『神道集』の神々

第七 二所権現事

二所権現は天竺の斯羅奈国の大臣・源中将尹統の姫君たちである。
中将は財産には不自由が無かったが、子宝には恵まれなかった。 夫婦で観音菩薩に参詣して子授けを祈願した。 七日目の満願の夜、夢に観音が示現し、水晶の玉を左の袂に入れた。 まもなく、北の方は懐妊し、美しい姫君を生んだ。 法華経如来寿量品に因んで、常在御前と名付けた。
常在御前が五歳になった時、北の方が亡くなった。 常在御前が七歳になった時、中将は隣国の姫君を後妻に迎えた。 新しい北の方も懐妊し、姫君が生まれた。 常在御前の妹なので霊鷲御前と名付けた。
常在御前が十六歳、霊鷲御前が九歳になった時、父中将は三年間の大番に当たって都に上った。 父中将は常在御前に唐鏡と蒔絵の手箱を贈った。 これを見た継母は自分たちが蔑ろにされていると思い、常在御前を殺そうと企てた。 継母は十人の漁師に頼んで常在御前を塩引島に流したが、地蔵菩薩と観音菩薩の憐れみにより常在御前は乳母の許に帰る事が出来た。 次に、継母は常在御前を土牢に幽閉したが、霊鷲御前がそっと食物を運んだので、三年経っても無事だった。
継母は常在御前を旦特山の麓に連れて行き、千本の剣を底に立てた深い穴に突き落して殺そうとした。 霊鷲御前は常在御前にそっと小刀と木端を渡した。 常在御前は小刀で木端を削りながら旦特山に連れられて、そこで穴に突き落とされた。 霊鷲御前は削り屑を辿って常在御前の跡を追いかけて旦特山までやって来た。
その頃、旦特山で巻狩をしていた波羅奈国の二人の王子が、霊鷲御前の泣き声を聞きつけてやって来た。 事情を聞いた太郎王子は穴に入り、常在御前を救出した。 穴の底の剣は常在御前の母君がもぐらになって抜き捨てていた。 王子たちは姫君を波羅奈国に連れ帰り、太郎王子は常在御前を、次郎王子は霊鷲御前を后にした。
父中将が都から帰ると、二人の姫君の姿が見えない。 父中将は出家して波羅奈国を通り、千手観音に祈願し法華経を読誦した。 二人の姫は中将入道が自我偈の「常在霊鷲」を繰り返し読む声に気付き、ついに父娘の面会が適った。
中将入道が斯羅奈国に帰ってみると、北の方は五丈くらいの大蛇の姿になっていた。 これを見た中将入道は財産を船に積んで波羅奈国に移り住んだ。
大蛇になった北の方が中将入道を追って来るという噂が波羅奈国に流れた。 中将入道はこれを聞いて日本に渡る事にした。 二人の姫と王子も中将入道に同行して、相模国大磯に到着した。
高礼寺(高麗寺)に一夜滞在した後、中将入道と太郎王子と常在御前は北山の駒形嶽に箱根権現として顕れた。 次郎王子と霊鷲御前は下山の西沢峠に伊豆権現として顕れた。 北の方も中将を追って来たが、次郎王子の呪法により、伊豆・相模の国境で石神と化した。

長い年月が流れ、相模国大早の河上湖の水辺において、万巻上人の苦行の功により三所権現が顕れた。 三人は異形の姿で示現して「われら三人はこの山の主である」と名乗り、「池水清浄浮日月、如意精進来天衆、三人同倶住此所、結縁有情生菩提」と唱えた。
法体の本地は文殊菩薩である。 因位の昔は斯羅那国の源中将尹統入道である。
俗体の本地は弥勒菩薩である。 因位の昔は波羅那国の太郎王子である。
女体の本地は観音菩薩である。 因位の昔は斯羅那国の源中将の姫の常在御前である。
能善権現は守護の山神で八大金剛童子である。 本地は普賢菩薩である。
吉祥駒形は太郎王子の兵士である。 本地は馬頭観音である。
人皇四十六代孝謙天皇の御代、天平宝宇元年二月中旬から当山に社殿が建立され、万民に利益を施している。

伊豆権現の法体の本地は千手観音である。
俗体の本地は無量寿仏である。 因位の昔は波羅那国の次郎王子である。
女体の本地は如意輪観音である。 因位の昔は常在御前の妹の霊鷲御前である。
雷殿八大金剛童子は権現守護の兵士である。 本地は如意輪観音である。
拳童子は権現守護の王子である。 本地は大聖不動明王である。
岩童子は権現給仕の王子である。 本地は弥勒菩薩である。
塔本桜童子は権現所持の王子である。 本地は地蔵菩薩である。
白専女・福専女は当山鎮護の王子である。 本地は普賢菩薩と文殊菩薩である。
洋八人女・床八人女は娑竭羅龍王の娘で、当山擁護の福神である。 本地は胎蔵・金剛界両部の大日如来である。
中堂権現は次郎王子である。 講堂権現は霊鷲御前である。
これらの王子は障碍神と成った源中将の北の方を追い払う神である。
人皇五十四代仁明天皇の御代、承和三年の春に甲斐国八代県の賢安大徳がこの山に来て、清浄覚悟の湯を出された。 それ以来、この山は万民に利益を施している。

箱根権現

箱根神社(神奈川県足柄下郡箱根町元箱根)
祭神は箱根大神(瓊瓊杵尊・彦火火出見尊・木花咲哉姫尊)。
旧・国幣小社。

『筥根山縁起并序』[LINK]によると、孝昭天皇の御宇[B.C.475-B.C.393]、聖占仙人が駒ヶ岳の権扉を開き神仙宮と為した。
崇神天皇の御宇[B.C.97-B.C.30]、利行丈人が第二祖となり、当山が霊域である事を奏上し、天旨により堂宇が創建された。
欽明天皇の御宇[540-571]、高僧が駒ヶ岳に来て、山の形が梵篋に似ている事に因んで箱根山と名付け、般若寺を創建した。
皇極天皇の御宇[642-645]、玄利老人が第三祖となって当山を管轄し、般若寺を東福寺と改称した。
天平宝字元年[757]、万巻上人が箱根山に入峰し、三年間修行した。 ある夜、万巻の夢に比丘形・宰官形・婦女形の三神が現れ、「我らはこの山の旧主、権実応化の垂跡なり」「三身同じく共に此の山に住す。有情に結縁して利益を同じくす」と告げた。 その霊瑞が天聴に達し、勅願により霊廟を建立して箱根三所権現と号した。
その頃、芦ノ湖の西汀の九頭の毒龍が人民を害していた。 万巻が湖に臨んで石台を築き祈祷したところ、毒龍はその姿形を改め、宝珠・錫杖・水瓶を万巻に捧げた。

『新編相模国風土記稿』[LINK]には「祭神三座、瓊瓊杵尊・彦火火出見尊・木花開耶姫尊なり(各木坐像にて、万巻上人の作と云、秘して別当と雖も拝する事なし)。天平宝字元年、万巻上人霊夢の告ありて、勧請する所なり」「本地仏釈迦(木立像、長六尺二寸)、弥陀(同上、長三寸五尺)の二像を置。弥陀の像には、文殊(行基作)、弥勒(玄昉作)、観音(吉備大臣の安置する所と云)の三体を腹籠とす」とある。

吉祥駒形・能善権現

摂社・駒形神社。
祭神は高皇産霊尊・神皇産霊尊で、櫛御毛奴命・鸕鷀草葺不合尊・豊玉比売命・天照大神を配祀。

摂社・高根神社。
祭神は天児屋根命・天太玉命・天宇受売命で、大山祇命・乙橘姫命・誉田別命(応神天皇)・稲倉魂大神・菅原道真朝臣命を配祀。

『新編相模国風土記稿』[LINK]には「駒形能善高根権現合殿 駒形は大磯高麗権現を勧請す。能善は熊野権現。高根は高彦根命を祀る。又聖占仙人、利行丈人、玄利老人の三祖像を置。長寛二年五月、別当行実当社を再興す」とある。

浜田進『箱根神社 ―信仰の歴史と文化―』には、「駒形・能善神は、元来神山・駒ヶ岳に奉斎されていた山神であり、地主神である。 それに習合した仏教思想により、天孫瓊瓊杵尊の祖神・天照大神(大日如来・安穏浄土の毘盧遮那如来と異称した)を始め高皇産霊・神皇産霊神(日本の国土創成神話に出てくる原初の神々)と瓊瓊杵尊の御孫神である鸕鷀草葺不合尊とその母豊玉姫命をまつるのが駒形権現であった。また、高天原の岩戸神話で有名な、天照大神を天の岩屋戸から救出するときに、神事の重要な役割を果たされた天児屋根命、天太玉命、天宇受売命と習合奉祀されたのが能善権現であった」とある。
垂迹本地
箱根権現法体文殊菩薩
男体弥勒菩薩
女体観音菩薩
吉祥駒形馬頭観音
能善権現普賢菩薩

伊豆権現

伊豆山神社(静岡県熱海市伊豆山上野地)
祭神は伊豆山神(正哉吾勝勝速日天忍穂耳尊・拷幡千々姫尊・瓊瓊杵尊、あるいは、火牟須比命・伊邪那伎命・伊邪那美命)。 『倭漢三才図会』[LINK]は瓊瓊杵尊とするが、王辰爾を祭神とする異伝も記す。
式内論社(伊豆国田方郡 火牟須比命神社)。 旧・国幣小社。
『増訂 豆州志稿』[LINK]によると、『伊豆国神階帳』における正一位千眼大菩薩に該当する。

『走湯山縁起』[LINK]によると、応神天皇二年[271]、相模国の唐浜(大磯)に直径三尺余の円鏡が出現した。 ある夜には日輪の様に光を放ち、ある時は琴の音の様な声を発した。 また、ある時は高峰に飛び登って松の枝に掛かり 、ある時は海中に入って海底を照らした。 この二処(山・海)は日金と呼ばれた。
同四年[273]九月、松葉仙人は神鏡を崇め、社殿を造営して霊神を祀った。
仁徳天皇二十七年[339]八月五日、神鏡が忽然と光を放って摂津国高津宮を照らした。 武内宿禰は「神功皇后が三韓征伐された時、高麗国霊沛郡深沙湯に一人の神人が在り、日本に来て国家を鎮護する事を誓約した」と奏上し、勅使が派遣された。 勅使が松葉仙人に子細を尋ねると、仙人は一人の老巫に神託させた。 「我は異域の神人で、日輪の精体である。月氏之境(天竺)において温泉を出して蒼生を済度したので沙訶沙羅と呼ばれた」と託宣が有り、神鏡は飛龍の背に乗って虚空を翔け、山頂の松枝に掛かった。 勅使と仙人らが日金山に登って神鏡を拝し、神の容儀を示さん事を祈ると、老巫は姿を変じて五十余歳の居士の姿を現した。 勅使はその姿を画工に写させ、都に戻って帝に奏聞した。
同御宇己巳年[369]三月四日、松葉仙人は日金山の巌窟で入定し、"開山祖師"・"勧請仙人"と呼ばれた。

仁徳天皇七十一年[383]、日金山の北の峯の大木の洞の中から木生仙人(蘭脱仙人)が現れた。
敏達天皇四年[575]八月三十一日、日金山の坤の黄金の洞窟から金地仙人が現れた。
推古天皇二年[594]、帝が権現の本地の尊容を拝されたいと伊豆国の刺史を遣わされ、金地仙人が祈祷すると神鏡の面に千手観音の尊像が示現した。 刺史はその尊影を図写して奏上し、"東明山広大円満大菩薩"・"走湯大権現"の菩薩号・神号の宣旨を賜った。
文武天皇三年[699]、役優婆塞が霊湯に顕現した千手観音から「無垢霊場、大悲心水、淋浴罪滅、六根清浄」の偈を授かった。
弘仁十年[819]、弘法大師が松岳(岩戸山)の二つの霊窟に神鏡と神体を納めた。
承和三年[836]四月、賢安居士が走湯権現の本迹の霊像を造ろうと祈念すると、夢に異人が現れて「我は走湯権現、本地は千手千眼である。崇め置くべきは新磯浜の側、霊湯の上の山が勝地である」と託宣した。 賢安居士は麻績朝臣を檀主として俗体と本地を彫刻し、宝社を建立して俗体を納め、堂舍に千手観音を安置した。

権現女体の本地は阿弥陀如来である。 権現が日金山の頂上に祀られていた頃、女体宮はその東南に在ったが、日金上から湯浜の上に遷座した時に女体の御祭所も一緒に移した。 よって、古社壇を本宮と号し、現在の御在所を新宮と云う。 応和元年[961]に女体を雷電社に移し、康保二年[965]に本社に還した。
(『真名本 曾我物語』『平家打聞』も、女体の本地を阿弥陀如来とする)

日金山の地下には赤白の二龍が交和し臥している。 この国が生まれる前、海中に法身の印文が有った。 中心は独鈷輪、東は円鏡、南は宝珠、西は蓮花、北は羯磨杵である。 龍の背には円鏡が在り、これは東夷の境所を示現する神鏡である。 また、当山の本地仏である千手観音が鏡面に現している。 円鏡は法身、龍体は報身、千手観音は応身、俗体は化身である。

雷殿八大金剛童子

摂社・雷電社
祭神は火牟須比命荒魂・雷電童子(瓊瓊杵尊)で、伊邪那岐命・伊邪那美命・菅原道真・奧津比古命・奧津比売命・泉津事解之男命・速玉之男命・大海津美命を配祀。
式内論社(伊豆国田方郡 火牟須比命神社)

『走湯山縁起』[LINK]によると、雷電金剛童子は熊野権現の王子である。 延喜五年[905]春に大島の浄浜に降臨し、翌六年に当山に遷座した。

『伊豆山略縁起』によると、祭神は瓊瓊杵尊である。 孝昭天皇四十二年[B.C.434]、温泉中に月の如き霊光を放って顕現したので、月光童子と称された。 その後に新たに神託があり、延喜六年二月十五日、雷電が鳴り山岳が動揺し、社壇の霊石の上に降臨した。

『増訂 豆州志稿』[LINK]は「山上旧址に小祠在りし。又遷して新宮の摂社と為し雷電権現、或は若宮と称す。雷電は火牟須比神の一名、火雷神より起れる称ならむ」と記す。

拳童子

『走湯山縁起』[LINK]によると、拳童子は夜叉形で、左手に三鈷を持ち、右手に金剛拳を結ぶ。

『伊豆山略縁起』によると、拳童子は元慶三年[879]、下宮両社(講堂・中堂)の南東の辛夷の老樹の中に顕現した。

『増訂 豆州志稿』[LINK]によると、平井村(田方郡函南町平井)の金山社である。 同書には「伊豆御宮より辛夷童子を移し祀り後金山を配す。古祠也」と記す。

岩童子

『走湯山縁起』[LINK]によると、岩童子は金峯山の金剛蔵王権現の示現で、形像も蔵王権現と同じである。

『伊豆山略縁起』によると、岩童子は貞観六年[864]、下宮両社の間の山に顕現した。 結明神社に祀られている日精童子(女体)である。

塔本桜童子

『走湯山縁起』[LINK]によると、桜童子は天童子形で、右手に開蓮華を持ち、左手に宝珠を持つ。

『伊豆山略縁起』によると、桜童子は元慶元年[877]春、下宮講堂の南西の八重桜の花の中に顕現した。

『増訂 豆州志稿』[LINK]によると、桜童子は大土肥村(田方郡函南町大土肥)の村社・雷電神社で、祭神は火牟須比命である。 同書には「走湯山の記に云、桜童子(元慶元年出現)を大鳥井村に遷祀す」「伊豆山より遷す。村人今雷電と云」と記す。

白専女・福専女

不詳。 『真名本 曾我物語 1』(東洋文庫)の注には「狐を本体とする末社であろう」と記す。
『伊豆山略縁起』によると、本宮大権現社の祭神は天忍穂耳尊・白当弁・福当弁・天太玉命・天児屋根命であるので、白専女・福専女は本宮社に合祀されていたと思われる。

洋八人女・床八人女

不詳。

中堂権現・講堂権現

伊豆山神社の下宮(現存しない)。
『増訂 豆州志稿』[LINK]には、「下ノ宮 明治の初年伊豆山神社に合祀す」「上ノ宮を距る五町許、祠二(白道明神 早追権現)、講堂、中堂、と号して神主仏像を安す」と記す。
『真名本 曾我物語』『平家打聞』によると、中堂権現の本地仏は薬師如来、講堂権現の本地仏は千手観音である。
垂迹本地
伊豆権現(走湯権現)法体千手観音
俗体阿弥陀如来
女体如意輪観音阿弥陀如来
雷電八大金剛童子(摂社・雷電社)如意輪観音
拳童子不動明王
岩童子弥勒菩薩
塔本桜童子地蔵菩薩
白専馬普賢菩薩
福専馬文殊菩薩
洋八乙女大日如来(胎蔵)
床八乙女大日如来(金剛界)
下ノ宮中堂権現薬師如来
講堂権現千手観音

高礼寺(高麗寺)

高来神社(神奈川県中郡大磯町高麗二丁目)の旧・別当寺。
『筥根山縁起并序』[LINK]によると、神功皇后が三韓を征伐された後、武内大臣の奏上により高麗の大神を大磯の峰に勧請し、これに因んで高麗寺と名づけた。

『新編相模国風土記稿』[LINK]には「昔し大同年中、役小角初て当山に登り、両部垂跡の事を里人に告し後、法相沙門(由来詳ならず)堂社を開建し、其後小野文観僧正中興すと云」とある。

高来神社の社伝によると、応神天皇の御代に漁師が大磯の照ヶ崎で引き揚げた小蛸が千手観音に変じ、養老元年[717]に行基が高麗寺を創建して高麗権現の本地仏として奉斎したという。

明治初年の神仏分離により高麗寺は廃寺となり、千手観音像は慶覚院(大磯町高麗二丁目)に移管された。

万巻上人

箱根修験道の開祖。 "満願"とも表記される。
『筥根山縁起并序』[LINK]によると、養老四年[720]に京都の沙弥智仁の子として誕生。 仏門に入って二十歳で受具剃髪し、一万巻の経典を読んだ事から万巻上人と称された。 諸州の霊窟を巡行し、天平勝宝元年[749]に鹿島神宮に参詣して神宮寺を建立。 同寺の住持を八年間勤めた後、箱根に入山して箱根三所権現を感得した。 嵯峨天皇の勅により都に向かう途中、弘仁七年[816]十月二十四日に三河国楊那郡(愛知県八名郡)において入寂。

『伊勢国多度神宮寺伽藍縁起并資材帳』[LINK]によると、天平宝字七年[763]十二月二十日、満願は多度大社の東の有井(桑名市多度町柚井)の道場において「我は多度の神なり」「永く神身を離れんがため、三宝に帰依せんと欲す」と神託を受け、小堂(多度神宮寺の前身)と神像(多度大菩薩像)を造立した。

『新編相模国風土記稿』[LINK]には「万巻墓 本社の後山にあり、五輪にて文字を題せず(長四尺余)」とある。 この場所は箱根神社の北参道入口脇に当り、現在も五輪塔(万巻上人の奥津城)が祀られている。

賢安大徳

『走湯山縁起』[LINK]によると、仁明天皇の御宇、甲州八代郡に竹井賢安という居士がいた。 幼少より五葷や肉を食べず精進し、世の人は居士聖と呼んだ。 承和二年[835]二月、賢安居士は走湯山に参詣し、山上に草庵を構えて四年間修行した。 その間、同三年に走湯権現の神示を受けて現在地に勧請。 斉衡元年[854]、安然和尚が走湯山に参詣して求聞持法を修行した。 賢安は安然和尚の下で出家し、俗名をそのまま法名にして賢安法師と号した。 天安二年[858]二月四日に入滅。