである。
また、ある伝えによると、第六天魔王との約束が有ると云い、天照太神は仏法を用いず、日本国では皆仏法を用いない。 表向きはそうしているが、実は大権の垂迹なので、どうして(仏法に)背くだろうか。 聖武天皇の東大寺大仏は度々冶鋳したが完成せず、勅使を以て天照太神・八幡大菩薩を請し奉って成就したと申し伝える。
また、賀茂大明神の御託宣に「我は仏法に背かず、囲垣を以て卒塔婆とする」と云う。 誠に忝いことである。
慈覚大師は如法経の守護神として三十神を勧請された。 これには日本国中の神々が入り、賀茂・伊勢もその中に入っている。
問、神道が仏法を貴ぶ事は、何を以て証拠とするのか。
答、高座天王・法宿菩薩は伝教大師・修山大師と契約された。 正八幡・宇佐宮は法蓮和尚・行教和尚を尊び給うた。 弘法大師は高野丹生明神、慈覚大師は赤山大明神・摩多羅神、役行者は象王権現・熊野証誠殿、徳一大師は筑波権現、万巻上人は筥根権現、賢安大徳は走湯権現、法全沙門は三嶋大明神、能除大師は羽黒権現、勝道上人は日光権現、慈興上人は立山権現、法相守護は春日四所大明神、一乗守護は日吉山王権現等、これらは皆神道が仏法を喜び、神明が三宝を敬う明証である。
問、諸社・諸神の御祭営に神楽を用いるが、その事は何の効が有るのか。
答、和光同塵は与物結縁の為である。 多くの人が参詣し、参集する輩は限りない。 一度社壇の瑞垣に望めば、八相成道の末まで見捨てないと誓うのが、和光同塵の習いである。
昔、小松天皇(光孝天皇)には四十一人の御子が有り、多くは源氏の姓を賜った。 その中で第三の御子は姿形も御心も有り難い事と聞く。 (陽成天皇の)拾遺・侍従で、御狩を好んでいた。 賀茂の里で鷹狩りをしていた時、俄かに霧が深くなり、東西も見えなくなった。 そこに一人の見知らぬ翁が来て、物語を聞かせた。 世の常の翁とは見えないので、何者かと問うと、「この辺に侍る翁である。春は祭が有るが、冬は厳しく徒然なるので、祭を賜りたい」と告げた。 賀茂明神であると判ったので、「私自身の力で叶えるのは難しい。帝に申すべきです」と返事をした。 翁は「祭を賜わるなら、力の及ぶ限りの事を計らいます」と告げて姿を消した。
三年後の仁和四年八月二十六日、二十一歳の時に俄かに春宮(皇太子)に立たれ、同日に即位された。 亭子院宇多天皇である。 その翌年、寛平元年十一月二十一日に賀茂臨時祭が始まった。 勅使は藤原時平である。 この時に始めて藤原敏行が天津遊の歌を詠んだ。
ちはやぶる賀茂の祭の姫小松 万つ代までも色はかはらじこの歌は『古今和歌集』第二十巻に有る。
そもそも放生会は、嵯峨天皇の御宇の弘仁十年八月十五日に男山で始まった。 四十一年後、貞観元年の春にこれを渡し奉った。 清和天皇の御宇である。
また、天慶五年四月二十七日に石清水臨時祭が始まった。 この時に紀貫之が東遊の歌を詠んだ。
松しをひ又も苔むす石清水 水行くすゑはいつこ祭らん八幡大菩薩は歓喜してこれを納受された。
問、神明が詠歌を納受されるのは、どう心得るべきか。
答、和歌は我朝の風習で、神社・仏陀・人間・鬼霊は皆これを用いる。 神は歌を詠み、人も歌を詠んで奉る。
問、この義は何により知られるのか。
答、神代にこの風習は始まった。 素盞烏尊が出雲国に入って、稲田姫を八重垣の内に住まわせた時、八色の雲が立ったので、尊は御歌を詠まれた。
八雲立つ出雲八重垣妻こめて 八重垣造る其の八重垣をまた、豊玉姫と彦火々出見尊は陰陽(夫婦)であった。 豊玉姫は彦火々出見尊にまみえた時、歌を詠んで陽神に奉った。
赤玉の光はありと人はいふ 君が恋しきみことなりけり彦火々出見尊はこれを見て御返歌された。
沖つ鳥鴨ふく嶋に我が率寝し 雲はわかすに世の中をしもこの豊玉姫は摩那斯龍王の娘である。 『法華経』の同聴衆の中の第七番目の龍王である。 「天津孫には海童の姫」と『古今和歌集』に在るのは、即ち此の事である。
神明が歌を詠まれる例は多い。 『伊勢物語』によると、奈良の帝(平城天皇)の御代に住吉に御幸された時、
我見ても久しくなりぬ住吉の 岸の姫松いくよ経ぬらんと歌を詠まれると、明神が顕れて御返事の歌を詠まれた。
むつましと君はしらじな瑞垣の 久しき代より思ひそめてき賀茂明神は
又雲分けて登る計りつ住吉明神は
片曾木の行あひのま遠し宇佐八幡は
世の中のうさには神もなき物を春日明神は
今ぞ栄へん北の藤波熊野権現は
我思う人に忍はん暁月よ白山権現は
十廻りは栄へん松の花やと詠まれた。
良峯衆樹は延喜十三年頃に石清水八幡に参詣した。 御前の橘が半ば枯れていたので、その下に立ち寄り、
ちはやふる御前の前の橘も 諸木と共に老いにけるかなと詠んだ。 大菩薩は哀れと思われ、橘は緑に返り、天気(天子の御気色)も目出度くなった。
和泉式部は藤原保昌に忘れられた事を歎いた頃、貴船明神に七日間参籠して、
物思へは沢の蛍も我が身より あくがれいづる玉かとぞみると詠んだ。 夢の中で明神が
奥山にたぎりて落る滝つ瀬の 玉ちる計り物な思ひそと御返歌を詠まれると、(和泉式部の願いは)忽ち成就して(藤原保昌は)元の心と成った。
左京大輔顕輔卿が心に深く祈念することが有って日吉社へ参詣した時、加賀の守護だった時に白山に参詣した事を思い出し、
年経とこしの白山忘れずば かしらの雪も哀れとも見よと詠むと、神は哀れと思われ、顕輔卿が祈念した事を叶えた。
慈鎮和尚は「山王三聖四社は三如来四菩薩であり、和光同塵の約束は八相成道の行末まで救う事である」という思いで歌を詠んだ、
我馮む七の社の玉襷 かけても六の道にかへすなまた同じ頃、和尚は二宮地霊権現に詠み奉った。
和らくを影は麓に曇りなき 本の光りは峯に住めとも
待賢門院の御内で物の紛失が有った時、疑われた女房が七日間の暇を取り、北野天神に参籠して起請し、
思きやなきなたつ身は憂かりきと 荒人神となりし昔はと歌を奉った。 神の利生により、敷嶋という雑仕が盗んだ物を自ら持ち、鳥羽院の御前に名乗り出た。
信尊法眼は仁治二年頃に八幡大菩薩に参詣した。 念仏について三心の意義を不審に思って祈請すると、(八幡大菩薩が)示現した御歌には
極楽へ行んと思ふ心にて 南無阿弥陀仏と云ふそ三心と有り、三心の意義を思い定められた。
高倉御息所が熊野に参詣された時、藤代という処で月水が始まった事を歎かれ、
本よりも五重の雲の厚ければ 月の障となるぞ悲しきと詠んで寝ると、(熊野権現が)枕の上に老僧の姿を顕して、
天下り塵に交る我なれば 月の障はなにか苦しきと御返歌が有り、月水が止まって事無く参詣出来た。
『和歌抄』によると、白河院・待賢門院の御両所が、市阿波という巫女を召した。 巫女の占いはどのような物かと、銀の壺に乳を入れ、これを物に入れて蓋をし、巫女の前に差し出した。 しばらくして、
という歌を出したので、巫女の占いは勇ましき事であると思し召し、多くの銀を賜った。銀 の壺を並べて水汲めば 蓋して難く見るべくもなし
諏方大明神の贄として鹿・鳥を供える事について、良観上人は不審に思って参籠された。 その夜の示現には
野辺に住む獣我に縁無くば 憂かりし闇になほ迷はしむと有ったので、その後は不審が無くなった。 この人は越後国の出湯の長老である。
浄蔵貴所は賀茂明神の本地を不審に思い、祈念したが叶わなかった処、御託宣の歌が有った。
補陀落の跡をは塵に交つゝ 同じ奈落の苦にぞ落けるこれにより、賀茂明神の本地は観音と知れたのである。
神明が我が国に遊ばれ給うに、悉く和歌を以て喜び給う事は、以上の通りである。