『神道集』の神々

第五 御正体事

そもそも御正体とは、内侍所である。 内侍所は御正体である。 この御正体は明鏡で、その明るさは虚空のようである。 鏡は即ち万法の影を浮かべ、また諸法の形を写す。 その故に真言の五智十識も鏡である。 顕教の四智三身も鏡である。 往生浄土の教門も同様である。 七重の宝樹・宝蓋、一切の仏事、十方の浄土も此の中に化現する。 観音の己身の光も、五道衆生の一切の姿も此の中に化現する。 故に天親菩薩の『往生論』に「浄光明満足、如鏡日月輪」と云う。 帝釈天王の喜見城には浄頗梨鏡が有り、一切衆生の善悪二業の影を映す。 秦の始皇帝の百練鏡は、才人を並べて、『孝経』などを注す。 仁徳天皇の鷹手抜の野守の鏡は玉を映す。

我が朝の神明の御正体は、先蹤は誠に忝くも天照太神の豊明益鏡で、今の内侍所である。 八幡大菩薩の戒定の霊鏡は、今の石体権現の御正体である。 熊野三所権現は、神武天皇四十二年、大海原(大斎原)に櫟が三本有り、三本の枝に明月の形で天下った。 日本の古例はこのような物である。

御正体とは月輪である。 御正体の鏡が円形であるのは月による。 また、月が円形であるのは鏡による。 表裏円満の理を顕し、悲智浄清の所詮を示す。 円満にして清潔である。 この義の故に御正体とする。 世間出世の一切を知る事は即ち明鏡の義である。 円融八万十二分教は出世の明鏡である。 外抄の一万三千巻は世間の明鏡である。

また、仏心は円明である。 『菩提心正論』には「仏心如満月」と云う。 また仏智円明の義である。 『心地観経』には「四智円明受法楽」と云う。 大円鏡智は自受用身土を映し見る深奥義の明鏡である。 平等性智は他受用身土を映し見る明鏡である。 妙観察智は三身の明鏡である。 成所作智は応化身土を映し見る明鏡である。 大円鏡智は殊に仏智明鏡の誠証である。 第八阿頼耶識が転じて大円鏡智と成る。 また、不動智とも云う。 本不生不可得不生不滅の智であり、法身盧舎那仏の智である。 東方阿閦仏の智である。 また、南方宝生如来の智である。 この智の形は円鏡である。 この智の体を懸けるのが御正体である。
『唯識論』巻十にはこの智を判じて「大円鏡智相応品離諸分明云、所縁形相微細雖知、性相清浄、諸雑染離、純浄円徳、現形種子、々々能現、能身土断生、未来際窮、如大円鏡、諸色像現」と云う。 およそ一切の影は万物の形であり、鏡面に映らないと云う事は無く、「諸雑染離」と云う。 災難疫神の影を映してはならず、能生の福寿慶幸と云って、鏡影一つに浮かぶ故、「未来際窮」と云う。 八相成道を以て利物の終わりとする。 「無間無断」と云い、和光同塵の利益を間断することは出来ない。

内侍所

参照: 「神道由来之事」内侍所

「豊明益鏡」の語義は不詳だが、八咫鏡を指すと思われる。 「鏡宮事」では「天岩戸の益鏡」という言い方が見られる。

浄頗梨鏡(浄玻璃鏡)

業鏡とも呼ばれる。 通説では喜見城ではなく地獄の閻魔王庁に有る。
『望月仏教大辞典』の業鏡の項[LINK]には、
「業を現ずる鏡の意。又業鏡輪とも名づく。即ち冥途に於て罪人の業を影現せしむる鏡を云ふ。〈中略〉地蔵菩薩発心因縁十王経には「然るに復た八方に囲んで方毎に業鏡を懸く。一切衆生の共業増上の鏡なり。時に閻魔王、同生神の簿と人頭の見と、亡人策髪して右繞して見せしむ。即ち鏡中に於て前生所作の善悪を現ず。一切の諸業各形像を現ずること、猶ほ人に対し面の眼耳を見るが如し。爾の時、同生神、座よりして起つて合掌して仏に向ひ、是の偈を説きて言はく。我れ閻浮にて見しが如く、今現に業鏡と毫末も差別なく、質影同一の相なりと。爾の時、亡人驚悸心に逼り、頌して曰はく、前に業鏡有りと知らば、敢て罪業を造らず。鏡を鑑るに身を削るが如し。何ぞ此に男女を知らん」と云へる是れなり」
とある。

始皇帝の百練鏡

始皇帝の鏡(照胆鏡)を指すか。
葛洪『西京雑記』巻第三には、
「高祖(劉邦)、初めて咸陽宮に入り、庫府を周行す。 〈中略〉方鏡有り、広さ四尺、高さ五尺九寸、表裏に明有り、人直ちに来れば之を照し、影は則ち倒に見ゆ、手を以て心を捫し来たれば、則ち腸胃五臓を見る、歴然として礙ぎるものなし。人の疾病の内に在る有れば、則ち心を掩ひて之れを照らさば、則ち病の在る所を知る。又女子に邪心有らば、則ち膽張り心動ず。秦始皇常に以て宮人を照らし、膽張り心動ずる者あらば、則ち之れを殺す」
とある。

野守の鏡

『新古今和歌集』巻第十五(恋歌五)[LINK]に「はし鷹の野守の鏡えてしがな 思ひ思はずよそながら見む」を載せる。

藤原清輔『奧義抄』[LINK]には、
「野守鏡とは野なる水を云ふ也。昔雄略天皇狩して、御鷹の失せにければ、野守を召してたづねてまゐらせよと仰せられけるに、かしこまりて地をまぼらへて、御鷹の在処を申しければ、地をまぼりていかでかくは申すぞと問はれければ、前なる山水を指してこの水に映りて見え侍りと申しければ、それより云ひ始めたる也。或説に野守の鏡は徐君が鏡なりとも申す。その鏡は人の心の内を照らす鏡なり。但、それにては「はし鷹の野守の鏡」と云ふべき故なし」
(引用文は一部を漢字に改めた)とある。

源俊頼『俊頼髓脳』[LINK]には天智天皇の鷹狩の時の逸話とするが、仁徳天皇とする説は管見の限り他に見ない。 『日本書紀』巻第十一の仁徳天皇四十三年[355]九月条[LINK]に「是の月に甫めて鷹甘部を定む」とある事を混同したものか。

石体権現

参照: 「宇佐八幡宮事」石体権現

「八幡大菩薩の戒定の霊鏡」は不詳。 承久三年[1221]に御許山の大石が割れて顕れた御正体を指すか。

熊野三所権現

参照: 「熊野権現事」

『往生論』

天親菩薩造・菩提流支訳『無量寿経優婆提舎願生偈』[LINK]には、
「浄光明満足 如鏡日月輪(浄光明満足すること、鏡と日月輪との如し)」
と偈を説く。

『菩提心正論』

龍猛菩薩造・不空訳『金剛頂瑜伽中発阿耨多羅三藐三菩提心論』[LINK]には、
「凡人心如合蓮華、仏心如満月(凡人の心は合蓮華の如く、仏の心は満月の如し)
と説く。

『心地観経』

般若訳『大乗本生心地観経』巻第三(報恩品之下)[LINK]には、
「自受用身諸相好、一一遍満十方刹、四智円明受法楽、雖偏法界無障礙、如是妙境不思議、是身常住報仏土、自受法楽無間断(自受用身の諸の相好は、一一十方刹に遍満す、四智円明にして法楽を受け、前仏後仏体皆同じ、法界に偏ねしと雖も障礙無し、是の如きの妙境は不思議なり、是の身常に報仏の土に住し、自受の法楽は間断あること無し)」
と説く。

『唯識論』

護法等菩薩造・玄奘訳『成唯識論』巻第十[LINK]には、
「大円鏡智相応心品、謂此心離諸分別、所縁行相微細難知、不忘不愚一切境相性、性相清浄、離諸雑染、純浄円徳、現種依持、能現能生身土智影、無間無断窮未来際、如大円鏡現衆色像分別(大円鏡智相応の心品、謂はく、此の心品は諸の分別を離れたり、所縁も行相も微細にして知り難し、一切の境相に忘ならず愚ならず、性も相も清浄なり、諸の雑染を離れたり、純と浄と円との徳あり、現と種との依持たり、能身と土と智との影を能く現じ能く生ず、間無く断無くして未来際を窮む、大円鏡に衆色の像を現ずるが如し)」
と説く。