2016.1.9
Designer=設計者とは何者か?

 ジャンニ・カプローニ、堀越二郎、フェルディナント・ポルシェ、アレックス・イシゴニス....
前2名は飛行機設計者、後2名は自動車設計者と呼ばれている。彼らと同じ意志を持って仕事をしていた設計者はどこにでも居たであろうし、そうした時代があった。彼らの時代は、飛行機や自動車の外観=意匠から性能・経済性・耐久性などの全てに渡って意を払うのが普通であった。勿論、彼らが一人で一機、一台の飛行機や自動車を設計していた訳ではなく、細かな部品を担当する設計者達の分業で成り立っていたのである。ただ、こういう飛行機を作りたい、自動車にしたいという意志を持って統率する人間は必要であった訳で、彼らはそのような存在であったのだろう。

 本田宗一郎は初めてF1に挑戦したいと決意し、意志ある設計者達に号令して完成した最初のマシンを見て、”なんて不細工なんだ!” と怒ったそうだが、彼の頭の中には美しいモノは性能にも優れているという公式があったのかもしれない。 
 1964年の事だが、それより先、1950年頃にはインダストリアル・デザインと呼ばれる分野が登場し、専門の職種が確立されつつあった。日本では当時、工業意匠と訳され、デザインは広い意味の設計ではなく、意匠という意味で使われていた。ここへ来て設計者という者の在り方に変化が生じたのである。いわゆる工学系の知識・スキルを身につけたエンジニアと美術系の知識・スキルを身につけたスタイリストに分業化が始まったということである。
 欧米ではDesigner=設計者という意味合いだが、日本ではデザイン=意匠という意味合いなので、スタイリストのことをデザイナーと呼ぶ習慣が始まったようである。 ここでは便宜上この習慣にならうことにする。
 いずれにしても1950年頃は冒頭に挙げたような設計者を目指していた人間は、エンジニアかデザイナーのどちらになるか選択を迫られたようである。 学校で言えば理工系か美術系かという選択になり、小・中・高等学校での得意科目を頼りに人は自ずと道を進んで行ったようである。

 しかしながら自分の場合を振り返ってみると、エンジニアとデザイナーに職種が別れるということは自分の細胞が引き裂かれるような感覚であり、なかなか受け入れられなかった。どちらかというと意匠には意を通したいという気持ちであった。
 悶々とし始めてからおよそ40年が過ぎ去ろうとしていた2013年頃、ようやくおぼろげながら見えてきたことがある。それはやはり、”美しいモノは性能にも優れている=万障に対応できる” ということである。 見た目の美しさは瞬間的に判る。では性能・経済性・耐久性は瞬間的に判るのか?それがおよそ40年間の終わり無き問答であった。モノは使ってみて初めて判る価値がある。これは真理であると思っていたのである。しかしながら今は違う。性能・経済性・耐久性でも瞬間的に価値が判るのである。それは瞬間的に判別できるような物指しと表現方法を見つけるということだったのである。

 本田宗一郎から見れば、”そんなこと今頃判ったのか!” と叱られるだろう。それは公式と呼ぶようなものではなく、直感なのだろう。何事も感性からスタートしているということだと思うのである。美しいかそうでないか?、身なりが整っているかどうか? それはいつも外出する前に玄関の鏡の前でチェックしているではないか。人生に於ける大事なシーン、面接やデートの前に誰でもチェックしていることである。そうした意味で人間は誰でも設計者なのではないか?
 エンジニアになるか?デザイナーになるか?それは左脳的な悩みに過ぎなかったのだろう。理由づけがまったく出来ない、あるいはする必要の無い右脳的な直感とは異なる。気が付いてみたらエンジニアの仕事もデザイナーの仕事も意を払う事は、美しいかそうでないか?、身なりが整っているかどうか?であり、同じだったのである。

 ところで、話は変わって音楽の世界である。音楽の世界で職種と言えば大きく分けて作曲家と演奏家が居る。しかしながら現代はそうであるが、昔、あるいは民族音楽のような世界では作曲と演奏は不可分で、同じ人間がなに不都合なくやっていたものである。現代ではシンガーソングライターという職種はあるが、これも作曲家と演奏家という分業体制から昔に戻ってみようとした動きであろう。

 また話は変わって美術=アートの世界である。例えば画家や版画家、彫刻家のような作家は分業というものをほとんどしない。作品の構想から制作、展示まで全て手の内に置こうとする。いわばひとり作業である。
 こうしてみると作品が無形か有形か、分業かひとり作業かという違いはあっても、これをモノ造りと呼んで差し支えないだろう。そう言う意味では、やはり自分の物指しを持たずして作業は進められない。ハーモニーがずれたり、色合いが違ったりすれば手直しをするし、それは確かに直感を頼りにしている。 こうしてみると工業製品も音楽もアートも、なにかモノ造りを志している者は設計者なのではないだろうか?

 Designの語源はラテン語の ”計画を記号に表す=Designare” だそうである。憶いを可視(聴)化するという意味合いがあるのではないだろうか?最初に直感があれば、後はそれを具現化する知識・スキルは学べば良いだけである。宮崎駿のアニメ ”風立ちぬ” ではジャンニ・カプローニと堀越二郎が登場するが、夢の中でカプローニは二郎に向って ”設計で大切なのはセンスだ!” と訴えている。 センス=直感さえあれば誰でも設計の入り口に立っているのではないだろうか?
 ”風立ちぬ” は宮崎駿の設計者讃歌であり、彼自身もまた設計者と思えるのだが。

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