2014.3.2
好きの理由 嫌いの理由

 ○○のどこが好きなの? という質問をされるといつも困ってしまう。
それは未だかつて自分で満足がいく答えができた記憶がないし、相手も理解できたかどうかあやしいからである。
子供の頃、電車のお絵描きに熱中していると親戚の叔父や叔母から、”いったいどこがそんなに好きなの?” と聞かれたことがある。小学校にあがる前なので大人が納得できるような答え方は出来なかった。中学生になってもそのままだったので、”この子は言葉がすこし遅れているのかしら?” と思われていたかもしれない。実は今でも上手く答えられないのである。就職試験の面接で ”弊社を希望する理由は” と聞かれる方がまだ楽ではある。

 日常、川の流れを見るように次から次へと目の前や耳の脇を画像や音声は通り過ぎているのだが、”あっ、これ好き!” と思うのは瞬間であり、あれこれ理由を付けている訳ではない。脳や身体のどこかがが無意識に共鳴しているようである。
普段の生活の中でなにか選択肢から選ぶようなチャンスがあると、すぐ決心できる場合や、悩んでしまってなかなか決心できないことを我々は経験している。 すぐ決心できる場合ほどその理由付けは難しく、理由付けが訳なくできるほど悩んでしまうものである。いわゆる直感か?熟慮か? 直感に従って後悔する場合もあるし、熟慮し過ぎて後悔する場合もあり、あちらを立てればこちらが立たないという双対の関係である。
子供から大人に成長してゆく過程で好き嫌いの理由付けが出来るようになる一方で、好き嫌いの感受性は衰えてゆくような気もする。

 一方、好きの逆で、”どこかおかしい” と感じても理由を付けて ”おかしくない” としてしまうメカニズムが脳にはあるような気がする。 例えば図1だが、四角形が凹んで見えても定規を当ててみて直線だったら ”凹んで見えない” ことにしていないだろうか?
最近薄々感じるのだが、どうもいわゆるデザインに携わっている美術系の人は図2のように、”四辺形が凹んで見えるのは許せない。ならば四辺形の辺は直線ではなく少しカーブを付けておこう” と思っている節がある。これがいわゆる理系のエンジニアだと、”理由があって四辺形にしているのだから凹んでなんか見えない” と思っている節がある。つまり、美術系はどう見えるのか?が問題で、理系は形態そのものを問題にしているようである。充血している脳が右脳か左脳かと言う事かもしれない。但し、必ずしも明確に左右に別れるわけではなく、感じた瞬間は右脳なのだが、時間の経過と供に左脳へ移ってゆくのかもしれない。 もしデザイナーとエンジニアが職業柄お互いに納得し合えない部分があると感じているとしたら、この当りではないかと思うのである。

 ところで、今回のソチオリンピックを見ていて美術系も理系もまったく関係ないものを実感したのである。
それは好き嫌いを超越した物指しと言ったらよいだろうか? この地球上では相手の琴線を共鳴させえた物(者)が生き残ってきたのではないだろうか? それは ”美しさ”? 美しいものに惹かれるという単純なことなのかもしれない。 美しくあろうとする動機が足りなかった物(者)は消え去っていったような気がする。フィギアスケートの羽生選手を観ていてそんなことを思った次第である。

図1
図2

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