第十六 上野国九ヶ所大明神事
一宮を抜鉾大明神と云う。 俗体は弥勒菩薩、女体は観音菩薩である。
二宮は赤城大明神と云い、三所に御在す。 大沼は本地千手観音、小沼は本地虚空蔵菩薩、禅頂は本地地蔵菩薩である。
三宮は伊香保大明神と云う。 湯前に崇める時の本地は薬師如来、里に下っての本地は十一面観音である。
四宮は宿禰大明神と云う。 本地は千手観音である。
五宮は若伊香保大明神と云う。 本地は千手観音である。
六宮は春名満行権現と云う。 本地は地蔵菩薩である。
七宮は沢宮小祝と云う。 本地は文殊菩薩である。
八宮は那波上宮、火雷神と云う。 本地は虚空蔵菩薩である。
九宮は那波下宮、少智大明神と云う。 本地は如意輪観音である。
総社と云うのは、本地は普賢菩薩である。
抜鉾大明神
参照: 「上野国一宮事」抜鉾大明神
赤城大明神
参照: 「上野国勢多郡鎮守赤城大明神事」赤城大明神
参照: 「上野国赤城山三所明神内覚満大菩薩事」赤城山三所明神」
二宮赤城神社[群馬県前橋市二之宮町]
祭神は大穴牟遅命・彦狭島命・天津日大御神・級津彦命・級津姫命。
式内論社(上野国勢多郡 赤城神社〈名神大〉)。 上野国二宮(論社)。 旧・郷社。
史料上の初見は『続日本後紀』巻第八の承和六年[839]六月壬申[19日]条[LINK]の「上野国無位抜鋒神・赤城神・伊賀保神に並びに従五位下を授け奉る」であるが、この赤城神が何れの赤城神社(大洞、二宮、三夜沢)に該当するか定かでない。
総社本『上野国神名帳』[LINK]には鎮守十社の第二位に「正一位 赤城大明神」とある。
『上野国赤城山御本地』[LINK]によると、高鍋之左大将家成には三人の姫(十六夜・弥生・桜御前)がいた。 家成の後妻は三人の姫を増田淵に沈めて殺害しようとしたが、三人は千手観音・虚空蔵・地蔵の化身であったので、龍神に命を救われた。 その後、三人の姫は二宮に住み、履中天皇三年[402]七月十五日に揃って亡くなった。 帝は左大将家成を赤城山大明神、三人の姫を二宮三躰明神と祀るよう宣旨を下された。
毛呂権蔵『上野国志』[LINK]に、
「二宮神社 二宮村にあり。源頼朝の建立。其後北條氏直が為に毀却せらる。牧野右馬丞再造。赤城神の同体なり。祝家説に、祭国常立尊、大国魂命。〈牌篇曰、赤城二宮。〉神主六谷田氏。本地堂〈十一面観音〉。別当大胡玉蔵院〈新義真言〉」
とある。
古市剛『前橋風土記』下巻[LINK]に、
「二宮神社 勢田郡に在り。地、神社に因て名を得、二宮村と曰う。神祝伝て曰く、頼朝始て神社を此地に立つと。北條氏直上野に到るに及んで之れを毀破し空林に斉うす。今存する所の神殿は牧野右馬丞焉を造立す。牌篇写して正一位と曰う」
とある。
『赤城皇太神宮御鎮座略本紀』[LINK]に、
「(三夜沢赤城神社の)東西両宮の離宮あり。南三里許、赤城二ノ宮大明神と号。毎年卯月・師走の初辰の日、神衣祭をは二ノ宮大明神行幸ならせ、御衣規式執行せ玉ふ。当社と二宮との際長徒なるの故、仮に神輿を安置せるの地を輿懸と曰て柏倉邑(現・前橋市柏倉町)あり」
とある。
二宮赤城神社の神幸式(神衣祭)では御神体を納めた櫃を三夜沢に運で神事を行い、往路では大胡神社[群馬県前橋市河原浜町]と輿懸に休憩する。
明治神社誌料編纂所『府県郷社 明治神社誌料』上巻[LINK]に、
「創立年代詳ならず、但、口碑に垂仁天皇の御宇[B.C.29-70]の創建なりと伝ふ、後冷泉天皇御宇[1045-1068]、勅願所として仏舎利の奉納ありしが〈○社蔵扁額〉、後鳥羽天皇建久年間[1190-1199]源頼朝深く尊信じ、宮殿を営み地百石を寄奉る」「当社は往古以来毎歳四月十二月の初辰の日に、本郡宮城村県社赤城神社へ神幸あり。近刊の大日本地名辞書[LINK]は、国帳の勢多郡従五位上赤城若御子明神を以て当社に擬せり」
とある。
尾崎喜左雄は『古墳のはなし』所収の「赤城の神の信仰をめぐって」[LINK]で「この二宮赤城神社こそ、平安時代の末期からよばれている二宮、すなわち一宮の貫前神社や三宮の伊香保神社とならぶ二宮の赤城神社と考えている。一宮の鎮座地が一宮、二宮の鎮座地が二宮、三宮の鎮座地が三宮とよばれたのは、どこも同じである。二宮神社の境内には、鎌倉時代の塔の遺跡や、石塔などがあり、その附近の無量寿寺には、鎌倉時代の等身大の地蔵菩薩の立像があるうえ、さらに古いと思われる観音菩薩の木像がある。〈中略〉すると二宮には鎌倉時代のものが多いことになって、その頃に二宮赤城神社が栄えていたことがわかる」と述べている。
伊香保大明神
参照: 「上野第三宮伊香保大明神事」伊香保大明神(男体)
参照: 「上野第三宮伊香保大明神事」伊香保大明神(女体)
宿禰大明神
参照: 「上野第三宮伊香保大明神事」宿禰大明神
若伊香保大明神
参照: 「上野第三宮伊香保大明神事」若伊香保大明神
春名満行権現
榛名神社[群馬県高崎市榛名山町]
祭神は火産霊神・埴山毘売命。 一説に元湯彦命または埴安神とする。
式内社(上野国群馬郡 榛名神社)。 上野国六宮。 旧・県社。
総社本『上野国神名帳』[LINK]には鎮守十社の第六位に「正一位 榛名大明神」とある。
榛名山の中腹に鎮座し、御神体は社殿背後の御姿岩の洞窟中に祀られている。
『榛名山志』に、
「本社 祭神三座、東相殿 饒速日尊、中殿 元湯彦命、西相殿 熟真道命。神伝は略して記さず、三神一社号を満行宮大権現と曰ふ。人皇二世 綏靖天皇御宇鎮座、三十二代用明天皇御宇始建社祭焉。一に吉田の説とて、東殿 国常立尊、中殿 伊弉諾尊・伊弉冊尊、西殿 大己貴命。右の説甚怪むべし。当山に貴宮といふ小祠あり、古老相伝ふ、是れ当山の本主にて満行宮鎮坐已前の地主神なり、祭神は大己貴命なりと」「霊容巌 本社の上にあり。高さ三四十丈、巍然として孤立す。岩頭くひれて人の頸領の如し。洞穴あり、本社この岩穴を蓋ふ」「本地堂 勝軍地蔵菩薩」
とある。
毛呂権蔵『上野国志』[LINK]に、
「神社本紀(『先代旧事本紀大成経』巻七十一)曰、背野国、秦名神祠、高丘宮天皇(綏靖天皇)時、元湯彦大神至這国鎮坐、先是、橿原宮天皇(神武天皇)時、与父神美真遅大神、伏夷賊、亦戦大力之悪神、威殺之、威伏之、依之此神主勝軍道。大成経皇孫本紀曰、元湯彦命者、真道見命子、母石長媛命、葛城高丘宮御宇天皇時、元為足尼、次為申食国政大夫、奉斎大神、倶父命神、前征東夷、至尾張国、戦猛力雄 神、此神力至強、常食以神児、対元湯彦神、競戈相闘 、猛力雄神遂屈請服、赦之、尚撃至参河国、伏隠飡 彦鬼、尚至科野国、殺縁長祇 鬼、還上佐万機、寿百十万七千五百八十五歳、登廿瀬峯、刺山而入、双槻宮(用明天皇)御宇天皇之御代、出毛上国秦名山峯、形人神名云満行権現」
「謹按神史、元湯彦命者、天照太神五代之孫也〈天照皇太神、天忍穂御水尊、饒速日尊、熟美真味命、元湯彦命、物部遠祖也。十巻旧事本紀、天孫本紀、彦湯支命、亦名木開足尼とあるは、元湯彦命と同神なり〉」
「別当岩殿寺満行院、天台宗東叡山兼帯。社壇は盤石に作掛てあり、其巌宮の上に蓋ふ。社の四辺、奇石怪岩、重畳環峙て、実に仙境と云うべし。其宮上を蓋ふ高岩を、御姿と云。本地堂勝軍地蔵」
とある。
文化十一年[1814]上野寛永寺よりの尋書の回答の中に、
「榛名神社満行宮鎮座、本殿埴安神、本地地蔵菩薩、左相殿 国常立命、本地不動尊、右相殿 大己貴神、本地 毘沙門天 右三神一社に満行宮と祭来候」
とある。
(『山岳宗教史研究叢書(8) 日光山と関東の修験道』、井田安雄「榛名信仰」、名著出版、1979)
『群馬県群馬郡誌』[LINK]に、
「創立は社伝に據れば神武・綏靖両朝の御宇[B.C.660-B.C.549]饒速日命の御子可美真手命及び孫彦湯支命東国戡定の任果てゝ榛名山中に薨ぜりとも言ひ伝へ、山上に神籬を立てゝ天神地祇を祭り皇孫を寿り奉り、永く東国五穀の豊穣を祈り鎮護国家の霊場なりしといふ。用明天皇元年[586]四月八日始めて斎祀が行はれ」
とある。
沢宮小祝
小祝神社[群馬県高崎市石原町]
祭神は少彦名命。
式内社(上野国片岡郡 小祝神社)。 上野国七宮。 旧・郷社。
史料上の初見は『日本三代実録』巻第三十七の元慶四年[880]五月二十五日戊寅条[LINK]の「上野国正四位上勲八等貫前神に従三位勲七等、従四位下赤城石神・伊賀保神に並びに従四位上、正五位下甲波宿禰神に従四位下、正五位下小祝神・波己曽神に並びに正五位上勲十二等を授く」。
総社本『上野国神名帳』[LINK]には鎮守十社の第七位に「正一位 小祝大明神」とある。
『上野国志』[LINK]に、
「小祝神社 石原村にあり」 「本地薬師仏」
とある。
『群馬県群馬郡誌』[LINK]に、
「正徳年中[1711-1716]別当石昌寺四世住職亮珍城主間部越前守に乞ひて新に神殿を造営し享保二年[1717]に落成せり、現今の本社是なり、蓋し其の前一宇仮殿ありて祭神を少彦名命とし社号を小祝神社と云ひ古来より祭りしが如し、今社傍の田地に小祝名所の号あり、是れ往古の神殿なるべし」
とある。
火雷神
火雷神社[群馬県佐波郡玉村町下之宮]
祭神は火雷神。
式内社(上野国那波郡 火雷神社)。 上野国八宮。 旧・郷社。
史料上の初見は『日本後紀』巻第五の延暦十五年[796]八月甲戌[16日]条[LINK]の「上野国山田郡賀茂神・美和神・那波郡火雷神を並びに官社と為す」。
総社本『上野国神名帳』[LINK]には鎮守十社の第八位に「従一位 火雷大明神」とある。
『上野国志』[LINK]に、
「火雷神社 下宮村にあり、神事十月季の午日に入、十二月(十一月の誤記か)初の午日に開く」 「別当東林寺相共に執行す、東林寺は真言宗、瀧村の慈願寺の末寺なり」
とある。
『佐波郡神社誌』[LINK]に、
「当社創立は人皇第十代崇神天皇の元年[B.C.97](大正十二年を去ること二千有余年)なり景行天皇五十七年[127]東国大都督御諸別王始めて之を奉ると称す」「当社に古式の神事あり、第五十六代清和天皇貞観四年[862]より毎年陰暦十月末の午日の夜丑の刻秘密神事を行ひ翌十一月初めの午日まで十二日間境内に注連縄を張り衆庶の出入を禁ず、若し過ちて注連の内に犯し入る者あらば忽ち大風或は雷鳴を起すと云ふ、而して此神事中は特に村中鳴物高声を禁じ各謹慎す、古昔より伝へて那波神事と云ふ」
とある。
尾崎喜左雄は「この神社は『延喜式神名帳』大和国忍海郡の葛木坐火雷神社[奈良県葛城市笛吹]と関係あるものと見られる」と述べている。
(尾崎喜左雄『上野国神名帳の研究』、第4章 古文献に見える上野国の諸神、第2節 延喜式内社[LINK]、尾崎先生著書刊行会、1974)
和田義弓『郷社火雷神社調書』は那波神事の由来を以下のように伝える。
貞観四年の冬十月から翌月にかけて、この地を寒波が襲い大雪が積もった。 また、妖怪が現れて子供を奪って食った。 郡司が朝廷に訴えると、僧正と武士が遣わされた。 僧正は社辺清地に神壇を設け、妖怪降伏利生安民法を行った。 七日目の満願の夜に妖怪が現れ、神壇から神鏡を奪おうとしたが、武士は妖怪を捕えて退治した。 朝廷は僧正と武士の功を賞し、武士は那波郡を領して那波八郎と称した。 那波八郎は下之宮に居館を設け、後に都島に遷って亡くなった。 人々はその霊を祀って八郎明神と呼んだ。 以来、火雷神社では霊剣を以て妖怪を降し五穀豊穣を祈願する秘密神事を行う。
(佐藤喜久一郎『近世上野神話の世界』、第3章 『神道集』と「在地縁起」、岩田書店、2007)
『神道集』には「那波ノ上ノ宮火雷神ト申」とあるが、火雷神社の鎮座地は「下之宮」である。
少智大明神
『勢多郡志』[LINK]は「少智大明神というのは不明であるが、上宮は現在は倭文神であり、上野国神名帳にも少智大明神はみえず、倭文神があり、式内社にも数えられているので、倭文神とみるのが正しいと思う」と述べている。
倭文神社[群馬県伊勢崎市上之宮町]
祭神は天羽槌雄命。
式内社(上野国那波郡 倭文神社)。 上野国九宮。 旧・郷社。
史料上の初見は『日本三代実録』巻第三の貞観元年[859]八月十七日庚子条[LINK]の「上野国正六位上倭文神を官社に列す」。
総社本『上野国神名帳』[LINK]には鎮守十社の第九位に「従一位 倭文大明神」とある。
『上野国志』[LINK]に、
「倭文神社 上宮村にあり」 「別当慈眼寺〈真言宗新義也〉」
とある。
『佐波郡神社誌』[LINK]に、
「当社は人皇十一代垂仁天皇の御宇三年[B.C.27]の創建」
とある。
尾崎喜左雄は「伊勢崎市大字上之宮鎮座の倭文神社を上之宮と称しているが、この神社は同書(『延喜式神名帳』)の大和国葛下郡の葛木倭文坐天羽雷命神社[奈良県葛城市加守]との関係が考えられる」「同所に所在する新義真言宗豊山派の宮川山普明院慈眼寺が別当であった。慈眼寺の本尊は観音であり、寺号も観音を示しているし、山号も神社に関係あると見られるので、倭文神社の本地仏は観音であろうと考えられる」と述べている。
(尾崎喜左雄『上野国神名帳の研究』、第4章 古文献に見える上野国の諸神、第2節 延喜式内社[LINK])
『神道集』には「那波ノ下ノ宮ニ少智ノ大明神ト申」とあるが、倭文神社の鎮座地は「上之宮」である。
総社
総社神社[群馬県前橋市元総社町1丁目]
主祭神は磐筒男命・磐筒女命・経津主命で、赤城大明神・抜鉾大明神・若伊香保大明神・伊香保大明神・岩根(宿禰)大明神・小祝大明神・榛名大明神・浅間大明神・火雷大明神・倭文大明神および上野国内五百四十九社を配祀。
上野国総社。 旧・県社。
『上野国一宮御縁起』に、
「彼(高野辺左大将家成)の北の方は、惣社大明神と現し給ふ、普賢菩薩の垂迹也」
とある。
総社本『上野国神名帳』[LINK]に、
「両部習合神道に云、摠社大明神と一宮抜鋒明神とは父子一躰分身の弥勒菩薩、是れ一宮の親也」
とある。
『上野国志』[LINK]に、
「護国霊験総社大明神 元総社村にあり、安閑天皇甲寅年[534]三月十五日鎮坐、祭神磐筒男命、並に上野国中五百四十九社を合せ祀る、本地弥勒菩薩」
とある。
『群馬県群馬郡誌』[LINK]に、
「抑当神社は崇神天皇四十八年[B.C.50]三月皇子豊城入彦命当国に下り給ひし時、経津主命の武勇を敬慕され軍神として之を奉祀し尋で其の親神にあらせらるゝ磐筒男命磐筒女命を合祀せられしに創りたりと伝ふ。その後第二十七代安閑天皇元年三月十五日社殿を改築し蒼海明神と称し郷人の崇敬殊に篤かりき、聖武天皇の天平九年[737]四月国分寺建立に及び国司は当社を遥拝所とし茲に参拝せらるを以て政治の要とし、翌年九月九日国内十四郡五百四十九社を奉招し始めて総社と称へ同社を総社明神と改称せられたりと云ふ、此の時国司より献納せられし額面今尚存せり、(護国霊験総社明神とあり)越えて永仁六年[1238]十二月二日国内の神職此の神社に会合し各社の神名帳を作り是より初めて総社大明神と称せり」
とある。
垂迹 本地 抜鉾大明神 男体 弥勒菩薩 女体 観音菩薩 赤城大明神 大沼 千手観音 小沼 虚空蔵菩薩 禅頂(地蔵岳) 地蔵菩薩 伊香保大明神 男体(湯前) 薬師如来 女体(里下) 十一面観音 宿禰大明神 千手観音 若伊香保大明神 千手観音 榛名満行権現 地蔵菩薩(勝軍地蔵) 小祝大明神 文殊菩薩(または薬師如来) 火雷大明神 虚空蔵菩薩 少智(倭文)大明神 如意輪観音 総社大明神 普賢菩薩(または弥勒菩薩)