2023.5.21
楽曲エッセイ:
Ballad Of Easy Rider/The Byrds. 河は何処へ流れる?

 映画、イージー・ライダーのテーマ曲である。
公開は米国では1969年、日本は1970年であったが、この映画は当時の既成のロック・ミュージックがふんだんに使われ、その歌詞はそれぞれのシーンにふさわしいメッセージを持っていた。
当時は映画音楽のヌーヴェルヴァーグでもあったようである。
起用された楽曲はこの映画で再評価、違った解釈も生まれたという点も見逃せない。
これは主演、脚本も書いているピーター・フォンダがやりたかった事だそうだが、リスナーとしての鋭い感性が発揮されたように思う。
既成の音楽であるゆえに著作権者の許諾を得ている訳だが、彼は当時のミュージシャンとも交友があり、事は一件を除いて順調に進んだようである。
その一件とは、ボブ・ディランの "It's Alright, Ma" で、ピーターはこの曲をエンディングにしたかったが、ディランはエンディングはそれ相応の曲にすべきだと答えたとの事。

 ピーターはディランにエンディングの曲もお願いしたいと申し出たところ、歌詞の数行を紙ナプキンに書き留めたものの、自分には出来ないと言い出し、 しまいには "It's Alright, Ma" はこの映画には必要だが自分には歌えない、と言い出した。
そうしたやり取りの末、ピーターは The Byrdsのリーダーであったロジャー・マッギンに"It's Alright, Ma" の演奏とエンディング曲の作曲を依頼してこの映画は完成したとの事。
この件については以前の
ESSAYでも取り上げていますので参照下さい。

 ミュージシャンにとって、自分の楽曲が映画音楽に起用されたり、テーマ曲を委嘱されれば名誉な事であり、ヒットすればこんな有難い事はない。
Byrdsはこの映画で "Wasn't Born To Follow" なる曲も起用されているので、マッギンも面目躍如と言ったところだが、Ballad Of Easy Riderはそうした経緯で生まれた楽曲である。
彼も委嘱は受けたものの、さて、どうするか? かなり重圧を感じたのではないだろうか?
エンディングのテーマ曲と言ってもこの映画の結末はかなり唐突なものであるし、作詞も自分の見方を言葉にすれば必ず批判も出てくるであろう。
どう頑張っても言葉足らずになってしまうのではないか?とマッギンは思ったかどうか?
そうした重圧を想像する事でこの曲を訳してみようと思い立ったのは、50年以上という時の堆積があったからかもしれない。

 訳してみると、決して比喩が深い訳でもないし、河を歌った楽曲は世に数多にあるのだが、それでは面白くない。
いろいろ考えた末に、聖書のような言い回しにしてみようと思った次第である。
マッギンは音楽高校でフォーク・ソングを学び、デビュー後もずっとその在り方を模索してきた人物であり、聖書に書かれた言葉をそのまま歌詞にして歌うという用例に倣ったのではないかと思う。
映画の中でもラスト近くで聖書の一節が朗読されるシーンが出てくる。
この映画のシナリオにきちんとリンクしているし、映画を観終わった人に起きた心のさざ波に寄り添っていると感じた次第である。
本作はディランが書き留めた数行の後をマッギンが補作した形なので、試写時のエンドロールにはディラン、マッギン共作となっていたそうだが、公開前にディランは自分の名前は外して欲しいと言ったとの事。

Ballad Of Easy Rider

河よ流れ給う
洋に注ぎ給う
河よ、己が欲する処に流れ給う
河よ、汝の罪を洗い流し給え
道よ、次の街へ導き給え

汝の望みは自由なり
自由とは河を下る事と知り給う
河よ、汝の罪を洗い流し給え
道よ、次の街へ導き給え

流れ給う
木陰を潜り
河よ行き給う
洋に注ぎ給う

written by Roger McGuinn
from "Ballad Of Easy Rider"

 因みに、ラストシーンに流れる河だが、南部はミシシッピ川である。

Ballad Of Easy Rider

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