第十八 諏方大明神五月会事
諏方大明神の五月会は、人皇五十代光孝天皇の御宇より始まった。 其の故を尋ねると、以下の通りである。当時、在五中将業平という臣下がいた。 平城天皇の五代の子孫で、高貴な方である。 歌道を伝える家に生まれ、古今に稀な人物である。 文武二道に秀でており、和漢に名が伝わっていた。 諸芸に明るく、書や舞楽にも優れていた。 人々の寵愛は限り無く、染殿后(文徳天皇の女御、藤原明子)を盗み出したのも此の人の話である。 此の人は清和・陽成・光孝の三代の帝に仕えた臣下である。 就中、笛の上手で、日本国だけでなく閻浮提で一番であった。
この帝の御宇、信濃国に一人の鬼王がいた。 この国に渡って九年目で、都に上って人々を犯していた。 この鬼は極めて笛を好み、世界一と自認していた。 名を官那羅といい、鬼婆国の乱婆羅王から五十二代目だった。 この鬼は「青葉の笛」という不思議な笛を持っていた。 心に音声を観じれば自在に吹く事ができ、また善悪・吉凶も察知する事ができた。
在五中将はこの笛を手に入れたいと思い、笛を百本造って高山幽谷に行き、毎夜秘曲を吹いた。 ある夜、鬼王が来て伊諱門(偉鑒門)の北の野辺で遊んだ。 業平は鬼王の笛を借りて二十五菩薩来迎の自然の法音を吹いた。 明け方近くなって、業平は青葉の笛を隠して別の笛と入れ替えた。 鬼は「違う」と云って受け取らない。 その内に鶏が鳴き始めると、鬼王は大いに驚いて帰ってしまった。
業平は笛を帝に献上した。 中一日おいた昼頃、鬼王は若衆姿に変じて内裏に現れ、「あの笛は鬼王に五十七代伝わったものです」と云って返還を求めた。 帝の返事が無いと、鬼王は怒って本身を現した。 鬼王が吐く息は大風となり、その風に当って多くの人々が苦しんだ。 それでも帝は笛を返そうとしないので、鬼王は帝の最愛の女房二人を内裏から攫っていった。
帝は満清を召し出し、鬼王を討ち取るよう命じた。 満清は七月十日に都を罷り出た。 我も我もと二万七千騎が随行を願ったが、満清は彼らが鬼に殺されるのを哀れんで、皆を返した。
満清将軍は十二人の供を率いて信濃に向った。 美濃と尾張の国境の洲俣川を渡った時、楠葉紋の水干を着た武士と出会った。 翌日、伏屋(岐阜県羽島郡岐南町伏屋)という所で、梶葉紋の水干を着た武士と出会った。 将軍は二人の武士を供にして、信濃国の岡田(長野県松本市岡田)に到着した。 将軍は「当国の戸隠山に住む鬼王を打ち取れという宣旨を受けて下って来たのです」と二人に打ち明けた。 二人の武士は「我々は当国の者で、勝手を知っています。鬼王は宣旨のお使いが下向することを聞いて、戸隠を出て浅間嶽にいます」と云い、将軍を案内した。
一行は浅間嶽を登って鬼王の城に近づいた。 二人の武士は城郭の南門を押し開き、太刀を抜いて打ち入った。 鬼王の眷属が出て防ごうとしたが敵わず、鬼王が出て来て戦い、二人の武士を追い出した。 鬼王は身の丈が二丈、身体から火炎を出し、九足八面であった。 将軍は矢を尽くして戦い、鬼王は二人の武士を左右の手に提げて門内に入った。 やがて、二人の武士が鬼王を縛り上げて出て来た。
一行は凱旋して粟田口に到着した。 二人の武士はそれぞれ「我は尾張国の鎮守の熱田大明神である」「我は信濃国の鎮守の諏方大明神である」と云って姿を消した。
京の三條河原で鬼王の処刑が行われた。 鬼の首は斬ってもすぐに元に戻るので、帝もお困りになっていた。 その時、熱田大明神と諏方大明神が守護して力を貸してくれたので、ついに鬼の首を斬り落とす事が出来た。
満清は大納言になって信濃など十五ヶ国を賜り、熱田大明神に四十八箇所の土地を寄進した。 また、諏方大明神には特別に十六人の大頭を定め、改めて諏方郡を寄進した。
天竺の舍衛国の波斯匿王の娘に金剛女の宮という天下第一の美人がいたが、十七歳の時に生きながら鬼王の姿となった。 これは過去世で善光王の后だった時に三百人の女に嫉妬して殺した報いである。 祇陀大臣がこの金剛女を預かる事となった。
大王は釈尊に説法を願った。 釈尊は弟子を引き連れて来臨し、説法は数日に及んだ。 金剛女はこれを知って王宮を伏し拝んだ。 すると、釈尊の眉間より光が放たれ、金剛女は三十二相を具えた美しい姿となった。 大王は不思議に思い、祇陀大臣を姫の婿にした。
金剛女の宮の亡くなられた処は知られていない。 この宮は会者定離を示すための化身で、本地は千手観音である。 後に日本国に移り住まわれた。
神武天皇は諏方の宮の御子である。
熱田大明神は諏方大明神の甥で、宇都宮大明神の御子である。
宇都宮大明神は諏方大明神の弟である。
満清は諏方大明神の烏帽子子である。
諏方の上宮は祇陀大臣で、本地は普賢菩薩である。
下宮は昔の金剛女の宮で、本地は千手観音である。
昔の事を忘れず、神功皇后の新羅征伐の時に守護された。
諏方の五月会は満清の立願により始まった。
諏方大明神
諏訪大社上社本宮[長野県諏訪市中洲宮山]。祭神は建御名方神。
諏訪大社下社秋宮[長野県諏訪郡下諏訪町上久保]・春宮[下諏訪町大門]。
祭神は八坂刀売神・建御名方神で、事代主神を配祀。
式内社(信濃国諏方郡 南方刀美神社二座〈並名神大〉)。 信濃国一宮。 旧・官幣大社。
「諏方縁起事」によると、諏方の上宮は甲賀三郎、下宮は春日姫である。