来生史雄 電脳書斎

ジュブナイルSFをこよなく愛する者の宴
第一章 第二章 第三章 第四章 第五章 第六章〜終章

 

 

宮部耕三郎調査ファイル

蛇帯じゃたい

 

      jatai.gif (32923 バイト)

                 鳥山石燕「今昔百鬼拾遺」より          

 

       序章

 

 哭くような風の音が聞こえていた。

 障子に映る庭の木々の影がザワザワと揺れ

動いていた…。

 月明かりに照らされて、障子に浮かび上が

る影ほど不気味なものはない。それは、中途

半端な闇よりもタチが悪いと言えるだろう。

 人の想像力は、ありもしない魔物の気配を

単なる庭木のシルエットの中に見つけてしま

うからである。だが…!

 本当にそこに何もいないのだろうか。人の

恐怖に研ぎ澄まされた感覚は、本当は異形の

存在を捉えているのではないだろうか…?

 暗い部屋の中に、微かな寝息が聞こえてい

た。十畳ほどの和室に二つの布団が並び、初

老の夫婦とおぼしき男女が安らかな眠りにつ

いていた。きれいにかけられた掛け布団や、

闇に白さの目立つシーツを見れば、二人が几

帳面な人物であると窺い知れる。

 チッチッチッチッチッチッチ……。

 時を刻む音が、壁にかけられた時計から室

内に響いていた。その時刻は午前2時を回ろ

うとしている。

 丑三つ時。もし迷信深い人なら、そう言っ

て不気味がったことだろう。古来より、魔物

や妖怪の時間、魑魅魍魎が跳梁跋扈する時刻

として忌み嫌われてきた時間帯であった。

 だが、この部屋の住人は、そんなことを気

づかうこともなく幸福に熟睡していた。

 スーッ、スーッ、スーッ…。

 ふと気づくと、その寝息が鮮明に聞こえは

じめていた。理由はすぐに分かった。

 風が止んでいた。障子に浮かび上がる庭木

は揺れるのをやめ、静かな情景を形作ってい

た。やがて、雲がかかったのか、ゆっくりと

月明かりが陰っていった。急速に闇が訪れ、

その世界を不気味なほどの静寂が支配しよう

とした、その時だった…。

 サワ…サワサワ……サワサワサワ…。

 微かな音が静寂を乱した。

 葉が擦れ合う音のようだった。風が啼いて

いるようにも聞こえた。誰かが忍び寄る気配

にも似ていた…。

 サワ…サワサワ……サワサワサワ…。

 遠くのようでもあり、すぐ近くのようでも

あった。ただ、これだけは言える。

 恐怖は静かに、確実に忍び寄っていた…。

 

 「ううっ、うぐぐっ…、ううう…」

 急に苦しそうなうめき声が聞こえた。陸に

あがった魚が酸素を求めるかのような苦渋に

満ちた声だった。

 「……うん、どうしました?」

 異変に気づいた老女の眠そうな声がした。

 「うぐぐぐっ…!」

 その声に応えたのは、苦鳴であった。

 「あなた、どうなさったの?」

 異様な気配に夫人は身を起こした。熟睡し

ていただけに、その声には微妙な不平の念が

感じられた。だが、隣にある布団へと目を動

かした時、そんな思いは一瞬に消し飛ぶこと

になった。

 「ヒイッ!」

 夫人の口から、ひきつるような悲鳴がもれ

た。眠気も吹っ飛んだ目が驚きと恐怖に見開

かれていく。

 隣に寝ている亭主の体に、得体のしれない

何かがまとわりついていた。闇に閉ざされた

室内だけに、それは朧気にしか見えない。

  蛇…?

老女は咄嗟に思った。しかし、もし蛇だっ

たとしたら、とてつもない大蛇であった。

 「ウウウッッ…!」

 その蛇が亭主の体に巻きつき、締め上げて

いるのである。黒く細長い影に締め上げられ

るたびに、男の口から苦しそうな呻きがもれ

ていた。ヒュウヒュウという空気を求める喘

ぎすらも、ハッキリと聞こえた。

 「あ、あなた…」

 うろたえた夫人の声も届かないのか、亭主

は体をピクピクと痙攣させていた。

 黒い影となって絡みついている蛇は、その

長さは7〜8メートルはあるだろうか、幾重

にも巻きつき、その締め上げる音がギリギリ

と軋むように聞こえた。

 「キャアア、だ、誰か来てぇ!」

 ようやく絞り出した悲鳴が、家の中へと響

きわたる。聞こえたならば、二階に寝ている

はずの子供たちが助けに来てくれるはずだ。

 「誰か、誰か、早く来てえ!」

 必死の叫びが、家を駆けめぐる。

 闇の中に蠢く影の大蛇が、スルスルと動き

出す。その瞬間、夫人は大蛇の身体が異様に

薄っぺらいように見えた。まるで紙のように

厚みのない感じ、それはまさしく影と呼べる

ようなものに見えたのである。だが、その影

は明らかに意思を持っていた。悲鳴をあげる

夫人へと狙いを変えたかのごとく、静かな動

きを見せたのである。そこから押し寄せる鬼

気が、夫人の恐怖を刺激した。

 「キャアアアアッッ!」

 夫人は絶叫をあげて、廊下へと逃げた。障

子を押し倒すようにして、縁側へと逃れ出た

夫人が廊下を這うように逃げる。

 「母さん、どうしたんだ!」

 バタバタと音がして、息子夫婦たちが廊下

を駆けてくるのが見えた。

 「た、大変、お、お父さんが!」

 震える指を部屋の中へと向けた夫人の手が

ハタと止まる。暗い部屋の中に廊下に点いた

電灯の明かりがもれ届いていた。

 「う、うそ…」

 そこには何もいなかった。射し込んだ光に

打ち消されてしまったかのように、影の大蛇

は消滅していたのだった。

 「い、一体何が…?」

 問いかける息子の声が消える。部屋の光景

が彼の目に飛び込んできたのだった。

 「と、父さん!」

 うろたえる夫人の横をバタバタと、息子た

ちが走り抜ける。影は消えたが、何かがあっ

たことだけは間違いなかった。乱れた布団の

上には、ピクリとも動かない男の姿が横たわ

っていたからである。

 「父さん、父さん!」

 抱き起こして揺り動かす息子の手の中で、

彼の父親は一言も答えようとしなかった。

 すでにこと切れている。急速に奪われてい

く体温が息子の手に伝わってきていた。

 「お義父さん…、ああああっっ」

 息子の嫁の声が、悲痛な泣き声に変わる。

 夫人はそんな様子を呆然と見ていた。

 「か、母さん。何があったんだよ?」

 振り向いて叫ぶ息子に、夫人は訳もわから

ずに首を横に振った。

 「へ、蛇よ。真っ黒な影のような蛇が…」

 そう言うのがやっとだった。言ったところ

で誰が信じるのか。

 「お、お母さん…?」

 不意に背後から声がした。夫人がゆっくり

と振り向くと、パジャマ姿の娘がいた。

 「み、光恵…」

 「ど、どうしたの?何があったの?」

 娘の問いに、夫人は首を振るだけだった。

 あまりのショックに、思考回路が麻痺した

ようになってしまっているのだ。

 「何があったの?」

 もう一度聞かれた。その答えを示すかのよ

うに、夫人の指がゆっくりと部屋の方へと向

けられていった。その動きに誘われるように

光恵が部屋へと歩いていった。

 「ダ…ダメ…、み、光恵…」

 指で示しておきながら、夫人がつぶやく。

 聞こえるか聞こえないかのような声で…。

 目の片隅で、娘の姿が部屋へ消えた。

 夜のしじまを引き裂くような悲鳴が聞こえ

たのは、そのすぐ後であった…。

                           つづく