. 『神道集』の神々

『神道集』の神々

第四十 上野国勢多郡鎮守赤城大明神事

人皇十八代履中天皇の御代、高野辺左大将家成は無実の罪で上野国勢多郡深栖郷(現在の群馬県前橋市粕川町深津)に流される事になった。 その地で、大将と奥方の間に一人の若君と三人の姫君が生まれた。 若君が十三歳の時に、母方の祖父を頼って都へ上り、帝から仕官を許された。 奥方が亡くなった後、大将は信濃国更科郡の地頭・更科大夫宗行の娘を後妻とし、その間にも一人の娘が生まれた。
その後、大将は罪を許されて都へ戻り、上野国の国司に任命された。 家成は三人の姫君の婿を選び、娘の乳母たちに使いを出した。 これを知った継母は嫉妬して、弟の更科次郎兼光を唆して三人の姫君を殺害させようとした。
三人の姫君の内、姉姫は淵名次郎家兼に預けられ淵名姫、次の姫は大室太郎兼保に預けられ赤城御前、末姫は群馬郡の地頭・伊香保大夫伊保に預けられて伊香保姫といった。
更科次郎は巻狩と偽って淵名次郎と大室太郎を捕らえ、黒檜嶽の東の大滝の上の横枕の藤井谷で斬り殺した。 次に、淵名の宿所に押し寄せて淵名姫と淵名の女房を捕らえ、大きな簍に入れて利根川の倍屋ヶ淵に沈めて殺害した。 続いて、大室の宿所に押し寄せたが、赤城御前と大室の女房は赤城山へ逃れた。 更級次郎は大室の宿所を三方から火攻めにし、人々を皆殺しにした。 有馬郷の伊香保大夫は九人の子と三人の聟を大将とし、城郭を構えて待ち受けた。 更級次郎も伊香保の宿所には押し寄せる事が出来ず、伊香保姫は無事だった。
大室の女房は赤城の山中を彷徨って大滝の上の横枕の藤井に辿り着いた。 谷の方から美しい女房が現れ、二人に果物を下された。 そこで七日七夜を過ごした後、大室の女房は亡くなった。 残された赤城御前は唵佐羅摩女に導かれて赤城沼の龍宮城に行き、その跡を継いで赤城大明神として顕れた。 大室太郎は姫君の擁護により夫婦共に龍宮へ参り、従神王子宮として顕れた。

大将は上野国の国司に着任して東国へ下る途中、駿河国の興津でこの悲報を知らされた。 大将が倍屋ヶ淵を訪ねると、波の中から神となった淵名姫が現れ、父に別れを告げると雲の中に姿を消した。 家成は淵名姫の跡を追って、倍屋ヶ淵に身を投げた。
伊香保大夫は足早で有名な羊太夫を呼び、二人の姫君の死と父大将の自害を伝える手紙を京三条室町の若君に送った。 羊太夫は申刻の半ばに有馬郷を発ち、日暮れに三条室町に到着した。 中納言になっていた若君は大いに驚き、主従七騎で東国に向かった。 この事を聞かれた帝は東山道・東海道の諸国に宣旨を下し、高野辺中納言を警固するよう命じた。 中納言の軍勢は徐々に増え、武蔵国に着いた頃には五万余騎となっていた。
上野国の国司となった中納言は更級次郎父子三名を捕らえさせた。 二人の息子は黒檜嶽の東の大滝の上の横枕の藤井谷で首を斬られ、更科次郎は倍屋ヶ淵に沈められて殺された。 継母とその娘は信濃国に追放され、更科山の奥の宇津尾山で雷に打たれて死んだ。

国司は父と淵名姫が亡くなった場所に淵名明神を祀った。 それから、赤城山に登って黒檜嶽の西麓の大沼の畔で奉幣を行なうと、障子返という山の下から一羽の鴨が泳いで来た。 鴨の左右の羽の上には御輿が置かれ、その御輿には淵名姫と赤城姫が一緒に乗っていた。 淵名の女房と大室の女房が姫達の後に従い、淵名次郎と大室太郎がお供をしていた。 二人の姫は兄の左右の袂にすがりつき、 「私達はこの山の主となって神通力を得ました。妹の伊香保姫も神道の法を悟って神と成るでしょう」 と告げた。 亡くなった母御前も忉利天から下って説法した。 その後、母御前は天に昇り、二人の姫君も沼に姿を消した。 鴨は大沼に留まり小鳥ヶ島となった。
国司が大沼を出て小沼の畔に行くと、神となった父大将が現れた。 国司は大沼と小沼に神社を建てた。 小沼の沢に三日間滞在したので、この地は三夜沢と呼ばれた。

国司は伊香保大夫の宿所を訪れて伊香保姫と再会し、自分は都に上って国司の職を妹に譲る事にした。 伊香保姫は兄の奥方の弟にあたる高光少将を婿に迎え、伊香保大夫の後見で上野国の国司を勤めた。 伊香保大夫は目代(国司代理)となり、自在丸という地に御所を建てた。 当国の惣社は伊香保姫の御所の跡である。

赤城大明神(大沼)

赤城神社[群馬県前橋市富士見町赤城山]
祭神は赤城大明神・大国主命・磐筒男神・磐筒女神・経津主神。
式内論社(上野国勢多郡 赤城神社〈名神大〉)。 上野国二宮(論社)。 旧・郷社。
史料上の初見は『続日本後紀』巻第八(承和六年[839]六月甲申[19日]条)[LINK]の「上野国無位抜鋒神・赤城神・伊賀保神に並びに従五位下を授け奉る」であるが、この赤城神が何れの赤城神社(大洞、二宮、三夜沢)に該当するか定かでない。
総社本『上野国神名帳』には鎮守十社の第二位に「正一位 赤城大明神」とある。

『赤城山御本地』によると、仁徳天皇の御代[313-399]の上野国主は高野辺左大将家成であった。 家成には十六夜御前・弥生御前・桜御前という三人の姫がおり、家の後見には浅間坊覚満(国会図書館本のみ)・伊香保蔵人貞蔵・野田三郎重俊等がいた。 奥方の没後、家成は信濃国主の更科次郎の妹を新たな奥方に迎え、八王という若君が生まれた。
家成が伊香保・野田を供に上洛中、奥方は郎党の根津・望月に命じて三人の姫を増田淵に沈めて殺害しようとした。 三人の姫は千手観音・虚空蔵・地蔵の化身であったので、龍神に命を救われた。 都から戻った家成は、奥方から姫が天狗にさらわれたと聞かされ、軍兵を率いて赤城山に登った。 その時、山中の谷間に三日間逗留した場所を、今は三夜沢社と云う。 履中天皇三年[402]六月十五日、家成は赤城山中を捜索中に四十八歳で亡くなった。 その直前、黒檜山の天狗が現れ、奥方の仕業であることを告げた。
八王は母の邪慳を嫌って出家し、増田淵で姉たちの菩提を弔ったが、十四歳で亡くなり、八王子権現として祀られた。
伊香保・野田は軍兵を率いて深津を攻め、根津・望月を滅ぼした。 奥方は信濃に逃げ、更科山に棄てられた。 そこに家成が十丈程の蛇(あるいは百足)に乗って天下り、岩石を投げつけて奥方を微塵にし、赤城山に飛び去った。
三人の姫は父の跡を尋ねて赤城山に登り、湖畔の御廟所に辿り着いた。 そこに家成が昔の姿で出現し、姫たちに故郷に帰って衆生を守護するよう宣った。 その後、三人の姫は二宮に住み、七月十五日に揃って亡くなった。
伊香保・野田は上洛して帝に奏聞し、帝は家成を赤城山大明神、三人の姫を二宮三所明神(二宮赤城神社[群馬県前橋市二之宮町])と祀るよう宣旨を下された。 同天皇四年[403]二月十二日に社殿が建立され、正一位赤城大明神の勅額が下された。

毛呂権蔵『上野国志』[LINK]には「赤城神社 山上の社なり、大沼の東崖にあり、社を大堂と云、別当は代田山法門院壽延寺、前橋代田村〈前代田と云、群馬郡に帰す、前橋城の南なり、壽延寺今は柿沼村にあり〉にあり〈天台宗長楽寺の末寺なり〉、摂社 日神 月神 飛鳥五社〈山神、稲荷、雷神、蚣神、水神〉 大塔寮社 鴫島弁才天社 同蟹宮 本地堂〈千手観音〉 開山堂〈これ長楽の法照禅師(月船琛海)に師とし事る了儒なるべし〉」とある。

奈佐勝皐『山吹日記』の天明六年[1786]五月十八日辛酉条には「此所にそ赤城明神はいますかりける」 「昔は黒檜の嶽の中程はかりに宮居をはしましけるを、明暦二年[1493]この所に遷し奉れりといへと、国史(『日本三代実録』巻第三十七の元慶四年五月二十五日戊寅条[LINK])に赤城沼の神とも記されたれは、よしや今の所ならすとも沼辺りにこそ古はおはしけめ」(引用文は一部を漢字に改めた)とある。

赤城神社ホームページ[LINK]には「大同元年(806年)に小沼から見上げる神庫岳(後の地蔵岳)の中腹より、大沼の畔に御遷宮されたという記録が残されております。この年号に因み、この地を大洞と名付けたのです。この時、小沼の畔にも小沼宮(豊受神社)が建てられております」 「明治20年~43年の間、小沼畔・豊受神社、小鳥ヶ島・厳島神社、黒檜山頂・高於神神社をはじめ、赤城山内の神社を合祀いたしました。寛永十九年(1642年)徳川家光公の命により再建された社殿は、三百年以上に亘る赤城山の厳しい気候により荒廃したため、昭和45年、凡そ千二百年鎮座した大洞の地をあとに、小鳥ヶ島・厳島神社の跡地に御遷宮されました」とある。

小沼明神

豊受神社
祭神は倉稲魂神・豊受大神。
旧・無格社。
赤城神社ホームページ(上記)によると、大同元年の創建。

『上野鎮守赤城山大明神縁起』には「赤城御前本地ハ黒檜千手千眼大菩薩、伊香保姫君ハ小沼ノ嶽ノ虚空蔵大菩薩、淵名の御前ハ本地ハ丸の嶽の地蔵大菩薩也」と異伝を記す。

『上野国志』[LINK]には「沼尻薬師 小沼虚空蔵 地蔵嶽地蔵堂 牛王堂 並に壽延寺(大洞赤城神社の別当寺)の香火を掌る所なり」とある。

明治年間まで小沼の東の虚空蔵嶽(通称小地蔵嶽)に虚空蔵堂があり、衰退したので、そのうちに安置の虚空蔵銅像一躯を、其の東麓の勢多郡黒保根村大字上田沢(現在の桐生市黒保根町上田沢)の古義真言宗湧丸山瑠璃院医光寺に移した。 同寺に客仏として現存している。 その銘文に「本主村上三光坊 上州赤城山 小治(小沼)本地虚空蔵菩薩」とある。
(参考文献 尾崎喜左雄『上野国神名帳の研究』、第4章 古文献に見える上野国の諸神、第4節 『神道集』にあらわれた上野国の諸神、尾崎先生著書刊行会、1974)

戸丸国三郎『赤城山案内』[LINK]によると「勢多郡富士見村赤城山頂字大洞小沼端無格社豊受神社」は明治四十年[1907]に大洞赤城神社に合祀された。
垂迹本地
赤城大明神(大沼)千手観音
小沼明神虚空蔵菩薩

唵佐羅摩女

不詳。
「日光権現事」で言及される唵佐羅麼を女神化した名称か。

従神王子宮

不詳。
大室太郎に関しては、『赤城大明神縁起』(三夜沢赤城神社蔵)に巻き込まれた断簡に「大室太郎家兼ハ本地文殊菩薩ト成シ大室三所明神祝成」と異伝が見られる。

淵名明神

尾崎喜左雄は淵名明神を大国神社に比定した。

大国神社[群馬県伊勢崎市境下渕名]
祭神は大国主命で、日葉酢媛命・渟葉田瓊入媛命・真砥野媛命・竹野媛命・薊瓊入媛命の五媛を配祀。
式内社(上野国佐位郡 大国神社)。 旧・郷社。
総社本『上野国神名帳』の鎮守十社には含まれないが、群書類従本には鎮守十二社の第九位に「従一位 大国玉大明神」、一宮本には第十二位に「従一位 大国大明神」とある。

『伊勢崎風土記』[LINK]によると、上毛国佐位郡淵名荘三十六郷の鎮守大国五護宮大明神は、風神級長津彦命の子の大国主神である。 垂仁天皇九年[B.C.21]四月、帝は風雨不順を憂い、百済車臨を奉幣使として東国に遣わされた。 同十一年[B.C.19]九月、車臨は上毛国に来て、御手洗池の近くで白頭翁と出会った。 翁は「風神級長津彦命の子の大国主神」と名乗り、車臨は翁に神助を願った。 翁が承諾して姿を消すと、巽から風が吹いて甘雨が降り、池は忽ち淵に変じた。 帝はこれを聞いて、車臨に左臣の位を授け、当地に大国主神を奉斎させた。 同十五年[B.C.15]九月に丹波国穴太郷より五姫宮を淵名荘に遷し、車臨はこれを奉った。

『神道集』には「利根河ノ倍屋ヵ淵ニ沈メケルコソ悲ケレ」「上野ノ国ノ国司ハ御父ト御妹ヲ亡下シ跡ヲ崇メ下テ淵名ノ明神トハ申ハ即是也」とあって、淵名明神は淵名庄内で、利根川の倍屋ヵ淵の近くに鎮座しているように思える。 下淵名字明神には『延喜式神名帳』記載の大国神社があり、淵名全村(上淵名・下淵名)の鎮守であった。 倍屋ヵ淵と称するような利根川の淵の沿岸の位置に当たるのは大国神社で、これを中世「淵名明神」と称したのではないかと考えられる。
(参考文献 尾崎喜左雄『上野国神名帳の研究』、第4章 古文献に見える上野国の諸神、第4節 『神道集』にあらわれた上野国の諸神)

『上野国一宮御縁起』には「淵名姫は、大黒大明神(写本によっては大墨大明神)と申すなり、本地は正観音にて御坐す」とあるが、この「大黒」は「大国」から転じたものか。
一方、福田晃は淵名明神を殖木宮赤城神社に比定した。

赤城神社[群馬県伊勢崎市宮前町]
祭神は磐筒男命・大己貴命。
旧・村社。

『伊勢崎風土記』[LINK]によると、安閑天皇の御宇[531-535]、天皇の夢に上野国の磐筒男大神・磐筒女大神の神託があった。 天皇は勅使を派遣して、男神を赤城山、女神を子持山に祀った。 赤城山中の大洞赤城神社を内殿、三夜沢赤城神社を前殿とする。 また、勅使が佐位郡殖木県に来て、赤城の磐筒男神を移し祀ったと云う。

『赤城大明神縁起』(三夜沢赤城神社蔵)の奥書には「中納言殿淵名姫君ノ為メニ、植木ノ郷ニ社ヲ立テ、同ク淵名ノ女房ト乳母三人ヲ神ト祝ヒ奉ル也」とある。 またこの縁起に巻き込まれた断簡には「其ノ後、国司ハ植木ノ郷ニ社ヲ立、淵名ノ姫君」「本地正観音ト顕、垂迹赤城大明神祝ナリ」とある。
淵名氏全盛の鎌倉期の淵名庄は、後の淵名郷よりずっと広範囲におよぶもので、赤石(伊勢崎)郷や植木郷などもその中に含まれるものであった。 それ故に『神道集』の採った原縁起の編者は、植木の宮を淵名の庄の赤城社の意味で淵名明神と記したものと思われる。
(参考文献 福田晃『神道集説話の成立』、第4編 上信地方縁起の生成、第2章 赤城山縁起の生成、三弥井書店、1984)

高野辺左大将家成

『山吹日記』の天明六年五月十九日壬戌条には「其家(三夜沢赤城神社の神主・増田成宥の家)にて、古き十一面観音の木像を拝む。是は昔、高野辺左大将家成といふ人のいますかりけり。この所に流離ひおはして、延元元年[1336]に失せ給ひける。その十三年は北の貞和四年[1348]にて、この人の十三回の忌にあたりけれは、その菩提に供へんとて十一面観音の像千体を作りて、この社に納め奉る。今も数多おはしまし、この里人の家に伝へ持ちたるもまた多かりと語れり。立像は長八寸余り、下の方に延元十三年と、朱もて記したり。座像は五寸余り、高野辺左大将の十三回忌によりて、その菩提にすゝめんと、作りたる由を記せり」 「彼東の社の後ろなる石塔は、高野辺殿の墓のしるしにやあらん」(引用文は一部を漢字に改めた)とある。

『赤城年代記』には「予家(増田家)従往古有来十一面観音二尊〈坐像・立像〉 坐像銘奉造立十一面高野辺為十三回忌也 立像銘延文十三年八月日是則北朝貞和四年ニ当ルナリ」 「然レハ高野辺左大将南北朝ノ比ノ人カ」とある。

羊太夫

多胡碑[群馬県高崎市吉井町池]の碑文「弁官符上野国片岡郡緑野郡甘良郡并三郡内三百戸郡成給成多胡郡和銅四年三月九日甲寅宣」(弁官の符に、上野の国片岡郡、緑野郡、甘良郡并びに三郡の内三百戸を郡と成し、に給ひて、多胡郡と成すとあり。和銅四年三月九日甲寅の宣なり)の「羊」が人名と解釈され、様々な伝承が語られた。

吉田東伍『大日本地名辞書』の多胡郡羊太夫碑の項[LINK]には「羊が事績は、今も其国の伝説に、極めて足疾き人にて、一日の内に都に往来して、朝に仕へ奉れり、其賞に多胡郡を賜へる由語伝ふ」 「名跡志云、羊太夫縁起に“小幡太郎太夫勝定の一子、羊太夫宗勝、朱鳥九未年、未月未時生る、駿馬に乗り、奈良の朝廷へ日々参内す ”云々」 「神保村に八束山と云あり、羊の太夫居城の跡と伝ふ、八束軍記に“羊の太夫駿馬にのり、日々参内す、八束小脛と言う童を供す、小脛両の脇下に羽あり、昼寝せし時、羊見て怪羽を抜く、依て供不叶、参内怠る、翅なくても早道なるべきをや、不参内は叛ける也とて、官軍下り、羊の太夫討死す、首飛て池村にいたる、其所に碑を建る”とある」等と記す。
また、神保の項には「八束山は神保村の上にて、東権現の祠あり、伝へて羊大夫の墟といふ」とある。

伊香保姫

参照: 「上野国第三宮伊香保大明神事」

深栖郷

深津の地には赤城本社と最も緊密な赤城近戸神社の一つがある。 二宮赤城神社から三夜沢赤城本社への神幸祭では、旧四月初の辰の日と旧十二月初の辰の日の二度、二宮を発した御神体が真っ直ぐ北上し、大胡赤城神社を経由して三夜沢赤城本社に達し、ここで衣替えをして下山する。 古くは粕川流域の元三夜沢に向かって神幸がなされ、この深津の近戸神社、及び同じく粕川流域の月田の近戸神社を経由していた。
(参考文献 福田晃『安居院作『神道集』の成立』、第2部 『神道集』の成立、第1章 『神道集』原縁起攷—巻七「赤城大明神事」「伊香保大明神事」の場合、三弥井書店、2017)

黒檜嶽

『上野国志』[LINK]には「黒檜山赤城最高峰也、神祠あり〈此山を千眼と云ふ、千手千眼なり、別当は荻原の普応寺、天台宗なり〉」とある。

『上野鎮守赤城山大明神縁起』には「赤城御前本地ハ黒檜千手千眼大菩薩、伊香保姫君ハ小沼ノ嶽ノ虚空蔵大菩薩、淵名の御前ハ本地ハ丸の嶽の地蔵大菩薩也」と異伝を記す。

『赤城山案内』[LINK]によると「仝(勢多郡富士見村赤城山頂)字黒檜山頂無格社高於神神社」は明治四十年に大洞赤城神社に合祀された。

大滝・横枕・藤井谷

『上野国志』[LINK]には「瀑布〈在小沼東南、直下十余丈、南流為糟川〉 横枕 藤井谷〈并瀑布之上の名なり〉 不動堂〈在瀑布南、糟河之旁、安銅像不動、此像甚神霊〉」とある。

粕川は赤城山上の小沼を源流とし、赤城山の南麓を流れ下る。 途中には落差約32メートルの不動大滝(滝沢の不動滝)が在り、その下流には滝沢不動堂が現存する。 不動大滝の上流にある銚子の伽藍は、粕川が外輪山の尾根を侵食した渓谷で、藤井谷に該当すると考えられる。

「横枕」は常に日当たりの悪い横に長い地形の谷間、「藤井谷」はいつもじめじめとしてそれ故に藤のはびこる谷間を意味する。 常に水の涸れることなく、藤の花の咲きぼれる「横枕藤井谷」は水神のいます所であり、横死者の霊を鎮める祭儀の行われる所であったらしい。
(参考文献 福田晃『神道集説話の成立』、第4編 上信地方縁起の生成、第2章 赤城山縁起の生成)

『神道集』には「黒檜山の東」とあるが、不動大滝や銚子の伽藍は黒檜山の南に位置する。

倍屋ヶ淵

不詳。
『赤城山御本地』は二宮赤城神社の南1kmの八王子の下にある、荒砥川の増田淵を当てている。 増田淵は二宮からの宮川が荒砥川に注ぎ込むあたりで、水神の祭祀の場であった。
『赤城大明神縁起』(三夜沢赤城神社蔵)の奥書では、倍屋ヶ淵を「波志江屋坂ノ下」(現在の伊勢崎市波志江町八坂地区の下流)としている事から、増田淵より少し下流をさしていることになる。 『勢多郡誌』の「勢多の伝説」では、荒砥川が広瀬川に注ぎ込む龍宮淵を昔増田淵といったと記している。
(参考文献 福田晃『神道集説話の成立』、第4編 上信地方縁起の生成、第2章 赤城山縁起の生成)

地図
福田晃『神道集説話の成立』より

龍宮淵付近には龍宮神社[群馬県伊勢原市宮子町]が鎮座し、同社の縁起『口口相承龍宮本紀』には「人皇十八代履中天皇の御宇、高辺左大将家成卿深津の郷に住玉ひて此の淵に来り玉ひ岩に遊び給ふに美女ひとり来りて、此の岩窟は龍神の正殿なり疎意有るまじと消失せけり、家成慎敬して退去し給ふ、此の時より龍宮と敬拝す」とある。

小鳥ヶ島・障子返

『上野国志』[LINK]には「大沼〈在黒檜西、地蔵北、[中略] 沼中有洲、名小鳥島、東岸曰障子返〉」とある。

大洞赤城神社の旧拝殿は大沼を背にして建てられており、本殿を通して小鳥ヶ島を拝する位置に在った。 小鳥ヶ島に現存する多宝石塔(赤城塔)には応安五年[1372]八月の銘があり、この頃には小鳥ヶ島は聖地と考えらえていた。
(参考文献 尾崎喜左雄『上野国神名帳の研究』、第4章 古文献に見える上野国の諸神、第4節 『神道集』にあらわれた上野国の諸神)

『赤城山案内』[LINK]によると「仝(勢多郡富士見村赤城山頂)字小鳥ヶ島無格社厳島神社」は明治四十年に大洞赤城神社に合祀された。

三夜沢

現在の前橋市三夜沢町ではなく、元三夜沢を指す。
『山吹日記』の天明六年五月十八日辛酉条には「柏原の帝(桓武天皇)の御世[781-806]詔ありて今の所に遷し奉る。元の宮居ありし所はいま本三夜沢と呼て、是より一里はかり東の方に有」(引用文は一部を漢字に改めた)とあり、粕川村(現在の前橋市粕川町)の御殿地区周辺で元宮地の調査が行われてきた。

『宇通遺跡 -発掘調査報告書 資料編-』(粕川村教育委員会、1991)[LINK]によると、宇通遺跡は昭和四十年[1965]の山火事により発見された。 尾崎喜左雄による発掘調査では、仏堂と神社建築が混在する遺跡として赤城神社西宮の故地と推定された。 しかし、その後の粕川村調査では、一部を除きすべての建物跡が仏堂と考えられている。
同報告書では、宇通遺跡・元三夜沢と周辺地区について以下の様に考察している。
 宇通遺跡は標高650m前後の山中にある9世紀後半から12世紀初頭にかけて存在したいわゆる「山岳寺院」である。 9世紀後半の遺構は竪穴住居2棟、礎石建物は10世紀から11世紀ということになる。 11世紀の竪穴住居からは堂宇に伴う扉が出土している。
 ここから南に200mほど下ったところには、密教法具「鐃」の鋳型(9世紀後半)を出土した御殿遺跡がある。 この集落遺跡は宇通の寺院に関連した集団によって形成された可能性がある。
 また、この御殿遺跡に隣接する湯之口地区にも礎石建物の存在が知られている。 そこは元三夜沢と通称されているところ。 多分、赤城神社の伝承として残る西宮の故地とはこの湯之口地区に違いない。 宇通遺跡と湯之口の遺構は延暦寺における山王社の関係にあったとも考えられる。 すなわち平安寺院に伴う鎮守社の可能性は大きいだろう。
 赤城山南麓地域のうち、とくに宇通遺跡が所在する旧粕川村地域には多くの仏教関係遺跡が所在する。 神道集「赤城大明神事」の舞台となる高野辺家成居住の地伝承のある深津地区は宇通遺跡から12kmほど南に当たるが、宇通遺跡はこの深津地区の共有地とされている。 この深津地区には錫杖頭の鋳型が出土した友成遺跡(10世紀)もある。 さらには、宇通遺跡から10km程南には延暦20年銘のある山上多重塔あり、この地域にはその後も鎌倉時代から南北朝時代にかけての石造宝塔が濃密に分布する。

惣社

参照: 「上野国九ヶ所大明神事」総社