『神道集』の神々

第四十 上野国勢多郡鎮守赤城大明神事

人皇十八代履中天皇の御代、高野辺左大将家成は無実の罪で上野国勢多郡深栖郷に流される事になった。 その地で、大将と奥方の間に一人の若君と三人の姫君が生まれた。 若君が十三歳の時に、母方の祖父を頼って都へ上り、帝から仕官を許された。 奥方が亡くなった後、大将は信濃国更科郡の地頭・更科大夫宗行の娘を後妻とし、その間にも一人の娘が生まれた。
その後、大将は罪を許されて都へ戻り、上野国の国司に任命された。 家成は三人の姫君の婿を選び、娘の乳母たちに使いを出した。 これを知った継母は嫉妬して、弟の更科次郎兼光を唆して三人の姫君を殺害させようとした。
三人の姫君の内、姉姫は淵名次郎家兼に預けられ淵名姫、次の姫は大室太郎兼保に預けられ赤城御前、末姫は群馬郡の地頭・伊香保大夫伊保に預けられて伊香保姫といった。
更科次郎は巻狩と偽って淵名次郎と大室太郎を捕らえ、黒檜嶽の東の大滝の上の横枕の藤井谷で斬り殺した。 次に、淵名の宿所に押し寄せて淵名姫と淵名の女房を捕らえ、大きな簍に入れて利根川の倍屋ヶ淵に沈めて殺害した。 続いて、大室の宿所に押し寄せたが、赤城御前と大室の女房は赤城山へ逃れた。 更級次郎は大室の宿所を三方から火攻めにし、人々を皆殺しにした。 有馬郷の伊香保大夫は九人の息子と三人の聟を大将とし、城郭を構えて待ち受けた。 更級次郎も伊香保の宿所には押し寄せる事が出来ず、伊香保姫は無事だった。
大室の女房は赤城の山中を彷徨って大滝の上の横枕の藤井に辿り着いた。 谷の方から美しい女房が現れ、二人に果物を下された。 そこで七日七夜を過ごした後、大室の女房は亡くなった。 残された赤城御前は唵佐羅摩女(赤城沼の龍神)に導かれて赤城沼の龍宮城に行き、その跡を継いで赤城大明神として顕れた。 大室太郎も龍宮城に行き、従神王子宮となって顕れた。

大将は上野国の国司に着任して東国へ下る途中、駿河国の興津でこの悲報を知らされた。 大将が倍屋ヶ淵を訪ねると、波の中から神となった淵名姫が現れ、父に別れを告げると雲の中に姿を消した。 家成は淵名姫の跡を追って、倍屋ヶ淵に身を投げた。
伊香保大夫は羊太夫を呼んで京三条室町の若君に手紙を送り、二人の姫君の死と父大将の自害を伝えた。 中納言になっていた若君は大いに驚き、主従七騎で東国に向かった。 この事を聞かれた帝は東山道・東海道の諸国に宣旨を下し、高野辺中納言を警固するよう命じた。 中納言の軍勢は徐々に増え、武蔵国に着いた頃には五万余騎となっていた。
上野国の国司となった中納言は更級次郎父子三名を捕らえさせた。 二人の息子は黒檜嶽の東の大滝の上の横枕の藤井谷で首を斬られ、更科次郎は倍屋ヶ淵に沈められて殺された。 継母とその娘は信濃国に追放され、更科山の奥の宇津尾山で雷に打たれて死んだ。

国司は父と淵名姫が亡くなった場所に淵名明神を祀った。 それから、赤城山に登って黒檜嶽の西麓の大沼の畔で奉幣を行なうと、障子返という山の下から一羽の鴨が泳いで来た。 鴨の左右の羽の上には御輿が置かれ、その御輿には淵名姫と赤城姫が一緒に乗っていた。 淵名の女房と大室の女房が姫達の後に従い、淵名次郎と大室太郎がお供をしていた。 二人の姫は兄の左右の袂にすがりつき、 「私達はこの山の主となって神通力を得ました。妹の伊香保姫も神道の法を悟って神と成るでしょう」 と告げた。 亡くなった母御前も忉利天からも下って説法した。 その後、母御前は天に昇り、二人の姫君も沼に姿を消した。 鴨は大沼に留まり小鳥ヶ島となった。
国司が大沼を出て小沼の畔に行くと、神となった父大将が現れた。 国司は大沼と小沼に神社を建てた。 小沼の沢に三日間滞在したので、この地は三夜沢と呼ばれた。

国司は伊香保大夫の宿所を訪れて伊香保姫と再会し、自分は都に上って国司の職を妹に譲る事にした。 伊香保姫は兄の奥方の弟にあたる高光少将を婿に迎え、伊香保大夫の後見で上野国の国司を勤めた。 伊香保大夫は目代(国司代理)となり、自在丸という地に御所を建てた。 当国の惣社は伊香保姫の御所の跡である。

赤城大明神(大沼)

赤城神社(群馬県前橋市富士見町赤城山)
祭神は赤城大明神・大国主命・磐筒男神・磐筒女神・経津主神で、徳川家康・大山咋神を配祀。 また、御饌殿(大宣比売神・保食神・豊受大神)、御酒殿(大物主神・豊受大神)、小沼宮・豊受神社(倉稲魂神・豊受大神)などを合祀。
式内論社(上野国勢多郡 赤城神社名神大)。 上野国二宮(論社)。 旧・郷社。
史料上の初見は『続日本後紀』(承和六年[839]六月甲申)の「奉授上野国無位抜鋒神・赤城神・伊賀保神並従五位下」であるが、この赤城神が何れの赤城神社(大洞、二宮、三夜沢)に該当するか定かでない。

社伝によると、赤城山の神は古くから神庫山(地蔵岳)の中腹に祀られていたが、大同元年[806]に大沼の南畔(大洞)に遷座して社殿が造営された(大洞の地名は遷座の年号「大同」に因むとされる)。
昭和四十五年[1970]に現在の小鳥ヶ島に遷座。

『上野国志』[LINK]には「赤城神社 山上の社なり、大沼の東崖にあり、社を大堂と云、別当は代田山法門院寿延寺、前橋代田村にあり(天台宗長楽寺の末寺なり)、摂社 日神 月神 飛鳥五社(山神、稲荷、雷神、蚣神、水神) 大塔寮社 鴫島弁才天社 同蟹宮 本地堂(千手観音) 開山堂(これ長楽の法照禅師に師とし事る了儒なるべし)」とある。

『赤城山案内』[LINK]によると、明治二十年[1887]から同四十四年[1911]にかけて、赤城神社里宮(紅雲分村)をはじめ、豊受神社(小沼)・厳島神社(小鳥ヶ島)・高於神神社(黒檜山)など赤城山内および近隣の神社を合祀した。

小沼明神

豊受神社。
祭神は倉稲魂神・豊受大神。

社伝によると、大洞赤城神社と同じ頃に小沼の畔に造営された。 明治四十年[1907]に大洞赤城神社に合祀。

『上野国志』[LINK]には「小沼虚空蔵 (中略) 並に寿延寺の香火を掌る所なり」とあり、小沼の東の小地蔵岳には「上州赤城山小沼本地虚空蔵菩薩」と銘のある虚空蔵菩薩座像が安置されていた。 この仏像は医光寺(桐生市黒保根町上田沢)に納められ、現在は客仏として本堂に安置されている。
垂迹本地
赤城大明神(大沼)千手観音
小沼明神虚空蔵菩薩

唵佐羅摩女

不詳。
「日光権現事」で言及される唵佐羅麼と何らかの関わりが有ったと思われる。

従神王子宮

不詳。

淵名明神

大国神社あるいは殖木宮赤城神社に比定される。

大国神社(伊勢崎市境下渕名)
祭神は大国主命で、日葉酢媛命・渟葉田瓊入媛命・真砥野媛命・竹野媛命・薊瓊入媛命を配祀。 また、御手洗神社(罔象女命)と八坂神社(素盞嗚命・事代主命)を合祀。
式内社(上野国佐位郡 大国神社)。 旧・郷社。
淵名荘三十六郷の総鎮守で、五護宮・五后宮・五姫宮等と称する。
(参考文献 尾崎喜左雄「古文献に見える上野国の諸神」、『上野国神名帳の研究』所収、尾崎先生著書刊行会、1974)

『上野国一宮御縁起』には「淵名姫は、大黒大明神と申すなり、 本地は正観音にて御坐す」とある。

『伊勢崎風土記』[LINK]によると、垂仁天皇九年[B.C.21]四月、帝は風雨不順を憂い、百済車臨を奉幣使として東国に遣わされた。 同十一年[B.C.19]九月、車臨は上毛国に来て、御手洗池の近くで白頭翁と出会った。 翁は「風神級長津彦命の子の大国主神」と名乗り、車臨は翁に神助を願った。 翁が承諾して姿を消すと、巽から風が吹いて甘雨が降り、池は忽ち淵に変じた。 帝はこれを聞いて、車臨に左臣の位を授け、当地に大国主神を奉斎させた。 同十五年[B.C.15]九月に丹波国穴太郷より五姫宮を奉遷して合祀。

殖木宮赤城神社(伊勢崎市宮前町)
祭神は磐筒男命・大己貴命。
『上野国神名帳』所載社(佐位郡 従四位上 郡玉明神)。 旧・村社。

『赤城大明神縁起』(三夜沢赤城神社蔵)には「奥書ニ云ク」として「波志江屋坂ノ下倍屋カ淵ニ、大石ヲ付テ、淵名ノ女房ト、淵名姫君ト、乳母ト、三人ヲ沈ル也、中納言殿、淵名姫君ノ為メニ、植木ノ郷ニ社ヲ立テ、同ク淵名ノ女房ト乳母三人ヲ神ト祝ヒ奉ル也」と追記が有る。
(参考文献 福田晃「赤城山縁起の生成」、『神道集説話の成立』所収、三弥井書店、1984)

『伊勢崎風土記』[LINK]によると、安閑天皇の御宇[531-535]、天皇の夢に上野国の磐筒男大神・磐筒女大神の神託があった。 天皇は勅使を派遣して、男神を赤城山、女神を子持山に祀った。 また、佐位郡殖木県に赤城山の磐筒男大神を勧請した。

伊香保姫

参照: 「上野国第三宮伊香保大明神事」

深栖郷

現在の前橋市粕川町深津に該当。 同所に鎮座する近戸神社について、『上野国神社明細帳』は「本社ハ同郷三夜沢ニ在り、赤城神社即チ是ナリ、民戸ニ近ク遷シ祭ルカ故ニ近戸ノ号アリト云フ、往古赤城神社ハ室沢村ノ北野ニ在リコトヨリ同郡二ノ宮村ヘ遷シ奉リシ時、ソノ御神幸ノ道筋ナルカ故ニ本村ニ駐輿アリシアリ、後其地ニ社殿ヲ建ツ、今ノ近戸神社ト称スルハ実ニ此旧社ニソアリケル」と記し、三夜沢赤城神社・二宮赤城神社と密接な関係を有していた事が窺える。

黒檜嶽

赤城山の主峰・黒檜山。 『上野国志』[LINK]には、「黒檜山赤城最高峰也、神祠あり(此山を千眼と云ふ、千手千眼なり、別当は荻原の普応寺、天台宗なり)」とある。
黒檜山山頂には於神明神(高於神神社)が祀られていたが、明治四十年に大洞赤城神社に合祀。 現在は跡地に石祠が残る。

大滝・横枕・藤井谷

『上野国志』[LINK]には、「瀑布(在小沼東南、直下十余丈、南流為糟川) 横枕 藤井谷(并瀑布之上の名なり) 不動堂(在瀑布南、糟河之旁、安銅像不動、此像甚神霊)」とある。
粕川は赤城山上の小沼を源流とし、赤城山の南麓を流れ下る。 途中には落差約32メートルの不動大滝(滝沢の不動滝)が在り、その下流には滝沢不動堂が現存する。 不動大滝の上流にある銚子の伽藍は、粕川が外輪山の尾根を侵食した渓谷で、藤井谷に該当すると考えられる(ただし、不動大滝や銚子の伽藍は黒檜山の東ではなく南に位置する)。

倍屋ヶ淵

不詳。
『赤城山御本地』によると、高野辺左大将家成の三人の姫君は、父の上洛中に継母により増田淵に沈められたが、千手観音・虚空蔵・地蔵の化身であったので龍神に救われた。 その後、三人は二宮(前橋市二之宮町)に住したが、七月十五日に揃って亡くなり、二宮三社明神(二宮赤城神社)に祀られた。 増田淵は二宮赤城神社の南1kmの八王子の下、二宮からの宮川が荒砥川に注ぎ込むあたりで、水神の祭祀の場であった。
また、『赤城大明神縁起』(三夜沢赤城神社蔵)の奥書の追記に「波志江屋坂ノ下倍屋カ淵」とある事から、八坂村(現在の伊勢崎市波志江町八坂)より下流の、荒砥川が広瀬川に合流する龍宮淵付近とも考えられる。
(参考文献 福田晃「赤城山縁起の生成」、『神道集説話の成立』所収、三弥井書店、1984)

龍宮淵付近(伊勢原市宮子町)には龍宮神社が鎮座し、『口口相承龍宮本紀』に「人皇十八代履中天皇の御宇、高辺左大将家成卿深津の郷に住玉ひて此の淵に来り玉ひ岩に遊び給ふに美女ひとり来りて、此の岩窟は龍神の正殿なり疎意有るまじと消失せけり、家成慎敬して退去し給ふ、此の時より龍宮と敬拝す」と伝える。

障子返・小鳥ヶ島

『上野国志』[LINK]には「大沼(在黒檜西、地蔵北、[中略] 沼中有洲、名小鳥島、東岸曰障子返)」とある。
小鳥ヶ島には弁才天社(厳島神社)が有ったが、明治四十年に大洞赤城神社に合祀。

三夜沢

『山吹日記』には「もとの宮ゐありし所はいま本三夜沢と呼て、是より一里はかり東のかたにあり」という記述がある。 "元三夜沢"と通称される前橋市粕川町中之沢の湯之口地区には礎石建物の存在が知られており、三夜沢赤城神社(前橋市粕川町三夜沢町)の西宮(大沼・小沼の二所明神を祀る)の旧社地と推定される。 元三夜沢から北に上がった場所には宇通遺跡と呼ばれる山岳寺院跡が有り、元三夜沢の神社はその鎮守社とも考えられる。
(粕川村教育委員会『宇通遺跡 ―発掘調査報告書 資料編―』[LINK]、1991)

惣社

参照: 「上野国九ヶ所大明神事」

地図
福田晃「赤城山縁起の生成」(『神道集説話の成立』所収、三弥井書店、1984)