『神道集』の神々
第十一 熱田大明神事
そもそも熱田大明神の本地に関して両説が有る。熱田の本地は大日如来である。
神宮寺は薬師如来である。
八剣は太郎・次郎の御神で、本地は毘沙門天王・不動明王である。
日別・火神は三郎・四朗の御神で、本地は地蔵菩薩・阿弥陀如来である。
大福殿の本地は虚空蔵菩薩である。
後見の源太夫殿は文殊菩薩である。
記太夫殿は本地弥勒菩薩で、源太夫殿の兄である。
熱田大明神が最初に天下った時、記太夫殿は宿を借した人、源太夫殿は雑事(旅行の際の食事の世話)を行なった人である。
また、一説によると、熱田の本地は五智如来である。
尾張国の一宮は真清田大明神、本地は地蔵菩薩である。
二宮は太賢光明神、本地は千手観音である。
三宮は熱田大明神である。 ある人によると、熱田大明神は我朝の尾張国の第三宮であり、総じては閻浮提の内の第三宮である。
ある人によると(熱田大明神には)賀茂大明神が並び立っている。 ある女房が無実の罪を着せられ、大宮の御宝殿の傍の賀茂社の御前で、泣き泣き此の濡れ衣を晴らそうと歎くと、夢幻の中に賀茂大明神が御示現されて、
我憑む人徒に 成しはてゝ 又雲分て登る計そ
と御歌を詠まれた。 その後、此の女房は無事に大宮司の妻と成った。 御託宣の文に「本躰観世音、常在補陀落、為度衆生故、示現大明神」と有るのも理である。
八剣
別宮・八剣宮祭神は本社と同じ。 一説に素盞嗚尊の和魂とする。
式内社(尾張国愛智郡 八剣神社)。
『尾張国内神名帳』[LINK]には愛智郡に「正一位 八剣名神」とある。
『平家物語』剣巻[LINK]には
(新羅の)帝、生不動といふ将軍に、七の剣を持たせて、日本へぞ渡しける。 生不動既に尾張国まで攻め来る。熱田の神宮悪き奴かなとて、蹴殺し給ひにけり。 所持の七の剣を召取りて、草薙剣に加へて、宝殿に祝はれたり。 今の八剣の大明神とはこれなり。とある。
『熱田の神秘』[LINK]には
新羅の帝、剣をは取りへすして、道行をは殺し給へぬ。 腹を立ゝせ給ひて、天竺より、生身の七不動を、祈り下して、日本国、押し寄せ、熱田明神を、討ちまいらせんとし給ふ時、明神、この由を、天照大神へ、申させ給ふ、力を合すへしとて、九万八千の軍神を以て、御戦い有りしかは、大明神喜ひ給ひて、さて、七不動を奪ひ取り、七不動剣と元の剣に相副へ、八剣の明神と、祝はれ給ふ。とある(引用文は漢字に改めた)。
『尾張名所図会』巻之四の正一位八剣神社の条[LINK]には
正一位八剣神社 本社の南三丁にありて、日割御子神社の西に当れり。 即下の宮と称し、熱田摂社七所の一社なり。
和銅元年〈戊申〉[708]九月九日の御鎮座にして、多治見真人池守・安倍朝臣〈実名を脱せり、されど〔続日本紀〕には宿奈麿と見えたり〉を勅使とし、新造の宝剣を納め給ひて八剣宮と称し奉り、別宮として年中の祭祀本社のごとしと、〔熱田正縁起〕に見えたり。
本社 祭神十座。神秘にして其の何れの神たる事をしらず。とある。
また、同書・巻之三の木津山神宮寺大薬師の条[LINK]には
不動堂 本堂の側にあり。此堂もと八剣宮の境内にあり。 不動明王の像は弘法大師の作にて、八剣宮の本地仏と称せしを、元禄年中再興の時こゝにうつし、不動院これを守る。とある。
『熱田宮鎮座次第』[LINK]には
八剣宮十座〈大八洲之安国知食す大耳尊、西皇大神素戔烏尊、東佐曾良比の生ます神四座、姫大神、已上御霊形御筥にして坐す、古へ清御原朝に神約を立て、百王鎮護の祈り有り、是に以て和銅元年に至り、始て此の宮を祭る也〉とある。
『名古屋市史 社寺編』[LINK]には
本国神名帳集説には素盞嗚尊の和魂となす。 神社問答雑録には「問、当社祭日、神饌十前を供すと、何の神ぞや、答、社伝に云、大宮の五座と当宮の五座と合て十前也、但台盤は五脚にして、神饌は十前也」とあり、熱田神体伝も略之と同説なり。とある。
また、同書の不動院の条[LINK]には
弘仁二年[812]、空海勅を奉じて神宮に千日間の参籠をなすや、修法の余暇、八剣宮の本地仏として不動尊の像を彫刻し、一堂を建てゝ之を安んず。とある。
【参考】高蔵社
摂社・高座結御子神社[愛知県名古屋市熱田区高蔵町]祭神は高倉下命。 一説に仲哀天皇あるいは成務天皇とする。
式内社(尾張国愛智郡 高座結御子神社〈名神大〉)。
『尾張国内神名帳』[LINK]には愛智郡に「正二位 高蔵名神」とある。
史料上の初見は『続日本後紀』巻四の承和二年[835]十二月壬丑[12日]条[LINK]の
尾張国の日割御子神・孫若御子神・高座結御子神、惣て三前を名神に預り奉る。 並に熱田大神の御児神也。
『延喜式神名帳頭註』[LINK]には
高蔵結 日本武の第二子仲哀天皇なり。とある。
『尾張名所図会』巻之四の高座結御子神社の条[LINK]には
高座結御子神社 新はたや町東なる田野にあり。 社地甚広く古木繁茂し、遠望するにもいと尊く神さびたり。 熱田摂社七所の一社なり。高蔵宮と称す。
本地仏に毘沙門天を安置せしも、今は社人の家に納む。 しかれども例年正月三日には、当社の神供所にて此像を開扉し、諸人に拝せしむ。 神像は弘法大師の彫刻なり。とある。
『熱田宮鎮座次第』[LINK]には
高蔵結御子宮三座〈国常立尊(正哉吾勝々速日)、天照地照神(天忍穂耳尊)、天御柱国御柱神(天穂日尊)、已上御霊形御筥にして坐す、日代宮(景行天皇)御宇[71-130]之を祭る、一に云ふ、清御原宮(天武天皇)御宇[673-686]之を祭る〉とある。
『熱田神体伝』[LINK]には
熱田に於ては四社の大社の内なり。 祭神、或説に云、高皇産霊尊、左吾勝尊、右栲幡千千姫云々。 亦一説に、中央天御柱国御柱神、左素盞嗚尊、日本武尊云々。 鎮座次第記曰、高蔵結御子神社三座、国常立尊、天照地照神、天御柱国御柱神、已上御霊形御筥而坐、日代宮御宇祭之、一云、清御原宮御宇祭之、云々。 又一説に、吾勝尊を本主として、天照大神、素盞嗚尊を祭ともいへり。 続日本後紀云、承和二年位を給、所謂熱田大神之御児神也、云々。 御児とも云に付説々あり、吾勝尊を祭て御子結と云付、高皇産霊尊、天照大神三座と云り。 然れども正説は中央に仲哀天皇、左成務天皇、右神功皇后と云々。 高蔵と称するは高位を結と云義とぞ。 因て本主に仲哀天皇を祭なり。とある。
『名古屋市史 社寺編』[LINK]には
又他に諸説あり。 或は仲哀天皇〈社伝、熱田神体伝、尾張志、尾張国式社考、神祇宝典、熱田旧記、尾張視聴合記、熱田雑記、神社問答雑録、熱田諸社略記〉。 或は成務天皇〈熱田宮略記〉、或は成務天皇、仲哀天皇相殿〈尊名記集説〉。 或は高倉下命、一名天香具山命〈神宮祭神記〉とす。 此神は大宮司尾張家の祖神なり。とある。
熱田七社に数えられる重要な摂社であるにもかかわらず、『神道集』には高蔵社の名が見えない。 『熱田宮秘釈見聞』の「八剣宮不動明王、高蔵毘沙門」と比較すると、『神道集』の「八剣は太郎・次郎の御神にて、本地は毘沙門・不動明王なり」は高蔵・八剣の両社に関する記述から高蔵社の名が欠落したかと思われる。
日別
摂社・日割御子神社祭神は天忍穂耳尊。 一説に武鼓王、稲依別王、軻遇突智神、日本武尊所帯の天火徹燧、あるいは日前饒穂命とする。
式内社(尾張国愛智郡 日割御子神社〈名神大〉 )。
『尾張国内神名帳』[LINK]には愛智郡に「正二位 日割名神」とある。
史料上の初見は『続日本後紀』巻四の承和二年[835]十二月壬丑[12日]条[LINK]の
尾張国の日割御子神・孫若御子神・高座結御子神、惣て三前を名神に預り奉る。 並に熱田大神の御児神也。
『延喜式神名帳頭註』[LINK]には
日割御子 日本武の五男武鼓王なり。 母は吉備穴戸武姫、吉備武彦の女。とある。
『尾張名所図会』巻之四の日割御子神社の条[LINK]には
日割御子神社 大福田社の南隣にあり。 熱田摂社七所の其一社なり。とある。
『熱田宮鎮座次第』[LINK]には
日剖御子宮四座〈日前饒穂命、手栗彦命、已上御霊形御筥にして坐す。一に云ふ、燧にして坐す、秋津島宮(孝安天皇)御宇[B.C.392-B.C.291]之を祭る〉とある。
『名古屋市史 社寺編』[LINK]には
祭神は日本武尊の御子武鼓王とも〈神名帳兼倶頭註、尾張志、尾張国明治神名帳〉、稲依別王とも〈尾張国式社考、参考本国神名帳集説、熱田神体伝、熱田社伝〉、軻遇突智神とも〈熱田尊命記集説、張州府志、熱田宮略記〉、日本武尊所帯の天火徹燧とも、〈社伝、厚見草などに見ゆ、百録によれば燧を此社の下に鎮めたりと云ふ〉日前饒穂命とも云へり。〈熱田宮鎮座次第記、尾張志にはいかなる神にか、ものに見当らずと記す〉とある。
火神
摂社・氷上姉子神社[愛知県名古屋市緑区大高町]祭神は宮簀媛命。 一説に両道入姫命とする。
式内社(尾張国愛智郡 氷上姉子神社)。
『尾張国内神名帳』[LINK]には愛智郡に「従三位 氷上姉子天神」とある。
『尾張国熱田太神宮縁記』[LINK]には
宮酢媛下世の後、祠を建てこれを崇め祭り、氷上姉子天神と号す。 其の祠愛智郡氷上邑に在り。とある。
『延喜式神名帳頭註』[LINK]には
氷上姉子 両道入姫命なり。日本武の姉なり。仲哀の母と為る。とある(『日本書紀』によると、両道入姫命は垂仁天皇の皇女で、日本武尊の叔母である)。
『尾張名所図会』巻之六の氷上姉子神社の条[LINK]には
氷上姉子神社 同村[大高村]にあり。 今氷上神社と称す。 熱田七社の一なり。
抑当社は、仲哀天皇の御宇、社を沓脱島に遷し、〈是を元宮と称す〉同帝の四年[195]に又今の地に遷し給ふ。とある。
『熱田宮鎮座次第』[LINK]には
氷上宮二座〈宮簀媛命、豊浦宮(推古天皇)御宇[593-628]之を祭る、広野姫天皇(持統天皇)御宇に至り、火高に遷し奉る。此の時合祭神日本武尊也、二坐御霊形御筥一箇坐す〉とある。
『名古屋市史 社寺編』[LINK]には
祭神は宮簀姫命とす。 寛平熱田縁起によれば、此地は尾張氏の旧里にして、宮簀姫も此地に在せしなり。〈姫の事績は大宮司の條下に述べたり〉 其縁故にて薨後こゝに祀らる。〈仲哀天皇四年の鎮座と称す〉 其後持統天皇の時、氷上宮の元宮と云ふ所に徒し、同四年[690]また今の宮地に遷すと云ふ。とある。
源太夫殿
摂社・上知我麻神社祭神は乎止与命(小豊命)。
式内社(尾張国愛智郡 上知我麻神社)。
『尾張国内神名帳』[LINK]には愛智郡に「正二位 千竈上名神」とある。
『尾張名所図会』巻之四の上知我麻神社の条[LINK]には
上知我麻神社 市場町通伝馬町の西にあり。 俗に源太夫社、又智恵の文殊ともいふ。 熱田摂社七所の一社なり。
祭神小豊命は尾張氏の遠祖、また当国の国造にて、〔旧事記〕の国造本紀に、「尾張国造志賀高穴穂朝(成務天皇)天別天火明命の十世孫小止与命を以て国造を定め賜ふ」と見えたりとある。
『熱田宮鎮座次第』[LINK]には
上千竈宮六座〈地主神小豊命、左猿田彦神、天鈿女命、右足那槌神、手那槌神、已上御霊形御筥にして坐す、又白幣六前御扉の外に安ず〉とある。
『名古屋市史 社寺編』[LINK]には
祭神は尾張氏の祖小豊命。 尊命記集説に曰く「此神は熱田の地主にして、宮酢姫の命の御父也、社家の説に東海道守護の神也と云へり、実に東国に往来する者、皆此神前を過らざることなし、宜しく敬して旅行の不詳を祓ふべきこと也、云々」。とある。
良遍『日本書紀聞書』巻第二には
(小碓尊は)尾張国熱田の源太夫がむすめ橘姫を召し具せらる。 或る渡海の処にて、海中さはぎ風雨静かならずして、其時橘姫申さく、「君御財并に御命を望て、海龍神障碍を成す」。 御命に替んとて俄に海に入る 取り留るに時剋をゑず。 時に、小碓尊船よりをり給て彼野辺まで悲みの余りに、「吾妻吾妻」とさけび給しより以来、彼の処を吾妻と云へり。とあり、吾妻起源譚を〈熱田源太夫説話〉の一齣として理解している。
(原克昭『中世日本紀論考 —註釈の思想史—』、第3部 神代紀をめぐる言説の生成と展開—言説考証篇—、第2編 宝釼神話の変容と展開、第1章 宝釼の所在をめぐって—〈熱田源太夫説話〉—、第2節 〈熱田源太夫説話〉の構想、法藏館、2012)
なお、『日本書紀』巻第七の景行天皇四十年条[LINK]によると、弟橘媛は穂積氏忍山宿禰の娘である。
卜部兼邦『兼邦百首哥抄』[LINK]には
猿田彦の事。 神宮にては興玉の神、山王にては早尾、熱田にては源太夫、道祖神とも云り。
熱田の宮に源太夫殿といふ小社有。 是手摩乳也。 神宮にては興玉の神といふ。 是皆猿田彦の化現也。
道祖神のこと、さまざま前に申たりといへども、尚以神宮にては興玉の神、出雲にては手摩乳、日吉にては早尾、熱田にては源太夫、舟にては舟玉、さき玉、ちまたの神、しうきくの明神等也。とあり(引用文は一部を漢字に改めた)、同類の性質を持つ諸社の神々が猿田彦もしくは道祖神のもとに習合される。 熱田における源太夫と同様、伊勢・出雲・山王ら諸神を迎接する神たちを猿田彦の化現神と看做し同体視する説が共有されていたらしい。
(原克昭『中世日本紀論考 —註釈の思想史—』、第3部 神代紀をめぐる言説の生成と展開—言説考証篇—、第2編 宝釼神話の変容と展開、第1章 宝釼の所在をめぐって—〈熱田源太夫説話〉—、第4節 在地信仰における源太夫)
記太夫殿
摂社・下知我麻神社祭神は真敷刀婢命。 一説に玉媛命を配祀して二座とする。
式内社(尾張国愛智郡 下知我麻神社)。
『尾張国内神名帳』[LINK]には愛智郡に「正二位 千竈下名神」とある。
『尾張名所図会』巻之四の下知我麻神社の条[LINK]には
下知我麻神社 鎮皇門の北の築地の外にあり。熱田摂社七所の一社なり。紀太夫殿と称す。
国造小止与命の妃真敷刀婢命と、建稲種命の妃玉媛命二座を祭れり。とある。
『熱田宮鎮座次第』[LINK]には
下千竈宮六座〈真敷刀婢命、左天道姫命、穂屋姫命、右玉姫命、櫛稲田姫命、宮簀姫命、已上御霊形御筥にして坐す〉とある。
『熱田の神秘』[LINK]には
これは五月の事なりけるに、田を掻き苗を散らし、植へんとするに、掾一人あり、「汝如何なる物ぞ」と仰せありしかば、「紀太夫とて、この地の主なり」と申せば、「我にこの田を得させよ」と、乞い給ひて、一夜の内に、千本の林と為させ給ひける。こゝに剣の明神と祝はれ給ふ。とあり(引用文は一部を漢字に改めた)、熱田大明神は地主神であった紀太夫から土地の譲渡を受けることによって、この地(熱田)に鎮座する。
(原克昭『中世日本紀論考 —註釈の思想史—』、第3部 神代紀をめぐる言説の生成と展開—言説考証篇—、第2編 宝釼神話の変容と展開、第1章 宝釼の所在をめぐって—〈熱田源太夫説話〉—、第2節 〈熱田源太夫説話〉の構想)
大福殿
末社・大幸田神社祭神は宇迦之御魂神。 一説に天忍穂耳尊とする。
『尾張国内神名帳』[LINK]には「熱田大福田菩薩」とある。
『尾張名所図会』巻之四の大福田社の条[LINK]には
大福田社 南新宮の南に隣れり。 もと神宮寺の境内にありしを、元禄十六年[1703]こゝにうつせり。 熱田摂社七所の其一社にして、〔本国帳〕に大福田菩薩とあるはこれなり。 朱雀院の御宇、相馬将門叛逆せしかば、追討使を下され、勅して熱田社に御祈願あり。 神輿を星崎にふり出し奉りて祈祭す。故なくして忽神輿血に染みしが、将門其時刻に秀郷・貞盛が為に誅せらる。 是大神の示し給へる先兆なり。 然るに其輿血に汚れて、本宮に還座なしがたく、新に一祠を建てゝ是を収め、大福田社と号す。 祭神は正哉吾勝命なり。とある。
神宮寺
熱田神宮寺(木津山神宮寺大薬師)本尊は薬師如来。
『尾張名所図会』巻之三の木津山神宮寺大薬師の条[LINK]には
木津山神宮寺大薬師 海蔵門の外二十五挺橋の西なる片町にあり。 当寺は仁明天皇の勅建にして伝教・弘法両大師の開基なり。 社僧如法院の寺務たりしよし、承和十四年[847]三月七日の太政官符に見えて、おぼろげならぬ霊区なりしが、累年の兵乱に衰微頽廃せしかば、右大臣豊臣秀頼公再興し
元禄九年長久寺の住僧隆慶、江戸護持院僧正隆光に法縁あるにより、隆光吹挙して将軍家に達し、神宮寺再建の御免許を得しかば、国君も許容し給ひ、同十五年[1702]堂宇を修造し、不動院愛染院を外より境内へ移し、医王院を再建して住持を立てられ、旧観に復せしめ給へり。 山号もとは亀頭山なりしを、近頃今の文字にあらたむ。亀頭・木津同音なるうへ、承和十四年三月七日の官符に「神宮寺別当を置く。蔭孫正八位下御船宿禰木津山」とあるに據れり。とある。 また、本尊について
本尊 薬師如来の坐像。 台座より後光まで高さ二丈一尺八寸の大像なり。 腹内には弘法大師真作の薬師仏を収むといへり。とある。
『名古屋市史 社寺編』[LINK]には
神宮寺は亀頭山と号す。 熱田神宮海蔵門外御饌殿の西南に在り。 神宮寺縁起によるに、弘仁二年、空海勅を受けて、神宮に参籠すること千日、始めて大宮北林の中に香堂一宇を建立して、奥ノ院と号し、自ら愛染明王像を刻して之を安んじ、大宮の本地仏となし、次いで不動明王〈八剣宮本地仏〉、大黒天像〈大福田社〉、地蔵菩薩〈日割社の本地、白鳥山の本尊と云ふ〉等を作ると云ふ。 是れ神宮寺の起源なり。 承和十四年三月七日、勅に依りて神宮寺一区を置き、蔭孫正八位御船宿宿禰木津山〈亀頭山の山号は是れにより転化せしもの〉を以て別当となす。とある。
明治初年の神仏分離により神宮寺は廃されたが、明治三十六年[1903]に木津山不動院[愛知県名古屋市熱田区高蔵町]が再興された。
五智如来
光宗『渓嵐拾葉集』巻第六(山王御事)[LINK]には尋ね云ふ、熱田社を以て五智如来と習ふ方如何。 答ふ、熱田明神とは金剛界の大日也。 故に五智を以て本智(本地)と習ふ也。 或は又真言三部経を以て本地と為す。 或は又宝剣を以て神体と為す。 皆是れ金剛界智門の表示也。とある。
『熱田宮秘釈見聞』[LINK]には
熱田大明神の本地は北天竺の和伊露羅国の主なり。 彼の国に岩屋あり、名をは仏生石と云ふ。 高さ四十里、広さ六十里也。 其の岩の中に八葉の蓮花の座あり、其の座と云ふは花蔵世界(蓮華蔵世界)也。 五智の大日如来御坐す、故に密厳浄土と名づく。 東方大円鏡智、南方平等性智、西方妙観察智、北方成所作智、中央法界躰性智也。 然りと雖も、衆生化度の為、日本国尾州愛智郡に垂跡し給ふ。 東方阿閦仏の因位はソサノヲノ(素戔嗚)尊。 南方宝生仏は宮酢姫、今の氷上宮也。又聖観音と現れ給ふ。 西方弥陀はイザナミ(伊弉冊)。 北方尺迦(釈迦)は稲種尊也。 中央大日は天照大神也。 今現はれ給ふ天藂雲剣は、此れ大日なり。 天照大神とも、又熊野権現とも化現し給ふなり。 然り則ち、熊野権現、伊勢太神宮、熱田大明神とは、一躰分身也。 剣は国常立尊の造り給ふ也。とある。
『熱田の神秘』[LINK]はほぼ同内容だが、熱田大明神の本地を迦毘羅衛国の主、北方の釈迦如来を稲田姫とする。
賀茂社
現在の熱田神宮には該当する摂末社は存在しないが、『尾張名所図会』巻之三の熱田皇太神宮の摂社の条[LINK]には賀茂祠 立田祠の北にあり。とあり、『神道集』を引用して
此歌は〔新古今〕および〔袋草子〕等其外の歌書どもに、只かもの御歌とのみ記したれば、山城の賀茂の御歌と皆人思へど、此の〔神道集〕に確に其女が大宮司の妻になりたる由までを誌したれば、当社の摂社なる賀茂の御示現なりしこと疑べからず。と述べる。 また、同書の「熱田大宮全図 其二」[LINK]でも、本殿の東に「立田」と並んで「上加茂」が描かれている。
『新古今和歌集』巻第十九(神祇歌)[LINK]には
我れ頼む人いたづらになしはてば 又雲わけてのぼるばかりぞを載せる。
(賀茂の御歌となむ)
垂迹 | 本地 | |
---|---|---|
熱田大明神 | 大日如来 | |
相殿五座 | 天照大神 | 大日如来 |
建速素盞嗚尊 | 阿閦如来 | |
宮簀媛命 | 宝生如来 | |
伊弉冊尊 | 阿弥陀如来 | |
建稲種命 | 釈迦如来 | |
八剣宮 | 不動明王 | |
高座結御子神社 | 毘沙門天 | |
日割御子神社 | 地蔵菩薩 | |
氷上姉子神社 | 聖観音(または阿弥陀如来) | |
源太夫殿(上知我麻神社) | 文殊菩薩 | |
記太夫殿(下知我麻神社) | 十一面観音(または弥勒菩薩) | |
大福田社(大幸田神社) | 虚空蔵菩薩 |
真清田大明神
真清田神社[愛知県一宮市真清田1丁目]祭神は天火明命。 一説に国常立尊あるいは大己貴命とする。
式内社(尾張国中嶋郡 真墨田神社〈名神大〉)。 尾張国一宮。 旧・国幣中社。
『尾張国内神名帳』[LINK]には中嶋郡に「正一位 真清田大明神」とある。
史料上の初見は『続日本後紀』巻第十七の承和十四年[847]十一月癸酉[11日]条[LINK]の
尾張国の無位大縣天神・真清田天神の二前に並びに従五位下を授け奉る。
佐分清円『真清探桃集』巻之第一[LINK]には
正殿 国常立尊。兼熙一宮記に云ふ、大己貴命也。
当宮正縁起に曰く、人皇十代崇神帝の朝、王城より東方に当り、紫雲靉靆として、天に聯連し、地に充満す。 而して国土変じて紫色也。 帝遙かに之れを眺望し、即ち占者に勅して詢卜し玉ふ。 占者勘奏して曰ふ、「此の紫気現前するは、これ即ち天墜の元本主国常立尊此の地に降り座す。豊秋津大八洲宝祚鎮護の神を崇め奉るべし」と。 [中略] 帝占者の辞に因つて、仍ち勅使を簡 て、斎敬して此地に下向す。 神区を窺ひ覩るに、青桃之丘山、東西に龍窟有り。 時に紫雲靉靆の地に就て、六葉の若松三本を雨ふらす。 一老翁有りて、勅使を導き諭へて曰ふ、「此の地はこれ万代不易、大祖尊神鎮座の霊区也。将に此の松一本を留めて此の地に植ゆべし」と。 [中略] 帝大ひに叡感有りて、即ち百寮に命じたまひ、此の地の下津岩根に八尋宝殿を経営し、天津高坐を設け、爰に大神の魂を祭り奉りたまふ。
尊神鎮座の時、八頭八尾の大龍に乗りたまふ。 当国を以て八郡に割分するは、亦此の八尾に因み候。 八尾に各剣を備ふ。即ち此の魂を祭り、当宮の武神と崇めたまふ。
同書・巻之五[LINK]には
一宮号 神記に云ふ。崇神帝勅して曰く、尾張国に限れる一宮に非ず、摠て是れ日本第一の宮と号す者也。 尊神は開闢第一の神なり。 乃ち天元の一水を生じて無辺の神沢を施したまふ。 又鎮座の初め、松を降らすの瑞有りて、神人勅使を示し導きたまふ。 帝便ち之れに命ずるに、一宮号を以て神徳の霊符に応じたまふ。
金剛珠玉殿号 神記に云ふ。応神帝正一位光厳珠玉殿の号を賜ふ。又金剛殿と曰ふ。又金剛地と称す。 同記に云ふ。大神降臨のとある。頭 、八頭八尾の大龍に乗りたまふ。 又大龍の魂を以て、八金剛神と名づく。 是れ即ち大神の分魂也。 御鎮座伝記に因るに、興玉神託して曰く、止由気皇大神、便ち日天子(月天子の誤記)也、故に金剛神と曰ふ。 金剛は、是れ陰神水徳の号を称へ奉りたまふ。 両部家は此の神を以て金剛大毘盧舎那仏に配す。 毘盧舎那は便ち大日也。
『真清田宮御縁起』[LINK]には
何なる神哉と尋ね奉るは、本覚本身毘盧遮那仏国常立。 是摩訶毘盧遮那一身万形所変して、国土建立して、彼の国に結縁の衆生を利生して、仏果を得せしむ為也。とある。
『大日本国一宮記』[LINK]には
真墨田神社〈真清田大明神此れ也。大己貴命〉尾張中島郡とある。
『尾張名所図会後編』巻之一の正一位真墨田神社の条[LINK]には
正一位真墨田神社 一之宮村に立たせ給ふ。 当国の一の宮と称す。
夫当社の鎮座は、年歴久遠にして、詳ならずといへども、社説に、神武天皇三十三年〈癸巳〉[B.C.628]三月三日、松降荘青桃丘(今の一の宮村なり)に御鎮座なりといへり。 抑此御神は、天神七代のはじめ、百王太祖の国常立尊にて坐す。 尊神常に天地の中に独立ちて、万物を化育て給ふにより、天御中主尊とも称し奉りて、天地の間、生きとし生けるもの、此御神の霊徳に洩るゝはなし。とある。
また、祭神について
本社 祭神は卜部兼凞の〔大日本国一宮記〕に、真墨田神社は真清田大明神是れ也、大己貴命。尾張国中島郡と見えたり。 社説には、国常立尊・天照大神・月読尊・大己貴命・大龍神を合せ祭るといへり。 されども〔神祇宝典〕に国常立尊、当社二神を祭る、所謂天神七座・地神五座也とかゝせ給へるを誠の祭神とすべし。 真清田清円が〔探桃集〕に、尊神鎮座之時、八頭八尾の大龍に乗りたまふと見えたり。 合殿に大龍神を祭ることは、これによるにや。 又僧惟高が〔臥雲日件録〕にも、嵯峨天皇の御宇、弘法大師雨を龍神に祈りし時、彼龍神、尾張国真清田宮森木の中に居らん事を乞ひて、此宮に飛び来る、弘法曾てこゝにおいて秘法を行ひしよししるせり。 これらの縁によりて合せ祭れるか。とある。
吉見幸和『宗廟社稷問答』〔平田篤胤『古史伝』九之巻に引用〕[LINK]には
真墨田社を、一宮記に大己貴命と為たるは非なり。 尾張氏の上祖、歴世当国に住りしかば、其遠祖を祭れる社、三十余座あり。 中に、天照国照彦火明命は、中島郡真墨田神社に祭りて、一宮と称す。 天之香山命は、同郡尾張神社に祭る。とある。
垂迹 | 本地 |
---|---|
真清田大明神 | 地蔵菩薩(または毘盧遮那仏) |
太賢光明神
伝本によっては太覚光明神と表記される。大縣神社[愛知県犬山市宮山]
祭神は大縣大神。 一説に国狭槌尊または大荒田命とする。
式内社(尾張国丹羽郡 大縣神社〈名神大〉)。 尾張国二宮。 旧・国幣中社。
『尾張国内神名帳』[LINK]には丹羽郡に「正一位 大縣大明神」とある。
史料上の初見は『続日本後紀』巻第十七の承和十四年[847]十一月癸酉[11日]条[LINK]の
尾張国の無位大縣天神・真清田天神の二前に並びに従五位下を授け奉る。
『尾張名所図会後編』巻之六の大縣神社の条[LINK]には
大縣神社 二ノ宮村にあり。 俗に二之宮大明神と称す。
垂仁天皇二十七年[B.C.3]の御鎮座にて、天武天皇朱鳥元年[686]、勅して再建し給ひ
本社 祭神国狭槌尊・活目入彦五十狭茅天皇・国常立尊・豊斟渟尊を合せまつれり。とある。
また、
本宮山 大縣神社のうしろ、社より東北にありて、真神山・真霊山・二宮山ともいふ。 二の宮の本宮をいつき祭るゆゑに此名あり。
本宮 大縣神社の本宮にして、山の頂上にあり。 祭神国狭槌尊荒魂。とある。
『尾張志』[LINK]には
二宮村にます。大縣はオホアガタと訓へし。 今は二宮大明神と申す。延喜神名式に丹羽郡大縣神社〈名神大〉、本国帳に正一位大縣大名神とある是れ也。 大縣は此地の旧名なれとも二宮といふ称のおこれるよりうつりて社号にのみ地名を残せり。 扨此処は旧事紀に邇波県と見えたる地にてすなはち邇波県君祖大荒田命を祭れるにもやあらむ。 大荒田命は同紀五巻尾張氏の世系を書る條に「十二世孫建稲種命此命邇波県君祖大荒田命女子玉姫為妻生二男四女」とあるに明し。
社説に垂仁天皇二十七年の勅建なるよしいひ伝へたるは古く尊し。とある。
垂迹 | 本地 |
---|---|
太賢光明神 | 千手観音 |
熱田大明神
熱田神宮[愛知県名古屋市熱田区神宮1丁目]祭神は熱田大神で、天照大神・建速素盞嗚尊・日本武尊・宮簀媛命・建稲種命を配祀。 通説では熱田大神は草薙剣を御霊代とする天照大神であるが、一説に日本武尊とする。
式内社(尾張国愛智郡 熱田神社〈名神大〉)。 尾張国三宮。 旧・官幣大社。
『尾張国内神名帳』[LINK]には愛智郡に「正一位 熱田皇太神宮」とある。
『日本書紀』巻第一(神代上)の第八段[LINK]には 第八段一書(二)[LINK]には 第八段一書(三)[LINK]には とある。
『平家物語』剣巻[LINK]には とある。
『古事記』中巻[LINK]には とある。 その後、倭建命は走水(神奈川県横須賀市走水)から海を渡り、荒ぶる蝦夷や山河の荒神を服従させた。 帰路は足柄・甲斐・科野(信濃)を経て、尾張に還った。
病身となった倭建命は伊勢の能煩野(能褒野)に到り、そこで亡くなった。
『日本書紀』巻第七の景行天皇四十年[110]十月条[LINK]には とある。 その後、日本武尊は相模の馳水から海を渡り、上総を経て陸奥で蝦夷を服従させた。 日高見国からの帰路は、常陸・甲斐・武蔵・上野・信濃・美濃を経て尾張に至った。
病身となった日本武尊は、尾張に還ったが宮簀媛の家には入らず、伊勢に移動して乙津浜から能褒野に到り、そこで亡くなった。
『尾張国風土記』逸文[LINK]〔卜部兼方『釈日本紀』巻第七(述義三)[LINK]所引〕には とある。
『釈日本紀』ではこれを引用した後に
と述べる。
『尾張国熱田太神宮縁記』[LINK]には とある。
『平家物語』剣巻[LINK]には とある。
「上野国児持山之事」には とある。
吉田兼倶『延喜式神名帳頭註』[LINK]には とある。
深田正韶『尾張志』[LINK]には とある。
『尾張名所図会』巻之三の正一位勲一等熱田皇太神宮[LINK]には とある。
『熱田大神宮御鎮座次第神体本記』[LINK]には とある。
『名古屋市史 社寺編』[LINK]には とある。